周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

やりたいこと

私には、明確な人生計画がない。

そういったものを立てたところで、天命と異なれば実現には至らない。

まだ天命の自覚がない。ならば計画はなくて当然であって、極く自然なことと思っている。

 

漠然とした理想はある。

 

住むならば田舎の平屋で、山の麓が良い。

周囲に人がいない、ぽつんとした一軒家が良い。

自動車もほとんど通らず、鳥や虫の声、雨の音、木々が風に吹かれる音などがよく聞こえるのが良い。

 

庭は広いのが良い。家庭菜園にしたい。

自分で食べるためにも野菜を作るが、食べるよりずっと多く作る。

それを食べに、山から鹿や猪が来るようなのが良い。

粟や稗、黍なども作り、実ったら庭に散らかしておく。鳥がやってくるだろう。

 

家は小さくて良い。

書斎、土間、客間があれば良い。

 

書斎は小ぢんまりとしていて、経書の類はしっかり揃っている。雑多な本はない。

そこで日々学び、執筆にも取り組む。

 

客間には囲炉裏があると良い。

年に数回、親族・義弟・朋友などの訪問を受ける。

春。庭の花や山の新緑を眺めながら酒を飲む。山に桜が咲いていると嬉しい。

夏。燦々と照る太陽、山は益々緑が深く、蝉はけたたましく鳴き、庭の鳥も活動的。それで酒を飲む。

秋。山は赤く色づいている。それで飲める。夜は虫の声を聞き、月を眺め、静かに飲みたい。徐々に気温が低くなり、肌にひんやりとくるのを感じながら飲む。秋は酒の肴が豊富だ。

冬。雪が降る。囲炉裏に火を入れ、鉄瓶で酒を温め、雪見しながら飲む。窓は開け放ち、ドテラを着て、体を小さくして飲んでいる。

1~2人の訪問を受け、これがやりたい。

 

 

やや広い道場を設けたい。

そこで学問を講じる。

特に募集することはないが、誰でも受け入れる。

若い人を教えられればなお良い。

 

お金は取らない。住み込みでも良い。

家庭に事情を抱えた子供などは、いつでも駆け込んでくると良い。

そこに行けば、やさしいおじさん(私)やお兄さん(塾生)がいて、話を聞いてくれる、大切なことを教えてくれる。

しかしふわふわ、だらだらしているのでもなく、きちんと礼がある。

 

 

 

こんなことがしたい。

もう10年くらいも前だろうか、弟にこんなことがしたいと話した。

今も変わらない。

 

目標は明確だ。孔子に似ることだ。

こんなことができれば、孔子に少し似るのではないかと思う。

昔から、孔子が理想像だったのかもしれない。

 

そのために、具体的に取り組んでいるわけではない。

強いていえば、ごく短期の学問については計画的に取り組んでいる。

天命の自覚はないが、立命は重く考えている。

儒家と菜食主義

ツイッターで、菜食主義に関する発言を目にすることがある。

菜食主義については、数冊の本を読んだだけで、それほど多くの知識はない。

 

また、私は肉が大して好きなわけではない。

もちろん、食えば美味しいと思う、嫌いでない。

強いて肉を食べなくても困らないという程度で、強いて避けようともせず、菜食主義とは遠い。

 

これまで、菜食主義についてあまり深く考えたことがなかったが、良い機会なのであれこれ考えてみる。

 

儒教に肉は欠かせない

まず、根本的なことだが、儒家は菜食主義を肯定しない。

強いて否定するわけでもないが、菜食の徹底となると否定せざるをえない立場にある。

 

祭礼と肉

儒教において、祭礼はまことに重要なものである。

祭事と政事は表裏一体だ。

どんな祭祀でも、大抵は肉を捧げる。

 

肉を捧げるは毎朝のこと

諸侯ならば毎日、肉を神に捧げた。

礼記玉藻らいきぎょくそう篇に曰く、「朝服して以て食す。特牲三俎とくせいさんそあり、肺を祭る」

まず朝は三俎、すなわち豚・魚・きたひ丸干しの肉)、殊にその日殺した生贄の肺を捧げ、神に朝食を差し上げる。

 

夜も肉を捧げる

夜は牢肉ろうにく(小さく切った肉)を捧げる。

古は「なますは細きを厭わず」で、生肉を調理するにはできるだけ細く切る。

肉は全て、大きく切るのは礼でない。古の大悪党である盗跖とうせきなどは人肉を膾で食ったというが、このとき肉の切り方は大きかったらしい。ここに盗跖の非礼、乱暴さが良く表れている。

全て肉には正しい切り方がある。ゆえに「きりめ正しからざれば食はず」。

牛なら牛、豚なら豚、鹿なら鹿で正しい切り方がある。

 

フグなど分かりやすい。

割正しからざれば、肝臓や卵巣、皮膚などを傷つけ毒が漏れる。

あるいは除去が不十分で毒が残る。大変危険で、割正しきことが不可欠である。

 

これと似たことが、全ての肉にはある。

だから、割を正しく、かつ小さく切ることで、はじめて礼に適って供物となる。

 

なお、貝原益軒かいばらえきけん先生の『養生訓ようじょうくん』にも、肉の大きく切ったものは気をふさぐから避けよとある。

 

大きなお祭りは肉も豊かに

論語八佾はちいつ篇の告朔こくさく餼羊きようのように、朔月の祭りには必ず羊を丸ごと一頭捧げる。

礼記玉藻篇には「朔月には少牢しょうろう」とある。少牢は羊のこと。

少牢を加えて五俎ごそ、すなわち豚・魚・腊の三俎に羊肉と羊の腸・胃を加えて五俎とする。

これで朔月に捧げる肉が整う。

 

神様のお下がりをいただく

祭った後、祭祀に携わった人などに祭肉が分配される。

君公が主催する祭祀であれば、臣は君から祭肉を賜る。

 

これは、君臣の礼を確かめる機会の一つであり、重要なることである。

祭りを行ったにもかかわらず、君から臣へ肉を賜らなければ、それは君臣の礼儀に反する。君が臣を軽んじた、となっても不思議ではない。

 

孔子が魯の大司寇を辞した経緯が好例である。

当時、魯の政治は乱れに乱れた。道徳も乱れた。

孔子は大変失望されて、もはや朝を去るべきかとお悩みになった。

そんなとき、大きなお祭りがあったが、君から臣へ祭肉を賜らなかった。

孔子は「もはやこれまで」と、魯を去ったという。

 

君公から賜った祭肉は「肉を宿めず」でその日の中に食べてしまう。日をまたがず食べるが礼。

自分で先祖などを祭った場合の祭肉は「三日を出さず」で、できるだけ味の変わらないうちに食べるのが礼である。

「三日を出づるときは之を食はず」、三日以上経過したら食べない。

時間が経てば肉は悪くなる。

そもそも、早く食べずに腐敗させたは非礼である。

そのうえ無理に食べて、体を損なってはなお悪い。

 

菜食主義になりえない

神様には肉を捧げる。肉食を否定すると困ったことになる。

菜食主義では肉食を忌む。人間が忌むものを神に捧げることはあり得ない。

人間も好む、良いものであるから捧げるのだ。大きな祭祀では肉を豊富に捧げる。

菜食主義では祭礼が成り立たなくなる。

 

そして、祭肉は神様のお下がりとしてしっかり食べる。

これが当たり前であるから、そもそも原始儒教において菜食主義という概念が生まれる余地はなかったといえる。

 

喪中の肉食

例外的に、喪中は肉食しない。

しかし、これは菜食を尊ぶのではなく、肉食を忌むわけでもない。

 

喪中は何を食べてもうまくない。

うまい肉を食えば、もはや親がそれを食べられないこと、美味しい肉を分かち合えないことなど、色々に悲しく思われる。だから肉を食べない。

肉を遠ざけて食べないのではなく、肉を食べる気がしないから食べないのだ。

 

事実、喪中の肉食は必ずしも禁忌ではなかった。

元来虚弱体質の者、高齢の者、病気に罹った者など、喪中であっても肉を食べて元気をつけることが許された。

いくら喪中とはいえ、ことさら肉食を避けて体を悪くするのは礼でない。

これは『小学』あたりに書いていたように思うが、どこに書いてあったか見つからなかった。記憶を頼ったので、あるいは間違いがあるかもしれない。

 

肉食は体を養う

祭祀に限らず、肉食は良いこととされた。

ただし、論語郷党篇に「肉は多しと雖も、の気に勝たしめず」とある。

「食」は「シ」と読んで常食すなわち米の飯の意。

味の良い肉がたくさんあっても、ご飯より多く食べてはならない。

それを守れば、肉は体を養うに良い。喪中の肉食も然り。

 

