周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

孔子の理想とする「よろこび」とは

「よろこぶ」という漢字を色々調べていると、大変面白い気づきがあった。

この漢字を知ると、論語がもっとよく分かる。

君子のよろこびがどんなものであるか分かる。

 

色々気づいたことが消えないうちに書いている。

書きながら気づくこともあろう。

ごちゃごちゃとした文章になるかもしれない。

 

 

喜・悦・説

よろこぶと読む漢字には色々ある。

例えば、喜ぶ、悦ぶ。

 

喜ぶについて、「喜、悦也」の注釈がある。

また悦の注釈にも「悦、喜也」とある。

このようにみると、喜・悦は大体似たよろこびといえる。

 

悦は説なり

なお悦は説に通じる。

大載礼の注に「説、古通以為悦字」とある。

論語の「学びて時に之を習う、よろこばしからずや」の説は悦である。

学問を一生懸命やると、分らなかったことが分かるようになってくる、愈々面白くなってくる、心に説ぶところが出てくる。

したがって、「よろこび」を喜や悦と書く場合、学問が進んで嬉しい、面白い、楽しいといった感情をイメージすると良い。

 

楽は説びより大きい

ただし、大きさで言うと楽は説より大きい。

説(喜・悦)のよろこびは、楽のよろこびに含まれる。

学問が進んで説ぶ、その次には「朋有りて遠方より来る」の楽しみに発展する。

説から楽であり、大きさで言えばやはり「説<楽」である。

 

同じ「よろこび」でも、喜や悦はさほど大きくない。

なぜ喜・悦は小さいのか。これを考えると非常に面白い。

 

自分一個の小さなよろこび

学びて時に習うよろこびは説、喜、悦。

師から学んで、自分なりに一生懸命考えて、そこでよろこびが出てくる。

つまりこのよろこびは、自分一個のよろこびである。

よろこばしいには違いないが、他人も含めてよろこばしいのではない。

よろこびが往来するものではない。

説、喜、悦は自分だけがよろこんでいる状態である。

 

説びの往来とは

朋が遠方から来ると、説、喜、悦ではなくなる。

同じ学問をする人が訪ねてくると、当然、学問について色々話す。

さらに学問が深まる。

自分が教えて朋友が分かる、朋友から教えられて自分が分かる、どちらもある。

これは、

  • 自分が時習によって得た説びが、朋友のところへ往く
  • 朋友が時習によって得た説びが、自分のところへ来る

というように、説びが往来しているのである。

もはや自分一個の説びではなくなっている。説でも喜でも悦でもなく、楽になる。

 

ひとつの気づき

このように考えて、ひとつ気が付いた。

「朋有りて遠方より来る、亦た楽しからずや」

の章句について、一般的には、

「遠方から朋友が訪ねてきてくれる。楽しいことではないか」

と解釈する。

これを極く浅く捉えると、「遠方から朋友がやってくる」という事象そのものが嬉しい、楽しいといった解釈になりがちだが、そうではない。

自分の説びと朋友の説びが往来することが楽しいのである。

 

往来を楽しむ

したがって、

「朋有りて遠方より来る、亦た楽しからずや」

ばかりではなく、

「朋有りて遠方へ往く、亦た楽しからずや」

で、自分から訪ねてゆくこともあるべきだ。

自分と朋友、どちらがどちらを訪ねるにせよ、結果的に説びが往来することが楽しいのである。

説びの往来がなければ、楽は生まれない。

地球の裏側から変な奴が訪ねてきたって、説びは往来しないから何も楽しくない。

 

説びの往来にも尊卑あり

類は友を呼ぶ、という。

趣味嗜好が似ている者同士であれば会話が弾む。

最新情報などを共有すると説びが往来する。

類は友を呼ぶといえば、なんとなくネガティブなイメージがあるが、「朋有りて遠方より来る」もある意味「類は友を呼ぶ」である。

 

しかし、似た者同士で説びが通うのは、当たり前と言えば当たり前のことである。

同類でない者も含め、説びを通わせることができれば、こちらのほうが一層尊い

これは難しい。なかなか通わない。押し付けになりがちだ。押し付けは反発を招く。

 

徳があれば説びは往来する

ならばどうするかというに、徳を磨くに尽きる。

孔子はそうであったと思う。

最近の人物なら、西郷さんがそうだろう。

(諸説あるがひとまず)最後は大将に担がれて戦争を始めたくらいである。

 

無口な西郷さん

私の知り合いに西郷さんの縁者がいる。

奄美大島で西郷さんが娶った愛加那さんの家系である。

色々話を聞いたが、西郷さんはイメージ通り寡黙な人であったという。

語るときは訥々と、大抵は応の意味で「む」と言うくらいのもの。

 

西郷さんの偉さ

知らない人が見れば、どこが偉いのかわからない。

官を辞して薩摩に帰った西郷さんは、農業をやった。

 

こんな話がある。

あるとき、西郷さんが長く狭い道(山道だったか)を歩いていると、ずいぶん歩いたところで農夫と行き当たった。

農夫は牛を連れている。西郷さんは巨体。

すれ違うことはできないためどちらかが引き返さなければならない。

農夫は西郷さんを知らず、偉い人物とも思わず、ただの「体のでかい農夫」くらいに思ったのだろう。

道を譲らず、西郷さんに強いて引き返させたという。

それくらい、偉さのわからない人だった。

 

偉くないのが偉い

偉い人は、当たり前だが偉い。

しかし英雄といって良いくらい偉い人間でありながら、偉さが分からない人が一層偉い。

 

言うことが偉そうな人間は偉くない。何も言わずに、目力から顔貌から偉さがわかる人物にはかなわない。

しかし顔貌が魅力的な人も、いわゆる「後光が指す」というような、背中が偉い人間にはかなわない。

さらに言えば、背中が偉い人間より、足の裏が偉いような人間の方が一層偉い。

 

西郷さんは紛れもなく英雄であった。

西南の役を歌った軍歌に抜刀隊があるが、その歌の中で官軍側が

「敵の大将たる者は古今無双の英雄で...」

と称えているほどだ。

しかし、偉くみえない。何が偉かったか、後世の我々には真にわからない。


私は西郷さんを尊敬しているが、偉いのに偉くないところを尊敬している。

 

西郷さんの説び

話をもどすと、西郷さんは多くの人から慕わた。最後は大将に担がれた。

西郷さんは、多くの人と説びを往来させたに違いない。

 

西郷さんは、どのように説びを往来させたのか。

無口な西郷さんのことだから、持論を滔々と語り聞かせることはなかっただろう。

 

そもそも、西南の役で西郷さんに従った人々も、正直、西郷さんが何を考えているのか、何を目指しているのかわからなかった人がほとんどではなかったか。

西南の役から100年以上も経って、色々な研究もされて、それでも西郷さんの真意はよくわからないのだ。

 

由らしむべし、知らしむべからず

これは、論語でいうところの「民は由らしむべし、知らしむべからず」である。

西南の役の場合、民は西郷さんと一緒に戦った人々。

 

多くの人は、戦争の目的や意味が分かっていなかった。

自分の理想のために参戦した人、時代に不満を抱えて参戦した人など、色々いただろうが、西郷さんの真意が本当に分かっていた人は極く少数だったろう。

西郷さんを最も良く知る人物の一人に、山岡鉄舟先生がいる。

鉄舟先生には西郷さんの真意が分かっていただろう。

鉄舟先生もあれこれ語らないし、語らずに死んだ者の真意を代弁するようなお人ではない。

しかし、それを思わせる逸話も残っている(色々探したが、どの本に書いてあったか見つからなかった)。

 

沢山の人が、真意も分からないのに命をかけて戦ったのだ。

西郷さんが「由るべき人物」であったからだ。

よくわからないけれども、西郷さんがやることなら間違いないと思って戦ったのだ。

西郷さんは、真意を語る必要さえなかったのではないか。

「こんな目的があるが、お前らどうか。一緒にやるか」などと説明するまでもなかった。

 

徳があれば説びは往来する

無口な西郷さんが、これだけ慕われた。

これは、西郷さんに徳があったからだ。魅力的だったのだ。

西郷さんの説びが皆の説びになったのだ。

西郷さんが何も語らず、説びを往来させようと考えなくても、自然と往来して楽が生まれたのだ。

 

理想は慶び

徳を磨けば、同類の人、同学の人など似た者同士だけではなく、そうでない人とも説びが通う。

自分に徳があれば、むこうから説びが通ってくる。

 

慶びとは

これまで、西郷さんのよろこびを説びと書いてきたが、実際のところ、西郷さんのよろこびは説びどころではない。

西郷さんのよろこびは慶びである。

 

近くの人や遠くの朋友と説びを通わせると楽が生まれる。

しかし、まだまだ小さい。同類の限られた範囲でのみ、説びを通わせている。

範囲を限定せず、どこまでも広く説びを通わせていくと「慶び」になる。

孔子は3000人の弟子から慕われ、死後も2000年以上に渡って仰がれ慕われている。今後も人間が存在する限り、説びは通い続ける。孔子のよろこびは慶びである。

西郷さんも同じだ。西郷さんの説びは楽をはるかに超えて、慶びといえる。

 

易経の教え

易経の坤為地の彖伝に、こんな言葉がある。

西南に朋を得るは、乃ち与に類を行ふ。東北に朋を喪ふは、乃ち終に慶び有り

ごく簡単に解釈すると、以下の通り。

 

西南に朋を得る

西南とは、出仕前や結婚前など、若い時期や未熟な時期、報われない時期などに居るべき場所のこと。

そこでは、同類の人々(同郷の人や同学の朋友、親しい友人など)と一緒に勉強したり遊んだり、様々に行って力を養う。

 

東北に朋を喪う

東北は、若い時代を終え、徳も立派になり、世に出てから居るべき場所のこと。

孔子の時代なら主君に仕えた後のこと。それからは、同類の人々を失わねばならない。

西南では仕えず野にあるから私だが、東北になった以上は公である。

公の立場でありながら、「親しいから」「好きだから」「寂しいから」などの理由で西南の朋を近づけるのは、公私混同である。

 

東北にいながら朋を喪わず、公私混同すれば問題が生じる。

学閥、藩閥門閥など、あらゆる派閥は東北で朋を喪わないから生まれる。

こういう派閥が世の中を乱すのは、現代の政治をみれば明らかだ。

 

終に慶び有り

それではいけない。西南から東北に出た以上は朋を喪うべきである。

朋を喪うといえば、寂しく思われるがそうではない。

公を奉じて朋を喪い、臣下としての道を正しく歩む人は偉い、偉いから次第に尊敬を集めるようになる。

時代が悪ければ、正しさゆえに退けられることもある。生きているうちは不遇なこともある。

しかし、道理から言えば尊敬を集めるようになる。

 

尊敬される、とはどういうことか。

尊ばれ、敬われ、慕われることである。

そんな人に良いことがあったり、何かに成功したりすると、多くの人がよろこぶ。

大勢の人がよろこびを述べに来る。多くの慶賀を集める。

東北で一旦は朋を喪うが、その道を貫けばやがて慶びが得られる。

 

慶に含まれる意味

慶の字は卿と通じる。卿には「向かう」の意味がある。

大勢から慕われ、慶びを向けられる存在を卿という。

そういう人間が上に立つのが本当である。

だから大臣を「卿大夫」といった。

 

慶には「鹿」が含まれている。

昔、めでたいことがあれば慶祝として鹿の皮を贈った。

目出度さに鹿の皮が飛び交うような、自分一個はもとより、国中のだれもかれも嬉しく楽しくよろこばしいのが「慶び」だ。

 

また、鹿は禄に通じる。人の慶びを集める人間は、何でもうまくいく。禄が厚くなって富むべくして富むというわけ。

禄の最も大なるものは何かといえば、天下である。

天下を治めるのは天子である。

だから、天子の位を「鹿」と表現した。

唐詩選を見ると良い。かの有名な魏徴の「述懐」は

中原還逐鹿 中原還た鹿を逐ひ

(天下が乱れ、群雄が天子の位(鹿)を得ようとしている)

で始まる。

鹿が含まれていることも、慶の慶たるゆえんである。

 

私的解釈

色々書いたが、ともかく「慶び」は非常に大きい。

自分の中だけでよろこぶ説・喜・悦よりも、それを通い合わせるよろこびよりも、大勢からおのずと向けられる慶びが一層大きい。

 

孔子は、弟子にまず学問によって説びを得ることを教えた。

しかし、目指すべきは慶びである、そのために徳を磨き修めよ、それが孔子の理想ではなかったか。

私にはそう思える。

 

1.学びて時に之を習うで説ぶ。

2.その説びを朋友と往来させて楽しむ。

 

ここまでは誰でも知っている。孔子は、初学者にこう教えたのではないか。

まだ先がある。学問を積んでやがて仕官する。仕官すると、

 

3.東北に行って朋を喪う。

 

そのために、1と2で得た説びと楽しみが失われることもある。

さらに先がある。徳を磨くことに徹するうちに、

 

4.慶びを得る。

 

孔子は、第一歩として説びを教えたが、そこからずっと進んでいくと慶びになる。

徳を磨けば必ずそうなる。

私は論語学而篇・第一章をこのように考えたい。

 

詩を学ぶは、心の動きを知るにあり

今年は詩経を学んでいる。

たいていは論語について記事を書くが、今回は思うところもあって、詩経のお話。

 

毛詩とは

詩を伝えるものには複数あったというが、現存するのは毛亨もうこうが伝えた毛詩もうしだけである。

経書の歴史にはさほど興味がないので、あまり深くは知らない。

 

毛詩の特徴は、それぞれの詩の冒頭に、その詩の大意を簡単にまとめる序文がついていることである。

詩だけでは何のことかわかりにくいものも多いが、序文があるおかげで理解しやすくなる。

 

根本通明先生は、「詩を読むには毛詩にらねばならぬ」と仰る。

これは、序文と合わせて学ぶべし、との意味かと思う。

然るに、現在販売されている詩経の解説書には、序文の欠落しているものが多い。

私が所有している詩経は4種あるが、このうち3種には序文の掲載がない。

今後詩経を学ぶ人は、序文のついているものを選ぶべきかと思う。

 

 

さて、詩経の国風に、衛の詩を集めた「邶風はいふう」という篇がある。

邶風の北門ほくもんは、不遇な男の詩である。

遠い昔の詩ではあるが、現代人にも通じる悲哀がある。

このような詩を読むことで、今も昔も人間の情緒には大きな違いがないことを知る。

古代の人々と現代の我々、心の動きを比較するに、深度には大きな違いを感じるが、面積ではさほどの違いがないのではないか。

感覚的なことなので、あまりうまく言えないが。

 

北門の詩が、それを知る手がかりになる。

 

本文

北門。刺仕不得志也。言衛之忠臣不得其志爾。

北門は、仕へて志を得ざるをそしるなり。衛の忠臣、其の志を得ざるを言ふのみ。

 

