周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

時習と喜び

論語には有名な言葉がたくさんある。

通読したことがない人でも、しばしば論語の名句を知っている。

そのひとつが、論語の冒頭の章句、「学びて時に之を習う」である。

 

子曰く、

①学びて時に之を習う、よろこばしからずや。

とも有りて遠方より来る、亦た楽しからずや。

③人知らざるをいからず、亦た君子ならずや。

 

原書では①~③をまとめて一つの章句とするが、ここではあえて3記事に分ける。

この章句は大変重要なものであり、下手に要約などすると却って本意を損なうからだ。

まずは①を取り上げる。

 

 

師について学ぶべし

まず、学びて時に之を習う。

これは師について教えを受けることである。

 

師につかず学ぶは例外

昔は誰でも、師について教えを受けた。

もちろん、身分や貧窮を理由に、師につかずに学んだ人もいる。

しかし、「師について大成した人」に比べて、「師につかずに学んで大成した人」は少ない。

師につかず独学したことで、大成しなかった人のほうが圧倒的に多い。大成しないから存在も知られない。

師につかずに大成した、ごく少数の人が目立つ。

「独学でも大成できる」という印象にもなりやすい。

しかし本来、独学は悪い。

 

学問が捗らない

独学すると、師の導きがないだけに、学ぶ順序が分からない。

学問の段階に応じて、読むべき、相応しい書が分からない。

気ままにやっていると混乱しやすい。

師に導かれて学べば10で達する学問に、100も200も苦労する。

私がまさにそうである。なんとなく、自分の中で儒学が形を成すまでに10年かかった。

今後も、色々な苦労が待ち受けていると思う。

 

曲解に陥りやすい

独学では、曲解きょっかいに陥ることも多い。その時、正してくれる師がいない。

学問の浅い段階で強烈な思想に触れた結果、過激に奔ることもある。

 

正しい順序で学び、次第に修養を深めていく。

この前提がないばかりに、薄っぺらな正義を振りかざして人を傷つける。

 

まだまだ学問する段階にある若者が、根っこの部分を固めずに実践ばかりを考える。

若者が政治活動などに奔る場合、このケースが非常に多い。

ろくなことにならない。

実際に、そんな人をいくらも見てきた。

 

現人に教えを請わぬは仕方なく

だから、本来学問は師について教えを受けるべきものだ。

私も、師がいればどんなに良かろうと激しく思う。

しかし、いないのだからどうしようもない。

この人に教えを受けたいと思ったことがない。そういう出会いはなかった。

 

既に亡くなった偉大なる人々、古くは孔夫子、ごく最近の人では公田先生を師と仰いで学んでいる。

このような聖人賢人を心の師とする以上、どうしても現人うつしびとが師になりえない。

そういう大賢者もどこかにいるのだろうが、縁がないのでどうしようもない。

 

既に亡くなった人を師とする以上、直接教えてもらうことはできない。独学するほかない。

これは、私が学問していくうえで、大変まずいことであると思っている。

思えば、私が筆写にこだわる理由はここにもある気がする。

独学であっても先師の教えを正しく学びたい、曲解に陥ることを避けたい、そう強く思うから丁寧に学ぶ。

丁寧に学ぶには筆写が一番良い、こういうわけである。

 

「学びて時に之を習う」は、師に就くことを前提としている点を見落としてはならない。

学の意味

さて「学」の意味。

学といえば「勉強する」のイメージが一般的だが、これは本義でない意味である。

学には色々な意味があるが、大きく分けて、

  • 「コウ」の音ならばなら
  • 「ガク」の音ならばさと

の意味である。

日本的な学の本義はコウのならうに近い。「学ぶ」は「真似ぶ」であり、倣う(模倣する)に近い。

 

ただし、この章句の学は「ガク」で「覚る」。

師に教えを受けると、なるほどと理解する。これが覚るということ。

 

習の意味

学校で「習」という漢字を教える時、「羽に白」と教える。

これは嘘だ。

 

