周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

鮮血淋漓の学問がしたい~古写本論語の重要性~

論語には、色々な本がある。

もちろん、元はお弟子たちが作った唯一のものがあったが、長い歴史の中で様々なものが生まれた。

中には意味が通じないものや、解釈の疑わしいものがあるから、儒学を学ぶうえで障害になりやすい。

 

ではどうするか。

一冊にこだわらず、色々な人の解説した論語を読んでみるのが良い。

特に、日本の古写本論語こしゃほんろんごを底本にしたものを読むと、驚くほど理解が進む。

 

論語の問題点

昔は紙がなく、印刷技術もなかった。

本を作るには、竹簡や木簡に人の手で筆写する必要があった。

紙ができてからも、やはり人の手で筆写が行われただろう。

木版印刷の発明は、紙の発明よりずっと遅い。

古い経書などは、基本的に筆写されたものが流通し、普及したのである。

 

誤写が生じる

流通の過程で筆写を繰り返すと、どうしても誤写が出てくる。

誤写した論語を底本として筆写すれば、誤写したものが広く出回る。

それをまた誤写する人も出てくるから、なかなか元の形を保つことができない。

 

戦禍に見舞われる

誤写以上に問題となるのは、歴史の変動に伴う散逸さんいつである。

中国では、何度も王朝が変わっている。

王朝が変わる時には大混乱に陥るもので、学者が多く殺されたり、経書が焼かれたり、いわゆる焚書坑儒ふんしょこうじゅのようなことも起こる。

論語の成立時期は定かでない。何を以て成立と捉えるかによっても変わる。

金谷治先生の論によれば、

論語』の編纂については、はっきりしたことは分からない。孔子の没後、その門人たちの間で次第に記録が蓄えられ整理されて種々のまとまりで伝えられ、やがてある時期に集大成されたもので、その時期はおそらく漢の初めごろ(BC2世紀)のことであろう。

とのことである。

ひとまずここを成立時期とすれば、焚書坑儒の時代、まだ論語は成立してなかったことになる。

しかし、その後も中国では経書の著しい散逸を招く大乱が度々起こっているし、その影響は大きい。

 

散逸しやすい性質

大乱が収まると、心ある人が再び道の再興へと動き出す。

この時、戦禍を免れた論語があればよいが、なかなかそうはいかない。

一部が焼けるなどして、完全なものが残りにくい。

 

それに、大体からして竹簡・木簡はあまり丈夫でない。

簡単に壊れるというのでもないが、縦糸と横糸を使って本を編むから、紐が切れるとバラバラになってしまう。

孔子の「韋編三絶いへんさんぜつ」が良い例だ。孔子は易を大変熱心に勉強された。何度も何度も読んだために、竹簡の糸が切れてバラバラになること三度であった。

したがって、大乱の中で焼けてしまうほかに、バラバラになって収拾がつかなくなる、といったことも多かっただろう。

 

実際、経書に記されている書物の中には、全く失われて伝わっていないものが少なくない。

 

長い歴史の中で混乱に陥る

ここに論語の問題がある。

おそらく多くの誤写を経て普及し、元の意味から離れつつある。

その上に戦禍で焼けたり、バラバラになったりする。

拾い集めて再び作るが、そのために章句の配列で混乱が起こる。

また、編纂の過程で誤写などがさらに多くなる。

その結果、部分的に意味が通じなくなることも出てくる。

意味が通じなければ、なんとか通じるように解釈する必要がある。

多くの学者が熱心に取り組むが、誤ったものを正しく解釈するのは困難であり、学者の中で一致した見解も生まれにくい。

だから、様々な注釈書が生まれ、後学の人はますます混乱する。

 

古い写本を学ぶべし

論語の本意を得るには、できるだけ古い写本を学ぶのが良い。

古ければ古いほど、誤写が少ない。戦禍の影響も小さい。

ただ、中国の論語にはそれが期待できない。

古い写本が欲しいと思っても、長い歴史、度重なる戦禍で失われているからだ。

 

古写本論語とは

そこで、日本に伝わった古写本が非常に役立つ。

日本に論語が伝わったのは、古事記によれば応神天皇おうじんてんのうの御代とされる。

応神天皇百済くだらへ、

もしさかしき人あらば貢上たてまつ

(もし賢者がいたならば献上せよ)