『養生訓』にも、穀物も肉も体を養うものだが、穀物の気が肉の気に勝てば長命、肉の気が穀物の気に勝てば短命とある。

儒家の養生の基本であろう。

 

肉は体を養うのだから、これを親に差し上げるのは孝行である。

礼記内則篇には、親に差し上げるたくさんの肉料理について述べてある。

 

孝は儒教において根本的な、非常に重要な徳目である。

己の菜食主義を以て肉食を忌み、肉を以て親の体を養うことをしなければ不孝といえる。

 

肉食を忌み、孝の道に適うとすれば、親が菜食主義者の場合だろう。

親の行いや志をよく見て、それに適うように振る舞うのは孝である。

したがって肉食を忌むことも孝になり得る。

 

動物の命をどうみるか

菜食主義、肉食の否定の背景には、動物愛護の観点があるように思う。

たしかに、家畜の扱いにはひどいものがある。

そもそも、食われるために生まれてくるのは、どうも憐れで仕方がない。

鶏卵にしても、レイヤーの卵は食べる気にならない。一生日の目をみず、死ぬまで卵を産み続ける。

これらに対し、憐れに思うのは仁である。

 

仁の大小

しかし儒家にとって、これは小さな仁である。

小さいとはいえ仁であり尊いが、そのために大きな仁を棄ててはならない。

 

大きな仁とは何か。

治国平天下は大なる仁である。

孝経に曰く、孝は徳の本なり、教への由て生ずる所なり。

孝から儒の教え、すなわち明明徳、親民、止至善という儒家の三綱領も生まれてくる。

 

古来、天下を平けく治めるに祭祀は必要不可欠であった。

祭祀が適切に行われるならば仁政である。

祭祀に肉を捧げ、仁政を布くために、その必要上肉食を肯定するならば、それは動物の命を軽んじているのではないし、不仁でもない。

 

先祖を祭るに肉を用いる。

親を養うにも肉を用いる。

孝にも色々だが、その一部分は肉食と密接な関係にある。

祭祀ならばなおさらだ。

 

したがって、肉食を否定して動物を愛護するは小さな仁、肉食を肯定して家庭内の小道徳から治国平天下の大道徳へと推演するは大きな仁である。

 

命は平等ではない

親のため、先祖のため、祭祀のためといって、他の生き物の命を奪うのは不仁ではないか、命は平等ではないか。

そんな意見もあるかもしれないが、儒家はそう考えない。命は平等ではない。

 

兼愛では道徳が崩壊する

同じ人間であれば、なんでもかんでも全くの平等と考えるのは、儒家ではなく墨家ぼっかの思想である。

墨家は、身近な人も、赤の他人も等しく愛すべき(兼愛けんあい)であり、君公や親や兄弟などをことさらに愛することを差別的であり偏愛であると考える。

 

儒家はそうではない。身近な人と赤の他人の命は平等ではない。

もちろん、赤の他人の命がどうでも良いというのではない。自分と関係あろうと、なかろうと、命が尊いのは当然のことである。

ただ、身近な命は一層尊い、と考える。

 

全ての人間を全く平等に愛すればどうなるか。

道徳は成り立たなくなる。

 

平等でないところに義がある

親子、君臣などの関係において、強い仁愛で結ばれてこそ義や礼も生まれてくる。

 

親と赤の他人が全くの平等では、義はおかしくなる。

赤の他人を助けるために親を捨てることも成り立ってしまう。

 

儒家ではそれを認めない。

親の存命中は、互いに命をかける友を作ってはならないとする。

友への義によって命をかけ、親を残して死んだり、親に累を及ぼすは大なる不孝である。

儒家が基本的に遊侠・男伊達を嫌う理由もここにある。

 

平等でないところに礼がある

礼も同じ。

孝とは、子として親に礼を尽くすことだ。

忠とは、臣として君に礼を尽くすことだ。

 

兼愛を窮めてゆくと、親も君も他人も平等になる。

もっと言えば、自分も親も、家臣も君主も平等になってしまう。

これでは礼儀が成り立つはずもない。

 

儒教の建て前

自分に近しい人の命と、赤の他人の命を比べても平等ではない。

ましてや、人間と動物の命が平等であるわけがない。

それでよいのだ。

 

儒教は人間を本位とする

儒教は、人間世界を軸に教えを立てている。

天地とか、宇宙とか、大きなものから見れば人間など非常に小さな存在である。

しかし、人間として生まれ、人間世界に生きていくならば、人間を尊重すべきだ。

人間を本位として道を立て教えを立てるべきだ。

人世を尊重して教える、これが儒教の、聖人の教えの建て前である。

 

だから、儒教では天国とか極楽を説かない。

子路から「死とは、どうあるべきでござりましょう」と問われたとき、孔子は「そんなことより、生を考えよ」と答えられた。

これが儒家の基本的な態度である。

 

惻隠と動物愛護

動物を愛護するにも、人世を尊重し、人間への仁愛を推演して動物愛護を考えるべきだ。

それでこそ、人間以外の命に対して可哀そうに思う真心もでてくる。この真心を惻隠そくいんという。

孟子曰く、惻隠の心は仁の端なり。惻隠は仁より生じる。惻隠を求めることは仁を求めることにほかならない。

 

君子は台所を避ける

礼記玉藻篇に曰く、「君子は包厨ほうちゅうから遠ざく」

君子は台所に入らない。なぜか。

 

台所では生き物を殺して肉を得る。

それを神様に捧げる、あるいは料理に使う。

 

そのとき、生き物はやはり苦しみ悲しむ。

悲し気な声をあげることもある。

苦しさにうめくこともある。

断末魔の叫びも起こる。

 

その様子を見たり、その声を聞いたりしては、とても肉を食べる気になれない。

これを孟子は、

「其の生を見ては、其の死を見るに忍びず。其の声を聞きては、其の肉を食ふに忍びず」

といった。

 

その死を見て、声を聞き、さらに肉を食うならば、惻隠の心を殺して肉を食べているか、そもそも惻隠の心を持っていないことになる。

それは不仁であるから、惻隠の心を全うするべく包厨から遠ざかる。これを、

「凡そ血気あるの類、づからころさず」

という。

血気あるの類とは、血の通う生き物全般、それを自ら殺すことはない。「殺」から遠ざかる。

 

不食とは

不食というのもこれに基づく。すなわち、

  1. 殺すところを見たら食わない。
  2. 殺すと聞いたならば食わない。
  3. 自分で飼っているものは食わない。
  4. 自分を手厚くもてなすために殺されたものは食わない。

を四不食という。

4の解釈には戸惑っている。自分をもてなしてくれるものを食べないのは非礼ではないか。これは今後じっくり考えたい。

 

また、四不食も出典を探し出せず、儒教だったか道教だったか、あるいはそのほかだったか定かでない。

ただ、どちらであってもあまり問題にならないと思う。

 

中庸はどこにあるか

孟子の教えや四不食を考えると、儒教は肉食を肯定しつつも、生き物の命を慈しむ心もある。

儒教的中庸の道をここに見る。

 

動物を愛するあまり、人間と動物の命を混同したり、どうかすると人間の命を低く見る。

そんなものは小なる仁に囚われているのであって、もはや仁ではない。

もちろん中庸でもない。

 

動物愛護の観点を持たず、奔放に肉食するならば、時に惻隠を失う。

仁ではないし、中庸でもありえない。

 

丁度よきところ、中庸はどこか。

 

肉食のポジティブな面は変に疑うことなくしっかりと受け入れ、肉食であるべき場合には大いに肉食してよい。

そのうえで、惻隠の心を失わず、憐れむべきは憐れむ。四不食は守るし、特に必要なければ肉は食わない。

 

菜食絶対とは思わないし、肉食大歓迎でもない。

他人が肉食でも、菜食でも、正しく考え実践しているならばとやかく言う必要もない。

 

私のインドの友人はビーガンである。それは結構なことと思う。

私の兄は肉があればそれで満足というくらい、肉が好きである。それも結構である。

 

動物愛護といい、菜食主義といい、SDGsといい、その主張するところは誠に結構なものである。

しかしなんとなく不気味に感じることも多い。

行き過ぎた主張に陥りやすいからだろう。

それを唯一の正論のように振りかざせば、反発する人も大勢いて当然だ。

 

自分なりによく考えて、自分はこう思う、正しくはこうあるべきという所をつかんで、自分なりに実践すればいいのではないか。

孔子の教えでは、肉食は良いことである。孔子ご自身も肉を召し上がった。

私にはそれだけで十分だ。

 

