周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

好学考

先日ツイッターで、論語に関する質問が寄せられた。

「好学」に関する質問である。

私自身、新たに気づくこともあり、ありがたいことだった。

 

質問は、以下の通りである。

論語』学而編の「子曰く、君子は食飽かんことを求る無く、居は安からんことを求る無く、事に敏にして言を慎み、有道に就いて正す。学を好むと謂ふ可きのみ」
という文なのですが、孔子はなぜ食住を欲しないことを君子の条件に上げているのでしょうか。
やはり世俗の欲求が強いと、孝悌を思う気持ちが薄れてしまうからでしょうか。

鋭い質問と思う。

また、漠然とした質問をポンと投げかけるのではなく、「自分はこう思うが、どうか」とあるのが良い。

どこで戸惑っているのかがわかりやすく、後述の通り「考え方が逆と思う」など私なりに答えを出しやすい。

 

 

孔子は、非常に深いこと、難しいこと、重要なことを簡単に仰る。

私など人間が案外単純だから、「孔子が仰るなら、そうだ」と思い込むことが多い。

この章句も、孔子が「君子は食住にとらわれないものだよ」と仰る。私は「先生のお言葉、ありがたく頂戴いたします」と平身低頭する。

なぜこれが君子の条件であるか、疑問を抱いたこともなかった。

しかし学んで思わざれば則ち罔し、あまり良いことではない。

 

そのときは思った通りに、あまり時間をかけず返信した。

好学ということは、論語の中でも重要なテーマであると思う。

それなりに良く回答できたと思うが、せっかくの機会であるし、ブログで整理しておきたい。

 

孔子は禁欲主義にあらず

質問者は、「世俗の欲求が強いと、孝悌を思う気持ちが薄れてしまうから」と考えている。

これは、別にまずい解釈ではない。

孟子も「心を養うには、寡欲より善きは莫し」と言っている。

欲が強ければ心を養うことが難しく、寡欲であるのが良い。

 

しかし、私は孟子のこの言葉について、いささか不満に思っている。

味わいがなく、モノクロで、感触は乾いた砂のようである。

孔子の教えは味わい深く、色鮮やかで、水分を含んだ土がしっとりと、その大地で生命が育まれるような、いわば「元気」を感じる。

 

果たして孔子は禁欲的であったか。

私はそう思わない。

人間に欲求があることを認め、過剰な欲求は否定するが、当たり前の欲求はさほど否定しない。

もちろん、当たり前の欲求にとらわれることは否定する。それは中庸でないからだ。

しかし、自然的な欲求をことさら否定するのではなく、それを超越するのが孔子の姿勢であると思う。

孔子の教えは、ちょっと見ると非常にストイックだが、実のところそうでもない。

禁欲は孔子の本領ではない。

 

好学とは何か

孔子は、よく「好学」と仰る。弟子に好学であることを求めた。

では好学とは何か。

単に学問を好むだけではない。

学問を好むだけなら孔門にいくらもいただろうが、孔子は容易に「好学」の評価を許さない。

孔子は、自然的な欲求を超越するほどの熱烈な姿勢を以て、はじめて「好学」とした。

このことは、論語を読めばいくらも出てくる。

 

孔子の好学

例えば、述而篇にこんな話がある。

葉公が子路孔子の人となりを問うと、子路は答えられなかった。

それを聞いた孔子が言った。

「学を好み、わからないことがあれば発憤して食べることも忘れてしまう。

そして学に努めて道理が分かると楽しくなって、どんな憂いも忘れてしまう。

そんな風に毎日を送って、老いたことにも気づかない。

私はただそれだけだと、どうしてお前は言わなかったか」

これを論語で読んだとき、なんとなく子路が責められている雰囲気を感じたが、今はそう思わない。

ドラマ『孔子春秋』のイメージがぴったりだ。

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陳蔡の野に困窮したが、ようやく楚に入り、孔門みな生気に満ちている。

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「何と答えていいかわからなかった」と言う子路に、孔子は仰る。

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「私は、そんなに複雑な人間でも、高尚な人間でもないのだよ。

ただただ可もなく不可もない、学問を好むだけの人間なのだよ。」

孔子子路へ笑顔で語りかけるような、そんなイメージがぴったりではないか。

好学ゆえに安楽も忘れる

人間、だれしもお腹が空く。それを求めることは悪いことではない。

孔子でも、食べなければお腹が空くし、食べれば満腹になる。

しかし好学の者は、学問を前にすれば空腹を超越する。

食べることも忘れて学問に没頭する。これは食欲の超越である。

 

寝食を忘れて学問に没頭し、日々それだけに過ぎ、憂いや老いも忘れてしまう。

これは、仏教でいうところの生老病死の超越だ。

好学であれば、生きる苦しみも、老いる苦しみも、病の苦しみも、死の苦しみもなくなる。

ごく小さくみると、これは誰でも経験があるだろう。

1時間なら1時間、学問に没頭している間、生老病死に煩わされる者はいない。

 

長い人生をそのように暮らす者を「好学」という。

 

肉の味もわからない

このような姿勢こそ、孔子の真骨頂である。

孔子は、何事にも徹底する人だったと思う。こんな話がある。

孔子が斉で韶の楽を三ヶ月きいた。

深く感じて、肉の味が分からなくなるほどだった。

これも食欲の超越である。

当時において、肉は美食の象徴である。

韶の楽に深く感じ入り、ごちそうを食べても味が分からなくなる。

私は、孔子のこんなところに強くあこがれ、尊敬する。

 