と仰った。そこで百済では、和邇吉師わにきしという学者に論語千字文を持たせて献上した。

 

応神天皇の御代は、西暦でいえば270~310年。

この時、中国は三国志の時代が終わって晋に入ったころ。

司馬炎皇位簒奪さんだつし、晋を建てたのが265年である。

 

日本伝来以降の中国論語の混乱

その後も中国は実に多くの禍に見舞われた。

この辺のことは詳しく調べたことがないので詳細は避けるが、隋から唐へ移る時にも経書が随分散逸したという。

その後、宋学が勃興してくる。

形を変えながら普及したものが大乱の中で失われ、それを再興しようとする大きな動きが起こった。

散逸の程度が軽微であればよいが、決して軽微とはいわれない状況で二程子にていし朱子などが奮闘した結果、論語の本意からどうしても遠ざかるところも出てきた。

実際、意味の通じない所もある。

 

古写本論語の純粋性

日本への伝来は、金谷先生の仰るBC2世紀ごろから数えて400~500年後。

この期間は、論語にとって幸いであった。

まず、焚書坑儒的な大禍に見舞われていない。

また漢の時代に儒教は国教となり、研究も盛んになった。

その時期を経て、日本への伝来である。

 

ここに古写本論語の純粋性を見る。

年代から考えると、色々な論語がある中でも、かなり雑味の少ないもの、純粋性の高いものが伝わったといえる。

そして、その論語は形を保ち続けた。

日本では王朝が変わったことがなく、戦乱によって経書が被害を受けることもなかったからだ。

もちろん、筆写の過程で誤写が生じた可能性も考えられるが、意味はよく通じる。

 

古写本論語で蒙を啓く

現在、一般的に流通している論語は、基本的に中国の歴史に強く影響を受けている。

執筆する者としては、長い歴史の中で生まれた様々な解釈を全く無視することはできないし、宋学の影響はかなり大きい。

私が持っている論語の中でも、服部宇之吉先生の『国訳論語』は大正時代に書かれた古いものである。

これは底本が明らかでないが、日本の古写本論語と比較すると、中国の歴史に揉まれた論語の影響を強く受けているように思う。

 

現在出版されている論語も、100年前に出版された論語も、等しく中国論語の影響を受けている。

普通に論語を勉強していると、当然ながら日本の古写本に触れる機会がなかなかない。

複数の解説書を読んでも、それぞれの根っこが中国論語である以上、「蒙を啓かれる」といった進歩・飛躍がなかなか得られない。

だからこそ、色々な論語を読む中で日本の古写本論語に触れると、学問が大いに進む。

私はそういう印象を抱いている。

 

古写本論語で理解が進む具体例

古写本論語の具体的な利点はどんなものか。

ひとつ具体例を挙げてみる。

これによって古写本論語の効用は疑いなし、そんな例がいくらもあるが、ひとつだけ挙げてみる。

 

「彼なるかな」では意味不明

論語憲問篇に、以下のような章句がある。

或るひと子産しさんを問う。子曰く、恵人けいじんなり。子西しせいを問う。曰く、かれなるかな、彼なるかな管仲かんちゅうを問う。曰く、じんなり。伯氏はくし駢邑べんゆう三百を奪う。疏食そしはんし、よわいを没するまで怨言えんげん無し。

これが、一般的な書き下し文である。

服部宇之吉先生の『国訳論語』では以下のように解する。

ある人が孔子に、子産の人物を問うた。子は「恵み深い人だ」と仰った。

次に子西について問うた。子は(批評するほどではないとして)「あの人か、あの人か」と仰った。

次に管仲を問うと、子は「(偉い)人物である。斉の大夫である伯氏を罰して土地を没収した。伯氏は貧乏で苦労したが、死ぬまで管仲を怨むようなことを言わなかった(管仲の裁きに感服したからである)」と仰った。

 