長々と書いてきて、結局こんな風に思った。

克己復礼にみる孔門の気骨

論語の有名な言葉に「克己復礼こっきふくれい」がある。

論語を読んだことがない人でも、この言葉は聞いたことがあるのではないか。

克己し、復礼し、仁に至る。

最近、このことをあれこれ考えていた。

自分なりに結論を得たので記事にする。

顔淵の問い

論語顔淵篇の冒頭で、顔淵がんえん孔子に問う。

「どうすれば仁になれるでしょうか」

孔子は、

「己にち、礼にかえることだ」

と仰った。

 

入門当初の問答か

亜聖と呼ばれた顔淵である。孔門で仁を得た人だ。

その顔淵が仁を問うている。

仁を得た後、さらに問うことはないだろう。

したがって、これは顔淵が入門当初の問答であるとする見方もある。

服部宇之吉先生はそう解釈している。

 

私も、その解釈が良いと思う。

瑞々しく感じられるし、自然にも思える。

新たに入門してきた素直で聡明な若者に対して、聡明が素直に勝たぬよう、聡明を抑えるように「仁は己にあるのだ」と教えた。

孔子の指導方法から考えても、これが自然に思える。

 

克己とは

さて、克己。

克己とは、己に克つことである。

この「己」を深掘りすると克己がよくわかる。

 

己とは

根本先生は「己は十二支の巳であり、また身である」と教えている。

色々調べて見たが、「己と巳」を通用する出典が分からない。

大漢和辞典には「己と已と巳は全くの別物」と書いている。

また「巳と身」の通用も不明だ。

 

ただ、「己と身」は確かに通用する。広韻こういんには「己とは身なり」とある。

また大和言葉で解しても、こういう通用は十分に成り立つ。

例えば「カミ」は「神」「髪」「上」などを通用する。

「学ぶ」は「真似ぶ」。初学者が自由に学ぶことを否定し、謙虚に真似よと教える。これは日本的な伝統的な教育方法である。

「魂」と「霊」など、特に面白い。これは「魂(たましひ)」を「たまひし」と捉えることによる。

古く、霊をヒと読んだ。これを知っておくと日本の伝統思想が色々見えてくる。

 

「むすひ(結び)」もそうだ。「」である。

人と人が結び合う時、金銭など利害による結びつきならば嘘だ。のむすひが本物だ。

また「むすひ」は「」ともいう。男女のによって、あらたなが生まれる。古来日本人は、男女が子を設けることをの結す霊によって「す」と捉えた。

できちゃった婚を恥じる風潮が根強いのも、ここに起因する。

婚前でも明確な意志があり、霊と霊のむすひで子を設けるならば、それは産す霊であって極くめでたい。

しかし、何かの間違いで「図らずも」子ができてしまった場合、そこに霊と霊のむすひはない。大変な間違いを犯したと、多くの人が後悔する。

できちゃった婚とは、むすひがないことを後悔し、恥じるのである。

 

私は日本神話も随分勉強したが、言霊ことだまというのは本当に面白いし、美しい。

一昔前に、「美しい国ニッポン」という言葉が流行ったが、日本の美しさはこういうところにあると思う。

他にも色々あるが、かなり脱線した。また別の機会にお話しする。

ともかく、このような通用をもとに考えても「己と身」は通用する。

 

克己は克身なり

したがって、「克己」は「克身」でもある。

むしろ「克身」で考えたほうが分かりやすい。

「克己」すなわち「己に克つ」と考えると、「己」のイメージが漠然としているため分かりにくい。身体的にも、精神的にも、全てひっくるめて「己」のようなイメージがある。

一方、「身」はカラダである。精神の入れ物としての「身」である。

克己とは克身、身に克つことを意味する。

荘子などでは「無己」というが、これも同じ。「無身」ということだ。

 

欲望は身に起こる

本来、精神に私欲はない。私欲は身に起こる。

欲望を色々挙げてみるとよくわかる。

 

・美しいものを見たい→目に起こる欲望

・面白いことを聞きたい→耳に起こる欲望

・良いニオイを嗅ぎたい→鼻に起こる欲望

・美味しいものを味わいたい→舌に起こる欲望

・寒さや暑さを避けたい→皮膚に起こる欲望

・休みたい→身の疲れた部分に起こる欲望

 

といったように、欲望は全て身の上に起こる。

克身とは、この身の欲望に克つことを意味する。

身に克ち、身の欲望に動かされない人、荘子風には身の無い人、聖人とはこのような人をいう。

 

仁とは天稟の精神

身に欲望がなくなれば、精神だけが残る。

人のはじめは性もと善、本来天からけた精神、つまり天稟てんぴんの精神には欲がない。欲が起こることもない。欲に動かされることもない。

なぜ天稟の精神が曇ってしまうのか。身の欲に曇らされるからである。本来伸びるべき天稟の精神が発達を阻害される。

そこで、克己・克身で身の欲を去れば、精神が本来の天稟を存分に発揮してゆける。曇りなく発揮される天稟のまっさらな精神、これが仁である。

 

孔子は、仁は誰でも持っている、誰でも仁になれると仰った。それは全てこの意味であろう。

身の欲を去り、これまで欲望に埋もれていた仁を掬い上げること、「仁を得る」とはこのことだと私は思う。

 

復礼とは

孔子は顔淵に「克己し復礼すれば仁になれる」と教える。

「克己で仁になれる」とは言わずに「克己し復礼すれば仁になれる」と教えている。

私はこれをややこしく感じたが、今思えばそれほど難しいことでもない。

 

これは、やはり顔淵入門当初のことであろう。孔子の教え方がいかにも丁寧に思える。

「克己」と「復礼」の密接な関係にあることを教えた。

 

礼は自ら復るもの

「復礼」とは礼に復ること。礼を失ったところから、再び礼に復ることをいう。

 

礼というものは自ら実践するものである。

社会の中で礼儀を行うことを考えると、礼儀は社会から実践させられるものに思えるが、そうではない。そもそも、礼は仁から起こるものであって、ごく内面的な徳である。礼とは自分でむ道である。

したがって、「復礼」「礼に復る」というのも、「自ら礼に復る」でなければならない。

自分がやるかどうかであって、人は関係ない。だから孔子は顔淵に、

 

仁を為すは己に由る、人に由らんや

(礼に復って仁をなすには、身自らの努力によってやることだ。人にやらされるものではない)

 

と仰った。

 

復礼はどうするか

素直な顔淵は、孔子の「克己せよ復礼せよ」の教えをそのまま受け入れる。受け入れた上でさらに問うた。

「具体的にはどうすればよいでしょうか」

 

これはつまり、

「身に克って欲望を去り、礼に復るには、具体的にどうすればよいでしょうか」

との問いである。

身に克つべきことは分かった、それで礼に復ることも分かった。

しかし、礼に復るには具体的にどうすればよいかわかりませぬ、との問いである。

 

孔子は、以下のように具体的・実践的に教える。

  • 礼儀に外れたものは視るな
  • 礼儀に外れたことは聞くな
  • 礼儀に外れたことは言うな
  • 礼儀に外れた所作はするな

 

礼儀に外れたものを視る、聞く、言う、礼儀に外れた所作をする。

これは、身に起こった欲望によって礼に外れるのである。

そこから礼儀に復るのが復礼である。

身の欲望から、礼儀に外れたものを視たり聞いたりしていた。天稟の精神、仁を曇らせた。

それを視ず聴かずに改め、不断の心がけとする。

視ても目を留めない、聞いても承知しない。これも復礼である。

 

礼で防ぐ

礼と防は通用する場合がある。どちらも「おきて」「法」「そなえ」といった意味を持つ。

復礼は、特に防の意味が大きい。悪事や無礼を働かないように礼で防ぐ。つまり予防の意味である。

 

礼による防と、法による防は違う。法律にも抑制・予防効果が期待できるが、礼に比べると効果は薄い。

法律で縛れば、人民は『法律の範囲内なら大丈夫』と考え、法律違反でなければ悪事も恥じなくなる。何でもやる。しかし礼で治めるならば、人民は恥を知って正しくあるように心がける。

このように為政篇で孔子が仰ったのも、礼の予防効果にほかならない。

法律は、悪事をなしたものを戒め、さらなる悪行を防ぐ意味が大きい。礼はその前で防ぐ。

 

身の欲望で礼に外れた。

礼に復るよう努める。さらに、再び欲や邪が出るのをあらかじめ防ぐ。

つまり、

 

克己の失敗

→非礼に陥る

→礼に復る(身に克つ)

→仁を得る

 

という流れである。

克己、復礼、そして仁とは、こういうことである。

 

 

孔門の気骨

これを聞いて、顔淵は

「私は不敏ですが、ぜひ先生の仰ることを守っていきましょう」

と決意された。ひょっとすると、これが顔子の出発点だったのかもしれない、などと考えると武者震いがする。

 

