周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

詩を学ぶは、心の動きを知るにあり

今年は詩経を学んでいる。

たいていは論語について記事を書くが、今回は思うところもあって、詩経のお話。

 

毛詩とは

詩を伝えるものには複数あったというが、現存するのは毛亨もうこうが伝えた毛詩もうしだけである。

経書の歴史にはさほど興味がないので、あまり深くは知らない。

 

毛詩の特徴は、それぞれの詩の冒頭に、その詩の大意を簡単にまとめる序文がついていることである。

詩だけでは何のことかわかりにくいものも多いが、序文があるおかげで理解しやすくなる。

 

根本通明先生は、「詩を読むには毛詩にらねばならぬ」と仰る。

これは、序文と合わせて学ぶべし、との意味かと思う。

然るに、現在販売されている詩経の解説書には、序文の欠落しているものが多い。

私が所有している詩経は4種あるが、このうち3種には序文の掲載がない。

今後詩経を学ぶ人は、序文のついているものを選ぶべきかと思う。

 

 

さて、詩経の国風に、衛の詩を集めた「邶風はいふう」という篇がある。

邶風の北門ほくもんは、不遇な男の詩である。

遠い昔の詩ではあるが、現代人にも通じる悲哀がある。

このような詩を読むことで、今も昔も人間の情緒には大きな違いがないことを知る。

古代の人々と現代の我々、心の動きを比較するに、深度には大きな違いを感じるが、面積ではさほどの違いがないのではないか。

感覚的なことなので、あまりうまく言えないが。

 

北門の詩が、それを知る手がかりになる。

 

本文

北門。刺仕不得志也。言衛之忠臣不得其志爾。

北門は、仕へて志を得ざるをそしるなり。衛の忠臣、其の志を得ざるを言ふのみ。

 

第一章

出自北門 北門より出づ

憂心殷殷 憂ふる心殷殷いんいんたり

終寠且貧 終ににして且つ貧なり

莫知我艱 我がかんを知る莫し

已焉哉  やんぬるかな

天実為之 天実に之を為す

謂之何哉 之を何と謂はんや

 

第二章

王事適我   王事我に適く

政事一埤益我 政事もっぱら我に埤益ひえき

我入自外   我外より入れば

室人交徧讁我 室人しつじん交々こもごもあまねく我を

已焉哉    やんぬるかな

天実為之   天実に之を為す

謂之何哉   之を何と謂はんや

 

第三章

王事敦我   王事我にあつ

政事一埤遺我 政事一ら我に埤遺ひい

我入自外   我外より入れば

室人交徧摧我 室人交々徧く我にせま

已焉哉    やんぬるかな

天実為之   天実に之を為す

謂之何哉   之を何と謂はんや

 

解釈

 

第一章

 

出自北門 北門より出づ

古来、君臣の関係は「天子南面、臣下北面」である。

天子(君主も同じ)は南を向いて臣下に対する。

なぜ天子は南面するか。

物件情報などでは、「南向き」を長所とする。

南向きは日当たり良好で明るく、洗濯物など乾きやすい。

天子南面も同じで、明に向くことである。

政治が明らかである、臣下に道徳に明るい者を求めるなど、そういった意味合いがある。

これに対し、臣下は北を向いて天子を仰ぐ。


しかしこの君主は出自北門、北の門から出てゆく。

北の門から出るには北を向かねばならない。

君主が北面して、臣下に南面しない。

これでは、君主は臣下を正しく見ることもできない。

ゆえに君主は臣下をよく知ることもできず、有能・無能がわからない。


無能だが、自分を有能に見せることに長ける小人が君主に取り入るようになる。

有能な忠臣は、小人にとって邪魔であるから排斥される。

君主北門より出ずるは、暗君と小人が上に立ち、賢人や忠臣ほど苦労を強いられる世を意味する。

 

憂心殷殷 憂ふる心殷殷たり

能力や忠誠が認められず、良い臣下ほど虐げられる。

そんな政治では民が苦しむ。

忠臣はその有様を強く憂う。

殷殷は慇慇、憂が多いこと。

 