第一章

出自北門 北門より出づ

憂心殷殷 憂ふる心殷殷いんいんたり

終寠且貧 終ににして且つ貧なり

莫知我艱 我がかんを知る莫し

已焉哉  やんぬるかな

天実為之 天実に之を為す

謂之何哉 之を何と謂はんや

 

第二章

王事適我   王事我に適く

政事一埤益我 政事もっぱら我に埤益ひえき

我入自外   我外より入れば

室人交徧讁我 室人しつじん交々こもごもあまねく我を

已焉哉    やんぬるかな

天実為之   天実に之を為す

謂之何哉   之を何と謂はんや

 

第三章

王事敦我   王事我にあつ

政事一埤遺我 政事一ら我に埤遺ひい

我入自外   我外より入れば

室人交徧摧我 室人交々徧く我にせま

已焉哉    やんぬるかな

天実為之   天実に之を為す

謂之何哉   之を何と謂はんや

 

解釈

 

第一章

 

出自北門 北門より出づ

古来、君臣の関係は「天子南面、臣下北面」である。

天子(君主も同じ)は南を向いて臣下に対する。

なぜ天子は南面するか。

物件情報などでは、「南向き」を長所とする。

南向きは日当たり良好で明るく、洗濯物など乾きやすい。

天子南面も同じで、明に向くことである。

政治が明らかである、臣下に道徳に明るい者を求めるなど、そういった意味合いがある。

これに対し、臣下は北を向いて天子を仰ぐ。


しかしこの君主は出自北門、北の門から出てゆく。

北の門から出るには北を向かねばならない。

君主が北面して、臣下に南面しない。

これでは、君主は臣下を正しく見ることもできない。

ゆえに君主は臣下をよく知ることもできず、有能・無能がわからない。


無能だが、自分を有能に見せることに長ける小人が君主に取り入るようになる。

有能な忠臣は、小人にとって邪魔であるから排斥される。

君主北門より出ずるは、暗君と小人が上に立ち、賢人や忠臣ほど苦労を強いられる世を意味する。

 

憂心殷殷 憂ふる心殷殷たり

能力や忠誠が認められず、良い臣下ほど虐げられる。

そんな政治では民が苦しむ。

忠臣はその有様を強く憂う。

殷殷は慇慇、憂が多いこと。

 

終寠且貧 終に寠にして且つ貧なり

この忠臣は、優れた能力があり、忠義にも厚く、申し分ない人材。

しかし小人が幅を利かせ、忠臣を虐げ、ひどい扱いをされる。

相応の地位に就くことはできず、つまらぬ役職に就けられる。

そしてひどい貧乏を強いられる。

貧は財産がなく金銭的に不自由であること、寠は道具がなくまともな礼を行うのに不自由すること。

お金がなく生活に困る、そればかりか礼を行うにも事欠く。

お金はなくとも我慢できる。

しかしまともな礼を履めない、これは君子にとって恥辱であり、お金がないより辛い。

古文の論法では、より大きなもの、根本となるもの、重要なものを前に持ってくることが多い。

例えば、君臣とはいうが臣君とは言わない。

家国や子父といった表現もあるにはあるが、普通は国家、父子である。

ゆえに寠且貧、お金がないことも苦しいが、礼を履めぬことは一層苦しい。

 

莫知我艱 我が艱を知る莫し

この忠臣は「私の艱難を知る人はいない」と言っている。

この国には、同じ境遇の賢人忠臣が全くいないのか。

否、似た境遇の人もいたであろう。

いつの時代でも、どんなにひどい国でも、隠れた賢人はいるものだ。

しかし本当の賢人は、国に道がなければ無能のふりをして隠れてしまう。

蘧伯玉が良い例である。

だから、自分の境遇を誰も知らない。

 

以下三句

已焉哉  やんぬるかな

天実為之 天実に之を為す

謂之何哉 之を何と謂はんや

 

酷い状況だが、どうしようもない。

自分には学問があり、道徳もある。

しかし、それが受け入れられない時代もある。

そこで苦労するのが君子である。

時代がどうであれ、君子は乱れない。

道徳が乱れた時代だからといって、自分の道徳をげることがない。ゆえに窮するべくして窮する。

正直で馬鹿を見る。

小人は、時代の乱れを理由に道徳を枉げる。だから窮することもない。

出自北門の君主に諂ってうまく生き抜く。

孔子が「君子もとより窮す、小人は窮すればみだる」と仰ったのと同じい。

 

時代はどうすることもできない。

そんな時代に生まれ、不遇・不運に見舞われるも全て天の為すところ。

いずれ、同じように天の為すところによって、自分の学問才能を活かせる時が来るかもしれぬ。

ただそれだけである。何も言うべきことはない。

ゆえに莫知我艱。

 

第二章

王事適我 王事我に適く

王事は王のための役目全般。

色々な仕事が我に来る。

王事といえばたいそうな仕事に聞こえるが、実のところ、自分に向かってくる仕事は全て雑事である。

重要な仕事は小人が独占しているからだ。

誰がやってもいいような、誰でもできるような些細な仕事、雑務ばかり押し付けられている。

 

政事一埤益我 政事一ら我に埤益す

一は「専一」、もっぱら。

埤は厚いこと。埤益は厚みを増してゆくこと。

自分の学問をもってすれば、政事上の難しい仕事もこなせるだろう。

自分の学問能力相応の仕事を専一にこなせば、自分への待遇も厚くなっていくだろう。

しかし、今はそうではない。雑務ばかりが厚みを増し、待遇は薄いままである。

故にひどく貧乏している。

 

我入自外 我外より入れば / 室人交徧讁我 室人交々徧く我を讁む

雑務の波に翻弄され、疲れ果てて家に帰る。

家の者は苦労を知らない。

妻は生活の苦しさに責めたてる。

子供は腹が減ったと泣く。

孝行も至らず、親を残念に思わせる。

どこもかしこも自分を責める者ばかり。

 

以下三句

已焉哉  やんぬるかな

天実為之 天実に之を為す

謂之何哉 之を何と謂はんや

 

しかし天の為すことである。

何も言うべきことはない。


第三章

王事敦我 王事我に敦し

朝廷の仕事は雑務ばかり。

敦は厚し。雑務は増える一方で、とても務めきれないほどだ。

 

政事一埤遺我 政事一ら我に埤遺す

遺とは送ること。

「面倒な雑務はあいつにやらせておけ」そんな小人が多く、自分に面倒な仕事がどんどん送られ、厚くなってゆく。

 

我入自外 我外より入れば / 室人交徧摧我 室人交々徧く我に摧る

疲れ果てて家に帰れば、相変わらず家の者が責めてくる。

前の章では「讁」、家人から責められた。

ここでは「摧」である。摧は迫る。

家人の責めに耐え続けてきたが、今では妻から「どうにかしてください」と迫られ、父母から「どうにかしてくれ」と迫られる。

道を重んじる我としては、小人にへつらうことはできない。進むは地獄である。

しかし家人に責められるのも辛い。このまま留まるのも地獄である。

進退窮す。

 

以下三句

已焉哉  やんぬるかな

天実為之 天実に之を為す

謂之何哉 之を何と謂はんや

 

しかし天の為すことである。

何も言うべきことはない。

 

詩を学ぶは、心の動きを知るにあり

今の時代も、似たようなものだろう。

道徳が廃れた今の時代、似たような組織で働く人も多いだろう。

上の人間が道を知らない。

うまく立ち回る人間が得をし、それができない人が損をする。

君子窮し小人濫れる時代である。

 

昔の君子も、やはり苦労した。

辛い思いをかみ殺して、我が為すべきこと、目の前の仕事をひたすらこなし、耐え忍んだ。

今の時代はまだ良いのかもしれない。

会社と人の関係は、君臣の関係ほど厳しくないからだ。

しかし、似た苦労を強いられる人もいる。

 

義理が絡んでくると、「上の人間が気に入らない」「雑務ばっかりで話にならぬ」、ならばさっさと転職しようというような簡単な話ではなくなる。

就職とは違うけれども、私にもそんな経験がある。

数年にわたって酷い状況に耐えたが、その時の気分は北門の忠臣に似ていたように思う。

私の場合、自分のやってきたことが足りなかったのだ、この組織を選んだのは自分であり、誤った責任は取るべきだ、といった気分もかなりあったけれども。しかし、

 

已焉哉  やんぬるかな

天実為之 天実に之を為す

謂之何哉 之を何と謂はんや

 

この気分はもっと強かった。

 

あまり耐えようとせず、素早く去った方が良かったのか。

それはよくわからない。

潰れるまで耐えるのは違うだろうが、あまり簡単に去るのも義を欠く。

さっさと道を変えていたら、また同じ過ちを繰り返していた気がする。

 

これも運命と受け入れ、しなくてよい苦労をたくさんした。

その記憶を美化する気持ちは全くないし、思い出したくもないが、北門の詩を読めば思い出す。

北門の忠臣の嘆きと、当時の自分の思いに重なる部分があるのだろう。

 

古代と現代、道徳の在り方、社会の在り方、人々の生き方、色々なものが大きく変化し、変わっていないものの方が少なかろう。

しかし、確かに変わらないものがある。

楽しい時、苦しい時、寂しい時、色々な時の「心の動き」というものは、古今さほど変わらないのではないか。

だから、「楽しみは尽くすべからず」とか「人に苦労を強いてはならぬ」とかの教えも生き続けるのではないか。

 

孔子は「詩三百、一言以蔽之、曰思無邪」と仰った。

邪なところがない、これは素直ということだ。

人の心の動きを素直に歌っているところに、詩経のすばらしさがある。

 

心の動きが分からずに道徳を学んだところで、知識ばかりで何の役にも立たない。

儒学に限らず学問の世界には、知識はあるが心の動きがよくわからない者が多いように思う。

心の動きを考えずに知識を振りかざせば、人を害する。

それで得意になるのだから、まことに鈍い。

 

君子の学問をやって小人になっては本末転倒だが、そういう例が少なくない。

学問とは怖いものだ。

詩経を毎日学び、毎日そのように感じている。

 

腐儒にならぬために、詩経をしっかり学んでゆく。

 

組織は人材をいかに遇するべきか~孔子が斉を去った理由~

何日か前、こんなニュース記事を見た。

www.itmedia.co.jp

これに対し、「やりがい搾取」などとして、ツイッターで酷く叩かれていたようだ。

 

孔子なら、この問題をどうお考えになるだろうか。

孔子の逸話や言葉から、私なりにこの問題を考えてみたい。

 

 

景公の手厚いもてなし

組織に仕えることについて、孔子は色々な言葉を遺している。

参考になる言葉や逸話はいくらもあるが、分りやすいものをひとつ取り上げてみる。

 

微子第十八

論語微子びし第十八に、こんな章句がある。

斉の景公、孔子を待ちて曰く、季氏がごときは則ち吾れ能はず。季孟きもうの間を以て之を待たん。曰く、吾れ老いたり。用ふる能はざるなり。孔子る。

斉の景公は大変裕福であった。論語季氏第十六には、

斉の景公馬千あり。

とある。

駟とは四頭立ての馬車である。駟がひとつで馬四頭、千駟は馬四千頭

これが景公の私有財産であって、ともかく裕福であった。

 

章句の意味

この章句の意味は、大体以下の通りである。

景公が孔子を歓迎して言った。

「季氏のような待遇はできませんが、季孫きそん氏と孟孫もうそん氏の中間くらいの待遇をいたしましょう」

またこうも言った。

「私はすでに老いました。あなたを用いることはできません」

それを聞いて、孔子は斉を去った。

 

「待」の解釈

この章句を理解するポイントは「待」の解釈にあると思う。

「景公、孔子を待ちて」の部分について、「景公が孔子を採用するにあたり」の意味に捉える解釈も多い。

しかし、ここは単に「歓迎する」とか「もてなす」くらいの意味が妥当であろうと思う。

「待」という漢字にはそういう意味がある。

 

また、景公は「吾れ老いたり。用ふる能はざるなり」と言っている。

これは、賢人として名高く、魯では大司寇として大きな実績を残している孔子を、大臣など高い位に就けて一緒に政治をすることはできない、の意味である。

大臣などの位に就ける待遇はできない、しかし季氏と孟氏の中間くらいの待遇でもてなそう。

 

魯の三桓とは

当時の魯は、季孫氏・孟孫氏・叔孫しゅくそん氏の三家が権力を握っていた。

それぞれの家の規模を比較すると、「季孫氏>孟孫氏>叔孫氏」。

季孫氏は魯公より富んだといわれているから、魯で一番の金持ちといってよい。

景公は、季孫氏のような待遇はできないという。

しかし、二番手の孟孫氏よりは良い待遇、季孫と孟孫の中間での待遇を考えた。

かなりの好待遇と言ってよい。

大臣などの高位につけるわけではないが、このような好待遇で迎えたい。

これは、大臣としてではなく客分として仕えてほしい、現代風に言えば相談役になってほしい、ということでもある。

 

もうひとつの狙い

また、賢人として名高い孔子を手厚くもてなせば、天下の俊傑が斉に集まるだろう。

「景公は賢人を大切になさるらしい」と天下に知られ、我も我もと良い人材がこぞって斉に集まる。

景公には、いわゆる「先づかいより始めよ」的な意図もあったものと思う。

 

客分として仕えることで、いくらか政治に関与することはできるかもしれない。

しかし、あくまでも客分である。景公はそれ以上の待遇を考えなかった。

孔子は斉を去った。

 

私的解釈①:厚遇の背景

景公を支えて斉を栄華に導いた宰相は、晏子あんしとして知られる晏嬰あんえいである。

諸説あるが、晏嬰と孔子は政治においては対立していたらしい。

孔子の理想は王道であるが、晏嬰は覇道である。それは斉のありかたにもよく表れている。

主義が違えば対立もする。

しかし、孔子が晏嬰を褒めた言葉も残っているし、お互い一個の人間としては認め合うところがあったものと思う。

 

そんな晏嬰を、景公は深く信頼していた。

ただ、この章句への影響はよくわからない。

この章句の逸話がいつ頃のことかよくわからないからだ。

季孟の間という好待遇を受けたことを考えると、孔子の名はすでに天下に知られていたに違いない。

孔子の名が一躍世に知られた出来事と言えば、孔子が景公を外交でやっつけた「夾谷きょうこくの会」である。

これが紀元前500年。晏嬰の没年も同じであるとする。

晏嬰が存命で補佐していれば、夾谷の会での景公の失態はなかったのではないか。

 

この後、孔子が魯を出てから斉に訪れたとすると、すでに晏嬰はいない。

私は、この章句の背景に、以下のようなやり取りがあったのではないかと思っている。

 