克己復礼は、仁に至るための具体的手段といえる。

実践の手引きも十分である。

そして、非常に単純である。

非礼は視るな、聴くな、言うな。所作も非礼はいかぬ。

 

復礼の厳しさ

しかし、単純だから簡単というわけではない。

ほとんどの人が、このような教えとは無縁で生きている。

非礼に馴れてしまっている。

 

現代社会は、非礼で満ち溢れている。

ツイッターも、非礼で満ち溢れている。

一時期、非礼を視ず、聴かず、言わずのためにツイッターを辞めようかと本気で考えたし、今も辞めようかと思うのはこのためである。

非礼にどっぷりと浸かり、我が身の欲を引き起こして非礼に陥る。

そして仁から遠ざかっているのではないかと、怖くなる。

 

非礼から目を背けぬ

もっとも、克己復礼についてじっくり考えたことで、このような気分はかなり和らいだ。

非礼は視ても目を留めぬ、非礼は聞いても承知せぬ、これも復礼である。

全く非礼のない、いわば無菌空間で徳を養うのが正しいのかどうか。

非礼だらけの空間でこそ養える徳もあるのではないか。

 

孔子の生きた時代も、非礼にあふれていた。親子や君臣で殺し合う時代であった。

現代日本など比較にならないくらい、非礼にあふれた時代といえる。

孔子やお弟子たちは、そんな時代に、非礼から目を背けることなく道を学んだ。

非礼から目を背けて「非礼を視ず」ではない。非礼を直視しながら「非礼を視ず」であった。

 

私は、孔子の仰った「克己復礼」の四文字に、孔門の気骨を感じる。

先日ツイッターで、学問上の気づきで大変感動した、とつぶやいた。

「克己復礼」に孔門の気骨を知り、克己復礼とはこんなに素晴らしい教えであったか、ようやく気づいた、孔子の教えに少し近づいたかもしれない、そんな風に思い恍惚とした。

 

ツイッターの真価とは

私も、気骨のある学問をしたい。

結局、礼は自ら履むものであるし、自分次第だ。

非礼に満ち溢れている空間でも、礼に適った空間でも、そこで礼を履むのは自分次第である。

礼を失い、仁から遠ざかるのをツイッターのせいにするのは間違いではないか。

それは結局、自分の至らなさだと思うのだ。

 

ただし、非常に辛いのも事実。

非礼にまみれた場所で、非礼を視ず聴かず言わず、これはとても辛い。

吐き気を催すことも多い。それを飲みこんでゆくのが辛い。

 

この辛さは、復礼の厳しさだと思って耐えるだけだ。

そのように考えると、ツイッターも価値がある。

それ以上の価値はない。

牛のけつ

儒学をやっていると、なにぶん古い時代のことであるから、色々なことについて「果たしてそれは事実であったか」という問題が出てくる。

例えば、しゅんが実在したかどうかを問題にする人がいる。

このようなものは儒学の本質にはあまり関係のないことだが、とかく問題にしたがる人がいる。

以前、私もこれを意識しないではなかった。

そういう人を「牛のけつ」という。

 

明治の禅僧に南隠なんいんという人がいる。

公田連太郎先生はこの人に禅を学ばれた。

公田先生は若いころ、漢学を根本通明先生に、禅を南隠禅師に学ばれた。終生この二人を師と仰ぎ、晩年に至っても先生の書斎には根本先生・南隠禅師の写真が掲げてあったという。

 

この南隠禅師に面白い話がある。

あるとき、仏教学者が南隠禅師を訪ね、日ごろの研究の成果をしゃべりまくった。

特に、達磨だるま慧可えかのことを大いに喋った。

その学者が言うには、

「私の最新の研究によれば、慧可の断臂の話は嘘です。そういえば、達磨という人だって実在したかどうか甚だ疑わしい。禅というのは本当かどうかわからない物事が多く基礎になっていて、とてもあやふやなものです」

学者は、自分の研究で分かったことをなお喋りまくり、禅がいかにあやふやなものかをまくし立てる。

南隠禅師は「うん、うん」と感心したように聞いている。

 

次第に南隠禅師はうんざりした表情になってきた。学者も、偉い禅僧の気分を損ねることを恐れ、適当に切り上げて辞去した。

別れ際、南隠禅師は学者に言った。

「あんたは、牛のけつじゃな」

 

その場では聞き流して去ったが、学者には南隠禅師の言う意味がわからない。

色々調べてみても、「牛のけつ」がなにを意味しているのか皆目分からない。

鶏口牛後けいこうぎゅうごという言葉もある。「牛のけつ」は良い意味ではないのだろう。しかし本当のところはどうか、わからない。

 

後日、学者は再び南隠禅師を訪ねた。

「先日、禅師は私に『牛のけつ』と仰いましたが、どのような意味かわかりません。お教えいただけませんか」

「学者は頭が固くていかんな。牛は何と鳴く?」

「モー…ですか」

「そうじゃ。で、けつはお尻じゃな」

「・・・」

「モウのお尻。物知り。わしはあんたを物知りじゃと言ったんじゃ」

南隠禅師は大笑いしたが、学者は「なんだそんなことか、苦労して考えて馬鹿をみた」と、開いた口が塞がらない様子。

 

南隠禅師は大笑い、学者はあきれた。

これは、含蓄ある良い話と思う。

 

知識は全く無価値ではないし、面白いところもある。

クイズ番組などが好まれるのも、知識が面白いものだからである。

単に面白いだけで、本質的価値を高めるものではない。

しかし、物を色々知っていると、それを偉いことのように錯覚してしまう。

何も偉くはない、いくら知識があっても、そんなものは牛のけつくらいのもんじゃ、どうでもよいし、ありがたがるなんて馬鹿なことじゃと、南隠禅師は学者の物知りを皮肉ったわけだ。

 

仏教に対して多くの知識がある。達磨は実在したかどうか、慧可は本当に腕を自ら斬ったかどうか、この是非を論じる豊富な知識がある。

儒学についてもそう。舜は実在したかどうか、孔子が若いころ老子に会ったのは事実かどうか、顔子は何歳で亡くなったか、などをあれこれ論じる知識がある。

所詮はお遊びのようなものだ。退屈まぎれにはいいが、それ以上の価値はない。

 

達磨が実在したかどうか、慧可が腕を斬ったかどうか、そんなものは禅の本質・本義に関係のないことだ。達磨が実在の人物であれば禅の価値が高まる、架空の人物であれば禅の価値が損なわれる、そんなものではない。

舜も同じである。実在でも架空でもどちらでもよい。孔子が舜を実在の人物として教えられたのだから、それでよい。舜が架空の人物であったところで、孔子の教えが価値を失うものではない。

 

私は以前、「舜が実在の人物でないとすれば、舜の実在を根拠にした諸々の教えがあやふやになる。だから実在・架空はいっそのこと問題にせぬがよい」と考えていた。

しかし、これはある意味実在・架空を問題にしているのだから、「牛のけつ」的誤りといえる。

実在でも架空でも、どちらでも大して問題にならないのが孔子の教えだろうと、考え方を改めた。

 

そういうものを論じる知識があるのは良い。しかし、知識には知識以上の価値はない。

本質的価値を左右するものではない。知識を自慢げに披露するなどは滑稽でしかない。

ツイッターなどで、どうでもよいことを大袈裟に語る人をよく見るが、あれは滑稽を通り越して憐れである。

それを南隠禅師は「牛のけつ」と皮肉った。

 

牛のけつにはなりたくないですね。

ブログの更新頻度について

ブログに対する姿勢を改めることにした。
論語を読んでいて、今の書き方は正しくないと思ったのだ。

 

これまで、ともかく書くことが大切と思って、そこそこ良いペースで書いてきた。

しかし、学んださきから書きまくるのは、軽率な気がしている。
深く考えず、咀嚼するのを待たずに書くのだから、重厚な文章にはならないだろう。

 

大いに積み重ねて、そこから小出しにするような書き方をしたい。
厳しく考え、自分で「このことは書いて良い」と思ってから書くようにしたい。

 

そう考えると、あまり書けることがなくなった。
まだ積み重ねが足りないのだろうと思う。

 

 

 

学問の積み重ねは、砂をサラサラこぼして山を作っていくようなものといわれる。
これはある意味で正しく、ある意味で正しくないと思っている。

 

苦労を伴うこと、根気がいること、そういった意味では砂山を作るようなものだ。

最初は目に見えて砂山が大きくなっていく。面白いようにどんどん学問が進む。

砂山がある程度大きくなると、いくら砂をこぼしてもなかなか山が大きくならない。実際には着実に大きくなっているのだが、結果が目に見えない。学問の進んでいることを実感できないから辛い。

学問には、そんなところがある。私は、これを辛いとはあまり思わないけれども。

 

