何日か前、こんなニュース記事を見た。
これに対し、「やりがい搾取」などとして、ツイッターで酷く叩かれていたようだ。
孔子なら、この問題をどうお考えになるだろうか。
孔子の逸話や言葉から、私なりにこの問題を考えてみたい。
景公の手厚いもてなし
組織に仕えることについて、孔子は色々な言葉を遺している。
参考になる言葉や逸話はいくらもあるが、分りやすいものをひとつ取り上げてみる。
微子第十八
論語
斉の景公、孔子を待ちて曰く、季氏が
若 きは則ち吾れ能はず。季孟 の間を以て之を待たん。曰く、吾れ老いたり。用ふる能はざるなり。孔子行 る。
斉の景公は大変裕福であった。論語季氏第十六には、
斉の景公馬千
駟 あり。
とある。
駟とは四頭立ての馬車である。駟がひとつで馬四頭、千駟は馬四千頭。
これが景公の私有財産であって、ともかく裕福であった。
章句の意味
この章句の意味は、大体以下の通りである。
景公が孔子を歓迎して言った。
「季氏のような待遇はできませんが、
季孫 氏と孟孫 氏の中間くらいの待遇をいたしましょう」またこうも言った。
「私はすでに老いました。あなたを用いることはできません」
それを聞いて、孔子は斉を去った。
「待」の解釈
この章句を理解するポイントは「待」の解釈にあると思う。
「景公、孔子を待ちて」の部分について、「景公が孔子を採用するにあたり」の意味に捉える解釈も多い。
しかし、ここは単に「歓迎する」とか「もてなす」くらいの意味が妥当であろうと思う。
「待」という漢字にはそういう意味がある。
また、景公は「吾れ老いたり。用ふる能はざるなり」と言っている。
これは、賢人として名高く、魯では大司寇として大きな実績を残している孔子を、大臣など高い位に就けて一緒に政治をすることはできない、の意味である。
大臣などの位に就ける待遇はできない、しかし季氏と孟氏の中間くらいの待遇でもてなそう。
魯の三桓とは
当時の魯は、季孫氏・孟孫氏・
それぞれの家の規模を比較すると、「季孫氏>孟孫氏>叔孫氏」。
季孫氏は魯公より富んだといわれているから、魯で一番の金持ちといってよい。
景公は、季孫氏のような待遇はできないという。
しかし、二番手の孟孫氏よりは良い待遇、季孫と孟孫の中間での待遇を考えた。
かなりの好待遇と言ってよい。
大臣などの高位につけるわけではないが、このような好待遇で迎えたい。
これは、大臣としてではなく客分として仕えてほしい、現代風に言えば相談役になってほしい、ということでもある。
もうひとつの狙い
また、賢人として名高い孔子を手厚くもてなせば、天下の俊傑が斉に集まるだろう。
「景公は賢人を大切になさるらしい」と天下に知られ、我も我もと良い人材がこぞって斉に集まる。
景公には、いわゆる「先づ
客分として仕えることで、いくらか政治に関与することはできるかもしれない。
しかし、あくまでも客分である。景公はそれ以上の待遇を考えなかった。
孔子は斉を去った。
私的解釈①:厚遇の背景
景公を支えて斉を栄華に導いた宰相は、
諸説あるが、晏嬰と孔子は政治においては対立していたらしい。
孔子の理想は王道であるが、晏嬰は覇道である。それは斉のありかたにもよく表れている。
主義が違えば対立もする。
しかし、孔子が晏嬰を褒めた言葉も残っているし、お互い一個の人間としては認め合うところがあったものと思う。
そんな晏嬰を、景公は深く信頼していた。
ただ、この章句への影響はよくわからない。
この章句の逸話がいつ頃のことかよくわからないからだ。
季孟の間という好待遇を受けたことを考えると、孔子の名はすでに天下に知られていたに違いない。
孔子の名が一躍世に知られた出来事と言えば、孔子が景公を外交でやっつけた「
これが紀元前500年。晏嬰の没年も同じであるとする。
晏嬰が存命で補佐していれば、夾谷の会での景公の失態はなかったのではないか。