諸国を放浪中の孔子が斉にやってきた。

孔子と言えば天下の賢人。

景公は臣下に意見を求めた。

孔丘こうきゅう(丘は孔子の名)が斉に来ている。どのように扱えばよいか」

臣答えて曰く、

「覇道を歩む斉は、王道を理想とする孔丘とは相容れません。孔丘を大臣に取り立てれば、政治に混乱を招くでしょう。

しかし孔丘は賢人であり君子です。粗略に扱えば、天下の賢人が斉を見放します。手厚くもてなすべきです」

「どのような待遇が適当だろうか」

「王様のご随意に」

「季孫と同じくらいの待遇にしてはどうか」

「季孫は魯で一番の権力者です。魯を去った孔丘を季孫のように取り扱うと、外交上の問題が生じるでしょう。季孫と孟孫の中間になさっては」

「では、そうしよう」

 

斉の大黒柱であった晏嬰はすでにいない。

景公の晩年についてはあまり知らないが、老いた景公には頼りになる臣がいなかったのではないか。

斉が覇道を歩むためには、孔子を政治には関与させるわけにはいかない。

厚遇して相談役に据えておくのが一番であろう。

 

孔子は、政治に関与できなければ意味がないと考えた。

相談役として仕えたところで、自分にできることはないだろう。ならば去るべきだ。

そう考えたのではないか。

 

私的解釈②:不仁を犯さぬため

孔子が斉を去った理由は、これだけではない気がする。

私は、「不仁を犯さぬため」という理由があったのではないかと思っている。

 

賢を尊び不肖を賤しむ

孔子家語に、こんな話がある(賢君第十三)。

子路孔子に尋ねた。

「賢君が国を治めるとき、まず何から取り組むでしょうか」

孔子答えて曰く、

けんを尊びて不肖ふしょういやしむに在り(賢人を尊重し、人格と能力に劣る者を賤しみ、しっかり区別することである)」

子路がさらに尋ねる。

「君公が賢人を尊び、不肖を賤しんだにもかかわらず、滅んでしまった国もあります。どこが間違っていたのでしょうか」

「それは、賢人を尊び不肖を賤しむことが人事に及ばなかったからだ。

賢人を尊重するが高い地位につけない。不肖を賤しむが高い地位につけている。

すると、どうなるか。

賢人は『王様は私たち賢人を尊重するが、登用はしない。これは不肖の者どもが高位を占め、政治を牛耳っているからだ』と考える。

不肖の者は『王様は賢人を尊重し、私たちを不適格と考えているらしい』と思う。

賢人は不肖の者を『君側くんそくかん』と怨む。

不肖の者は『われらの地位を守るためには賢人をどうにかせねば危うい』と保身に奔る。賢人を敵視する。

怨みと敵視がぶつかれば国は乱れる。だから滅んだのである」

 

留まれば乱をもたらす

これが孔子の考えであったとすれば、斉を去ったのもうなずける。

景公が孔子を手厚くもてなす。これは賢人の尊重である。

「景公は賢人を尊ぶ」と思い、天下の賢人が斉に集まったらどうなるか。

景公は集まった賢人を尊ぶだろう。しかし、登用して活かすのは難しいのではないか。

老いた景公に政治を主導する力はない。もともと景公は政治に暗い方だ。人事も臣下に委ねるだろう。

孔子に対し、あくまでも表面的に重んじただけの臣下が、集まった賢人たちに活躍の場を与えるとは考えにくい。

 

すると、賢人は「君側の奸」に怨みを抱く。

臣下は賢人に危機感を抱き、敵視する。

「景公を慕う賢人」と「保身に奔る小人(臣下)」の間で衝突が起こる。

 

晏嬰がなくなり、景公は老いて政治能力が欠落している。ただでさえ難しい時期である。

そこで、下位の賢人と高位の小人が対立すれば、国は乱れるだろう。

孔子が客分として手厚くもてなされ、斉に留まったことによって一国が乱れるかもしれない。

自分の存在が乱を招く、これは大なる不仁であり、孔子にとってあってはならないことだ。

 

だから孔子は斉を去った。

推測に過ぎないが、これは面白い考え方ではないかと思っている。

 

私的解釈③:賢を尊ぶも用いざるは非礼

礼を重んじる孔子としては、ただ手厚くもてなすだけの待遇を「非礼」としたのではないか、とも思う。

 

詩経に曰く

詩経邶風はいふう簡兮かんけい)に、こんな句がある。

有力如虎 力有り、虎のごとし

執轡如組 たづなる、のごとし

左手執籥 左の手にやくを執り

右手秉翟 右の手にてき

赫如渥赭 かくとして渥赭あくしゃのごとし

公言錫爵 こうれにしゃくたま

 

文武両道の賢人

この詩に謳われている人物は、文武両道の賢人である。

虎のように力強く、馬車を御するのが巧みで、武に優れている。

また左の手には笛、右の手にはきじの羽、これで巧みにがくをなせる。文にも優れている。

顔は朱で染めたように赤い。古来、赤ら顔は勇士の特徴である。

そんな文武両道の賢人が、低い地位にとどまっている。国政に参与して力を発揮するなど程遠い。

力を発揮するといえば野生の虎に対してであり、また馬車を御するときくらいのもの。

文を発揮するのは舞楽のみ。

 

君公の非礼

君公は暗愚で、この賢人の実力を見抜くことができない。要職に就けば必ず力を振うのに、音楽を司る役人の下に就けて舞人に止めている。

しかしこの賢人は、舞人としての職務を怠ることなく、君公の前で一生懸命に舞う。

文武両道の大人物であるから、舞も上手かろう。

舞が終わると、君公は賢人に酒を賜わる。

 

このときの杯は「爵」である。

礼記の礼器篇に、

  • 爵は一升入る杯
  • さんは五升入る杯

とある。そして以小為貴、小を以て貴と為すとし、爵は盞より貴いものとされる。

 

君公は賢人に爵を賜った。

盞より貴い爵を賜ったのだから、「賢を尊び」の態度であり、良いものに思われる。

しかしそうではない。

実際のところ、君公は賢人を低い役目に用い、人格能力に見合う待遇をしていないからだ。

賢人は、高位につけばもっと良い働きができる。良く舞うどころのはなしではない。

しかし、君公は賢人を「良く舞う」ということにのみ用い、「良く舞った」ことを以て尊んでいる。

評価するに足らないところを評価し、真に評価すべきところを評価しない。

これは非礼であり、賢人に対するはずかしめといえる。

 

表面的には礼がある。しかし実質的には非礼である。

孔子はこれを非常に嫌った。

そんなことなら、表面的な礼などいらぬ。表面的に非礼だが実質的に礼があるほうが良い。

そんなことさえ仰った。

君主が賢人を遇するに、このような非礼があってはならない。

それを責めて、孔子は斉を去ったのではないか。

それを戒めるために、詩経に簡兮の詩を採用したのではないか。

 

まとめ

「給与で会社を選ぶ人とは働きたくない」

この発言を、孔子は問題視するだろう。

孔子の思想で考えるに、採用する側が採用される側に「待遇を期待するな」などと言うのは、賢を尊ぶ姿勢に欠ける。

もちろん、相手が非礼であるからといって、自分も非礼であってよいことにはならない。

礼は往来する。しかし非礼は往来しない。

非礼を受けたとき、相手の要求に応じないとか、付き合いを拒絶するとか、そういう対応は良いけれども、こちらから強いて非礼にふるまうのは間違っている。

そんな会社では働かないことだ。

 

しかし、現実はそう甘くない。生活がある。

簡兮の賢人のように、会社側の非礼に甘んじなければならないことも多かろう。

 

また、斉を去った孔子のように、待遇さえよければいい、というものでもない。

孔子論語の中で、仕える前から待遇を考えること、現代で言えば「給与で会社を選ぶこと」を戒めている。

そこには、簡兮の賢人のように、仕えた以上はある程度の不満も飲み込め、自分のなすべきことをなせ、という意味も含まれているように思う。

 

勤め先を選ぶには、組織に礼があるかどうか、自分の能力を正しく見て、能力に見合う使い方をしてくれるかどうか、この辺が重要に思える。

しかし簡兮の君公のように、一見礼があっても実は非礼、賢を尊び不肖を賤しむが人事が伴わない組織もあるわけで、これが難しいところだろう。

会社勤めをしたことがない私にいえるのは、これくらいである。

 

「朋有りて遠方より来る」の戒め

以前「学びて時に之を習ふ、亦た説ばしからずや」について記事を書いた。

shu-koushi.hatenadiary.com

ずいぶん間が開いたが、今回はこれに続いて

とも有りて遠方より来る、亦た楽しからずや。

について書く。

 

大まかな解釈

この章句は、以下の三段から構成されている。

①学びて時に之を習う、よろこばしからずや。

②朋有りて遠方より来る、亦た楽しからずや。

③人知らざるを慍らず、亦た君子ならずや。

 

前回の内容

前回解説した①の解釈を簡単に書くと、以下の通り。

師に就いて学問し、学んだことを何度も繰り返し復習する。

すると、学んだことがどんどん深まり、面白くなり、今までわからなかった道理が分かり、心に喜ぶところが出てくる。

 

朋友とは

「このように学問を続けていると、やがてたくさんの朋友ができる。遠方の朋友も訪ねてくる」

が今回の部分。

 

朋友とは、同類の朋である。

同じ学問をする仲間は同類であるから、朋は「同門」の意味。

現代の言葉でいえば「同窓」。

同じ師に就いて学ぶ者は皆朋友といえる。

孔子に就いて学ぶ人、いわゆる孔門の人々は互いに朋友。

現代でも、孔子を師と仰ぎ学ぶ人同士は互いに朋友である。

 

学ぶと朋友ができるわけ

なぜ学びて時に之を習うと、やがて朋友ができるのか。

それは、学問が深まって人間ができてくると、そのことが遠くに自然と聞こえるようになるからである。

そもそも孔子の仰る学問とは、一言でいえば「仁」の学問である。

学んで時に之を習う、これに努力するうちに仁に近くなる。君子的になってくる。

同じく孔子の教えを学ぶ遠方の朋友からすれば、そのように学問のある君子がいると聞けば、訪ねてみたいと思う。

それで、遠くからわざわざ訪ねてくる。

 

「遠方より来る」で深める

このような解釈は極く一般的であるし、浅い解釈でもある。

くどくど述べても仕方ないだろう。

理解を深めるには、孔子があえて「遠方」と仰った意味を考える必要があるように思う。

 

近所はもとより

朋友が遠方から来るというが、ならば近所の朋友はどうか。

孔子の意図は、「近所の朋友はもとより、遠方からも朋友がやってくる」である。

強いて「近くの朋友」と考えず、「近しい人」と考えてもよい。

 

ここをよく考えないと、

(近い人々は自分の学問をわかってくれないが)、遠くのだれかが分かってくれる。

そして訪ねてきてくれる。

これは楽しいことだ。

などと恣意的に解釈し、本来の意味を大きく枉げることになる。

 

狂簡は理想ではない

近い人から理解されず、場合によってはうとまれている人の中にも、士人がいないわけではない。

孔子が望みを抱いた「狂簡きょうかんなる我が党の小子」には、この雰囲気がある。

狂簡の狂は志が大きく、卑劣なところがないこと。簡も志が剛にして高く、細事にこだわらないこと。

「狂簡なる我が党の小子」とは、狂簡なる素質を持った、孔子の地元の若者のこと。

 

孔子は、狂簡な若者は見込みがあると考えた。

狂簡なる若者は、志があって学問もやるが、潔癖すぎたり、粗すぎたり、まとまりがなく中庸を得ない。

それでも、志がない若者、学問をやらない若者などに比べれば、ずっと見込みがあると考えた。

「そういう若者を育てたい」と希望を述べられた言葉もある。

 

近きが先、遠きは後

しかし孔子は、狂簡を是としたわけではない。

孔子が仰る「朋友が遠方からわざわざ訪ねてくるような君子」は、狂簡なる小子とは違う。

あくまでも、学問があり、近くの人から慕われ、遠方からも人が慕ってやってくる君子の意味である。

 

そもそも孔子は、近い人を顧みずに遠い人から慕われようとする、そういう態度を非常にお嫌いになった。

 

論語子路篇に、こんな話がある。

葉公しょうこうまつりごとを問ふ。子曰く、近き者説び、遠き者来ると。

(楚の葉公が、正しい政治のあり方を問うた。

孔子は、

「近くの人々は喜んで暮らし、遠くの人々が慕って集まって来る。
そうなるように務めるのが、正しい政治(仁政)です。」

と仰った。)

また、説苑・敬慎篇にはこんな言葉がある。

子曰く、夫のさくに比せずして疎に比するは、亦た遠からずや。

孔子が仰った。「近くの人と親しみ助け合わず、遠くの人と親しみ助け合うのは、道理に外れている」)

 

近くから遠くへの理想

このように、孔子は「近くから遠くへ」を理想とされた。

そもそも、仁とはそういうものだ。

父母に孝、兄弟にゆう、近いところを道のはじめとし、やがて一家、一郷、一国、天下へと広げてゆく。

孔子の学問、仁の学問をやる以上、遠くの人よりも近くの人と仲良くしよう、その中で徳を磨こうと考えるのがまともだ。

 

よく、こんな人がいる。

近くの者は、俺のことを理解してくれない。

無学なのだから、理解できなくて当然である。

それよりも、遠方の学問ある人々と仲良くしよう。

そんな人が遠方から訪ねてくれれば楽しい。

学問して疎まれる人には、このタイプが多いように思う。

例えば、志をもって大いに学問したのはいいが、その学問で人を圧倒し、マウントを取って得意になり、疎まれている。

これを「狂簡」などといえば聞こえはいいが、実のところ近しい人に疎まれているだけだ。

そのような人間を、孔子が「善し」とするはずがない。

 

確かに孔子は、狂簡の素質ある若者を育て、世の中を変えたいと考えた。

素質ある人に学問を施し、いわば「礼を以て約する」の状態に仕立てて、初めて「善し」とされた。

 

私の解釈

学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや(学問を深めることで、喜びが増える)

⇒朋有りて遠方より来る、亦た楽しからずや(近所の人はもとより、遠方の人からも慕われ、どんどん楽しくなる)

 

の流れについて、私は「狂簡」ということも含めて、以下のように解釈している。

志があって学問もあるが、狂簡であるために粗削りで、他を凌ぐようなところもある。

それでは、近くの人から疎まれる。

そんな若者も、正しい師を得て「学びて時に之を習う」で変わってくる。

繰り返し学んで習うと道理が分かって、心に喜びを覚えることも増える。

なぜ喜ばしいのか。

正しい道理が分かれば、過ちを改め、正しい人間に近づくことができるからだ。

 

そうやって学問するうちに、粗削りだったものが整ってくる。

小人的なところが少しずつ減って、君子的なところが多くなる。

以前、疎ましく思ってきた近所の人々が、少しずつ見る目を変えるようになる。

やがて近所で「昔はろくでなしだったが、あいつは学問して変わった」などと評判になり、近しい人々(同学の朋友も、ご近所さんも)と良い付き合いができるようになった。

 