また学問には、ある時、あるきっかけで悟り、飛躍することがある。

必ずしも一定のスピードで、砂山に砂をこぼし続けるようなものではない。

 

禅僧の悟りのようなものだ。

毎日毎日、ただただ坐禅する。進歩が感じられずに辛い。ひたすら砂をこぼして山を作るのと似ている。

しかし、あるとき悟る。

木から葉っぱがハラリと落ちるのを見て悟る。魚が水面を飛び跳ねたのを見て悟る。草を濡らす朝露の玉を見て悟る。

ある時、あるきっかけで悟り、飛躍する。

学問もこれと同じだろうと思っている。

 

この「悟る」ということが、最近徐々に増えてきた。

ごく小さな悟りであって、「気づき」くらいのことかもしれないが、なんでもない所で気づきがあり、長年の疑問が連鎖的に氷解してゆくことも多い。

やはり一種の悟りと思う。

 

今後は、更新の機会がかなり減るだろう。
しかし、ある悟りをきっかけに書けることがどんどん出てくる、不思議なくらい何でも書けるようになる、そんな日がいつか来るだろう。

そうならないと嘘だ。真面目にやっていれば、必ずそうなる。


その日が来るまで、ブログの執筆は週に1回でも月に1回でも、あるいは数ヶ月に1回でも良いから、極くゆっくりやっていきたい。

仲弓の「南面の才」を作る三要素

孔門四科十哲の一人に、仲弓ちゅうきゅうという人物がいる。

姓はぜん、名はよう、字は仲弓。

論語の第六篇、雍也ようやの雍とは冉雍仲弓を指す。

 

孔子は仲弓を、一国を治めるに足ると評した。

これは、仲弓が不佞ふねいであり、けいに居り、かんを行ったことによる。

 

 

不佞の人

仲弓は孔門の中、徳行において顔回に並ぶとされた人物である。

孔子が仲弓を褒めた章句は色々あるが、その筆頭が「不佞」である。

 

佞とは

不佞とはねいならぬこと。

佞とは口がうまく、人を喜ばせる才能があること。

いわゆる太鼓持ちである。

 

当時、佞とは必ずしも悪いこととされていなかった。

口がうまければ、出世の役に立つことも多い。

時には、上司をうまく諫めることもできるかもしれない。

 

しかし、そのような利点はあるものの、仁を害する所が大きいとして、孔子は大変に佞を嫌われた。

 

佞は不仁の種

佞は、口先で人を害することがある。

例えば、上司に取り入る場合の佞。

上司から「財政が厳しいがどうしたらよいか」と言われたとき、佞人ならば

「税金をこんな風にとればよろしいでしょう」

「この費用は人民にこんな風に課しましょう」

などと提案する。

上司がその案を取り入れ、佞人の評価は高まる。

しかし人民には害がある。人民に恨まれる。

人民を治める立場にありながら人民に恨まれるのは、不仁であるからだ。

佞は不仁の種である。

だから孔子は佞を大変に嫌った。

 

ひどい場合、佞人は口先で他人を焚きつける、あおる。

要らぬことまで余計に言って争いのきっかけを作る。

古来、佞弁ねいべんが乱のきっかけをなした例は多い。

 

 

不佞の仲弓

佞弁の逆は訥弁とつべんである。

仲弓は訥弁であった。

 

篤実で、腹の底から仁徳がある。

また、訥弁である。口数が非常に少ない。

ただし、仲弓の口数が少ないのは、おとなしいこととは違う。

佞を嫌うために、ぶっきらぼうな印象の人であったらしい。

 

佞人を好む人からすれば、これが面白くない。

才気に溢れ、徳があり、佞を嫌うぶっきらぼうな仲弓が近くにいれば、徳の薄い人は参ってしまうだろう。

自分の不徳を責められているような気分にもなる。

仲弓の存在そのものが疎ましくなってくる。

 

そこで、喜ばせることをひとつくらい言えば「可愛い奴」で済むが、それがない。

中には、小憎らしい奴と思う人も出てくる。

 

不佞で結構

仲弓をそんなふうに思う小人が、あるとき孔子に言った。公冶長篇の章句である。

 

「冉雍には仁がありますが、佞がないのが玉に瑕ですね。あれに少しでも口のうまいところがあったら、言うことなしですが」

 

それを聞いて孔子曰く、

 

「それは間違っている。佞など用いるべきものではない。

大体、佞などというものは、良い説を叩くためとか、良い政策に反対するためとか、悪い策を用いるためとか、ろくなことに用いられない。これが人民に害をなし、憎まれるもととなる。

仲弓が仁であるかどうかは知らないが、不佞であるのは仲弓の良いところである」

 

雍や南面せしむべし

孔子は、人を評価する際に「仁」の評価を容易に許さなかった。

仲弓についても、「其の仁を知らず(仲弓が仁であるかどうかは知らぬ)」と言い、「仁なり」の評価を許していない。

 

しかし、不佞であれば民を害することが少なく、不仁から遠ざかる。

治める側に立つこともできる。

雍也第六の冒頭の章句で、孔子は仲弓を以下のように評した。

 

雍や南面なんめんせしむべし。

 

南面とは、人を治める位を意味する。

昔、一国の君主となった者は、政事を行う際に北に背を向け、南を向いて臣下と向き合う。

これを天子南面てんしなんめん臣下北面しんかほくめんという。

南面するのは天子に限らず、一国を治める君主もそうである。

孔子は、仲弓は人を治める才能があると評された。

 

敬に居て簡を行う才

孔子が仲弓に対して南面すべしと評したのは、仲弓の徳と不佞だけが理由ではない。

仲弓は、人の上に立つ者として、また仁政を為すために欠かせない徳を備えていた。

すなわち、

 

けいに居りてかんを行う

 

という徳である。

敬とは

敬とは慎みの心であり、徳を修めるには不可欠なものとされる。

敬があり、慎んで学問と道の実践に励み、徳を磨いてゆくことができる。

自分に厳しく、何事も軽々しくせずにやるのが敬である。

簡とは

簡は、簡素簡略の簡で、敬の逆である。

物事にこだわらないことで、これもひとつに徳である。

簡であればこそ、世評にこだわらず、人に流されず道を守ることができる。

こだわりのなさが簡である。

 

仁政とは敬に居て簡を行うこと

仲弓は、敬に居て簡を行う徳を備えていた。

これは、人の上に立つにおいて、第一等の人物といえる。

 

自分自身は敬に居る。

自分に厳しく、軽はずみをせず、真剣に政事に取り組む。

そのような人の下で働くから、役人たちにも緊張感がある。

不正がはびこらず、クリーンな政治ができる。

不正のために人民が苦しむことも少ない。

 

 

人民に対するには簡でやる。

あまりこだわらず、柔軟にやってゆく。

人民の中には、無学なものもいる。善人も悪人もいる。貧乏人も富裕者もいる。それぞれ置かれている立場が異なる。

だから、こだわり過ぎることなく穏やかにやる。

 

簡のために、「人民に甘すぎます」「もっと税金を取りましょう」など、下の者から責められることもあるかもしれない。

しかし、簡でこだわらない。

苛政かせいに陥らず、人民の苦しみが減る。

 

為政者が敬に居て簡を行うならば、仁政になるのだ。

仲弓にはこの徳があった。

だから孔子は「南面せしむべし」と仰った。

 

敬に居て簡を行うのほか、

  • 敬に居て敬を行う
  • 簡に居て簡を行う
  • 簡に居て敬を行う

の組み合わせが考えられる。これらは全て悪政につながる。

 

敬に居て敬を行う

為政者が敬に居る。これは善い。

不正が起こらず良い政治が期待できる。

 

しかし、人民に対して敬を行うはよくない。

これは、自分自身に求める厳しさや重々しさを、一般の人民に求めることであるからだ。

徳あり志ある人物ならば、自分に厳しく敬に居ることもできる。

しかし、一般の人民には難しい。

四六時中、敬に居て緩みなく生きることを求めたところで、無理な話だ。

できないことを求めるのは過酷であり、惨酷である。

 

つまり、敬に居て敬を行うは苛政につながる。

 

簡に居て簡を行う

簡に居て簡を行うは、敬に居て敬を行うより悪い。仲弓の言葉では、これを「大簡たいかん」という。

敬に居て敬を行う場合、ともかく厳しいが上も下もゆるみがないだけに、軍事国家スパルタのような趣になる。政治が破綻するものではない。

 

しかし、簡に居て簡を行う場合、政治は破綻する。

上の者が簡である。締まりがなく、政治がまともに行われない。

下の者にも簡であるから、厳しく取り締まることはない。そもそも、上が機能していないから取り締まることができない。

上も下も不真面目で、上では不正が横行し、下でも騙し合いが日常茶飯事である。

災害が起こったり、他国に攻められたり、ふとしたきっかけでたちまち乱れて崩壊してしまう。

 