この後、孔子が魯を出てから斉に訪れたとすると、すでに晏嬰はいない。
私は、この章句の背景に、以下のようなやり取りがあったのではないかと思っている。
諸国を放浪中の孔子が斉にやってきた。
孔子と言えば天下の賢人。
景公は臣下に意見を求めた。
「
孔丘 (丘は孔子の名)が斉に来ている。どのように扱えばよいか」臣答えて曰く、
「覇道を歩む斉は、王道を理想とする孔丘とは相容れません。孔丘を大臣に取り立てれば、政治に混乱を招くでしょう。
しかし孔丘は賢人であり君子です。粗略に扱えば、天下の賢人が斉を見放します。手厚くもてなすべきです」
「どのような待遇が適当だろうか」
「王様のご随意に」
「季孫と同じくらいの待遇にしてはどうか」
「季孫は魯で一番の権力者です。魯を去った孔丘を季孫のように取り扱うと、外交上の問題が生じるでしょう。季孫と孟孫の中間になさっては」
「では、そうしよう」
斉の大黒柱であった晏嬰はすでにいない。
景公の晩年についてはあまり知らないが、老いた景公には頼りになる臣がいなかったのではないか。
斉が覇道を歩むためには、孔子を政治には関与させるわけにはいかない。
厚遇して相談役に据えておくのが一番であろう。
孔子は、政治に関与できなければ意味がないと考えた。
相談役として仕えたところで、自分にできることはないだろう。ならば去るべきだ。
そう考えたのではないか。
私的解釈②:不仁を犯さぬため
孔子が斉を去った理由は、これだけではない気がする。
私は、「不仁を犯さぬため」という理由があったのではないかと思っている。
賢を尊び不肖を賤しむ
孔子家語に、こんな話がある(賢君第十三)。
「賢君が国を治めるとき、まず何から取り組むでしょうか」
孔子答えて曰く、
「
賢 を尊びて不肖 を賤 しむに在り(賢人を尊重し、人格と能力に劣る者を賤しみ、しっかり区別することである)」子路がさらに尋ねる。
「君公が賢人を尊び、不肖を賤しんだにもかかわらず、滅んでしまった国もあります。どこが間違っていたのでしょうか」
「それは、賢人を尊び不肖を賤しむことが人事に及ばなかったからだ。
賢人を尊重するが高い地位につけない。不肖を賤しむが高い地位につけている。
すると、どうなるか。
賢人は『王様は私たち賢人を尊重するが、登用はしない。これは不肖の者どもが高位を占め、政治を牛耳っているからだ』と考える。
不肖の者は『王様は賢人を尊重し、私たちを不適格と考えているらしい』と思う。
賢人は不肖の者を『
君側 の奸 』と怨む。不肖の者は『われらの地位を守るためには賢人をどうにかせねば危うい』と保身に奔る。賢人を敵視する。
怨みと敵視がぶつかれば国は乱れる。だから滅んだのである」
留まれば乱をもたらす
これが孔子の考えであったとすれば、斉を去ったのもうなずける。
景公が孔子を手厚くもてなす。これは賢人の尊重である。
「景公は賢人を尊ぶ」と思い、天下の賢人が斉に集まったらどうなるか。
景公は集まった賢人を尊ぶだろう。しかし、登用して活かすのは難しいのではないか。
老いた景公に政治を主導する力はない。もともと景公は政治に暗い方だ。人事も臣下に委ねるだろう。
孔子に対し、あくまでも表面的に重んじただけの臣下が、集まった賢人たちに活躍の場を与えるとは考えにくい。
すると、賢人は「君側の奸」に怨みを抱く。
臣下は賢人に危機感を抱き、敵視する。
「景公を慕う賢人」と「保身に奔る小人(臣下)」の間で衝突が起こる。
晏嬰がなくなり、景公は老いて政治能力が欠落している。ただでさえ難しい時期である。
そこで、下位の賢人と高位の小人が対立すれば、国は乱れるだろう。
孔子が客分として手厚くもてなされ、斉に留まったことによって一国が乱れるかもしれない。
自分の存在が乱を招く、これは大なる不仁であり、孔子にとってあってはならないことだ。
だから孔子は斉を去った。
推測に過ぎないが、これは面白い考え方ではないかと思っている。