近しい人々の紹介や噂話など、色々なきっかけで、自分のことが徐々に遠くの人にも知られてくる。

遠方の朋友から訪問を受けることも増えてきた。

近きも遠きも、多く朋友と付き合い、一緒に学ぶ。

朋友から教えられることもある。朋友を教えることもある。

朋友から教えられて学問が深まれば、さらに喜びが増える。

自分が教えて朋友の学問が深まれば、それもまた喜びだ。

一人で「学びて時に之を習う」であったときより、心に喜ぶことが増える。

我より彼へ、彼より我へ、喜びが往来する。

このような喜びが増え、長く喜んでいられることが、「朋有りて遠方より来る」の楽しみである。

 

まとめ

「朋有りて遠方より来る」の言葉は、学ぶ者の理想を教えるものである。

ただ、「遠くから人が来るから楽しい」と解釈するだけでは不十分と思う。

そこに含まれる「近い人はもとより」の意味が一層重要ではないか。

「近い人から疎まれるようではいけない」の戒めと解しても良いだろう。

 

ここを見落とすと、独善に陥って近い人から疎まれ、「(遠くの)誰かが分かってくれる」と思い込み、どんどん道から外れていくのではないか。

独学する場合、この間違いを犯しやすい。

このような人はどこにでもいる。むしろ、この傾向のある人のほうが多いのではないか。

君子になりたいと思って学問して、小人になってしまうのだ。

恐ろしいことと思う。

 

私自身のことをいえば、近くの朋友から遠くの朋友へと付き合いを広げていくことに難しさを感じている。

そもそも、孔子を師と仰ぐ同門の人が極めて少ない。

 

もっとも、求めて得られるものではないと思っているから、不満や焦りは全くない。

朋友がいるからやれる、一人では難しい、といったものではない。

どこまでも一人でやる、そのうち朋友ができたらなお良い、くらいに考えている。

 

今はただ、数に比せずして疎に比するの過ちを犯さず、粛々とやれたら良いと思っている。

いくら学問しても、近くの人から疎まれるようでは、孔子の理想から程遠い。

学問する者として、最低限、この過ちがないようにしたい。

好学考

先日ツイッターで、論語に関する質問が寄せられた。

「好学」に関する質問である。

私自身、新たに気づくこともあり、ありがたいことだった。

 

質問は、以下の通りである。

論語』学而編の「子曰く、君子は食飽かんことを求る無く、居は安からんことを求る無く、事に敏にして言を慎み、有道に就いて正す。学を好むと謂ふ可きのみ」
という文なのですが、孔子はなぜ食住を欲しないことを君子の条件に上げているのでしょうか。
やはり世俗の欲求が強いと、孝悌を思う気持ちが薄れてしまうからでしょうか。

鋭い質問と思う。

また、漠然とした質問をポンと投げかけるのではなく、「自分はこう思うが、どうか」とあるのが良い。

どこで戸惑っているのかがわかりやすく、後述の通り「考え方が逆と思う」など私なりに答えを出しやすい。

 

 

孔子は、非常に深いこと、難しいこと、重要なことを簡単に仰る。

私など人間が案外単純だから、「孔子が仰るなら、そうだ」と思い込むことが多い。

この章句も、孔子が「君子は食住にとらわれないものだよ」と仰る。私は「先生のお言葉、ありがたく頂戴いたします」と平身低頭する。

なぜこれが君子の条件であるか、疑問を抱いたこともなかった。

しかし学んで思わざれば則ち罔し、あまり良いことではない。

 

そのときは思った通りに、あまり時間をかけず返信した。

好学ということは、論語の中でも重要なテーマであると思う。

それなりに良く回答できたと思うが、せっかくの機会であるし、ブログで整理しておきたい。

 

孔子は禁欲主義にあらず

質問者は、「世俗の欲求が強いと、孝悌を思う気持ちが薄れてしまうから」と考えている。

これは、別にまずい解釈ではない。

孟子も「心を養うには、寡欲より善きは莫し」と言っている。

欲が強ければ心を養うことが難しく、寡欲であるのが良い。

 

しかし、私は孟子のこの言葉について、いささか不満に思っている。

味わいがなく、モノクロで、感触は乾いた砂のようである。

孔子の教えは味わい深く、色鮮やかで、水分を含んだ土がしっとりと、その大地で生命が育まれるような、いわば「元気」を感じる。

 

果たして孔子は禁欲的であったか。

私はそう思わない。

人間に欲求があることを認め、過剰な欲求は否定するが、当たり前の欲求はさほど否定しない。

もちろん、当たり前の欲求にとらわれることは否定する。それは中庸でないからだ。

しかし、自然的な欲求をことさら否定するのではなく、それを超越するのが孔子の姿勢であると思う。

孔子の教えは、ちょっと見ると非常にストイックだが、実のところそうでもない。

禁欲は孔子の本領ではない。

 

好学とは何か

孔子は、よく「好学」と仰る。弟子に好学であることを求めた。

では好学とは何か。

単に学問を好むだけではない。

学問を好むだけなら孔門にいくらもいただろうが、孔子は容易に「好学」の評価を許さない。

孔子は、自然的な欲求を超越するほどの熱烈な姿勢を以て、はじめて「好学」とした。

このことは、論語を読めばいくらも出てくる。

 

孔子の好学

例えば、述而篇にこんな話がある。

葉公が子路孔子の人となりを問うと、子路は答えられなかった。

それを聞いた孔子が言った。

「学を好み、わからないことがあれば発憤して食べることも忘れてしまう。

そして学に努めて道理が分かると楽しくなって、どんな憂いも忘れてしまう。

そんな風に毎日を送って、老いたことにも気づかない。

私はただそれだけだと、どうしてお前は言わなかったか」

これを論語で読んだとき、なんとなく子路が責められている雰囲気を感じたが、今はそう思わない。

ドラマ『孔子春秋』のイメージがぴったりだ。

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陳蔡の野に困窮したが、ようやく楚に入り、孔門みな生気に満ちている。

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「何と答えていいかわからなかった」と言う子路に、孔子は仰る。

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「私は、そんなに複雑な人間でも、高尚な人間でもないのだよ。

ただただ可もなく不可もない、学問を好むだけの人間なのだよ。」

孔子子路へ笑顔で語りかけるような、そんなイメージがぴったりではないか。

好学ゆえに安楽も忘れる

人間、だれしもお腹が空く。それを求めることは悪いことではない。

孔子でも、食べなければお腹が空くし、食べれば満腹になる。

しかし好学の者は、学問を前にすれば空腹を超越する。

食べることも忘れて学問に没頭する。これは食欲の超越である。

 

寝食を忘れて学問に没頭し、日々それだけに過ぎ、憂いや老いも忘れてしまう。

これは、仏教でいうところの生老病死の超越だ。

好学であれば、生きる苦しみも、老いる苦しみも、病の苦しみも、死の苦しみもなくなる。

ごく小さくみると、これは誰でも経験があるだろう。

1時間なら1時間、学問に没頭している間、生老病死に煩わされる者はいない。

 

長い人生をそのように暮らす者を「好学」という。

 

肉の味もわからない

このような姿勢こそ、孔子の真骨頂である。

孔子は、何事にも徹底する人だったと思う。こんな話がある。

孔子が斉で韶の楽を三ヶ月きいた。

深く感じて、肉の味が分からなくなるほどだった。

これも食欲の超越である。

当時において、肉は美食の象徴である。

韶の楽に深く感じ入り、ごちそうを食べても味が分からなくなる。

私は、孔子のこんなところに強くあこがれ、尊敬する。

 

顔回の好学

孔子は、弟子の中で好学といえるのは顔回だけ、と仰った。

顔回は、大変な貧困の中で学問に没入し、短い人生を終えた。

 

生きる苦しみの中でも、貧困は苦しい。

私自身、貧困の苦しさは身に染みている。

心を病む人の大部分は、多かれ少なかれ経済的な問題を抱えていると聞く。

顔回には、それが苦でなかった。むしろ、その自由さを楽しんでいた。

 

一説によると、顔回は29歳で髪が真っ白になっていたという。

ひたむきに励んだ結果、体調がおかしくなったのだろう。人よりずっと早く老け込んだ。

しかしそれを苦とせず、楽しんでいた。

 

顔回が亡くなったのは31の頃、41の頃など定まらない。

貧困にいたことや白髪のこともある。無理が祟ったのだろう。

顔回の死について、栄養失調であると言い切る学者もいる。

顔回の死生観は、孔子の死生観とおそらく同じであった。

天命を知る顔回にとって、病も死も問題ではなかっただろう。

 

生老病死を超越するほど学を好んだから、孔子顔回を好学と評したのだと思う。

 

考え方を逆に

再び質問に戻る。

質問者は、「世俗の欲求が強いと、孝悌を思う気持ちが薄れてしまう」と考えた。

 

「孝悌を思う気持ち」でも結局の意味は同じだろうが、この章句で孔子は「学を好むと謂ふ可きのみ」で締めくくっているから、「学問を好む気持ち」と考えたほうが分かりやすいと思う。

また、「世俗の欲求」といえば名誉や地位など色々なものを含む。

ここでは、孔子は食や居のことを語っているから、「世俗の欲求」よりも、単に「安楽を求めること」としたほうが良いように思う。

 

そして、質問者の解釈は逆ではないかと思った。

「安楽への欲求が強いと、学問を好む気持ちが薄れてしまう」

というよりも、

「学問を好む気持ちが薄ければ、安楽への欲求が強くなる」

ということだ。

 

前者の解釈は孟子的だが、逆にすると孔子的だ。

にわかに精彩を帯びてくる。

そして、「学問を好む気持ちが強ければ、安楽を求めなくなる」

 

「世俗の欲求が強いこと」を出発点にすると、欲求をどう抑えるかが問題になる。

禁欲的にならざるを得ない。

しかし、禁欲すれば好学になるかといえば、そんなことはない。

あらゆる欲望を捨て去り、何の望みも持たずに飄々している者を、果たして孔子が「好学」と評するだろうか。

老荘系の達人にはそういう人もたくさんおり、それが悪いのではないが、好学とは言えないだろうし孔子の理想からは遠い。

 

孔子の仰る「好学」とはそんなものではない。

学問を好む気持ちが強ければ、食べることも忘れてしまう。

禁欲主義に奔るまでもなく、安楽を求める気持ちはなくなってしまう。

 

経書の解釈は、微妙な違いで味わいや意味が随分変わるものが結構ある。

だから、古来色々な解釈があったのだろう。

色々な解釈があって当然だし、正解・不正解を断定するのは困難だ。

ただ、学ぶほどに「これが正解では」と自分なりに感じることが確かに増える。

考え方を逆にすることで、もやもやがスッキリすることも多い。

質問者も、逆にすることで「しっくりきた」とのことだった。

 

好学は君子の条件

質問のあった章句について、私は以下のように解釈している。

子曰く、君子は食飽くを求ること無く、居安きを求ること無く、事に敏にして言を慎み、有道に就いて正す。

学を好むと謂ふ可きのみ。

 

先生が仰った。

「君子は腹一杯食べることを求めないし、快適な住居でゆっくりすることも求めない。

安楽を求める気持ちが起こらないのだ。

それよりも、学問をしていたいと強く思う。

学問に意欲のある者は多いが、安楽を求める気持ちも強い。

学問に勉めても、安楽が入り込んでくる隙がある。

学問を好む気持ちが十分ではないのだ。

この隙がなくなってしまうほど、好学であるためには何が必要か。

それは『敏』である。

学ぶべきことを、積極的に鋭く学ぶ。

このようにいざいざと不断に努めるのが敏であるから、安楽に付け入られる隙がない。

しかし、敏に過ぎると軽薄に流れる恐れがある。

学んだことがしっかり身につかないうちに、口にまかせて言って失敗する恐れもあるから慎むがよい。

敏と慎で学んだうえにも過信せず、さらに道徳のある人に教えを請うて間違いを正す。

それでこそ本当に好学といえる。」

私はこのように解釈している。

 

この解釈は、雍也篇の章句と紐づけるとよくわかる。

子曰く、君子は博く文を学んで、之を約するに礼を以てせば、亦以て畔かざる可きか。

君子はどこまでも広く学問し(敏)、礼で仕上げる(慎)ならば、学んだことに背くことはない。

これによって、質問者の「孔子はなぜ食住を欲しないことを君子の条件に上げているのでしょうか。」の問いに答えが出る。

すなわち、

 

孔子は、食住を欲しないほどに好学であれと弟子に教えた。

それには終日乾乾怠らず(敏)、夕べには惕若(慎)でなければならない。

これが君子の学問であり、好学は君子の条件である」

宰我昼寝考

孔門十哲の一人で、言語に優れているとして子貢と並んで挙げられた人物に宰我さいが宰予さいよ)がいる。

今回は、宰予の昼寝について考察する。

 

宰我について

十哲に入るくらいだから、優れた人物に違いない。

しかし、論語からは全くそれが見えてこない。

 

孔門の問題児

とにかく、いいところがない。

哀公を煽って叱られたり、

三年の喪を唱える孔子に「一年でいいでしょう」と意見して呆れられたり。

 

中には、

井戸に人が落ちたといえば、それが嘘でも君子は井戸に飛び込みますか?

(君子の仁の心に付け込んで、危害を加えることができますか?)

