ツイッターで、菜食主義に関する発言を目にすることがある。
菜食主義については、数冊の本を読んだだけで、それほど多くの知識はない。
また、私は肉が大して好きなわけではない。
もちろん、食えば美味しいと思う、嫌いでない。
強いて肉を食べなくても困らないという程度で、強いて避けようともせず、菜食主義とは遠い。
これまで、菜食主義についてあまり深く考えたことがなかったが、良い機会なのであれこれ考えてみる。
儒教に肉は欠かせない
まず、根本的なことだが、儒家は菜食主義を肯定しない。
強いて否定するわけでもないが、菜食の徹底となると否定せざるをえない立場にある。
祭礼と肉
儒教において、祭礼はまことに重要なものである。
祭事と政事は表裏一体だ。
どんな祭祀でも、大抵は肉を捧げる。
肉を捧げるは毎朝のこと
諸侯ならば毎日、肉を神に捧げた。
礼記玉藻篇に曰く、「朝服して以て食す。特牲三俎あり、肺を祭る」
まず朝は三俎、すなわち豚・魚・腊(丸干しの肉)、殊にその日殺した生贄の肺を捧げ、神に朝食を差し上げる。
夜も肉を捧げる
夜は牢肉(小さく切った肉)を捧げる。
古は「膾は細きを厭わず」で、生肉を調理するにはできるだけ細く切る。
肉は全て、大きく切るのは礼でない。古の大悪党である盗跖などは人肉を膾で食ったというが、このとき肉の切り方は大きかったらしい。ここに盗跖の非礼、乱暴さが良く表れている。
全て肉には正しい切り方がある。ゆえに「割正しからざれば食はず」。
牛なら牛、豚なら豚、鹿なら鹿で正しい切り方がある。
フグなど分かりやすい。
割正しからざれば、肝臓や卵巣、皮膚などを傷つけ毒が漏れる。
あるいは除去が不十分で毒が残る。大変危険で、割正しきことが不可欠である。
これと似たことが、全ての肉にはある。
だから、割を正しく、かつ小さく切ることで、はじめて礼に適って供物となる。
なお、貝原益軒先生の『養生訓』にも、肉の大きく切ったものは気をふさぐから避けよとある。
大きなお祭りは肉も豊かに
論語八佾篇の告朔の餼羊のように、朔月の祭りには必ず羊を丸ごと一頭捧げる。
礼記玉藻篇には「朔月には少牢」とある。少牢は羊のこと。
少牢を加えて五俎、すなわち豚・魚・腊の三俎に羊肉と羊の腸・胃を加えて五俎とする。
これで朔月に捧げる肉が整う。
神様のお下がりをいただく
祭った後、祭祀に携わった人などに祭肉が分配される。
君公が主催する祭祀であれば、臣は君から祭肉を賜る。
これは、君臣の礼を確かめる機会の一つであり、重要なることである。
祭りを行ったにもかかわらず、君から臣へ肉を賜らなければ、それは君臣の礼儀に反する。君が臣を軽んじた、となっても不思議ではない。
孔子が魯の大司寇を辞した経緯が好例である。
当時、魯の政治は乱れに乱れた。道徳も乱れた。
孔子は大変失望されて、もはや朝を去るべきかとお悩みになった。
そんなとき、大きなお祭りがあったが、君から臣へ祭肉を賜らなかった。
孔子は「もはやこれまで」と、魯を去ったという。
君公から賜った祭肉は「肉を宿めず」でその日の中に食べてしまう。日をまたがず食べるが礼。
自分で先祖などを祭った場合の祭肉は「三日を出さず」で、できるだけ味の変わらないうちに食べるのが礼である。
「三日を出づるときは之を食はず」、三日以上経過したら食べない。
時間が経てば肉は悪くなる。
そもそも、早く食べずに腐敗させたは非礼である。
そのうえ無理に食べて、体を損なってはなお悪い。
菜食主義になりえない
神様には肉を捧げる。肉食を否定すると困ったことになる。
菜食主義では肉食を忌む。人間が忌むものを神に捧げることはあり得ない。
人間も好む、良いものであるから捧げるのだ。大きな祭祀では肉を豊富に捧げる。
菜食主義では祭礼が成り立たなくなる。
そして、祭肉は神様のお下がりとしてしっかり食べる。
これが当たり前であるから、そもそも原始儒教において菜食主義という概念が生まれる余地はなかったといえる。
喪中の肉食
例外的に、喪中は肉食しない。
しかし、これは菜食を尊ぶのではなく、肉食を忌むわけでもない。
喪中は何を食べてもうまくない。
うまい肉を食えば、もはや親がそれを食べられないこと、美味しい肉を分かち合えないことなど、色々に悲しく思われる。だから肉を食べない。
肉を遠ざけて食べないのではなく、肉を食べる気がしないから食べないのだ。