簡に居て敬を行う

最悪なのが簡に居て敬を行うものである。

上の者は簡で締まりがない。不真面目である。不正も横行している。

それでいて、下の者には敬を求める。真面目に働け、悪事はやるなと求める。

 

上の者が簡であるために、下の者が苦しめられる。

上の者の安楽のために、下の者が虐げられる。

 

これではもはや暴政である。下の者は納得しない。

災害の発生や他国の侵攻を待つまでもなく、内乱が起きて崩壊するだろう。

 

一身の修養を考える

以前、これらの章句を読んだときには大して感銘を受けなかった。

 

佞が良くないのは分かり切っていることだ。

敬に居り簡を行うことも、理解に苦しむようなことではない。

政治に興味はないし、あまり自分には関係ないことと思ったのかもしれない。

 

しかし色々考えると、不佞である、敬に居る、簡を行うというのは、政治に限らず人生一般に広く当てはまることだ。

ツイッターを始めたことで、これに気づかされたように思う。

 

ツイッターには佞人が非常に多い。

もちろん、ツイッターに限らず社会全体にいえることかもしれない。

しかし、ツイッターはネットの世界であるから、発言のハードルが低い。慎みを持ちにくい。佞弁も自由自在である。

 

ある有名人が不祥事を起こしたとする。

すると、ツイッターでは大きな話題になる。

退屈していた子供がおもちゃを見つけたように活発になる。

暇なのだなと思う。

 

人によっては、その有名人の情報を洗い、過去の発言などをほじくり回し、

「この人は今回こんな失言をしたが、昔もこんなことを言っていた」

などと騒ぐ。

とにかく言ったもの勝ちだから、曲解も多いだろう。

 

これは余計なことであって、佞弁である。

なぜ余計なことをいうのか。

他人の歓心を得たいからである。

あるいは、ストレスのはけ口にしたいからである。

理由は色々あるが、結局は私事である。

 

私のために余計なことを言う佞人がツイッターにはいくらでもいる。

そんな空間に身を置けば、自分も影響を受ける可能性がある。

不佞を貫く気持ちがなければ、佞人に同調し、面白がり、軽薄なことをやる恐れがある。

ツイッターを始めてから、私は「佞」ということをよく考えるようになった。

これは、ツイッターをやって良かったことのひとつである。

 

自分自身に不佞を厳しく求めるならば、それは敬に居るといえる。

敬に居らなければ、佞に陥る恐れがある。

佞に陥るのは、自分自身に不佞を求めていないからであり、簡に居るためである。

簡に居る人ばかりの空間であるから、ツイッターをやる以上、敬に居ることを強く意識しなければならない。

 

ただ、簡を行うことも大切にしたい。

自分は敬に居る、だからといって人にも敬を行うならば、これは道ではない。

自分は不佞に陥るまい、敬に居るべしと頑張る。

私は、簡に居り佞をなす人を嫌だと思うし、ツイッターを辞めようと思ったことも多々ある。

最近では、敬に居るは自分だけで良い、人には簡であるべしと考えるようになった。

 

人はどうでもよい。

簡に居り敬を行い、佞を為す人をあえて痛罵するようなことは避けたい。

 

仲弓の徳を深く考えていくうちに、生き方が少し柔らかくなったと思える。

昔同様、佞弁たくましい人が嫌いだけれども、それはそれ、と思う余裕が少しできた。

不佞、居敬、行簡、これはどれも困難なことであるが、ぜひ求めていかなければならないことと思う。

 

難しいことを簡単に書いてあるから、論語は油断がならない。

理想は「可もなく不可もなし」

「可もなく不可もない」

良くも悪くもない、無難、平凡といった意味で用いる。

なんとなく、見下した気分のある言葉だ。

 

可>可もなく不可もなし>不可

良い>普通>悪い

 

可もなく不可もなし、これは悪くないが、まだ足りないといった感じに用いられる。

少なくとも、可もなく不可もないことを理想的とは思わない。

 

しかし、孔子は「可もなく不可もなし」を理想とされた。

 

 

孔子の理想

「可もなく不可もなし」は、論語微子びし第十八の言葉である。

この章句の解釈は複雑で、今回の記事に盛り込むとややこしくなるので、詳しくは別の機会にお話しする。

 

孔子の批評

これは、孔子が数人の賢人を批評した章句である。

孔子は、以下のように批評した。

 

  • 伯夷はくい叔斉しゅくせいは志が高く、潔白であり、辱められなかった
  • 柳下恵りゅうかけい少連しょうれんは志をひくくし、我のみ清しとせず、辱めにも甘んじたが世渡りが上手であった
  • 虞仲ぐちゅうは、末子の季歴きれきに王位を継がせたいという父の志を酌み、兄の泰伯たいはくと共に夷狄の国へのがれた

 

これらの賢人に比べて、我はどうであるか。

孔子は、

 

「可もなく、不可もなし」

 

と仰った。

 

孔子は可にも不可にも偏らぬ

伯夷や叔斉のように、孤高・潔白で世間から抜きん出ているのではない。

柳下恵と少連のように、あえて自分を低くして小人に交わることもない。

 

虞仲のように、道を行うためといって隠遁してしまうこともない。

公冶長第五で、孔子は「いかだに乗って海を渡り、遠い国に行ってしまおうか」と悲嘆なされたが、結局「材を取る所なし」として本当に隠遁することはなかった。

 

つまり孔子は、

 

「確かにこれらは皆優れた賢人であるが、私は違う。

私は、天道に順って、どこにも偏らない。

伯夷・叔斉の偏りも、柳下恵・少連の偏りも、虞仲の偏りもない。

天道、自然の道理に任せてやる。

可にも偏らず、不可にも偏らない。

可でもなく、不可でもない。

だから、これらの賢人と私は違うのだ。」

 

と仰ったわけである。

 

天道に従うゆえに

現代的なニュアンスで「可もなく不可もなし」といえば、「良くない」「足りない」の意味が強調され、ややネガティブなものとなる。

しかし、孔子の仰るように

 

「天の道理に従う、ゆえに可もなく不可もなし」

 

と考えるならばどうか。

「可もなく不可もなし」は極めて理想的な状態であり、人間の完成はここにあるといって良いのではないか。

 

 「可もなく不可もなし」を夢見た公田先生

私の敬愛する公田連太郎先生も、「可もなく不可もなし」を理想とされた。

先生は、最晩年に朝日文化賞を受賞された。先生御年八十七歳、お亡くなりになる年のことである。

 

最晩年のお言葉

受賞に際して、先生は朝日新聞の記者にこう語られた。

 

「私の一生は、失敗の一生でした。

私は田舎者で、不器用で、世渡りの才とてなく、禅僧にもなれず、何の役にも立たず、八十余年、ただグズグズと生きてきただけです。

“われは可もなく不可もなし”

そう言える偉い人になることだけを夢みて。

しかし、それは叶わぬでしょう。

そして間もなく(先生ご自身の生涯が)終わるでしょう」

 

一貫不惑の先生

公田先生は、一生涯を通じて「可もなく不可もなし」を理想として歩まれたのではないか。

私はそのように思う。

 

先生は若いころから大変に学問され、万巻の書を読み、しかし「物知りにはなりたくない」といつも仰っていた。

若き公田先生の「物知りになりたくない」という言葉が、最晩年の言葉につながる。

 

先生が物知りになることをおそれたのは、孔子が批評されたような賢人になることを懼れたのではないか。

孔子のように「可もなく不可もなし」を、若いころからただ一筋に目指して歩まれたのではないか。

 

論語を読み、よく理解できなかった公田先生の言葉が少しずつ分かるようになってきた。

浅い解釈かもしれないが、私には喜びである。

 

 

 

可もなく不可もなし。

大変良い言葉である。

孔子のようになりたいと思ってきたが、具体的にどうなりたいのか、ぼんやりしていた。

 

今は、「可もなく不可もなし」を目指せばよいことが分かっている。

今年、自分なりに一生懸命に学問してきた。

「可もなく不可もなし」の理想が分かったことで、自分の進歩を少し実感できた。

恍惚とするような嬉しさがある。

 

孔門の人々

論語について書くうちに、それぞれのお弟子を詳しくお話しする機会も出てきた。

弟子の人物やエピソードを知ることは、論語の理解に役立つ。

整理のために、特定のお弟子を取り上げた記事をここにまとめる。

 

四科十哲

孔子のお弟子のうち、特に優れた十人のお弟子を「孔門十哲」という。

また、この十人を徳行、言語、政事、文学の四科に分けて「四科十哲」ともいう。

 

徳行

顔回

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仲弓

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冉伯牛

 