という、ちょっと訳の分からない質問をしたり。

 

心酔する宰我

ただ、高弟が等しくそうであったように、孔子への心酔ぶりは徹底している。

孟子』には、宰我孔子を称えた言葉がある。

曰く、

予を以て夫子を観れば、堯舜に賢ること遠し

予は宰予、堯舜は古の大聖人。

 

本来、聖人と聖人を比べてどちらが偉い、などと優劣をつけることはできない。

聖人は天地の徳と一体化している。

天地の徳は天地の徳であって、この上なく崇く尊いものであり、それより上はない。

それでも、宰我に言わせると「先生は堯舜なんかよりはるかにすごい」。

こういう心酔ぶりであった。

 

子路との違い

同じく孔子に心酔している高弟に子路しろがいる。

子路孔子を強く慕い、孔子もまた子路を愛した。

それがうかがえる言葉もたくさんある。

しかし、宰我に対してはそのような愛情が感じられない。

聖人の孔子のことであるから、弟子によって好き・嫌いという区別はないだろう。

叱って伸びる子もいれば、褒めて伸びる子もいるように、教育方針の違いと思う。

 

子路という人は、孔子から「いかだで海を渡って遠くへ行こう。(危険だが)子路ならついてくる」と言われて喜ぶ人だ。

その喜び方も、私のイメージでは欣喜雀躍、小躍りせんばかりに喜ぶ子路が思い浮かぶ。

孔子の愛情を真直ぐ受け止め、それに甘えることなく、道を歩むエネルギーに変えてしまう、子路はそんな人だったと思う。

 

宰我の悪いところ

宰我は、おそらくそうでなかった。

子路よりは人間が小ぶりで、頭は大変よいが理屈に過ぎるところがあり、剛情でもある。

 

宰我の剛情さ

孔子との問答をみるとよくわかる。

三年の喪を重視する孔子に対し、宰我は勝手な理屈で「一年で良い」と主張する。

それを、孔子はこう諭す。

なぜ三年かよく考えよ。

本来三年でも短いくらいで、五年でも十年でも良い。

しかしそれでは色々と支障が出る。

天子が十年も喪に服して政務を離れると政治がおかしくなる。

 

子供は生まれてから三年間、親に守られて懐で育つ。

短いけれども、親の寵愛に報いるために、天子から庶民まで三年の喪に服すると決めたのだ。

 

なぜ喪中、君子は普段通りの生活をしないのか。

美味しいものを食べても、それを食べることができない親を想えば美味くなく、

良い衣服を着ても、親が土や草をまとっていることを想えば嬉しくなく、

美しい音楽を聴いても、それを楽しむ親がいないと想えば楽しくないからだ。

そして孔子が、

なんじにおいて安きか

(お前は、たった一年喪に服したくらいで美味いものを食い、良い服を着、楽しい音楽が聴けるというのか)

すると、宰我は答えた。

之を安んず

(私はできます)

宰我の剛情さがよく表れている。

 

宰我ほどの者が、孔子の教えを理解しないはずはない。

しかし、反発し続ける。

この剛情さを、孔子は憎んだものと思う。

最後は孔子も、

女安くば則ち之を為せ

(お前がそれでいいなら、勝手にせよ)

と匙を投げ、「宰予は不仁だ」と嘆いた。

 

孔子は怠惰を嫌った

これが、宰我に厳しかった理由だと思う。

宰我は、子路のようにはいかない。

子路と同じように愛情を注げば、宰我はおかしくなるのではないか。

三年の喪が長すぎるというのも、結局は喪中の生活が辛いからであり、そこには安楽のために道を枉げようとする気持ちがある。

こういう安楽に流れる心を、孔子は非常に嫌った。

 

真面目な弟子を評価した

逆に、真面目に努力を重ねる弟子はいつも褒めた。

それが君子の道だからである。

易の乾の卦には、「君子終日乾乾くんししゅうじつけんけん」とある。

乾の卦は純粋な陽であり、どこまでも疲れずに励む積極性を意味する。

君子はそうあるべきだ、一日の初めから終わりまで、休むことなく務めるのが君子だ。

 

なぜ顔回は愛されたか

孔子顔回を特に愛したのも、その真面目さゆえである。

子貢が顔回を評した言葉に、

能くつとき、よわ

(いつも早起きで、夜遅く寝る)

とある。

夙はどれくらい早いか。

根本先生の説によれば、

一体孔門などは朝が早い。今日で言へば二時頃に起きる。

もちろん、早起きしても日中ぼんやりしては意味がない。

終日乾乾で務めたからこそ、顔回孔子に愛されたのだと思う。

 

心が通い合う師弟

一門がきょうで危険な目に遭い、顔回がいなくなってしまった。

孔子はこれをひどく心配した。

しばらくして、顔回が無事に姿を現した。

孔子は「お前が死んだかと思った」というと、顔回は「先生が生きておられるのに、私が死ぬはずはないでしょう」と答えた。

 

心が通い合っていた。

この難に遭ったとき、孔子は「天は私に徳を与えた。その私を、乱暴者ごときが殺せるものか」と言った。

顔回の方では、「天徳があるから先生が生きておられる。その愛情を受け、徳を修める私も、死ぬはずがありません」という気持ちだったのだろう。

 

孔門の隆盛と師弟愛

孔子顔回を愛し、顔回孔子を愛した。

それは親子の愛情のようだった。

普段は謹厳な孔子顔回に愛情を注ぐ様をみて、他の弟子たちは「先生にもあんなところがあるんだ」と思い、孔子を非常に慕うようになった。

孔子が三千人という多くの弟子を持ったのも、顔回の存在が大きい。

 

それぞれ異なる教育方針

孔子が愛情を注ぐことで、顔回は亜聖となった。

子路孔子の愛情を受け、やはり大人物となった。

顔回子路も、ラクをしようとする人ではない。

愛情を注いでも、それに甘えてだらけることはない。

 

しかし宰我は、ラクをしようとする人である。

下手に愛情を注げば、それに甘えておかしくなるかもしれない。

孔子はこんな風に考えて、厳しく接したのではないか。

もし顔回子路が怠けるタイプの人間であったら、孔子宰我と同じように厳しく接しただろう。

 

宰我が昼寝で叱られた理由

さて、以上のことを踏まえて宰我の昼寝の話。

最近、気軽に楽しめたら良いと思い、ちょっとしたクイズをやっている。

こんな問題を出してみた。

 

 

本文

本文は以下の通り。

宰予、昼寝す。子曰く、朽木きゅうぼくる可からず。糞土ふんどしょうる可からず。予においてか何ぞめん。

 

宰予が昼寝していた。

それを見て、孔子が仰った。

「朽ちた木には彫刻はできない。

ゴミくずで作った垣根に上塗りをしても立派にはならない。

宰予を責めても仕方ない」

 

諸説紛々

この問題には、少々迷った。

宰我の昼寝を孔子が怒った理由については色々説があり、困惑している学者も多いからだ。

いくつかの解釈を挙げてみる。

 

昼寝したぐらいで、こんなに叱られては大変で、孔門の教えはとても凡人の及びつかぬところのようであるが、宰我に就いては、何か特別の事情があっての孔子の叱責だろう。

吉田賢抗先生『新釈漢文大系・論語

 

宰我もえらく孔子から見限られたものであります。ちょっと昼寝したくらいで、なぜこれほどまで孔子が言われるのか、昔から色々議論がなされておる。

とにもかくにも、四科十哲の一人に挙げられておるほどの人物でありますから、良いところがたくさんあったに違いない。ところが良いところがわからなくなってしまって、悪いところだけが残っておる。まことに気の毒な話であります。

安岡正篤先生『論語の活学』

 

私的解釈

私なりに解釈してみる。

冒頭から述べてきたように、宰我は気力が弱く、怠けやすい性質であった。

昼寝もその表れである。

 

昼寝するような怠け者は君子といえない。

宰我は高弟の一人であるし、色々なことを教えたいとも思うが、怠けものにいくら教えても仕方がない。

気力が弱くて、怠け癖がある奴はモノにならない。

そんな者に教えても、朽ちてボロボロになった木に彫刻するようなものだ。

 

私なりの解釈によれば答えは①となる。

宰我の人となりから考えて、②や③はまずありえない。

 

宰我は礼に欠けると言われたから、ひょっとすると④はあるかもしれない。

しかし、そのような話は残っていないし、孔子が見限るほどの話でもないと思う。

私の先生

私の先生は・・・

私の先生は、公田連太郎先生である。

もちろん、たくさんの人から学んできた。

孔子にはたくさん学んできたし、儒学徒ならば当たり前である。生涯にわたって教えを乞うだろう。

古い時代の聖人賢人には、尊い先生がたくさんおられる。

公田先生を教えられた根本先生は、先生の先生であるから大先生おおせんせいといえる。

色々な先生がいていいと思うし、それがまともであろうし、優劣をつけるのでもない。

 

しかし、小倉鉄樹翁が「おれの師匠は…」と鉄舟先生を親しまれたような感覚で言えば、私の先生は公田先生なのである。

 

小杉放庵の書簡

日本の古本屋で、小杉放庵の書簡が出品されていた。
美術評論家松下英麿なる人に宛てた手紙で、公田先生の『易経講話』を勧める内容である。

商品画像を見ると、以下のように書いてある。

根本通明は明治の易の権威 その門人で公田翁があつたわけです 多分易の講義の最良で最後のものかと思ふ

 

地蔵さまが好き

小杉放庵は、公田先生と五十年以上の付き合いがあったという。

『公田翁のこと』という文章も書いている。

 

小杉放庵は、20代の頃に鉄舟寺に参禅したことをきっかけに、公田先生と付き合うようになった。『公田翁のこと』には

公田翁は仏さまの中で、地蔵さまが一番好きだと言って居られた

とある。

公田先生の人となりが知れる、貴重な逸話である。

 

地蔵さまに倣った公田先生

地蔵菩薩の悲願は、衆生の救済である。

お寺の御堂に鎮座するのでなく、野道や山道、村のはずれなど、なんでもないようなところに立って、風雨をものともせず、現世にすがるもののない衆生をお救いなさる。

 

在野を貫かれた公田先生

公田先生も、地蔵さまのような生き方をされた。

 

学者ではなく学生

公田先生は在野にこだわり、地位や名誉を顧みず漢学や仏教に励み、多くの書を著した。

お若いころは、浪々となされたらしい。知人の子に英語など教えながらその家に居候する、といった生活を送られた。

地位や名誉はもとより、安定した居住すなわち安居も求めなかったし、飽食暖衣も求めず、たた一筋に道を求められた。

 

晩年、先生は漢学者として広く知られていたが、何かの折に先生は「私は漢学者じゃありませんよ」と語気強く仰ったことがあるという。

学者という立場や肩書を身にまとうことを嫌われたものと思う。

一生涯にわたって学問を怠らず、ひたすらに研鑽し、「学者」ではなく「学生」でありつづけた。

自分の職業をどうしても書かなければならない時は、「学者」ではなく「学生」と書かれた。晩年の話である。

 

地蔵さまに倣いつづけた公田先生は、いつしか学識を認められるようになり、“在野”の“学生”でありながら、小杉放庵をして「易経講話は最良にして最後の講義」と言わしめた。

 

地位・肩書は関係ない

色々な学問について、特に易学などの難しい学問であればあるほど、「学者でなければ信用ならない」とか「大学教授など正規の研究者でなければ、理解できるはずがない」などといわれる。

もちろん、地位のある学者の教えは信用できることが多い。一般的な傾向として、それは確かにある。

 

しかし、必ずしもそうでない。

そのような決めつけは嘘であると私は思う。

公田先生を知っているからだ。

先生と仰いでいるからだ。

先生の易経講話は本当に素晴らしいものだ。

易を学んでおきながら、公田先生と易経講話を「在野」というだけで軽視する者がいるなら(そんなのは聞いたことがないが)、モグリ・エセといってよかろうと思う。

 

学究ではなく求道を

私は公田先生に倣いたい。

公田先生が学者ではなく学生として歩まれたのは、先生の生涯の目的が「学究」ではなく「求道」にあったからだと思う。

私も、学究は志していない。良い例えか分からないが、もし道を得られるならば、それまで学んだものを全て忘れたって構わない。

そんな姿勢だから学者にはなれないだろうし、なりたいとも思わない。

私も公田先生のように、学生であり続けたいと思う。

鮮血淋漓の学問がしたい~古写本論語の重要性~

論語には、色々な本がある。

もちろん、元はお弟子たちが作った唯一のものがあったが、長い歴史の中で様々なものが生まれた。

中には意味が通じないものや、解釈の疑わしいものがあるから、儒学を学ぶうえで障害になりやすい。

 

ではどうするか。

一冊にこだわらず、色々な人の解説した論語を読んでみるのが良い。

特に、日本の古写本論語こしゃほんろんごを底本にしたものを読むと、驚くほど理解が進む。

 

論語の問題点

昔は紙がなく、印刷技術もなかった。

本を作るには、竹簡や木簡に人の手で筆写する必要があった。

紙ができてからも、やはり人の手で筆写が行われただろう。

木版印刷の発明は、紙の発明よりずっと遅い。

古い経書などは、基本的に筆写されたものが流通し、普及したのである。

 

誤写が生じる

流通の過程で筆写を繰り返すと、どうしても誤写が出てくる。

誤写した論語を底本として筆写すれば、誤写したものが広く出回る。

それをまた誤写する人も出てくるから、なかなか元の形を保つことができない。

 

戦禍に見舞われる

誤写以上に問題となるのは、歴史の変動に伴う散逸さんいつである。

中国では、何度も王朝が変わっている。

王朝が変わる時には大混乱に陥るもので、学者が多く殺されたり、経書が焼かれたり、いわゆる焚書坑儒ふんしょこうじゅのようなことも起こる。

論語の成立時期は定かでない。何を以て成立と捉えるかによっても変わる。

金谷治先生の論によれば、

論語』の編纂については、はっきりしたことは分からない。孔子の没後、その門人たちの間で次第に記録が蓄えられ整理されて種々のまとまりで伝えられ、やがてある時期に集大成されたもので、その時期はおそらく漢の初めごろ(BC2世紀)のことであろう。

とのことである。

ひとまずここを成立時期とすれば、焚書坑儒の時代、まだ論語は成立してなかったことになる。

しかし、その後も中国では経書の著しい散逸を招く大乱が度々起こっているし、その影響は大きい。

 

散逸しやすい性質

大乱が収まると、心ある人が再び道の再興へと動き出す。

この時、戦禍を免れた論語があればよいが、なかなかそうはいかない。

一部が焼けるなどして、完全なものが残りにくい。

 

それに、大体からして竹簡・木簡はあまり丈夫でない。

簡単に壊れるというのでもないが、縦糸と横糸を使って本を編むから、紐が切れるとバラバラになってしまう。

孔子の「韋編三絶いへんさんぜつ」が良い例だ。孔子は易を大変熱心に勉強された。何度も何度も読んだために、竹簡の糸が切れてバラバラになること三度であった。

したがって、大乱の中で焼けてしまうほかに、バラバラになって収拾がつかなくなる、といったことも多かっただろう。

 

実際、経書に記されている書物の中には、全く失われて伝わっていないものが少なくない。

 

長い歴史の中で混乱に陥る

ここに論語の問題がある。

おそらく多くの誤写を経て普及し、元の意味から離れつつある。

その上に戦禍で焼けたり、バラバラになったりする。

拾い集めて再び作るが、そのために章句の配列で混乱が起こる。

また、編纂の過程で誤写などがさらに多くなる。

その結果、部分的に意味が通じなくなることも出てくる。

意味が通じなければ、なんとか通じるように解釈する必要がある。

多くの学者が熱心に取り組むが、誤ったものを正しく解釈するのは困難であり、学者の中で一致した見解も生まれにくい。

だから、様々な注釈書が生まれ、後学の人はますます混乱する。

 

古い写本を学ぶべし

論語の本意を得るには、できるだけ古い写本を学ぶのが良い。

古ければ古いほど、誤写が少ない。戦禍の影響も小さい。

ただ、中国の論語にはそれが期待できない。

古い写本が欲しいと思っても、長い歴史、度重なる戦禍で失われているからだ。

 

古写本論語とは

そこで、日本に伝わった古写本が非常に役立つ。

日本に論語が伝わったのは、古事記によれば応神天皇おうじんてんのうの御代とされる。

応神天皇百済くだらへ、

もしさかしき人あらば貢上たてまつ

(もし賢者がいたならば献上せよ)

と仰った。そこで百済では、和邇吉師わにきしという学者に論語千字文を持たせて献上した。

 

応神天皇の御代は、西暦でいえば270~310年。

この時、中国は三国志の時代が終わって晋に入ったころ。

司馬炎皇位簒奪さんだつし、晋を建てたのが265年である。

 

