周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

宰我昼寝考

孔門十哲の一人で、言語に優れているとして子貢と並んで挙げられた人物に宰我さいが宰予さいよ)がいる。

今回は、宰予の昼寝について考察する。

 

宰我について

十哲に入るくらいだから、優れた人物に違いない。

しかし、論語からは全くそれが見えてこない。

 

孔門の問題児

とにかく、いいところがない。

哀公を煽って叱られたり、

三年の喪を唱える孔子に「一年でいいでしょう」と意見して呆れられたり。

 

中には、

井戸に人が落ちたといえば、それが嘘でも君子は井戸に飛び込みますか?

(君子の仁の心に付け込んで、危害を加えることができますか?)

という、ちょっと訳の分からない質問をしたり。

 

心酔する宰我

ただ、高弟が等しくそうであったように、孔子への心酔ぶりは徹底している。

孟子』には、宰我孔子を称えた言葉がある。

曰く、

予を以て夫子を観れば、堯舜に賢ること遠し

予は宰予、堯舜は古の大聖人。

 

本来、聖人と聖人を比べてどちらが偉い、などと優劣をつけることはできない。

聖人は天地の徳と一体化している。

天地の徳は天地の徳であって、この上なく崇く尊いものであり、それより上はない。

それでも、宰我に言わせると「先生は堯舜なんかよりはるかにすごい」。

こういう心酔ぶりであった。

 

子路との違い

同じく孔子に心酔している高弟に子路しろがいる。

子路孔子を強く慕い、孔子もまた子路を愛した。

それがうかがえる言葉もたくさんある。

しかし、宰我に対してはそのような愛情が感じられない。

聖人の孔子のことであるから、弟子によって好き・嫌いという区別はないだろう。

叱って伸びる子もいれば、褒めて伸びる子もいるように、教育方針の違いと思う。

 

子路という人は、孔子から「いかだで海を渡って遠くへ行こう。(危険だが)子路ならついてくる」と言われて喜ぶ人だ。

その喜び方も、私のイメージでは欣喜雀躍、小躍りせんばかりに喜ぶ子路が思い浮かぶ。

孔子の愛情を真直ぐ受け止め、それに甘えることなく、道を歩むエネルギーに変えてしまう、子路はそんな人だったと思う。

 

宰我の悪いところ

宰我は、おそらくそうでなかった。

子路よりは人間が小ぶりで、頭は大変よいが理屈に過ぎるところがあり、剛情でもある。

 

宰我の剛情さ

孔子との問答をみるとよくわかる。

三年の喪を重視する孔子に対し、宰我は勝手な理屈で「一年で良い」と主張する。

それを、孔子はこう諭す。

なぜ三年かよく考えよ。

本来三年でも短いくらいで、五年でも十年でも良い。

しかしそれでは色々と支障が出る。

天子が十年も喪に服して政務を離れると政治がおかしくなる。

 

子供は生まれてから三年間、親に守られて懐で育つ。

短いけれども、親の寵愛に報いるために、天子から庶民まで三年の喪に服すると決めたのだ。

 

なぜ喪中、君子は普段通りの生活をしないのか。

美味しいものを食べても、それを食べることができない親を想えば美味くなく、

良い衣服を着ても、親が土や草をまとっていることを想えば嬉しくなく、

美しい音楽を聴いても、それを楽しむ親がいないと想えば楽しくないからだ。

そして孔子が、

なんじにおいて安きか

(お前は、たった一年喪に服したくらいで美味いものを食い、良い服を着、楽しい音楽が聴けるというのか)

すると、宰我は答えた。

之を安んず

(私はできます)

宰我の剛情さがよく表れている。

 

宰我ほどの者が、孔子の教えを理解しないはずはない。

しかし、反発し続ける。

この剛情さを、孔子は憎んだものと思う。

最後は孔子も、

女安くば則ち之を為せ

(お前がそれでいいなら、勝手にせよ)

と匙を投げ、「宰予は不仁だ」と嘆いた。

 

孔子は怠惰を嫌った

これが、宰我に厳しかった理由だと思う。

宰我は、子路のようにはいかない。

子路と同じように愛情を注げば、宰我はおかしくなるのではないか。

三年の喪が長すぎるというのも、結局は喪中の生活が辛いからであり、そこには安楽のために道を枉げようとする気持ちがある。

こういう安楽に流れる心を、孔子は非常に嫌った。

 

真面目な弟子を評価した

逆に、真面目に努力を重ねる弟子はいつも褒めた。

それが君子の道だからである。

易の乾の卦には、「君子終日乾乾くんししゅうじつけんけん」とある。

乾の卦は純粋な陽であり、どこまでも疲れずに励む積極性を意味する。

君子はそうあるべきだ、一日の初めから終わりまで、休むことなく務めるのが君子だ。

 