閔子騫

 

言語

子貢

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宰我

 

政事

子路

 

冉有

 

文学

子夏

 

子游

 

 

十哲以外のお弟子

公冶長

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怒りを遷さず、過ちを犯さず。亜聖・顔回の真骨頂

孔子の一番弟子は顔回がんかいである。

聖人に近い人物であり、敬意をもって顔子がんしと称されることも多い。

孔子は聖人、聖人に連なる大賢人であるとして、顔回孟子亜聖あせいという。

 

なぜ顔回が亜聖といわれるか。

顔回の真骨頂はどこにあるのか。

今回はこれを記事とする。

 

 

孔子の一番弟子

姓はがん、名はかい、字は子淵しえん

顔淵がんえんとの呼称は、姓と字を合わせたものである。

三国志関羽に斬られる、袁紹配下の顔良顔回の末裔とされる。

亜聖から猛将が生まれたのだ。

道統を継がねば、血統 など頼りないものだ。

 

孔子顔回を愛した逸話は多い。

詳しくは別の機会にお話しするが、孔子顔回の見識を度々褒めている。

ドラマ『孔子春秋』にも、そのような描写は多い。

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顔回の人となり

顔回の人となりを表す言葉が、論語の雍也第六に出ている。

 

哀公あいこう問ふ。弟子ていしれか学を好むと為すかと。

孔子こたへて曰く、顔回なる者有り。学を好み、怒りをうつさず、過ちをふたたびせず。

不幸短命にして死す。今や則ち亡し。

未だ学を好む者を聞かざるなり。

 

哀公(魯国の君)が問うた。

「先生の弟子の中で、学問を好むのは誰でしょうか」

孔子は答えた。

顔回という弟子がおりました。学問を好み、怒りを遷すことがなく、過ちを犯さない弟子でした(※)。

しかし、不幸にして早逝そうせいしましたので、今はもうおりません。

顔回のほかには、学問を好む者はおりません」

(※同じ過ちを二度と犯さない、としなかった理由は後述)

 

これは、孔子の最晩年の言葉である。

顔回が亡くなった年は正確に分からないが、新釈漢文大系・吉田賢抗先生『論語』の孔子略年譜では紀元前481年となっている。

孔子が亡くなったのは、その2年後の479年。

哀公がこのように問うたのは、この最晩年のことである。

 

学を好む顔回

学を好む者を問われ、孔子顔回の名を挙げられた。

そして、顔回の死後は学を好む者がいないと仰った。

 

孔子の門下には、学問が好きな者はたくさんいただろう。

春秋戦国時代は、中国史上最も混乱した時代ともいわれる。

孔子が教える聖人の道は衰えていた。富貴とも無縁な道である。

その苦しい道にあえて参じた弟子たちが、学問を好まないはずはない。

 

孔子は、なぜ顔回だけを「学を好む者」といったのか。

「学を好む」との評価は、なかなか得られるものではない。

顔回のように、極貧の中にいても一貫不惑で道を楽しんでいる。

そして、後述の通り顔回は中庸を得た。

 

顔回を「学を好む」の基準に据えるならば、他のお弟子は及ばない。

学を好む者すなわち顔回であるならば、他のお弟子は学を好むとはいえない。

そこで、「顔回亡き今、学を好む者はおりませぬ」と仰った。

 

怒りを遷さぬ顔回

顔回の好学が実地に現れたことといえば、怒りを遷さぬことである。

 

一般的な解釈

「怒りを遷さず」について、論語の解説書の多くは「Aへの怒りをBに向けないこと」、つまり八つ当たりしないこととしている。

宋の大儒・伊川ていいせん先生の解釈も同じである。

近思録きんしろく』に、伊川先生と門人の問答が載っている。

 

あるとき、門人が伊川先生に尋ねた。

顔子の『怒りを遷さず』ということがありますが、これは『甲への怒りを乙に向けない』という解釈で間違いないでしょうか」

「その通りである」

「これは、そんなに偉いことでしょうか。顔子でなくともできそうですが」

「一見たやすいが、実に困難なことだ。ある人に怒りながら、別の人に怒らず居られるのは道理が分かっているからだ」

 

確かに、怒りを遷さずというのは大変なことである。

Aに100の怒りを向けた直後、無関係のBに接する。このとき、Aへの怒りのうち、わずかに1の怒りでさえBに向けない。ゼロの状態で接する。

なかなかできないことだ。

これができた顔回は偉いというのも納得できる。

 

私も、ごく最近までこのように解釈していた。

しかし、この解釈には不満もあった。

確かに、八つ当たりしないことは難しいが、孔子の門人の中にはそのような人はたくさんいたのではないか。

 

八つ当たりしなかったのが顔回ただ一人というのはおかしい。

孔子のお弟子のうち、顔回以外は誰もが八つ当たりしていたとすれば、幻滅してしまう。

 

怒りを遷さぬは中庸の道

最近、この問題が氷解した。

根本通明先生の解釈によってである。

この記事を書こうと思ったのも、その喜びが大きいためである。

 

 

「怒りを遷さず」とは、八つ当たりしないだけではない。

怒るべき時に怒り、八つ当たりせず、なおかつ正しく怒ることである。

 

50で怒るべき時、30しか怒らない、あるいは100怒ってしまう。

50であるべきなのに、30や100に遷ってしまう。

怒りを遷すとは、このことである。

 

これは、中庸を得ていないということだ。

怒るべき時に怒るは中庸である。

ただし、50で怒るべきとき、100で激怒するのは怒りを遷すであり、中庸ではない。

 

中庸を得ていれば、八つ当たりも起こりようがない。

50で怒るべき人に50で怒り、

100で怒るべき人に100で怒り、

怒るべきでない人には全く怒りを向けない。

 

 

八つ当たりせぬくらいのことは、孔門では当たり前のことである。

八つ当たりせぬだけでは足りない。

中庸を得ており、それゆえに八つ当たりも起こりようがない。

 

これが難しい。

顔回であってはじめてできた。

 

過ちを弐せぬ顔回

顔回は、過ちを繰り返さなかった。

孔子のお弟子のうち、顔回だけに許された賞賛である。

 

これにも二通りの解釈がある。

一般的な解釈は、一度犯した過ちを二度と繰り返さないこととする。

しかし「怒りを遷さぬ」を「中庸を得ていたこと」とすると、この解釈は成り立たなくなる。

 

中庸の道を得ている人は、ものごとの正しい在り方や程度が分かる。

何が中庸で、何が中庸でないかが分かる。

ある物事に対して、中庸の道に照らして心の中で考える。

中庸を得た人物がこのように考え、行動するならば、失敗を犯すことはないはずだ。

 

この解釈であれば、「過ちを弐せず」とは「”一度犯した過ちを”繰り返さない」ではない。すなわち、

  1. 心の中で「こうあるべきか」と思う。
  2. 中庸を考え、「いや違う、それは中庸の道ではない。正しくはこうだ」と悟る。

と解釈すべきだ。

1で中庸を得ず、しかし2で中庸を得る。

これが「過ちを弐せず」である。

 

孔門のうち、好学であり中庸を得ており、怒りを遷さぬ人物は顔回ひとりであった。

中庸を得ていたから、過ちを犯すことがないのも顔回ただ一人だった。

 

実際、論語には高弟が孔子に戒められる話がたくさんあるが、顔回だけはそれがない。

一度は失敗するが、二度は失敗しない。

もしそうであれば、ひとつくらいは顔回が戒められる話があるはずだ。

特定の弟子の失敗を隠すほど、論語はせこくない。

ましてや、顔回が立派な人物であるほど、「その顔回でもこのような失敗があった」として掲載されたはずだ。

 

中庸こそ顔回の真骨頂

このように解釈すると、顔回が亜聖といわれる理由がよくわかる。

中庸を得た顔回は、聖人といってよい。

ただ顔回は、

「自分は先生(孔子)に遠く及ばない、努力を重ねて追いついたと思ったら、先生は遥か遠くに行っておられる」

といった。

その孔子への遠慮から亜聖とよぶ、そのくらいなものである。

 

中庸を得ており、怒りを遷すことがない。

また、何でも中庸に照らして考える。

心の中で一度間違えることがあっても、それが言動になる前に心の中で正す。

だから、失敗することもない。

 

顔回は、学問してこの境地に至ったのだ。

顔回こそ、「学問すれば聖人になれる」ということの証拠である。

 

「好学」とは

現代では、本を読んだり、講義を聞いたりすることが好きな人を「好学」と評するが、孔子に言わせれば、それだけでは好学とは言えない。

ましてや、ただお金を稼ぐとか、

ただ資格試験に合格するとか、

ただ試験でいい点数を取るとか、

ただ知識をたくさん身につけるとか、

そんなものは好学ではありえない。

 