終寠且貧 終に寠にして且つ貧なり

この忠臣は、優れた能力があり、忠義にも厚く、申し分ない人材。

しかし小人が幅を利かせ、忠臣を虐げ、ひどい扱いをされる。

相応の地位に就くことはできず、つまらぬ役職に就けられる。

そしてひどい貧乏を強いられる。

貧は財産がなく金銭的に不自由であること、寠は道具がなくまともな礼を行うのに不自由すること。

お金がなく生活に困る、そればかりか礼を行うにも事欠く。

お金はなくとも我慢できる。

しかしまともな礼を履めない、これは君子にとって恥辱であり、お金がないより辛い。

古文の論法では、より大きなもの、根本となるもの、重要なものを前に持ってくることが多い。

例えば、君臣とはいうが臣君とは言わない。

家国や子父といった表現もあるにはあるが、普通は国家、父子である。

ゆえに寠且貧、お金がないことも苦しいが、礼を履めぬことは一層苦しい。

 

莫知我艱 我が艱を知る莫し

この忠臣は「私の艱難を知る人はいない」と言っている。

この国には、同じ境遇の賢人忠臣が全くいないのか。

否、似た境遇の人もいたであろう。

いつの時代でも、どんなにひどい国でも、隠れた賢人はいるものだ。

しかし本当の賢人は、国に道がなければ無能のふりをして隠れてしまう。

蘧伯玉が良い例である。

だから、自分の境遇を誰も知らない。

 

以下三句

已焉哉  やんぬるかな

天実為之 天実に之を為す

謂之何哉 之を何と謂はんや

 

酷い状況だが、どうしようもない。

自分には学問があり、道徳もある。

しかし、それが受け入れられない時代もある。

そこで苦労するのが君子である。

時代がどうであれ、君子は乱れない。

道徳が乱れた時代だからといって、自分の道徳をげることがない。ゆえに窮するべくして窮する。

正直で馬鹿を見る。

小人は、時代の乱れを理由に道徳を枉げる。だから窮することもない。

出自北門の君主に諂ってうまく生き抜く。

孔子が「君子もとより窮す、小人は窮すればみだる」と仰ったのと同じい。

 

時代はどうすることもできない。

そんな時代に生まれ、不遇・不運に見舞われるも全て天の為すところ。

いずれ、同じように天の為すところによって、自分の学問才能を活かせる時が来るかもしれぬ。

ただそれだけである。何も言うべきことはない。

ゆえに莫知我艱。

 

第二章

王事適我 王事我に適く

王事は王のための役目全般。

色々な仕事が我に来る。

王事といえばたいそうな仕事に聞こえるが、実のところ、自分に向かってくる仕事は全て雑事である。

重要な仕事は小人が独占しているからだ。

誰がやってもいいような、誰でもできるような些細な仕事、雑務ばかり押し付けられている。

 

政事一埤益我 政事一ら我に埤益す

一は「専一」、もっぱら。

埤は厚いこと。埤益は厚みを増してゆくこと。

自分の学問をもってすれば、政事上の難しい仕事もこなせるだろう。

自分の学問能力相応の仕事を専一にこなせば、自分への待遇も厚くなっていくだろう。

しかし、今はそうではない。雑務ばかりが厚みを増し、待遇は薄いままである。

故にひどく貧乏している。

 

我入自外 我外より入れば / 室人交徧讁我 室人交々徧く我を讁む

雑務の波に翻弄され、疲れ果てて家に帰る。

家の者は苦労を知らない。

妻は生活の苦しさに責めたてる。

子供は腹が減ったと泣く。

孝行も至らず、親を残念に思わせる。

どこもかしこも自分を責める者ばかり。

 

以下三句

已焉哉  やんぬるかな

天実為之 天実に之を為す

謂之何哉 之を何と謂はんや

 

しかし天の為すことである。

何も言うべきことはない。


第三章

王事敦我 王事我に敦し

朝廷の仕事は雑務ばかり。

敦は厚し。雑務は増える一方で、とても務めきれないほどだ。

 