なぜ顔回は愛されたか

孔子顔回を特に愛したのも、その真面目さゆえである。

子貢が顔回を評した言葉に、

能くつとき、よわ

(いつも早起きで、夜遅く寝る)

とある。

夙はどれくらい早いか。

根本先生の説によれば、

一体孔門などは朝が早い。今日で言へば二時頃に起きる。

もちろん、早起きしても日中ぼんやりしては意味がない。

終日乾乾で務めたからこそ、顔回孔子に愛されたのだと思う。

 

心が通い合う師弟

一門がきょうで危険な目に遭い、顔回がいなくなってしまった。

孔子はこれをひどく心配した。

しばらくして、顔回が無事に姿を現した。

孔子は「お前が死んだかと思った」というと、顔回は「先生が生きておられるのに、私が死ぬはずはないでしょう」と答えた。

 

心が通い合っていた。

この難に遭ったとき、孔子は「天は私に徳を与えた。その私を、乱暴者ごときが殺せるものか」と言った。

顔回の方では、「天徳があるから先生が生きておられる。その愛情を受け、徳を修める私も、死ぬはずがありません」という気持ちだったのだろう。

 

孔門の隆盛と師弟愛

孔子顔回を愛し、顔回孔子を愛した。

それは親子の愛情のようだった。

普段は謹厳な孔子顔回に愛情を注ぐ様をみて、他の弟子たちは「先生にもあんなところがあるんだ」と思い、孔子を非常に慕うようになった。

孔子が三千人という多くの弟子を持ったのも、顔回の存在が大きい。

 

それぞれ異なる教育方針

孔子が愛情を注ぐことで、顔回は亜聖となった。

子路孔子の愛情を受け、やはり大人物となった。

顔回子路も、ラクをしようとする人ではない。

愛情を注いでも、それに甘えてだらけることはない。

 

しかし宰我は、ラクをしようとする人である。

下手に愛情を注げば、それに甘えておかしくなるかもしれない。

孔子はこんな風に考えて、厳しく接したのではないか。

もし顔回子路が怠けるタイプの人間であったら、孔子宰我と同じように厳しく接しただろう。

 

宰我が昼寝で叱られた理由

さて、以上のことを踏まえて宰我の昼寝の話。

最近、気軽に楽しめたら良いと思い、ちょっとしたクイズをやっている。

こんな問題を出してみた。

 

 

本文

本文は以下の通り。

宰予、昼寝す。子曰く、朽木きゅうぼくる可からず。糞土ふんどしょうる可からず。予においてか何ぞめん。

 

宰予が昼寝していた。

それを見て、孔子が仰った。

「朽ちた木には彫刻はできない。

ゴミくずで作った垣根に上塗りをしても立派にはならない。

宰予を責めても仕方ない」

 

諸説紛々

この問題には、少々迷った。

宰我の昼寝を孔子が怒った理由については色々説があり、困惑している学者も多いからだ。

いくつかの解釈を挙げてみる。

 

昼寝したぐらいで、こんなに叱られては大変で、孔門の教えはとても凡人の及びつかぬところのようであるが、宰我に就いては、何か特別の事情があっての孔子の叱責だろう。

吉田賢抗先生『新釈漢文大系・論語

 

宰我もえらく孔子から見限られたものであります。ちょっと昼寝したくらいで、なぜこれほどまで孔子が言われるのか、昔から色々議論がなされておる。

とにもかくにも、四科十哲の一人に挙げられておるほどの人物でありますから、良いところがたくさんあったに違いない。ところが良いところがわからなくなってしまって、悪いところだけが残っておる。まことに気の毒な話であります。

安岡正篤先生『論語の活学』

 

私的解釈

私なりに解釈してみる。

冒頭から述べてきたように、宰我は気力が弱く、怠けやすい性質であった。

昼寝もその表れである。

 

昼寝するような怠け者は君子といえない。

宰我は高弟の一人であるし、色々なことを教えたいとも思うが、怠けものにいくら教えても仕方がない。

気力が弱くて、怠け癖がある奴はモノにならない。

そんな者に教えても、朽ちてボロボロになった木に彫刻するようなものだ。

 

私なりの解釈によれば答えは①となる。

宰我の人となりから考えて、②や③はまずありえない。

 

宰我は礼に欠けると言われたから、ひょっとすると④はあるかもしれない。

しかし、そのような話は残っていないし、孔子が見限るほどの話でもないと思う。