日本伝来以降の中国論語の混乱

その後も中国は実に多くの禍に見舞われた。

この辺のことは詳しく調べたことがないので詳細は避けるが、隋から唐へ移る時にも経書が随分散逸したという。

その後、宋学が勃興してくる。

形を変えながら普及したものが大乱の中で失われ、それを再興しようとする大きな動きが起こった。

散逸の程度が軽微であればよいが、決して軽微とはいわれない状況で二程子にていし朱子などが奮闘した結果、論語の本意からどうしても遠ざかるところも出てきた。

実際、意味の通じない所もある。

 

古写本論語の純粋性

日本への伝来は、金谷先生の仰るBC2世紀ごろから数えて400~500年後。

この期間は、論語にとって幸いであった。

まず、焚書坑儒的な大禍に見舞われていない。

また漢の時代に儒教は国教となり、研究も盛んになった。

その時期を経て、日本への伝来である。

 

ここに古写本論語の純粋性を見る。

年代から考えると、色々な論語がある中でも、かなり雑味の少ないもの、純粋性の高いものが伝わったといえる。

そして、その論語は形を保ち続けた。

日本では王朝が変わったことがなく、戦乱によって経書が被害を受けることもなかったからだ。

もちろん、筆写の過程で誤写が生じた可能性も考えられるが、意味はよく通じる。

 

古写本論語で蒙を啓く

現在、一般的に流通している論語は、基本的に中国の歴史に強く影響を受けている。

執筆する者としては、長い歴史の中で生まれた様々な解釈を全く無視することはできないし、宋学の影響はかなり大きい。

私が持っている論語の中でも、服部宇之吉先生の『国訳論語』は大正時代に書かれた古いものである。

これは底本が明らかでないが、日本の古写本論語と比較すると、中国の歴史に揉まれた論語の影響を強く受けているように思う。

 

現在出版されている論語も、100年前に出版された論語も、等しく中国論語の影響を受けている。

普通に論語を勉強していると、当然ながら日本の古写本に触れる機会がなかなかない。

複数の解説書を読んでも、それぞれの根っこが中国論語である以上、「蒙を啓かれる」といった進歩・飛躍がなかなか得られない。

だからこそ、色々な論語を読む中で日本の古写本論語に触れると、学問が大いに進む。

私はそういう印象を抱いている。

 

古写本論語で理解が進む具体例

古写本論語の具体的な利点はどんなものか。

ひとつ具体例を挙げてみる。

これによって古写本論語の効用は疑いなし、そんな例がいくらもあるが、ひとつだけ挙げてみる。

 

「彼なるかな」では意味不明

論語憲問篇に、以下のような章句がある。

或るひと子産しさんを問う。子曰く、恵人けいじんなり。子西しせいを問う。曰く、かれなるかな、彼なるかな管仲かんちゅうを問う。曰く、じんなり。伯氏はくし駢邑べんゆう三百を奪う。疏食そしはんし、よわいを没するまで怨言えんげん無し。

これが、一般的な書き下し文である。

服部宇之吉先生の『国訳論語』では以下のように解する。

ある人が孔子に、子産の人物を問うた。子は「恵み深い人だ」と仰った。

次に子西について問うた。子は(批評するほどではないとして)「あの人か、あの人か」と仰った。

次に管仲を問うと、子は「(偉い)人物である。斉の大夫である伯氏を罰して土地を没収した。伯氏は貧乏で苦労したが、死ぬまで管仲を怨むようなことを言わなかった(管仲の裁きに感服したからである)」と仰った。

 

ここで問題となるのは、「彼なるかな、彼なるかな」である。

服部先生は注釈で、

批評するほどでないから、何とも批評らしい言がない。

としているが、どうもすっきりしない。

子産や管仲に対しては「これこれの人である」と評価しているのだから、子西に対しても何か一言あってよさそうだ。

 

「佊なるかな」で意味が通じる

古写本論語を見ると、この疑問が氷解する。

古写本論語では、

或るひと子産を問う。子曰く、恵人なり。子西を問う。曰く、なるかな、佊なるかな管仲を問う。曰く、人なり。伯氏が駢邑三百を奪う。疏食を飯し、歯を没うるまで怨言無し。

となっている。「彼なるかな、彼なるかな」ではなく「佊なるかな、佊なるかな」である。

おそらく、筆写するうちに「佊」を「彼」と誤写し、長い歴史の中で定着したものと思う。

 

大変に似た漢字だが、「佊」と「彼」では意味が全く違う。

「彼なるかな、彼なるかな」とすれば、服部先生の仰る通り批評の意味をなさない。無理に解釈すると、「孔子は、子西を評価に値しないとして・・・」といったことになる。

 

では「佊なるかな、佊なるかな」はどうか。

「佊」とは「よこしま」を意味する漢字だ。

したがって、「佊なるかな」は

  • 「偏っているね」
  • 「中庸を得ていないね」

といった批評の言葉となる。

 

子西という人

子西は楚の公族で、昭王と一緒に苦労した人だ。忠義に厚い一面がある。

しかし、偏ったところがあった。

私が思うに、この「偏った」とは、「相応の才略に欠け、判断に偏りがある」の意味だろう。

 

左伝のなかで、孔子は昭王を激賞している。

昭王とともに苦労した子西にも、認めるところがあったろう。

大体、子産や管仲と並べて批評を求められているのだ。

子産や管仲は大人物だ。それに比べると劣るだろうが、子西もひとかどの人物であったはずだ。

孔子が、特に批評はないとして「彼なるかな」で済ませるとは思えない。

 

子西は、昭王の忠臣であった。忠義という美徳があった。

優秀な政治家でもあった。昭王の死後、恵王は50年以上にわたって楚を治めるが、その基礎づくりに子西は多大なる貢献をした。

昭王の死後、忠臣であり、公族であり、功績もある子西の権力が大きくなったが、それにふさわしいだけの才略がなかった。

実際、それが禍して殺された人である。

ごく簡単に書くと、子西は他の重臣の反対を押し切って乱臣を招き入れ、やがて怨まれて殺された。

詳しくは左伝を読んでいただきたい。哀公十六年に子西の最期が記録されている。

 

子西を惜しんだのではないか

また、「佊なるかな、佊なるかな」と二度繰り返しているところに、残念に思う雰囲気を感じる。

「ああ、あの人か。あれは偏ったところがある。(いいところもあるだけに残念だが)どうも才略に欠ける」

といったような。

 

道徳の乱れた当時、忠臣かつ能臣というのは得難いものであった。

しかし佊なるところがあった。昭王の死後、権力が大きくなるにつれて佊なるところ、才略に欠けるところが目立ってきた。

惜しむべき人物だが、おそらく殺されるであろう。

それを残念に思って、孔子は「佊なるかな、佊なるかな」と仰った。

私にはそう思える。

 

私的解釈

以上を踏まえて、この問答を私なりに解釈してみると、以下のようになる。

 

「鄭の子産は賢人ですよね。先生はどう思われます」

「あの人は恵み深い人だ」

「ああ、確かにそうです。あの人は恵み深いと評判でした。

楚の子西はどうです。あの人もなかなかの人物でしょう」

「あれには忠義がある。政治家としても優秀だ。しかし残念ながら、正しくない。偏っているね」

「忠義があっても正しくない・・・ならば、管仲はどうでしょう。

管仲も忠臣ですが、正しくないのではないですか。先生は管仲の礼節を問題にされたこともありますね」

「たしかに管仲は礼節に欠けるが、才略は欠点を補って余りある。

佊なるところ(よこしまで偏ったところ)がなかった。門閥家の伯氏でさえ、厳しく罰せられたのに全く怨みを抱かなかったほどだ。それは、管仲の処遇に佊なるところがなかったからだ。ゆえに天寿を全うできた。

子西には忠義があるが、管仲ほど才略がない。佊なる判断をして、怨みと禍を受けることがあろう」

 

末路を言い当てる孔子

孔子は、子路の勇に過ぎるところを度々たしなめられた。

正義を尊び、曲がったことが許せず、負けず嫌いの子路は、中庸を目指していかなければ危ないと。

結局、孔子が危惧された通り、子路は剛直に過ぎたために命を落とした。

 

ドラマ『孔子春秋』、子路の最期を知らされる孔子の姿が寂しい。

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子路が死んだという知らせを受ける御一門。子貢はその知らせに疑いを抱く。

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孔子は、状況から考えて知らせに間違いがないと話す。

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子路の性格では、死を恐れず戦ったであろう。死んだに違いない。

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子路は性格が禍して命を落としたが、孔子はその性格を愛していた。

 

同じように、孔子は子西の佊なるところを見て、

「この人は良くない、悲惨な最期を迎えるであろう」

と予見したのではないか。

 

子西が殺されたのは孔子が亡くなるより後だから、孔子は子西の最期をご存じない。

しかし、孔子は子西の最期を予見されていたのだろう。

 

易理が分かれば将来のことも分かる。

公田先生を教えられた南隠禅師は「占っているようでは鈍い」と仰ったが、こういうことだろう。

占わずして子路の最期を当てた孔子は、子西の最期も正しく見通していたのではないか。

そんな風に思う。

 

鮮血淋漓の学問がしたい

子産は恵み深い人、子西は才略に欠ける人、管仲は才略ある人。

三者三様に批評した言葉となる。

 

中国の論語では意味が不明だが、日本の古写本論語では意味が明らかである。

「彼なるかな」では意味が通じないが、「佊なるかな」ならば意味が通じる。

また「佊なるかな」と読んでこそ、孔子の「言外の言」に思いを馳せることもできる。

 

全て古写本論語が優れているとは言わない。

私は二程子、ことに明道めいどう先生を尊敬しているし、新しい写本や解釈からも積極的に学びたいと思う。

しかし、どうしても古写本論語に拠らなければ意味が通じない、理解に苦しむ箇所があるのも事実だ。

論語を学ぶには、古写本論語を底本とする解説書を含め、広く学ぶことが大切と思う。

自分で考えることは一層大切だ。

考えを進歩させるためには、実践も欠かせない。

中国の論語でも日本の論語でも、経文にとらわれてはならないし、実践しないのはなお悪い。

 

偏った学びは排すべきである。

孔子の一面しか見えないような学びは良くない。

広く学んで、生身の孔子に近いものを取捨選択していく。

広く学べば選択肢は多い。多いほど迷う。

しかし、一生かけて取捨していくのだから問題にならない。迷って良い。

 

古写本論語を含め広く読む意義もここにある。

古写本論語によって、一般に普及している論語への囚われが随分少なくなる。

私は、古写本論語に蒙を啓かれた。

 

孟子曰く、「ことごとく書を信ぜば書無きにかず」。

どの論語でも、その内容を信じ込むのはいけない。それでは意味がない。

孔子の気持ちを想いながら、自分なりに取捨選択していくことが大切だ。

 

孔子ご自身、そのように学問されたと私は思っている。

琴を習った際、孔子は「この曲を作った人のイメージが湧かない」と大変苦しまれた。

同じ曲を繰り返し習い、苦しんで苦しんで、あるときようやくイメージをつかんだ。

孔子は師襄(琴の師匠)にこう仰った。

「ようやく、作曲者のイメージをつかみました。その人の顔は浅黒く、背は高く、眼は遠くを見ております。おそらく文王ですね」

師襄は、

「そう思います。私の師も、この曲を作ったのは文王と言っておりました」

と答えた。

 

孔子は二千年以上前の人である。

その教えは古く、歴史の中で失われたり、真の意味から遠ざかってしまったものもあるだろう。

だから私は、文王の姿をありありと思い浮かべながら琴を修めた孔子のように、孔子の姿をありありと思い浮かべながら、孔子の気持ちを推し量り、斬れば血が噴き出すような生きた思想として論語を学びたい。

「士」に関する問答

ツイッターをやっているが、さほど意味を見出していない。

勉強などしていて、深く感じるところがあると書く。

ほとんど独り言のようなもので、誰かに意見を求めるでもなく、自分で感じたままに書いている。

理解を促そう、人にもわかってもらおうといった意識は薄く、誰かに疑問を呈されることを前提としていない。

 

数日前にツイッターで発言した内容について、思いがけず質問をいただいた。

自分では全く疑問のないことばかりツイートするが、そこへ疑問を投げかけられ、再度よく考える機会を得た。

興味深いやり取りであったが、発言が切れ切れになるツイッターではまとまりが悪く、言い尽くすことも難しい。

 

自分なりにまとめておきたいと思った。

質問していただいた方の了承も得たので、記事とする。

ツイッターでのやり取り

今回、二つの質問についてやり取りした。

本稿でまとめる質問は「」についてである。

 

私の発言

先日、私は以下のようにツイートした。

 

いただいた質問

これについて、以下のように質問をいただいた。

仁とは、思いやりの心とは、全てを包み込むもの。

普通に生きる人と士を「慈愛」の価値観で区別することに違和感を覚えます。

士とは、それほど偉大な人なのでしょうか。

普通の人の持つ仁の身に立ってこその士、ではないでしょうか。

仁とは、思いやりの心とは、とてつもなく広く深いもの。

私の学問の道の原点でもあります。

人が人を「慈愛」として区別することが果たして仁といえるのでしょうか。

仁とは、思いやりの心とは、全てを包み込むもの。

士も、士以外の人も、仁はあまねく包み込みます。

 

本稿では、この質問を、

  1. 「士」とは何か
  2. 士人しじん」と「庶人しょじん」に対する仁の違い
  3. 孔子は「士」に何を求めたか

に分けてまとめていきたい。

 

「士」とは何か

この質問を考えるにあたり、まず「士とは何か」について明らかにする必要がある。

これが分からなければ、士人に対する孔子の思いと、庶人に対する孔子の思いが区別できないからだ。

質問した方も、ここに疑問が生じたものと思う。すなわち、

「士人でも庶人でも区別する必要はない、仁はどちらも等しくおおうほど、広く深いものである」

ということだろう。

 

身分としての「士」

士とは、下層階級の出身でありながら、何らかの能力を認められ、身分を与えられた平民のことである。

孝経こうきょうでは、天子、諸侯、卿大夫、士人、庶人の順で身分を並べ、それぞれの身分においてなすべき孝行を教えてある。

 

「士」はどうあるべきか

身分としての士だけでは、士の実際を理解するには不十分である。

孔子の高弟も、季孫氏きそんしに仕えた陽虎ようこも、どちらも身分的には同じ士である。

しかし、両者は明らかに異なる。子路は陽虎は同じでない。子路は君子であるが、陽虎は乱臣である。

 

したがって、学問道徳の観点から士を捉える必要がある。

それを知るには、孝経の士人章第五が分かりやすい。曰く、

 

父につかふるをりて以て母に事ふ、而して愛同じ。父に事ふるを資りて以て君に事ふ、而して敬同じ。

故に母には其の愛を取り、君には其の敬を取る。之を兼ぬる者は父なり。

故に孝を以て君に事ふれば則ち忠なり。敬を以て長に事ふれば則ち順なり。

忠順ちゅうじゅん失はず以て其の上に事へ、然して後能く其の禄位を保ち、其の祭祀を守る。けだし士の孝なり。

 

