周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

趁無窮

日本画家の横山大観。この人の師は岡倉天心だが、天心が大観に与えたのは「趁無窮」の三文字であった。

 

趁無窮、無窮をふ。

 

同じ「おう」でも漢字は色々だ。最も一般的なのは追。逐の字もある。しかし趁はあまり見ない。詩の中ではしばしばみるが。

なぜ天心は「趁」と書いたのか。本当のところは分らないけれども、私なりに考えてみた。

 

追・逐・趁

徂徠先生『訳文筌蹄』に曰く、

追・・・あとから追いかけ追い付くなり。

逐・・・大抵追と同じ、物を追う意あり、追い退くる意あるなり。ついてゆく意はなきなり。

趁・・・追いかけて履むなり。すかさず追う意なり。

それぞれ違いがある。

追う対象によって使うべき字が変わる。無窮をおう場合、追・逐は適当でなかろう。

 

無窮を追えるか

無窮とは、窮まりの無いことである。果てしないといってもよい。

窮まり無きもの、果てしなきものは、いくら追いかけても追いつくことはない。

そもそも「“あとから”追いかけ追い付く」というが、どこを、なにを追ってゆくのか。

前に仲間がいるなら、それをあとから追うのである。ついてゆくのである。

しかし無窮の場合、どのようにでも、どこまででも、果てしなく窮まり無し。追うべきものが前にあるか後ろにあるか、西に追うのか東に追うのかわからない。そのあとを追うことはできない。追い付くこともできない。

 

無窮を逐えるか

逐はどうか。追うには追うが、ついてゆく意味はないという。

例えば放逐という言葉がある。これは悪者などを僻地へ追い遣る。僻地に追い退け、罪に服せしむ。ついてゆくことはない。だから追い付くこともない。

無窮をおうのに「逐」の字を当てることはできない。無窮を追い求めることはあっても、追い退けるものではない。

 

孔子の徳は無窮

顔回の言葉を思い出す。

顔回孔子の徳を讃嘆して、「之をれば前に在り、忽焉こつえんとして後に在り」と言う。前にいたかと思えば後ろにいる、自由自在・融通無碍であると。

だから「之に従はんと欲すと雖も由末よしなきのみ」、先生に追従しようと熱望するのだがどうにもならない。

 

道は無窮

天の命を性といい、性に率うことを道という。大道を往くことは性に適う。性に適えば天の命にも適う。道と天命はふたつのものではない。道即天命である。天が無窮であればその命も無窮、道も無窮である。

そもそも、無窮ゆえに名付けようのないものに対して、教えを立てるために強いて名付けて天とか道とかいったものである。老子はそうおっしゃる。本来異なるものではない。

 

孔子の五十にして天命を知った。これは無窮を知ったことにほかならない。頭で、知識として知ったのではない。無窮に至ったのである。

 

道は履むもの

孔子はいかにして道を求め、無窮に至ったか。

思うに、孔子は無窮を追いかけ追い付いたのではない。いかに孔子とて、無窮を追うことはできない。追えば顔回のように由末きのみ。

無窮であるから、道は前にもある、後ろにもある。今ここにもある、過去にも未来にもある。近くにもある、遠くにもある。あとを追いかけ追い付くことはできない。従はんと欲すれば由末きのみ。

 

孔子は、道を履んだのである。履み行ったのであって、追従したのではない。今この時、ここにある道を一つずつ履んでいったのである。

 

子曰く、仁遠からんや、我仁を欲すれば斯に仁至る。

 

仁は遠いものだろうか。もちろんそうだろうが、遠くへ至るには一歩ずつ履むことが肝心である。一歩は遠くない。今この時、この一歩は欲すれば誰でもできる。それを繰り返せばやがて遠くにも至る。欲すれば至る。

 

道遠からんや、我道を欲すれば斯に道至る。

欲すれば道至る。無窮にも至る。

 

趁無窮

岡倉天心が「趁無窮」といったのは偉いことだ。無窮は、趁うのでなければならない。

趁は追いかけ履むなり。すかさず追うなり。

どこか遠くにあるものを、追いかけ追い付き履むのではない。今この時、ここにあるものをすかさず追って履むのである。

「我仁を欲すれば斯に仁至る」というのも、我が仁を強く欲するから、仁を為すべき機会を敏に捉えることができ、敏に捉えるからすかさず追うことができ、すかさず追うから履むことができ、履むから斯に仁至る。

 

無窮は趁わねばならぬ。それでこそ、無窮を身に体することができる。無窮を得ることができる。徳は得なり、無窮の大徳が我がものになり、仰げばいよいよ高く、鑽ればいよいよ堅く、前に在り後ろにあり、高大堅固自由自在。

高大堅固は剛、自由自在は柔、無窮なれば剛柔相和し円満具足。お前の絵はそれを目指せ、そのためには無窮を趁うべし。天心が大観に言ったのは、そういう意味ではなかったか。

 

大観四十五歳の絵(瀟湘八景)を、夏目漱石はこう評した。

「一言でいふと、君(大観)の絵には気の利いた様な間の抜けた様な趣があつて大変に巧みな手際を見せると同時に、変に無粋な無頓着な所も具へてゐる」

漱石は、大観の絵の無窮性を述べたのである。

 

大観の絵がなぜあれだけ立派なのか。大観が「趁無窮」を奉じたことを知り、納得がいった。無窮を趁って已まぬ者の絵が、立派でないはずがないのである。

 

私は学問してきたつもりだった。しかし今日の今日まで、道を漠然と追っていただけだった。

これからは趁わねばならない。追うことは、もうやめにする。