顔回の好学

孔子は、弟子の中で好学といえるのは顔回だけ、と仰った。

顔回は、大変な貧困の中で学問に没入し、短い人生を終えた。

 

生きる苦しみの中でも、貧困は苦しい。

私自身、貧困の苦しさは身に染みている。

心を病む人の大部分は、多かれ少なかれ経済的な問題を抱えていると聞く。

顔回には、それが苦でなかった。むしろ、その自由さを楽しんでいた。

 

一説によると、顔回は29歳で髪が真っ白になっていたという。

ひたむきに励んだ結果、体調がおかしくなったのだろう。人よりずっと早く老け込んだ。

しかしそれを苦とせず、楽しんでいた。

 

顔回が亡くなったのは31の頃、41の頃など定まらない。

貧困にいたことや白髪のこともある。無理が祟ったのだろう。

顔回の死について、栄養失調であると言い切る学者もいる。

顔回の死生観は、孔子の死生観とおそらく同じであった。

天命を知る顔回にとって、病も死も問題ではなかっただろう。

 

生老病死を超越するほど学を好んだから、孔子顔回を好学と評したのだと思う。

 

考え方を逆に

再び質問に戻る。

質問者は、「世俗の欲求が強いと、孝悌を思う気持ちが薄れてしまう」と考えた。

 

「孝悌を思う気持ち」でも結局の意味は同じだろうが、この章句で孔子は「学を好むと謂ふ可きのみ」で締めくくっているから、「学問を好む気持ち」と考えたほうが分かりやすいと思う。

また、「世俗の欲求」といえば名誉や地位など色々なものを含む。

ここでは、孔子は食や居のことを語っているから、「世俗の欲求」よりも、単に「安楽を求めること」としたほうが良いように思う。

 

そして、質問者の解釈は逆ではないかと思った。

「安楽への欲求が強いと、学問を好む気持ちが薄れてしまう」

というよりも、

「学問を好む気持ちが薄ければ、安楽への欲求が強くなる」

ということだ。

 

前者の解釈は孟子的だが、逆にすると孔子的だ。

にわかに精彩を帯びてくる。

そして、「学問を好む気持ちが強ければ、安楽を求めなくなる」

 

「世俗の欲求が強いこと」を出発点にすると、欲求をどう抑えるかが問題になる。

禁欲的にならざるを得ない。

しかし、禁欲すれば好学になるかといえば、そんなことはない。

あらゆる欲望を捨て去り、何の望みも持たずに飄々している者を、果たして孔子が「好学」と評するだろうか。

老荘系の達人にはそういう人もたくさんおり、それが悪いのではないが、好学とは言えないだろうし孔子の理想からは遠い。

 

孔子の仰る「好学」とはそんなものではない。

学問を好む気持ちが強ければ、食べることも忘れてしまう。

禁欲主義に奔るまでもなく、安楽を求める気持ちはなくなってしまう。

 

経書の解釈は、微妙な違いで味わいや意味が随分変わるものが結構ある。

だから、古来色々な解釈があったのだろう。

色々な解釈があって当然だし、正解・不正解を断定するのは困難だ。

ただ、学ぶほどに「これが正解では」と自分なりに感じることが確かに増える。

考え方を逆にすることで、もやもやがスッキリすることも多い。

質問者も、逆にすることで「しっくりきた」とのことだった。

 

好学は君子の条件

質問のあった章句について、私は以下のように解釈している。

子曰く、君子は食飽くを求ること無く、居安きを求ること無く、事に敏にして言を慎み、有道に就いて正す。

学を好むと謂ふ可きのみ。

 

先生が仰った。

「君子は腹一杯食べることを求めないし、快適な住居でゆっくりすることも求めない。

安楽を求める気持ちが起こらないのだ。

それよりも、学問をしていたいと強く思う。

学問に意欲のある者は多いが、安楽を求める気持ちも強い。

学問に勉めても、安楽が入り込んでくる隙がある。

学問を好む気持ちが十分ではないのだ。

この隙がなくなってしまうほど、好学であるためには何が必要か。

それは『敏』である。

学ぶべきことを、積極的に鋭く学ぶ。

このようにいざいざと不断に努めるのが敏であるから、安楽に付け入られる隙がない。

しかし、敏に過ぎると軽薄に流れる恐れがある。

学んだことがしっかり身につかないうちに、口にまかせて言って失敗する恐れもあるから慎むがよい。

敏と慎で学んだうえにも過信せず、さらに道徳のある人に教えを請うて間違いを正す。

それでこそ本当に好学といえる。」

私はこのように解釈している。

 

この解釈は、雍也篇の章句と紐づけるとよくわかる。

子曰く、君子は博く文を学んで、之を約するに礼を以てせば、亦以て畔かざる可きか。

君子はどこまでも広く学問し(敏)、礼で仕上げる(慎)ならば、学んだことに背くことはない。

これによって、質問者の「孔子はなぜ食住を欲しないことを君子の条件に上げているのでしょうか。」の問いに答えが出る。

すなわち、

 

孔子は、食住を欲しないほどに好学であれと弟子に教えた。

それには終日乾乾怠らず(敏)、夕べには惕若(慎)でなければならない。

これが君子の学問であり、好学は君子の条件である」