般若心経を日に百回読誦。この習慣を続けるうち、集中力が極度に高まる感覚が増えた。
回数を重ねるごとに徐々に入り込んでゆく。集中力が高まってくる。
例えば、目を開いているのに目を閉じたようになる。
部屋は薄っすら明るい。目が開いていればモノが見えるのが道理だ。しかし真っ暗になり、線だけになる。一点を見つめて目を閉じると残像がしばらく見えるが、あんなふうに見える。
見ているはずのものが見えなくなる。確かに見えているが、脳がその刺激を受けなくなっている。これはおそらく集中力によるものだろう。
似たことは誰にでもある。極度に集中していたら、見えているはずのものが見えなくなる。
視覚だけではない。五感はどれも同じだろう。人に声をかけられても聞こえなくなる。聞こえるものが聞こえなくなる。音は確かにあるが、脳がその刺激に反応していない。
孔子が韶を聞いて肉の味がわからなくなった(味覚)というのも同じことと思う。
ただしこの場合、「感じる→感じない」への変化が曖昧だ。次第に集中し、いつの間にか感じなくなる。
般若心経を唱えていると、「見える→見えなくなる」という変化がまざまざとわかる。体感できる。
今はまだ、極く浅い感覚だ。しかしこの感覚を具体的に掴めば、自分の意思であらゆるノイズを断ち切り、集中状態へと持ち込めるようになるかもしれない。
ノイズを断つというのは、外から内への刺激そのものを断つのではない。刺激そのものを断つなら、目を閉じたり、耳栓をしたりするのが手っ取り早い。
そういうことではない。外から内への刺激はそのままに、内のほうで刺激に左右されないのである。
この感覚は、学問の大きな助けになるに違いない。克己復礼の実践にも役立つのではないか。
顔回「仁とはどういうことですか」
孔子「己に克って礼を
復 むのが仁だ」顔回「具体的にはどうすればよいでしょうか」
孔子「非礼は視るな、聴くな、言うな、行動にあらわすな」
顔回「私は不敏ですが、その教えを一生の仕事にいたします」
孔子の時代は非礼にあふれていた。だから孔子は礼を重視したわけだ。そんな時代に、非礼を全く視ず、聴かずに生きることはできない。あえてそれをするならば、単に非礼から目を背け、耳を背けているに過ぎない。それは孔子の道ではない。
非礼を直視し、しかも惑わされず、礼に生きるのが孔子の道である。
「克己」の「己」は「身」であると、根本通明先生は仰る。身には欲がある。
非礼はたしかに存在する、目にも視える。耳にも聞こえる。しかし非礼から刺激を受け、影響されるかどうかは自分次第である。
非礼が我が身(己)を刺激する。その刺激に惑わされず、欲に流されないことを克己という。
集中することによってノイズ(非礼)の影響を断ち切ることができれば、孔子の仰るうち「非礼を視るな、聴くな」は達せられる。非礼を視ても聴いても惑わされず、克己の半分は達せられる。
「非礼を言わず、行動にあらわさず」も同じ。非礼なる言動の多くはノイズの影響が表面化したものだ。外部の非礼に刺激され、影響され、惑わされ、言動が非礼に陥る。克己によって非礼を視ず聴かずの状態になれば、非礼なる言動も減るだろう。
もちろん、外部の非礼があってもなくても、非礼な言動がなくなるわけではない。外から内への刺激とは関係なく、内のほうで勝手に刺激が起こり、欲に流されることがある。
食欲がわかりやすい。
美味そうなものを見て食欲がわくことがある。これは外から内への刺激で欲が生じる。
しかし、美味そうなものを見なくても、勝手に腹は減ってくる。腹が減れば食欲が出る。これは外からでなく、内のほうで刺激が起こり、欲が出てくるわけだ。
非礼もそうで、非礼は外から内へ向かうもののほか、内でおのずと生じるものがある。
例えば、礼では手足をこう動かすべき、ということがある。しかし疲れて億劫であれば、非礼なる行動に陥りやすい。この非礼は内で起こったものだ。それに刺激せられて、惑わされ、我が身の欲に流され、非礼が表面化する。克己のためには、内なる非礼にも刺激せられてはならない。
非礼に刺激されることがなければ、礼に外れることはない。礼に外れなければ、礼を正しく履むことができる。克己があって復礼がある。
克己するには、集中することだ。自分の日々の務め、学問、大きく言えば道というものに本当に集中すれば、非礼に惑わされにくくなる。
大学に曰く、心
心がここにない、他に奪われている、集中していない。そういう状態では、視ても(本当のことは)見えない、聴いても(本当のことは)聞こえない。
集中することで視ても見えない(視るものに刺激されない)、聴いても聞こえない(聴くことに刺激されない)とは大違い。
集中すればどうなるか。心焉に在れば、耳目聡明。