好学とは、寝食を忘れるほど、熱烈な姿勢があってはじめて許される評価である。

しかし、その姿勢があっても結果が伴わなければ、孔子は好学とは言われまい。

学問に励み、中庸を得た人であって、はじめて好学といえる。

好学とは、熱心に学問する姿勢は前提であって、それによって中庸を得た人への評価なのだ。

 

中庸を得るために学問する、これだけでは不十分だ。

学問して中庸を得た、これが好学の証明になる。

孔門において、「好学である」の評価は大変厳しいものなのだ。

 

ゆめゆめ、自分のことを「好学」などと思うまいぞ。

顔子の道の厳しさを思い、自戒の念を強くした。

弁才縦横、商才抜群、子貢は瑚璉なり

孔子のお弟子の中でも、異彩を放つ人物といえば子貢しこうである。

顔回、曾参、子路など色々な人物がいるが、子貢は特に変わった趣のある人物である。

今回は、子貢を取り上げる。

 

 

 

子貢の人物

子貢は、孔子の弟子の中でも特に優れていた。

子貢はあざな、姓は端木たんぼく、名は

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弁舌の人

弁舌に優れ、孔門十哲の一人に数えられた。

左伝には、子貢が外交官として活躍した内容が散見される。

史記の仲尼弟子列伝になると一層華やかで、天下を駆け回って弁舌を縦横に振るい、魯を国難から救った様子が描かれている。

このことは、いずれお話しする。

 

子貢の商才

孔子の弟子の中でも、子貢は特異な存在である。

商才に恵まれていたのだ。

 

ドラマ『孔子春秋』は、弟子入り前の子貢を“イヤな金持ち”として描いている。

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弁才や商才は天賦のものだ。

それで道徳に欠けていたとすれば、小才子といえる。

確かに、弟子入り前の子貢はこのような感じだったかもしれない。

ボロボロの服を着て平然としていた子路、極貧のうちに早逝した顔回など、孔子の弟子には貧乏した人が多いが、子貢は抜群の理財家であった。

相場の騰落をよく当て、今でいう商品相場で大いに儲けたという。

史記の貨殖列伝にも子貢の話が出てくる。

 

「子貢は、孔子の弟子の中で一番富裕であった。

弟子の中には酒かすやぬかさえ食べられなかった者もいたが、子貢は四頭立ての馬車に乗り、絹の束を贈り物にして諸侯と交際した。

どこに行っても、その国の君主は子貢を対等の礼儀で迎えた。

孔子の名が天下に広まったのは、子貢がいたからである」

 

金持ちな君子

子貢の偉いのは、単なる相場師や商人でなかったことだ。

儲けた金の使い方がうまく、孔子をよく助けた。

孔子の活動の陰には、子貢の儲けた金がかなり動いたのではないか。

 

論語の編纂にも、子貢の商才の功績が大きいと思われる。

孔子の死後、数十人の高弟が集まって論語を編纂した。

その中心の一人が子貢である。

編纂にかかった期間は明らかではないが、長い期間を要したことは間違いない。

当然、費用も馬鹿にならなかったであろう。

子貢は、孔子の死後6年間にわたって喪に服したほど、孔子を尊敬していた。

論語編纂の熱意は人一倍強かったと思われる。

多額の私財を投じていたとしても、なんら不思議ではない。

孔子の生前も死後も、子貢の商才が貢献したところは大きいと言える。

 

子貢は瑚璉なり

論語公冶長篇に、子貢と孔子のやり取りがある。

 

子貢問ふ。如何いかん。子曰く、なんぢなり。曰く、何の器ぞや。曰く、瑚璉これんなり。

 

子貢が孔子に問うた。

「先生、私(賜)はどうでしょうか」

孔子は仰った。

「お前は器だよ」

「どんな器でしょうか」

「瑚璉だ」

 

何かの折に、子貢が孔子に自分の評価を問うた。

孔子が他の弟子について語っているのを聞いて、「なら私はどうですか」と聞いたのかもしれない。

孔子が仰るには、「お前は器である」。

 

君子は器ならず

子貢は、これを嬉しいと思わない。

なぜならば、為政篇で孔子が「君子は器ならず(君子は器のようなものではない)」と仰っているからだ。

 

器とは、色々な器物を広く指すもの。

現代でもお皿やお椀を「うつわ」という。

机や椅子も器である。

つまり器とは用途の決まっているもののこと。

 

コップは、液体を入れることにしか使えない。

応用しても、棒状のものを立てたり、小物を入れたりといったところ。

用途が限定されている。

机はものを書くため、椅子は座るためと、用途が限定されている。

 

君子とはそんなものではない。

器ではない。用途が限定されない。

 

一国の宰相になれば、宰相として立派に務める。

下役人になれば、下役人として立派に務める。

仕えずにいれば、在野で活躍する。

子としては親に、親としては子に対し、立派な子であり親である。

生きている間は生きている者として、天下に利益をもたらす。

死後は死後として、天下に利益をもたらす。

立場や時間に影響を受けず、無限に活きるのが君子というものである。

 

孔子は、君子をそのように考えた。

 

子貢の才能を褒める

孔子は子貢を器と評した。

しかし私は、子貢は器ならぬ君子であると思う。

 

弟子としてよく孔子に仕え、

外交官として弁舌を振るって国難を救い、

理財家として道の普及に貢献し、

論語編纂に尽くして死後に志を伸ばしている。

 

しかし、孔子は子貢を「器なり」と評した。

このように尋ねた時は、まだ未熟で器の域を出なかったのかもしれない。

君子は器ならずの理想を知っていたから、子貢は孔子の評価を不満に思った。

「どんな器でしょうか」と重ねて尋ねた。

 

器は器でも、特別なことに用いる器もあれば、日常生活に欠かせない器もあれば、いつだって役立たない、使い物にならない器もある。

豪華絢爛な器もあれば、素朴で味わい深い器もある。欠けたボロの器もある。

 

孔子は「お前は瑚璉だ」と仰った。

瑚璉とは、大事な祭祀に用いられる、貴重な器である。

当時は政事と祭事が密接であったし、孔子は祭祀を重んじた。

祭祀に欠かせない器は、政事に欠かせない器とイコールである。

つまり、孔子は子貢に対し、

「お前は、国の大事に欠かせない、貴重で立派な人物だよ」

と評したわけだ。

 

私的解釈:孔子の戒め

しかし、孔子一流の戒めも含まれている。

それは「瑚璉」にある。

 

瑚は、の祭祀に用いられた器である。

璉は、殷の祭祀に用いられた器である。

孔子の時代、周の祭祀には簠簋ほきという器が用いられていた。

 

(※根本通明先生の『論語講義』、諸橋轍次先生の『大漢和辞典』では瑚を夏のもの、璉を殷のものとする。

逆に、瑚を殷のもの、璉を夏のものとする説もある。吉田賢抗先生の『論語』ではこれを採用している。)

 

 

子貢は瑚璉であっても簠簋ではない。

「夏や殷の時代であれば、お前は国の大事に欠かせない立派な人物といえるが、今(周の時代)には適さないね」

という評価とも受け取れる。

 

周は二代に監みて

私なりの解釈だが、これは「まだ中庸に至らぬ」の意味ではないかと思う。

論語八佾篇に、こんな言葉がある。

 

周は二代にかんがみて、郁郁乎いくいくことして文なるかな。吾は周に従はん。

 

周は、夏・殷の二代を比べ、手本にしつつ礼儀を整えた。

夏の礼儀は、行き届かないところがあった。

殷の礼儀では、夏の行き届かないところを改めたが、却って行き過ぎるところもあった。

文は文飾、郁郁乎は飾りの美しいこと。

周は夏・殷のそれぞれの善いところを取り、悪いところを改め、礼儀をより美しいものへと整えた。

だから、私は周の礼儀に従おう、という孔子のお言葉である。

 

当時の子貢は中庸を得ぬか

夏は行き届かない、

殷は行き過ぎる、

周は丁度良い中庸。

 

行き届かぬ夏は瑚、

行き過ぎる殷は璉、

丁度よく中庸を得た周は簠簋。

 

子貢は、行き届かぬ場合や行き過ぎる場合に力を発揮する「瑚璉」である。

例えば、国際間の緊迫した状況、つまり「行き過ぎた局面」では弁舌を振るい、

布教活動にお金が足りない状況、つまり「行き届かぬ局面」では商才を発揮した。

 

孔子は子貢に対し、

「難事に瑚璉として働ける才能は立派なものだが、平常時にも簠簋として働ける才能がまだ足りないね。励みなさい」

という意味で、

なんぢは器なり、瑚璉なり」

と評したのではないか。

 

私はそんな風に考えている。