政事一埤遺我 政事一ら我に埤遺す

遺とは送ること。

「面倒な雑務はあいつにやらせておけ」そんな小人が多く、自分に面倒な仕事がどんどん送られ、厚くなってゆく。

 

我入自外 我外より入れば / 室人交徧摧我 室人交々徧く我に摧る

疲れ果てて家に帰れば、相変わらず家の者が責めてくる。

前の章では「讁」、家人から責められた。

ここでは「摧」である。摧は迫る。

家人の責めに耐え続けてきたが、今では妻から「どうにかしてください」と迫られ、父母から「どうにかしてくれ」と迫られる。

道を重んじる我としては、小人にへつらうことはできない。進むは地獄である。

しかし家人に責められるのも辛い。このまま留まるのも地獄である。

進退窮す。

 

以下三句

已焉哉  やんぬるかな

天実為之 天実に之を為す

謂之何哉 之を何と謂はんや

 

しかし天の為すことである。

何も言うべきことはない。

 

詩を学ぶは、心の動きを知るにあり

今の時代も、似たようなものだろう。

道徳が廃れた今の時代、似たような組織で働く人も多いだろう。

上の人間が道を知らない。

うまく立ち回る人間が得をし、それができない人が損をする。

君子窮し小人濫れる時代である。

 

昔の君子も、やはり苦労した。

辛い思いをかみ殺して、我が為すべきこと、目の前の仕事をひたすらこなし、耐え忍んだ。

今の時代はまだ良いのかもしれない。

会社と人の関係は、君臣の関係ほど厳しくないからだ。

しかし、似た苦労を強いられる人もいる。

 

義理が絡んでくると、「上の人間が気に入らない」「雑務ばっかりで話にならぬ」、ならばさっさと転職しようというような簡単な話ではなくなる。

就職とは違うけれども、私にもそんな経験がある。

数年にわたって酷い状況に耐えたが、その時の気分は北門の忠臣に似ていたように思う。

私の場合、自分のやってきたことが足りなかったのだ、この組織を選んだのは自分であり、誤った責任は取るべきだ、といった気分もかなりあったけれども。しかし、

 

已焉哉  やんぬるかな

天実為之 天実に之を為す

謂之何哉 之を何と謂はんや

 

この気分はもっと強かった。

 

あまり耐えようとせず、素早く去った方が良かったのか。

それはよくわからない。

潰れるまで耐えるのは違うだろうが、あまり簡単に去るのも義を欠く。

さっさと道を変えていたら、また同じ過ちを繰り返していた気がする。

 

これも運命と受け入れ、しなくてよい苦労をたくさんした。

その記憶を美化する気持ちは全くないし、思い出したくもないが、北門の詩を読めば思い出す。

北門の忠臣の嘆きと、当時の自分の思いに重なる部分があるのだろう。

 

古代と現代、道徳の在り方、社会の在り方、人々の生き方、色々なものが大きく変化し、変わっていないものの方が少なかろう。

しかし、確かに変わらないものがある。

楽しい時、苦しい時、寂しい時、色々な時の「心の動き」というものは、古今さほど変わらないのではないか。

だから、「楽しみは尽くすべからず」とか「人に苦労を強いてはならぬ」とかの教えも生き続けるのではないか。

 

孔子は「詩三百、一言以蔽之、曰思無邪」と仰った。

邪なところがない、これは素直ということだ。

人の心の動きを素直に歌っているところに、詩経のすばらしさがある。

 

心の動きが分からずに道徳を学んだところで、知識ばかりで何の役にも立たない。

儒学に限らず学問の世界には、知識はあるが心の動きがよくわからない者が多いように思う。

心の動きを考えずに知識を振りかざせば、人を害する。

それで得意になるのだから、まことに鈍い。

 

君子の学問をやって小人になっては本末転倒だが、そういう例が少なくない。

学問とは怖いものだ。

詩経を毎日学び、毎日そのように感じている。

 

腐儒にならぬために、詩経をしっかり学んでゆく。