(母に仕えるには愛を以て、君に仕えるには敬を以てする。これはどちらも父への愛敬と同じである。

したがって、父への孝心で君に仕えるならば忠義にもとることはなく、目上の者に仕えるならば孫順そんじゅんである。

忠義と孫順を失わなければ、よく用いられて地位や俸禄を失うことがない。祭祀を絶やす懸念もない。

これが士の孝行である。)

 

 

孔子が仰る「士」とは、このような在り方を指している。

士は、「君国に仕える者」という身分を表すと同時に、「君国に仕えて役に立つ者」という意味でもある。

 

後者の意味が重要だ。

説文には「士とは事なり」、段注には「能く事に事へる者を士と称す」とある。

君国によく仕えて役に立つためには、学問道徳が必要である。

だから孔子が弟子に求めた「士たるべし」とは、「学問道徳をしっかり身につけた人物になるべし」ということであった。

 

仁義は対象で変化する

士人の正しい意味が分かれば、士人と庶人に対する仁の違いが分かる。

 

質問の意図にあるとおり、仁は士人・庶人を問わず蓋う深さ・広さがある。

では、そもそもなぜ仁は深く広いものとされるのか。

それは、仁というものが対象によって変化するからである。

仁や義といった大きな徳には、そういう性質がある。

 

仁と義の違い

漢の董仲舒とうちゅうじょの言葉に、

仁の言たる、人なり。義の言たる、我なり。仁を以て人を安んじ、義を以て我を正しくす。

とある。

この言葉の通り、仁は人に対するもの、人を安んずるための徳である。義は自分に対するもの、自分を正しく保つための徳である。

 

仁は変化する

仁は人に対するものであり、仁を向ける相手によって色々な名前に変わる。

例えば、

  • 子が親に対する仁は孝
  • 臣が君に対する仁は忠
  • 夫妻間での互いに対する仁は愛
  • 朋友間での互いに対する仁は信

など色々である。どれも仁が根本であり、これらの徳を全てまとめて、一言で「仁」という。

 

義も変化する

忠義や信義といった言葉もある。忠や信は仁にも義にもなり得る。

忠は、

  • 臣下から君に対して向ける場合、忠は仁の変化したもの
  • 君の役に立つ臣下であるべく、自分自身を正す場合、忠は義の変化したもの

といえる。

信も同じ。すなわち、

  • 我から朋に対して向ける場合、信は仁の変化したもの
  • 朋にとって正しい我であるべく、自分自身を正す場合、信は義の変化したもの

といえる。

 

庶人への仁は慈愛

親が子に対する仁を慈愛という。

一国の王が人民に対する仁も、親が子に対する仁と同じであるから慈愛である。

孔子は政事をつかさどる君・大夫・士などに仁を求めた。これも庶人に対する仁であり、慈愛を求めたのである。

 

弟子(士人)への仁は師弟愛

士人と庶人では、仁の表れ方も違う。

孔子は弟子に対して「士」たることを求めた。したがって、孔子が弟子・士人に対する仁と、庶人に対する仁では表れ方が異なる。

  • 弟子には士たるべしと厳しく教え、厳しい愛があった
  • 庶人に対しては厳しく教えるのではなく、慈しみの面が強く出ていた

という違いである。

したがって、士人たれと求める弟子に対しては、厳しさを内包する「師弟愛」といった形で表れる。

 

拘泥は避けるべき

質問にあるように、士人と庶人を慈愛の価値観で区別するのではない。

士人と庶人では仁の向け方が違い、仁の表れ方も違うのである。

私の考えで自発的に区別するのではなく、仁の表れ方として自然的にそういう区別が生じるともいえる。

 

ただ、どちらも根っこは仁であるから、明確に区別することは難しいのかもしれない。

孔子は士人たる弟子に慈愛のまなざしを向けたこともあるだろう。

また、孔子

教へ有つて類なし

(教えを乞うものは誰でも教える。身分や過去の過ち、日ごろの行いで差別することはない)

と仰った。

入門していない庶人から何か教えを乞われたとき、師弟愛まではいかずとも、徳とはこういうものだ、人とはこうあるべきだといった厳しさを以て対することもあったと思う。

このほか、徳治において「親不孝をする者は罰する」というように、庶人に対する厳しい一面があったことも間違いない。

 

誰に対する言葉か

「士人と庶人に向ける仁とは」の問題を考えてゆくと、細部に拘泥こうでいする嫌いがあるので、考えすぎるのは避けたほうが良いと思う。

とはいえ、論語を読んでいると、士人・弟子に対する場合と庶人に対する場合、孔子の態度は明らかに違っておられる。

また、同じ士人・弟子でも、弟子によって教え方が色々に異なる。

したがって、論語の章句を紐解くには、「孔子は、それを誰に対して仰っているか」をよく考えなければ、混乱や曲解に陥る危険がある。

 

孔子が弟子に求めた「士」としての在り方

したがって、私がツイッターで「士に対するのでなければ、慈愛を以てすべきである」と書いた真意は、

 

孔子は弟子を『士』として教育するため、孔子の厳しい面が色濃く表れた。

人民に対するには、慈愛の面が色濃く表れた。

私自身や朋友は士を目指すのであるから、孔子の厳しい面を真直ぐ捉えるべきである。

そうでない(例えば儒学を学ばない)人にそれを求める必要はなく、道に外れた言動があっても、孔子の優しさで捉えるべきだ。

という意味である。

 

庶人への慈愛、許し

これについて、さらに以下の質問をいただいた。

道に外れた人とありますが、
孔子の優しさとは、全てを許すのでしょうか。
孟子にあるように、桀・紂は獣、畜生の類いとして弑するを是としました。
優しさ、を曖昧とすることに疑問を感じます。

私がここで言った「道に外れた者への優しさ」とは、桀や紂のような大悪人ではなく、あくまでも庶人に対する慈愛である。

庶人への慈愛を考える時、分かりやすい内容が孔子家語にある。

 

あるとき孔子は、法廷で争う親子を厳しく裁かず、後に不問とした。

当時、孔子は「国を治めるには孝道を正すことが第一」と唱えていた。

ならば、親子で争うのは治国平天下の大道を乱す罪である。しかし罰しなかった。

そこで季孫氏が、孔子の裁きに異を唱えた。

孔子は仰った。

 

「上に立つ者が道を誤っていながら、下の者が道を誤ったら罰する。これでは筋が通らない。

それに、我が国ではこれまで人民に孝道を教えることがなかった。その導きをせずに、孝道に悖るといって罰するのは、罪のない者を殺すのと同じだ。

十分に戒めることなく、急に成果を求めることは民をしいたげることにほかならない。

十分に道徳を敷いて、教化した後に罰するべきである」

 

これが、孔子の庶人に対する姿勢である。

無辜むこの民が道に外れたからといって、厳しく責めない。

罰するのは道理に合わぬ、非道である。

むしろ、人民を誤らせた原因を政治に見出す。

そして許す。

 

ただし、士人は別である。

人民を治めるべき、模範たるべき立場の者が道に外れた場合には厳しく罰する。

士より高い身分の大夫であった少正卯しょうせいぼうが誅殺されたのはこのためである。

 

士の道は厳しき

孔子は庶人には慈愛、士人には厳しさを以て対した。

では、孔子が弟子に求めた厳しさ、士の道とは、具体的にどのようなものであったか。

 

質問者の

士とは、それほど偉大な人なのでしょうか。

の問いに答えるためにも、論語からいくつか取り上げてみたい。

 

己を行うに恥あり

子貢から「士とはどんな者をいうのですか」と問われたとき、孔子は、

己を行ふに恥有り

(道に外れたら恥ずかしいと思う廉恥れんちがあり、十分に慎みながら行動する者を士という)

と仰った。子路篇の言葉である。

以下の通り、士には三等の別があるが、いずれも「己を行うに恥有り」の態度がなければ士とはいわれない。

真にこの態度を持っている人は極く少ない。

その日を普通に生きる人でも、この態度を全く持たないわけではないだろうが、強く持っているか、困難なる時にもこの態度を失わないか、となると疑わしい。

どんな時でも、「己を行うに恥有り」の態度を堅持するのが士である。

この意味だけでも、士とは偉いものといえる。

 

士に三等あり

これに続く子貢の問いに答え、孔子は士に上等・中等・下等の三等があると答えられた。

 

上等の士

まず上等の士とは、

四方に使ひして、君命くんめいはずかしめざるを士と謂ふべし

(外国への使者としてどこへ行っても、決して君命を辱めない者を士という)

と仰った。

これは、大人物といって良い。

学問道徳ともに十分でなければ、こうはいかない。

 

同じく子路篇で、孔子は以下のように仰っている。

詩三百を誦して、之に授くるにまつりごとを以てして達せず、四方に使ひして専対せんたいする能はずんば、多しといへどなにを以てん。

詩経三百篇を暗誦できるほど学んでおきながら、政治のことがよく分からなかったり、外国に使者として出向いて臨機応変に対応できなければ、いくら多く覚えたところで何の役にも立たない)

つまり論語読みの論語知らずを謗ったわけだ。

根本先生は、この解説で以下のように痛罵している。

今日の事に応ずることができねば、詩を誦むこと多しといえども、何の用に立つものか。これが腐儒ふじゅ(腐れ儒者)というものだ。

 

孔子の仰る上等の士とは、学問し、道徳を磨き、なおかつ政治や外交に学問を応用し、「快刀乱麻を断つ」の働きができる者を指す。

上等の士は「偉い人」といって間違いない。

 

中等の士

中等の士については、以下のように仰る。

宗族そうぞく孝を称し、郷党弟きょうとうていを称す。

(一族の間では、誰もが「あれは孝行である」と認めている。また一族の間だけではなく、外に出ても「あれはてい(目上の者に柔順)である」と褒められている)

つまり一族の間でも、一郷の中でも孝悌こうていで轟いている人である。

中等の士も偉い人と言って差し支えない。

 

下等の士

下等の士について孔子曰く、

言必ず信。行必ず果。硜硜然こうこうぜんとして小人なり。

(言ったことは間違いなく行う。信がある。言ったことは良くても悪くても行う。硜硜然、石の固まったように融通が利かず、小人である)

 

士の中でも最も低いものは信義に偏った者である。

良くも悪くも、言ったことは必ず行う。

悪いことでも改めずに実行するのだから、反省がないといえる。

「過ちては則ち改むるに憚ることなかれ」という教えが実践できていない。

したがって悪いところがあり、下等の士は上等・中等の士より格段に落ちる。

あまり偉いとは言えない。

しかし孔子は「こんな人でさえも得難い」とも言っている。

 

下等の士を愛した孔夫子

孔子は上等の士、少なくとも中等の士を理想とされたのだろう。

下等の士は、いわゆる公冶長篇に言う所の「狂簡きょうかん」が近いように思う。

 

陳蔡ちんさいで危険に遭遇された折、孔子

(魯に)帰ろうよ、帰ろうよ。

我が郷党の門人、特に若い者には狂簡なる者が多い。

(狂簡の狂は志が大きく、卑劣なところがないこと。簡も志が剛にして高く、細事にこだわらないこと。この狂簡がなければならない)

狂簡で、学問への意欲もあってなかなか良い。

しかしまとまりがない。事に処するに、中庸の道を以て裁断していくところまでは届かない。

国に帰って、狂簡な若者を仕立てたいものだ。

意訳だが、このように仰った。

 

狂簡なる若者は、下等の士に近い。

志が高く、性質が剛強で、世間一般の常識や名利が通用しない。言ったことは何でも守って信がある。善悪を充分に考えず果断である。

 

中庸を得ず、善悪を充分に考えずに果断であれば、時にしくじる。

上等の士ではありえない。

言ったことは何でも守るから「他とは違って、俺には信義がある」と俗なる世間を見下す者もいるだろう。

敬がない。一族あるいは一郷から「あれは狂っている」などと噂されることも多かろう。

中等の士でもありえない。

狂簡な人間は下等の士に近い。

 

しかし、これを仕立てれば良い人間、中等や上等の士が出来上がると孔子は仰った。

狂簡は、仲弓の敬簡に遠い。

狂は悪くないが、粗いところがあり、ことに敬に欠ける。

狂簡が敬簡になればなお良い。

孝経にあるとおり、敬を以て君に仕えるは士の孝である。

そうなれば、もはや狂簡・下等の士でない。敬簡・中等あるいは上等の士といえる。

教育によって、それは可能である。

 

孔子は、郷里の狂簡な若者に望みを抱いた。

一般に、教育者は素直で元気の良い若者を好むが、孔子もそうであったのだろう。

であるから、孔子は決して下等の士を否定したわけではない。

むしろ、下等であっても士と言い得るだけの人間を尊重しただろうし、そのような若者を愛しただろうと私は思う。

 

士は悪衣悪食を恥じぬ

子路は士であった。

子路の徳、というよりもほとんどの人の徳は、さまざまな形で表れる。したがって、ある面では上等の士とも言い得ようし、中等や下等に言い得ることもあるだろう。

ともかく士であった。

子路の狂簡なる一面が里仁篇によく表れている。子路悪衣あくいを恥じぬ人物であった。

顔回にも狂簡なる一面があった。悪食あくしょくを恥じぬ士であった。

このことは、以下の記事に詳しく述べた。

shu-koushi.hatenadiary.com

 

今回、疑問を呈された元のツイートも、この章句によって覚ったことである。

孔子曰く、

士、道に志ざして悪衣悪食を恥じる者は未だともに議するに足らざるなり

(道に志す士が、悪衣悪食を恥じるようではいけない。そのような人物は、ともに大事を語るに足らない)

 

魅力的な章句だが、筆写三度目にして、私は初めて「士、道に志して」に注目した。

士とは「事に任ずるの称なり」である。だからこそ、道に外れてはならないという慎みも必要になる。

しかし、この章句は「道に志す士」を対象とするものであって、士人や庶人を広く対象とするものではない。

士人たることを弟子に求め、師弟愛から出た厳しさであろう。道に志しておきながら、悪衣悪食を恥じる者を問題視しているのだ。

それを求めない庶人には、この言葉はふさわしくない。普通の人が悪衣悪食を恥じることには言及していない。

庶人が悪衣悪食を恥じても何ら問題ではない。むしろ「暖かいものを着たい、美味しいものを食べたい」というのが、庶人にとって自然である。

 

これを読んで、私は、

孔子はお弟子に士たること、悪衣悪食を恥じぬ狂簡、剛毅を求めたのだ。普通の人、人民にはその厳しさを求めなかったのだな」

と覚った。

ここにも、弟子には師弟愛、民草には慈愛、という孔子のまなざしが見て取れる。

 

士と士の交わり

最後にひとつ。

質問への回答の中で、

私自身や朋友は士を目指すのであるから、孔子の厳しい面を真直ぐ捉えるべきである

と書いた。

士と士の交わりにおける孔子の厳しさとは何か。

 