ここで問題となるのは、「彼なるかな、彼なるかな」である。

服部先生は注釈で、

批評するほどでないから、何とも批評らしい言がない。

としているが、どうもすっきりしない。

子産や管仲に対しては「これこれの人である」と評価しているのだから、子西に対しても何か一言あってよさそうだ。

 

「佊なるかな」で意味が通じる

古写本論語を見ると、この疑問が氷解する。

古写本論語では、

或るひと子産を問う。子曰く、恵人なり。子西を問う。曰く、なるかな、佊なるかな管仲を問う。曰く、人なり。伯氏が駢邑三百を奪う。疏食を飯し、歯を没うるまで怨言無し。

となっている。「彼なるかな、彼なるかな」ではなく「佊なるかな、佊なるかな」である。

おそらく、筆写するうちに「佊」を「彼」と誤写し、長い歴史の中で定着したものと思う。

 

大変に似た漢字だが、「佊」と「彼」では意味が全く違う。

「彼なるかな、彼なるかな」とすれば、服部先生の仰る通り批評の意味をなさない。無理に解釈すると、「孔子は、子西を評価に値しないとして・・・」といったことになる。

 

では「佊なるかな、佊なるかな」はどうか。

「佊」とは「よこしま」を意味する漢字だ。

したがって、「佊なるかな」は

  • 「偏っているね」
  • 「中庸を得ていないね」

といった批評の言葉となる。

 

子西という人

子西は楚の公族で、昭王と一緒に苦労した人だ。忠義に厚い一面がある。

しかし、偏ったところがあった。

私が思うに、この「偏った」とは、「相応の才略に欠け、判断に偏りがある」の意味だろう。

 

左伝のなかで、孔子は昭王を激賞している。

昭王とともに苦労した子西にも、認めるところがあったろう。

大体、子産や管仲と並べて批評を求められているのだ。

子産や管仲は大人物だ。それに比べると劣るだろうが、子西もひとかどの人物であったはずだ。

孔子が、特に批評はないとして「彼なるかな」で済ませるとは思えない。

 

子西は、昭王の忠臣であった。忠義という美徳があった。

優秀な政治家でもあった。昭王の死後、恵王は50年以上にわたって楚を治めるが、その基礎づくりに子西は多大なる貢献をした。

昭王の死後、忠臣であり、公族であり、功績もある子西の権力が大きくなったが、それにふさわしいだけの才略がなかった。

実際、それが禍して殺された人である。

ごく簡単に書くと、子西は他の重臣の反対を押し切って乱臣を招き入れ、やがて怨まれて殺された。

詳しくは左伝を読んでいただきたい。哀公十六年に子西の最期が記録されている。

 

子西を惜しんだのではないか

また、「佊なるかな、佊なるかな」と二度繰り返しているところに、残念に思う雰囲気を感じる。

「ああ、あの人か。あれは偏ったところがある。(いいところもあるだけに残念だが)どうも才略に欠ける」

といったような。

 

道徳の乱れた当時、忠臣かつ能臣というのは得難いものであった。

しかし佊なるところがあった。昭王の死後、権力が大きくなるにつれて佊なるところ、才略に欠けるところが目立ってきた。

惜しむべき人物だが、おそらく殺されるであろう。

それを残念に思って、孔子は「佊なるかな、佊なるかな」と仰った。

私にはそう思える。

 

私的解釈

以上を踏まえて、この問答を私なりに解釈してみると、以下のようになる。

 

「鄭の子産は賢人ですよね。先生はどう思われます」

「あの人は恵み深い人だ」

「ああ、確かにそうです。あの人は恵み深いと評判でした。

楚の子西はどうです。あの人もなかなかの人物でしょう」

「あれには忠義がある。政治家としても優秀だ。しかし残念ながら、正しくない。偏っているね」

「忠義があっても正しくない・・・ならば、管仲はどうでしょう。

管仲も忠臣ですが、正しくないのではないですか。先生は管仲の礼節を問題にされたこともありますね」

「たしかに管仲は礼節に欠けるが、才略は欠点を補って余りある。

佊なるところ(よこしまで偏ったところ)がなかった。門閥家の伯氏でさえ、厳しく罰せられたのに全く怨みを抱かなかったほどだ。それは、管仲の処遇に佊なるところがなかったからだ。ゆえに天寿を全うできた。