事実、喪中の肉食は必ずしも禁忌ではなかった。
元来虚弱体質の者、高齢の者、病気に罹った者など、喪中であっても肉を食べて元気をつけることが許された。
いくら喪中とはいえ、ことさら肉食を避けて体を悪くするのは礼でない。
これは『小学』あたりに書いていたように思うが、どこに書いてあったか見つからなかった。記憶を頼ったので、あるいは間違いがあるかもしれない。
肉食は体を養う
祭祀に限らず、肉食は良いこととされた。
ただし、論語郷党篇に「肉は多しと雖も、食の気に勝たしめず」とある。
「食」は「シ」と読んで常食すなわち米の飯の意。
味の良い肉がたくさんあっても、ご飯より多く食べてはならない。
それを守れば、肉は体を養うに良い。喪中の肉食も然り。
『養生訓』にも、穀物も肉も体を養うものだが、穀物の気が肉の気に勝てば長命、肉の気が穀物の気に勝てば短命とある。
儒家の養生の基本であろう。
肉は体を養うのだから、これを親に差し上げるのは孝行である。
礼記内則篇には、親に差し上げるたくさんの肉料理について述べてある。
孝は儒教において根本的な、非常に重要な徳目である。
己の菜食主義を以て肉食を忌み、肉を以て親の体を養うことをしなければ不孝といえる。
肉食を忌み、孝の道に適うとすれば、親が菜食主義者の場合だろう。
親の行いや志をよく見て、それに適うように振る舞うのは孝である。
したがって肉食を忌むことも孝になり得る。
動物の命をどうみるか
菜食主義、肉食の否定の背景には、動物愛護の観点があるように思う。
たしかに、家畜の扱いにはひどいものがある。
そもそも、食われるために生まれてくるのは、どうも憐れで仕方がない。
鶏卵にしても、レイヤーの卵は食べる気にならない。一生日の目をみず、死ぬまで卵を産み続ける。
これらに対し、憐れに思うのは仁である。
仁の大小
しかし儒家にとって、これは小さな仁である。
小さいとはいえ仁であり尊いが、そのために大きな仁を棄ててはならない。
大きな仁とは何か。
治国平天下は大なる仁である。
孝経に曰く、孝は徳の本なり、教への由て生ずる所なり。
孝から儒の教え、すなわち明明徳、親民、止至善という儒家の三綱領も生まれてくる。
古来、天下を平けく治めるに祭祀は必要不可欠であった。
祭祀が適切に行われるならば仁政である。
祭祀に肉を捧げ、仁政を布くために、その必要上肉食を肯定するならば、それは動物の命を軽んじているのではないし、不仁でもない。
先祖を祭るに肉を用いる。
親を養うにも肉を用いる。
孝にも色々だが、その一部分は肉食と密接な関係にある。
祭祀ならばなおさらだ。
したがって、肉食を否定して動物を愛護するは小さな仁、肉食を肯定して家庭内の小道徳から治国平天下の大道徳へと推演するは大きな仁である。
命は平等ではない
親のため、先祖のため、祭祀のためといって、他の生き物の命を奪うのは不仁ではないか、命は平等ではないか。
そんな意見もあるかもしれないが、儒家はそう考えない。命は平等ではない。
兼愛では道徳が崩壊する
同じ人間であれば、なんでもかんでも全くの平等と考えるのは、儒家ではなく墨家の思想である。
墨家は、身近な人も、赤の他人も等しく愛すべき(兼愛)であり、君公や親や兄弟などをことさらに愛することを差別的であり偏愛であると考える。
儒家はそうではない。身近な人と赤の他人の命は平等ではない。
もちろん、赤の他人の命がどうでも良いというのではない。自分と関係あろうと、なかろうと、命が尊いのは当然のことである。
ただ、身近な命は一層尊い、と考える。
全ての人間を全く平等に愛すればどうなるか。
道徳は成り立たなくなる。
平等でないところに義がある
親子、君臣などの関係において、強い仁愛で結ばれてこそ義や礼も生まれてくる。
親と赤の他人が全くの平等では、義はおかしくなる。
赤の他人を助けるために親を捨てることも成り立ってしまう。
儒家ではそれを認めない。
親の存命中は、互いに命をかける友を作ってはならないとする。
友への義によって命をかけ、親を残して死んだり、親に累を及ぼすは大なる不孝である。
儒家が基本的に遊侠・男伊達を嫌う理由もここにある。
平等でないところに礼がある
礼も同じ。
孝とは、子として親に礼を尽くすことだ。
忠とは、臣として君に礼を尽くすことだ。
兼愛を窮めてゆくと、親も君も他人も平等になる。
もっと言えば、自分も親も、家臣も君主も平等になってしまう。