子路孔子に「士とはどうあるべきか」を問うたとき、孔子は仰った。

切切偲偲怡怡如せつせつししいいじょたるを士と謂ふべし。朋友には切切偲偲、兄弟には怡怡如たり。

(切切偲偲、怡怡如を守るのを士という。朋友、つまり士と士の交わりでは切切偲偲であり、兄弟と交わるには怡怡如である。)

切切とは切実なるさま、偲偲とは励まし合うさま。

士と士は朋友として交わるには、互いに義がなければならない。

学問道徳を修めるべく互いに務め、朋友に正しくない所があれば切に責めるし、怠るところがあれば励ます。

朋友を責めるのだから、義ではなく仁ともいえるが、義の意味がより強い。

「朋友に対して正しく振る舞うため(自分自身が朋友にとって正しくあるため、義のため)に責める」のである。

これが朋友の交わりである。孔子も、弟子が互いに結び合う時、この厳しさを求めたはずだ。

 

なお、怡怡如は親しみを厚くすること。兄弟にはこれが第一で、朋友のような切切偲偲たる厳しさは不要である。

 

まとめ

これ以上は繰り返しになるし、8000文字を超えたのでこれくらいにしておく。

孔子の仁はどのようなものか、弟子にどのような在り方を求めたかなどについて、私はこのように考えている。

 

思いがけず質問を受け、再度よく考え、理解がさらに深まった。

丁寧に学んだつもりでも、まだまだ考える余地、理解の至らないところはあるものである。

今後も真剣に学びたい。

時習と喜び

論語には有名な言葉がたくさんある。

通読したことがない人でも、しばしば論語の名句を知っている。

そのひとつが、論語の冒頭の章句、「学びて時に之を習う」である。

 

子曰く、

①学びて時に之を習う、よろこばしからずや。

とも有りて遠方より来る、亦た楽しからずや。

③人知らざるをいからず、亦た君子ならずや。

 

原書では①~③をまとめて一つの章句とするが、ここではあえて3記事に分ける。

この章句は大変重要なものであり、下手に要約などすると却って本意を損なうからだ。

まずは①を取り上げる。

 

 

師について学ぶべし

まず、学びて時に之を習う。

これは師について教えを受けることである。

 

師につかず学ぶは例外

昔は誰でも、師について教えを受けた。

もちろん、身分や貧窮を理由に、師につかずに学んだ人もいる。

しかし、「師について大成した人」に比べて、「師につかずに学んで大成した人」は少ない。

師につかず独学したことで、大成しなかった人のほうが圧倒的に多い。大成しないから存在も知られない。

師につかずに大成した、ごく少数の人が目立つ。

「独学でも大成できる」という印象にもなりやすい。

しかし本来、独学は悪い。

 

学問が捗らない

独学すると、師の導きがないだけに、学ぶ順序が分からない。

学問の段階に応じて、読むべき、相応しい書が分からない。

気ままにやっていると混乱しやすい。

師に導かれて学べば10で達する学問に、100も200も苦労する。

私がまさにそうである。なんとなく、自分の中で儒学が形を成すまでに10年かかった。

今後も、色々な苦労が待ち受けていると思う。

 

曲解に陥りやすい

独学では、曲解きょっかいに陥ることも多い。その時、正してくれる師がいない。

学問の浅い段階で強烈な思想に触れた結果、過激に奔ることもある。

 

正しい順序で学び、次第に修養を深めていく。

この前提がないばかりに、薄っぺらな正義を振りかざして人を傷つける。

 

まだまだ学問する段階にある若者が、根っこの部分を固めずに実践ばかりを考える。

若者が政治活動などに奔る場合、このケースが非常に多い。

ろくなことにならない。

実際に、そんな人をいくらも見てきた。

 

現人に教えを請わぬは仕方なく

だから、本来学問は師について教えを受けるべきものだ。

私も、師がいればどんなに良かろうと激しく思う。

しかし、いないのだからどうしようもない。

この人に教えを受けたいと思ったことがない。そういう出会いはなかった。

 

既に亡くなった偉大なる人々、古くは孔夫子、ごく最近の人では公田先生を師と仰いで学んでいる。

このような聖人賢人を心の師とする以上、どうしても現人うつしびとが師になりえない。

そういう大賢者もどこかにいるのだろうが、縁がないのでどうしようもない。

 

既に亡くなった人を師とする以上、直接教えてもらうことはできない。独学するほかない。

これは、私が学問していくうえで、大変まずいことであると思っている。

思えば、私が筆写にこだわる理由はここにもある気がする。

独学であっても先師の教えを正しく学びたい、曲解に陥ることを避けたい、そう強く思うから丁寧に学ぶ。

丁寧に学ぶには筆写が一番良い、こういうわけである。

 

「学びて時に之を習う」は、師に就くことを前提としている点を見落としてはならない。

学の意味

さて「学」の意味。

学といえば「勉強する」のイメージが一般的だが、これは本義でない意味である。

学には色々な意味があるが、大きく分けて、

  • 「コウ」の音ならばなら
  • 「ガク」の音ならばさと

の意味である。

日本的な学の本義はコウのならうに近い。「学ぶ」は「真似ぶ」であり、倣う(模倣する)に近い。

 

ただし、この章句の学は「ガク」で「覚る」。

師に教えを受けると、なるほどと理解する。これが覚るということ。

 

習の意味

学校で「習」という漢字を教える時、「羽に白」と教える。

これは嘘だ。

 

習の成り立ち

習の白は、もとは「子いわく」の「えつ」である。

曰は象形文字で、祈祷の際に祈りの文章、神道でいうところの祝詞のりとを収める器の形である。

「曰」の真ん中の「一」が祝詞、上の「一」は蓋である。

 

羽への信仰

古代、祈祷の効果を高めるために、「曰」の上を「羽」で何度もこする儀式があったという。習はその様子を意味する漢字だ。

だから「羽に曰」ではじめて意味をなす。

学校で教える「羽に白」では意味をなさない。

 

古えの信仰において、羽には不思議な力があるとされた。

羽が飾りに使われたのもそのためである。孔雀くじゃくの羽など、美しいものは高値で取引された。

 

面白いのは、この信仰が世界各所で見られること。

 

マヤ文明と羽

有名なのがマヤ文明で、ケツァルの尾羽が殊に珍重された。

ケツァルは農業の神様ケツァルコアトルの使いであり、その羽は美しく力を持つ。

聖職者と王だけが身につけることを許された。

王が身につける美しい羽、これは富の象徴ともいえる。現在でも、グアテマラの通貨単位が「ケツァル」であるのは、そういうところに由来するのだろう。

 

古代中国と羽

中国でも、古代の戦士が頭に羽飾りをつけた絵が多い。

詳しく調べたことはないが、羽には霊的な力がある、それを人間の身体でも特に尊い頭部に飾り、能力を高めたり、無事を祈ったりしたのだろう。

美しいものほど、その力が大きい。したがって、奇鳥というような珍しい鳥が贈物・貢物になった記録も多い。

 

子路と羽

孔子の時代にも、この風習は残っていたと思われる。

史記列伝の、子路の記録からこれが分かる。

仲尼弟子列伝の子路のくだりに、

 

子路は性いやしく、勇力を好み、志伉直こうちょくにして、雄鷄おんどりかんし、猳豚かとんび、孔子陵暴りょうぼう

子路は性格が粗野で、武勇を好み、心は真直ぐで、雄鶏の羽で作った冠をかぶり、牡豚の革で作った袋を腰に下げ、孔子に無礼をはたらいた)

 

入門前、子路は侠客のような人物であり、男伊達を好んだといわれる。

中島敦の『弟子』でも、そのように描かれる。

孔子家語』では、どちらかといえば武芸者風に描かれている。ドラマ『孔子春秋』でも子路は剣客。

武勇を好んだ子路は、古の戦士の装束を真似て、鳥の羽でつくった冠をかぶったのだろうと思う。

 

羽で繰り返しこする

話が長くなったが、ともかく羽とはそういう霊的なものであった。

それで「曰」の上に置き、蓋をこすり、羽のもつ霊力で祈祷の効果を高めんとする。

こするときは何度もこする。

これが「習」の本義である。ここから派生して、「何度も繰り返し」の意味となり、延いては「学びて時に之を習う」で「学んだものを何度も繰り返す(=復習する)」の意味となった。

 

 

学ぶ喜び

学んだことを繰り返し繰り返し考えることで、さらに深く覚る。

だから面白くなって、説びも生まれてくる。

 

分かるから面白い

これは、誰もが思い当たるはずだ。

分からないうちは、面白くない。

分かりきったことも退屈で面白くない。

しかし、分からないものが分かってくる、これは面白い。

 

「分からないから面白い」と考える人もいるが、これも結局は「分かるから面白い」のである。

「分からない。だから、やがて分かってきたときの楽しみが控えている。それが面白い」というのが普通の感覚で、どこまでやっても絶対に分からないとすれば、そんなものが面白いわけがない。

 

図解がウケる理由

分からないものが分かると面白く感じられる。

このように考えると、要約や図解がウケる理由もわかる。

古典は難しい。「分からない」が「分かる」になれば面白いが、そこまでが難しい。

しかし要約や図解なら「分かる」になりやすい。だから面白い。

本当のところをいえば「分かった気になって面白い」。

本当は分かっていないが、分かった気になって面白い。

 

図解はドラッグのようなもの

ドラッグのようなものだと思う。

現実は悲壮でも、薬で多幸感を得られる。

現実は何も変わっていないが、面白く感じられる。

 

図解を見たところで、「古典をよく理解していない」という現実は何も変わらない。

しかし、よく理解できた気がする。それで面白い。

簡単に面白くなるからやめられない。

苦労して、本当の理解、本当の面白さを知るところからどんどん遠ざかっていく。

 

図解の愚かしさ

学びて時に之を習う、亦た説しからずや。

この意味が本当に分かると、図解がいかに馬鹿げているか分かる。

論語や、それに類する本を図解する者がいる。

図解そのものが論語の道に合わないことが分からない。

図解する者のひくさがよくわかる。

自分で自分の首を絞めているなと、私はいつも思う。

 

「時習」の解釈

学びて時に之を習う、の「時習じしゅう」の解釈は色々ある。

 

時々習う

まず、時々習うとする解釈がある。

一度教えられて覚ったからといって、そのままにしておくのはいけない。

機会があるごとに復習する、これを長い間続けていくと、もっと理解が進んで面白くなる。

このように解釈するものが多い。

 

諸橋轍次先生の『論語の講義』では、

「学んだところを機会ある毎に復習し練習していく」

 

金谷治先生の『論語』では、

「学んでは適当な時期におさらいをする」

 

根本通明先生『論語講義』でも、

「一旦教を受けて、時々打重ね打重ね、教を受けた所にりて、又考へて行つて」

 

「時々習う」の意味を強調している。

時々の積み重ねと考える解釈である。

 

常に繰り返す

「時々」ではなく、「常に」の意味を強調する解釈もある。

 

吉田賢抗先生『論語』ではそう解する。

「学んだことを常に繰り返し繰り返し学んだり、思索している」

 

服部宇之吉先生『国訳論語』では、

「時に之を習ふは、時々刻々に練習して能く熟するに至るを云ふ」

 

消極・積極の問題

「時々」と「常に」と、どちらが良いか。

「時々」ならば折に触れて、もっと言えば「あるとき、ふと思い出したように」復習する。

これは、良いことと思う。

ふと思い出して読み直す場合、そう思わせるような出来事、きっかけが身の回りにあったのだろう。それを活かす。復習のよい機会、今こそ復習に適当なる時期と考えて習う。

このように、積極的に「時々習う」のは良いことである。

 

しかし、「sometimes」の意味が強調されると良くない。

これでは、「時々」の意味が「散発的に」「切れ切れに」なり、消極的になる。

どうかすると「機会が得られるまでは復習しない」という意味になってしまう。

これは問題だ。そのような消極的な姿勢・思考では、復習の機会を、その時々にしっかりつかんでいくことも難しいだろう。

 

こう考えると、積極的な「時々」と「常に」はほぼ同じ意味になる。

この「常に」とは、禅でいうところの「正念相続しょうねんそうぞく」である。すなわち、

「どこにいても、何をしていても、常に論語に照らして物事を考えている。それが『習う』である」

ということであって、積極的「時々」と「常に」は同じ意味だ。

 

「時々」では消極的になりやすい人は、「時々」より「常に」を意識したほうが良い。そのくらいのものだろう。

それなら、消極的になり得ない。

いつも鞄に文庫版の論語が入っている。

机には、分厚い、しっかりとした論語がいつもおいてある。

それで常に習うようにしておくと、消極的に「時々に習う」よりずっと進歩するだろう。

 

孔子の本意は

孔子の本意を知るヒントは『中庸』にあるように思う。

 

『中庸』に「君子はときじくあたる(君子は時中じちゅうす)」とある。

これは、「中庸を得た君子は、一方に偏ることがない。どんなときでも、その時々の最も良いところを得ている」という意味だ。

ここの「時」も、積極的な「時々」でも、「常に」でもどちらでも通じる。

「その時、その時でベストな判断をする」ということは「常にベストな判断をする」と変わらない。

 

中庸の「時中」と同じように解するならば、「時習じしゅう」の解釈はほぼ一定する。

常に積極的な態度で道を求め、機会のあるごとに復習することだ。

 

学問の進み具合は人それぞれ異なる。

机上の学問だけではなく、生活環境や労働環境が違うのだから、経験による学びもそれぞれ異なる。

「ああ、これは論語にある~~~だな」と思い当たるタイミングは全く違う。

その時々で、思い当たるたびに復習の機会とする。

時々によく思い当たるためには、常なる積極姿勢が欠かせない。

孔子の仰る「時習」は、このように考えればよいと思う。

 

 

時勢に応じて

安岡正篤先生は、「時習」を「時勢に応じて習う」と解している。

これも優れた解釈と思う。

論語の教えは、二千年以上前のものである。

当時と現代では、真理に異なる所はないけれども、変わったことも色々ある。

論語にとらわれるあまり、現代に即した考え方・応用ができなくなれば、それこそ論語読みの論語知らずで空理空論に陥る。

それではいけない、だから「時勢に応じて習う」。

 

論語を読むとき、孔子の生きた時代を思いながら読む。これは当然大切。

しかし、現代に照らしながら読むことも欠かせない。

それでこそ、孔子の時代にも現代にも通じる、いわば「不変の真理」も見えてくる。

 

まとめ

「時習」の解釈は色々だが、いい加減な学者が解説したものでなければ、多くの解釈が根っこの部分では大差ないように思う。

どれも優れた解釈であるし、学ぶべきと思う。

色々な解釈を踏まえて、私自身は以下のように解釈している。

 

「教えを受けて、覚るところがある。それを積極的姿勢で、折に触れて復習し深めてゆく。

時々の復習を積み重ねるほど、理解が深まって喜びも大きくなっていく。

理解が深まれば、時勢に照らした読み方もできる。現実生活への応用もできるようになり、さらに嬉しくなってくる。」