私的解釈③:賢を尊ぶも用いざるは非礼
礼を重んじる孔子としては、ただ手厚くもてなすだけの待遇を「非礼」としたのではないか、とも思う。
詩経に曰く
詩経(
有力如虎 力有り、虎のごとし
執轡如組
轡 を執 る、組 のごとし左手執籥 左の手に
籥 を執り右手秉翟 右の手に
翟 を秉 り赫如渥赭
赫 として渥赭 のごとし公言錫爵
公 、言 れに爵 を錫 ふ
文武両道の賢人
この詩に謳われている人物は、文武両道の賢人である。
虎のように力強く、馬車を御するのが巧みで、武に優れている。
また左の手には笛、右の手には
顔は朱で染めたように赤い。古来、赤ら顔は勇士の特徴である。
そんな文武両道の賢人が、低い地位にとどまっている。国政に参与して力を発揮するなど程遠い。
力を発揮するといえば野生の虎に対してであり、また馬車を御するときくらいのもの。
文を発揮するのは舞楽のみ。
君公の非礼
君公は暗愚で、この賢人の実力を見抜くことができない。要職に就けば必ず力を振うのに、音楽を司る役人の下に就けて舞人に止めている。
しかしこの賢人は、舞人としての職務を怠ることなく、君公の前で一生懸命に舞う。
文武両道の大人物であるから、舞も上手かろう。
舞が終わると、君公は賢人に酒を賜わる。
このときの杯は「爵」である。
礼記の礼器篇に、
- 爵は一升入る杯
盞 は五升入る杯
とある。そして以小為貴、小を以て貴と為すとし、爵は盞より貴いものとされる。
君公は賢人に爵を賜った。
盞より貴い爵を賜ったのだから、「賢を尊び」の態度であり、良いものに思われる。
しかしそうではない。
実際のところ、君公は賢人を低い役目に用い、人格能力に見合う待遇をしていないからだ。
賢人は、高位につけばもっと良い働きができる。良く舞うどころのはなしではない。
しかし、君公は賢人を「良く舞う」ということにのみ用い、「良く舞った」ことを以て尊んでいる。
評価するに足らないところを評価し、真に評価すべきところを評価しない。
これは非礼であり、賢人に対する
表面的には礼がある。しかし実質的には非礼である。
孔子はこれを非常に嫌った。
そんなことなら、表面的な礼などいらぬ。表面的に非礼だが実質的に礼があるほうが良い。
そんなことさえ仰った。
君主が賢人を遇するに、このような非礼があってはならない。
それを責めて、孔子は斉を去ったのではないか。
それを戒めるために、詩経に簡兮の詩を採用したのではないか。
まとめ
「給与で会社を選ぶ人とは働きたくない」
この発言を、孔子は問題視するだろう。
孔子の思想で考えるに、採用する側が採用される側に「待遇を期待するな」などと言うのは、賢を尊ぶ姿勢に欠ける。
もちろん、相手が非礼であるからといって、自分も非礼であってよいことにはならない。
礼は往来する。しかし非礼は往来しない。
非礼を受けたとき、相手の要求に応じないとか、付き合いを拒絶するとか、そういう対応は良いけれども、こちらから強いて非礼にふるまうのは間違っている。
そんな会社では働かないことだ。
しかし、現実はそう甘くない。生活がある。
簡兮の賢人のように、会社側の非礼に甘んじなければならないことも多かろう。
また、斉を去った孔子のように、待遇さえよければいい、というものでもない。
孔子は論語の中で、仕える前から待遇を考えること、現代で言えば「給与で会社を選ぶこと」を戒めている。
そこには、簡兮の賢人のように、仕えた以上はある程度の不満も飲み込め、自分のなすべきことをなせ、という意味も含まれているように思う。
勤め先を選ぶには、組織に礼があるかどうか、自分の能力を正しく見て、能力に見合う使い方をしてくれるかどうか、この辺が重要に思える。
しかし簡兮の君公のように、一見礼があっても実は非礼、賢を尊び不肖を賤しむが人事が伴わない組織もあるわけで、これが難しいところだろう。
会社勤めをしたことがない私にいえるのは、これくらいである。