これでは礼儀が成り立つはずもない。
自分に近しい人の命と、赤の他人の命を比べても平等ではない。
ましてや、人間と動物の命が平等であるわけがない。
それでよいのだ。
儒教は人間を本位とする
儒教は、人間世界を軸に教えを立てている。
天地とか、宇宙とか、大きなものから見れば人間など非常に小さな存在である。
しかし、人間として生まれ、人間世界に生きていくならば、人間を尊重すべきだ。
人間を本位として道を立て教えを立てるべきだ。
人世を尊重して教える、これが儒教の、聖人の教えの建て前である。
だから、儒教では天国とか極楽を説かない。
子路から「死とは、どうあるべきでござりましょう」と問われたとき、孔子は「そんなことより、生を考えよ」と答えられた。
これが儒家の基本的な態度である。
惻隠と動物愛護
動物を愛護するにも、人世を尊重し、人間への仁愛を推演して動物愛護を考えるべきだ。
それでこそ、人間以外の命に対して可哀そうに思う真心もでてくる。この真心を惻隠という。
孟子曰く、惻隠の心は仁の端なり。惻隠は仁より生じる。惻隠を求めることは仁を求めることにほかならない。
君子は台所を避ける
礼記玉藻篇に曰く、「君子は包厨から遠ざく」
君子は台所に入らない。なぜか。
台所では生き物を殺して肉を得る。
それを神様に捧げる、あるいは料理に使う。
そのとき、生き物はやはり苦しみ悲しむ。
悲し気な声をあげることもある。
苦しさにうめくこともある。
断末魔の叫びも起こる。
その様子を見たり、その声を聞いたりしては、とても肉を食べる気になれない。
これを孟子は、
「其の生を見ては、其の死を見るに忍びず。其の声を聞きては、其の肉を食ふに忍びず」
といった。
その死を見て、声を聞き、さらに肉を食うならば、惻隠の心を殺して肉を食べているか、そもそも惻隠の心を持っていないことになる。
それは不仁であるから、惻隠の心を全うするべく包厨から遠ざかる。これを、
「凡そ血気あるの類、身づから践さず」
という。
血気あるの類とは、血の通う生き物全般、それを自ら殺すことはない。「殺」から遠ざかる。
四不食というのもこれに基づく。すなわち、
- 殺すところを見たら食わない。
- 殺すと聞いたならば食わない。
- 自分で飼っているものは食わない。
- 自分を手厚くもてなすために殺されたものは食わない。
を四不食という。
4の解釈には戸惑っている。自分をもてなしてくれるものを食べないのは非礼ではないか。これは今後じっくり考えたい。
また、四不食も出典を探し出せず、儒教だったか道教だったか、あるいはそのほかだったか定かでない。
ただ、どちらであってもあまり問題にならないと思う。
中庸はどこにあるか
孟子の教えや四不食を考えると、儒教は肉食を肯定しつつも、生き物の命を慈しむ心もある。
儒教的中庸の道をここに見る。
動物を愛するあまり、人間と動物の命を混同したり、どうかすると人間の命を低く見る。
そんなものは小なる仁に囚われているのであって、もはや仁ではない。
もちろん中庸でもない。
動物愛護の観点を持たず、奔放に肉食するならば、時に惻隠を失う。
仁ではないし、中庸でもありえない。
丁度よきところ、中庸はどこか。
肉食のポジティブな面は変に疑うことなくしっかりと受け入れ、肉食であるべき場合には大いに肉食してよい。
そのうえで、惻隠の心を失わず、憐れむべきは憐れむ。四不食は守るし、特に必要なければ肉は食わない。
菜食絶対とは思わないし、肉食大歓迎でもない。
他人が肉食でも、菜食でも、正しく考え実践しているならばとやかく言う必要もない。
私のインドの友人はビーガンである。それは結構なことと思う。
私の兄は肉があればそれで満足というくらい、肉が好きである。それも結構である。
動物愛護といい、菜食主義といい、SDGsといい、その主張するところは誠に結構なものである。
しかしなんとなく不気味に感じることも多い。
行き過ぎた主張に陥りやすいからだろう。
それを唯一の正論のように振りかざせば、反発する人も大勢いて当然だ。
自分なりによく考えて、自分はこう思う、正しくはこうあるべきという所をつかんで、自分なりに実践すればいいのではないか。
孔子の教えでは、肉食は良いことである。孔子ご自身も肉を召し上がった。
私にはそれだけで十分だ。
長々と書いてきて、結局こんな風に思った。