子西には忠義があるが、管仲ほど才略がない。佊なる判断をして、怨みと禍を受けることがあろう」

 

末路を言い当てる孔子

孔子は、子路の勇に過ぎるところを度々たしなめられた。

正義を尊び、曲がったことが許せず、負けず嫌いの子路は、中庸を目指していかなければ危ないと。

結局、孔子が危惧された通り、子路は剛直に過ぎたために命を落とした。

 

ドラマ『孔子春秋』、子路の最期を知らされる孔子の姿が寂しい。

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子路が死んだという知らせを受ける御一門。子貢はその知らせに疑いを抱く。

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孔子は、状況から考えて知らせに間違いがないと話す。

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子路の性格では、死を恐れず戦ったであろう。死んだに違いない。

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子路は性格が禍して命を落としたが、孔子はその性格を愛していた。

 

同じように、孔子は子西の佊なるところを見て、

「この人は良くない、悲惨な最期を迎えるであろう」

と予見したのではないか。

 

子西が殺されたのは孔子が亡くなるより後だから、孔子は子西の最期をご存じない。

しかし、孔子は子西の最期を予見されていたのだろう。

 

易理が分かれば将来のことも分かる。

公田先生を教えられた南隠禅師は「占っているようでは鈍い」と仰ったが、こういうことだろう。

占わずして子路の最期を当てた孔子は、子西の最期も正しく見通していたのではないか。

そんな風に思う。

 

鮮血淋漓の学問がしたい

子産は恵み深い人、子西は才略に欠ける人、管仲は才略ある人。

三者三様に批評した言葉となる。

 

中国の論語では意味が不明だが、日本の古写本論語では意味が明らかである。

「彼なるかな」では意味が通じないが、「佊なるかな」ならば意味が通じる。

また「佊なるかな」と読んでこそ、孔子の「言外の言」に思いを馳せることもできる。

 

全て古写本論語が優れているとは言わない。

私は二程子、ことに明道めいどう先生を尊敬しているし、新しい写本や解釈からも積極的に学びたいと思う。

しかし、どうしても古写本論語に拠らなければ意味が通じない、理解に苦しむ箇所があるのも事実だ。

論語を学ぶには、古写本論語を底本とする解説書を含め、広く学ぶことが大切と思う。

自分で考えることは一層大切だ。

考えを進歩させるためには、実践も欠かせない。

中国の論語でも日本の論語でも、経文にとらわれてはならないし、実践しないのはなお悪い。

 

偏った学びは排すべきである。

孔子の一面しか見えないような学びは良くない。

広く学んで、生身の孔子に近いものを取捨選択していく。

広く学べば選択肢は多い。多いほど迷う。

しかし、一生かけて取捨していくのだから問題にならない。迷って良い。

 

古写本論語を含め広く読む意義もここにある。

古写本論語によって、一般に普及している論語への囚われが随分少なくなる。

私は、古写本論語に蒙を啓かれた。

 

孟子曰く、「ことごとく書を信ぜば書無きにかず」。

どの論語でも、その内容を信じ込むのはいけない。それでは意味がない。

孔子の気持ちを想いながら、自分なりに取捨選択していくことが大切だ。

 

孔子ご自身、そのように学問されたと私は思っている。

琴を習った際、孔子は「この曲を作った人のイメージが湧かない」と大変苦しまれた。

同じ曲を繰り返し習い、苦しんで苦しんで、あるときようやくイメージをつかんだ。

孔子は師襄(琴の師匠)にこう仰った。

「ようやく、作曲者のイメージをつかみました。その人の顔は浅黒く、背は高く、眼は遠くを見ております。おそらく文王ですね」

師襄は、

「そう思います。私の師も、この曲を作ったのは文王と言っておりました」

と答えた。

 

孔子は二千年以上前の人である。

その教えは古く、歴史の中で失われたり、真の意味から遠ざかってしまったものもあるだろう。

だから私は、文王の姿をありありと思い浮かべながら琴を修めた孔子のように、孔子の姿をありありと思い浮かべながら、孔子の気持ちを推し量り、斬れば血が噴き出すような生きた思想として論語を学びたい。