耳が当たり前に聞こえるのではなく、よく聞こえる。非礼を聴いて、当たり前に聞こえるだけでは刺激され惑わされる。耳が聡ければ、明らけく聞こえる。本当のことがわかる。聞くべきもの(礼)を聞き、聞くべきでないもの(非礼)は聞いても惑わされない。
目も当たり前に見えるのではなく、よく見える。非礼を当たり前に見て、刺激され惑わされるのではない。聡く明らけく見て、本当のことがわかる。
もちろん、耳目の聡明さにも程度がある。耳目聡明になりきれば仁に近い。
易には「
巽は巽順、へりくだって従順であること。孔子の教えを受けて「一生の仕事にします」といった顔回のように、聖人賢人にへり下り、教えに従順であること。
これは、集中するということだ。一つの教えに集中せず、色々な教えを行ったり来たりするのは従順ではない。正しい教えに集中し、従順であるから学問修養が進む。耳目も聡明になってくる。
耳目が聡明になるにつれて、物事が正しくわかり、非礼に惑わされることが減る。克己し復礼し、仁に近づく。
やがて真に耳目聡明になれば、もはや明徳といえる。耳目が聡明であれば心の徳は必ず明らかであり、心の徳が明らかであれば必ず耳目は聡明なのである。明徳は仁である。
さらにいえば中庸である。あらゆる物事の中なるところが正しくわかり、失うことがない。
顔回はそうであった。顔回といえば「過ちを
非礼を犯す際、まず非礼が心に浮かぶ。これが一度目の過ち。浮かんだ非礼を言動にあらわす、これが二度目の過ち。顔回にはこの二度目がない。心に浮かんだものを心の中でよく考えて、非礼であれば去ってしまう。一度目があって二度目がない。これが顔回の「過ちを貳せず」である。
孔子の教えに巽順で、非礼を視ず、聴かず、言わず、為さず、克己復礼に努め、やがて耳目聡明・明徳・中庸に至った顔回だから、過ちを貳しなかった。
孔子が「己に克ちて礼を復むを仁と為す」と仰ったのは嘘ではない。顔回が証明している。
巽順にして耳目聡明・明徳の仁者が上に立てば、万事が中を得る。柔順にして中なる徳があるから、剛強にして中なる徳を持った賢人とも相応じ、引き立てることができる。だから元に亨る、すべてうまく回っていく。
易ではそう教える。
学問における集中の功を大きく言えば治国平天下、小さく言えば克己復礼。小より大を為し、近きより遠くへ及ぼし、低きより高きに至るのが儒学である。
儒学を学ぶものは克己復礼に努めるべきだ。内外の刺激を受けても、惑わされぬこと。そのためには集中すること。
畢竟、克己復礼は集中力の如何にかかっている。今の世の中、集中を妨げるものが非常に多い。目の前の集中すべきこと以外はすべて「異端」である。
孔子曰く、攻乎異端、斯害也已。
普通、これは「異端
根本先生もそのように解したが、後年改められた。「異端を
異端を
攻 むるは猶敵を攻むるが如くせよ。之を攻落して正に帰せしめよ。異端は有害無益なり。
と解した。
礼でいえば、非礼は異端である。
「非礼を
ならばどうするか。孔子は「克己復礼せよ」と仰った。そのためには非礼を視るな、聴くな、言うな、行動にあらわすな。
これは、単に「非礼は害だから遠ざけよ」ではない。己に克つとは、刺激と欲から逃げ回ることではない。非礼を直視し、刺激せられる己と対峙し、克てということだ。
王陽明の言葉に「心中の賊を討つ」とある。また山田方谷先生の漢詩にも同じことがある。あるとき方谷先生は、胃潰瘍のために激しく吐血する。血を吐きながら詠んだ詩はこうである。
賊拠心中勢未衰 賊、心中に
天君有令殺無遺 天君令あり、殺して遺す無かれと
満胸迸出鮮鮮血 満胸迸出す鮮々の血
正是一場鏖戦時 正に是れ一場鏖戦の時
賊とは、心の中に巣くう賊、刺激と欲に流される己。その勢いが未だ衰えない。克己復礼が十分でない。
この賊を一人残さず殺せというのは、天よりの厳命である。
中庸に曰く、天の命ぜる、之を性と謂ふ。性に
孔子の教えに克己復礼あり。この教えによって道を修め、性に率うことは天命にほかならない。
この天命を奉じ、克己復礼に努めてきた。見よ、胸をいっぱいに満ちた鮮血が今迸る。大いに吐血した。これは奴ら(心中の賊)の血である。
さあ決戦の時、一気呵成にやってしまえ。奴らを皆殺し(鏖)にするのは今だ。
まさしく「異端を攻めよ」だ。この気合いでやってこそ、異端・非礼に流れる己に克ち、礼に復ることができる。耳目聡明・明徳・中庸は、その先にあるのではないか。
集中して取り組むことが大前提である。学問は、ただやればよいというものではない。集中しなければならない。それでこそ修養が進むし、克己復礼にもつながる。その工夫を続けたい。集中するにも試行錯誤と工夫がいる。
思うままに書いた。もっとよく考える必要があるだろう。しかしともかく、般若心経の読誦を重ね、体験したことを考え、ある程度まで敷衍できたと思う。