周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

私の先生

私の先生は・・・

私の先生は、公田連太郎先生である。

もちろん、たくさんの人から学んできた。

孔子にはたくさん学んできたし、儒学徒ならば当たり前である。生涯にわたって教えを乞うだろう。

古い時代の聖人賢人には、尊い先生がたくさんおられる。

公田先生を教えられた根本先生は、先生の先生であるから大先生おおせんせいといえる。

色々な先生がいていいと思うし、それがまともであろうし、優劣をつけるのでもない。

 

しかし、小倉鉄樹翁が「おれの師匠は…」と鉄舟先生を親しまれたような感覚で言えば、私の先生は公田先生なのである。

 

小杉放庵の書簡

日本の古本屋で、小杉放庵の書簡が出品されていた。
美術評論家松下英麿なる人に宛てた手紙で、公田先生の『易経講話』を勧める内容である。

商品画像を見ると、以下のように書いてある。

根本通明は明治の易の権威 その門人で公田翁があつたわけです 多分易の講義の最良で最後のものかと思ふ

 

地蔵さまが好き

小杉放庵は、公田先生と五十年以上の付き合いがあったという。

『公田翁のこと』という文章も書いている。

 

小杉放庵は、20代の頃に鉄舟寺に参禅したことをきっかけに、公田先生と付き合うようになった。『公田翁のこと』には

公田翁は仏さまの中で、地蔵さまが一番好きだと言って居られた

とある。

公田先生の人となりが知れる、貴重な逸話である。

 

地蔵さまに倣った公田先生

地蔵菩薩の悲願は、衆生の救済である。

お寺の御堂に鎮座するのでなく、野道や山道、村のはずれなど、なんでもないようなところに立って、風雨をものともせず、現世にすがるもののない衆生をお救いなさる。

 

在野を貫かれた公田先生

公田先生も、地蔵さまのような生き方をされた。

 

学者ではなく学生

公田先生は在野にこだわり、地位や名誉を顧みず漢学や仏教に励み、多くの書を著した。

お若いころは、浪々となされたらしい。知人の子に英語など教えながらその家に居候する、といった生活を送られた。

地位や名誉はもとより、安定した居住すなわち安居も求めなかったし、飽食暖衣も求めず、たた一筋に道を求められた。

 

晩年、先生は漢学者として広く知られていたが、何かの折に先生は「私は漢学者じゃありませんよ」と語気強く仰ったことがあるという。

学者という立場や肩書を身にまとうことを嫌われたものと思う。

一生涯にわたって学問を怠らず、ひたすらに研鑽し、「学者」ではなく「学生」でありつづけた。

自分の職業をどうしても書かなければならない時は、「学者」ではなく「学生」と書かれた。晩年の話である。

 

地蔵さまに倣いつづけた公田先生は、いつしか学識を認められるようになり、“在野”の“学生”でありながら、小杉放庵をして「易経講話は最良にして最後の講義」と言わしめた。

 

地位・肩書は関係ない

色々な学問について、特に易学などの難しい学問であればあるほど、「学者でなければ信用ならない」とか「大学教授など正規の研究者でなければ、理解できるはずがない」などといわれる。

もちろん、地位のある学者の教えは信用できることが多い。一般的な傾向として、それは確かにある。

 

しかし、必ずしもそうでない。

そのような決めつけは嘘であると私は思う。

公田先生を知っているからだ。

先生と仰いでいるからだ。

先生の易経講話は本当に素晴らしいものだ。

易を学んでおきながら、公田先生と易経講話を「在野」というだけで軽視する者がいるなら(そんなのは聞いたことがないが)、モグリ・エセといってよかろうと思う。

 

学究ではなく求道を

私は公田先生に倣いたい。

公田先生が学者ではなく学生として歩まれたのは、先生の生涯の目的が「学究」ではなく「求道」にあったからだと思う。

私も、学究は志していない。良い例えか分からないが、もし道を得られるならば、それまで学んだものを全て忘れたって構わない。

そんな姿勢だから学者にはなれないだろうし、なりたいとも思わない。

私も公田先生のように、学生であり続けたいと思う。