習の成り立ち

習の白は、もとは「子いわく」の「えつ」である。

曰は象形文字で、祈祷の際に祈りの文章、神道でいうところの祝詞のりとを収める器の形である。

「曰」の真ん中の「一」が祝詞、上の「一」は蓋である。

 

羽への信仰

古代、祈祷の効果を高めるために、「曰」の上を「羽」で何度もこする儀式があったという。習はその様子を意味する漢字だ。

だから「羽に曰」ではじめて意味をなす。

学校で教える「羽に白」では意味をなさない。

 

古えの信仰において、羽には不思議な力があるとされた。

羽が飾りに使われたのもそのためである。孔雀くじゃくの羽など、美しいものは高値で取引された。

 

面白いのは、この信仰が世界各所で見られること。

 

マヤ文明と羽

有名なのがマヤ文明で、ケツァルの尾羽が殊に珍重された。

ケツァルは農業の神様ケツァルコアトルの使いであり、その羽は美しく力を持つ。

聖職者と王だけが身につけることを許された。

王が身につける美しい羽、これは富の象徴ともいえる。現在でも、グアテマラの通貨単位が「ケツァル」であるのは、そういうところに由来するのだろう。

 

古代中国と羽

中国でも、古代の戦士が頭に羽飾りをつけた絵が多い。

詳しく調べたことはないが、羽には霊的な力がある、それを人間の身体でも特に尊い頭部に飾り、能力を高めたり、無事を祈ったりしたのだろう。

美しいものほど、その力が大きい。したがって、奇鳥というような珍しい鳥が贈物・貢物になった記録も多い。

 

子路と羽

孔子の時代にも、この風習は残っていたと思われる。

史記列伝の、子路の記録からこれが分かる。

仲尼弟子列伝の子路のくだりに、

 

子路は性いやしく、勇力を好み、志伉直こうちょくにして、雄鷄おんどりかんし、猳豚かとんび、孔子陵暴りょうぼう

子路は性格が粗野で、武勇を好み、心は真直ぐで、雄鶏の羽で作った冠をかぶり、牡豚の革で作った袋を腰に下げ、孔子に無礼をはたらいた)

 

入門前、子路は侠客のような人物であり、男伊達を好んだといわれる。

中島敦の『弟子』でも、そのように描かれる。

孔子家語』では、どちらかといえば武芸者風に描かれている。ドラマ『孔子春秋』でも子路は剣客。

武勇を好んだ子路は、古の戦士の装束を真似て、鳥の羽でつくった冠をかぶったのだろうと思う。

 

羽で繰り返しこする

話が長くなったが、ともかく羽とはそういう霊的なものであった。

それで「曰」の上に置き、蓋をこすり、羽のもつ霊力で祈祷の効果を高めんとする。

こするときは何度もこする。

これが「習」の本義である。ここから派生して、「何度も繰り返し」の意味となり、延いては「学びて時に之を習う」で「学んだものを何度も繰り返す(=復習する)」の意味となった。

 

 

学ぶ喜び

学んだことを繰り返し繰り返し考えることで、さらに深く覚る。

だから面白くなって、説びも生まれてくる。

 

分かるから面白い

これは、誰もが思い当たるはずだ。

分からないうちは、面白くない。

分かりきったことも退屈で面白くない。

しかし、分からないものが分かってくる、これは面白い。

 

「分からないから面白い」と考える人もいるが、これも結局は「分かるから面白い」のである。

「分からない。だから、やがて分かってきたときの楽しみが控えている。それが面白い」というのが普通の感覚で、どこまでやっても絶対に分からないとすれば、そんなものが面白いわけがない。

 

図解がウケる理由

分からないものが分かると面白く感じられる。

このように考えると、要約や図解がウケる理由もわかる。

古典は難しい。「分からない」が「分かる」になれば面白いが、そこまでが難しい。

しかし要約や図解なら「分かる」になりやすい。だから面白い。

本当のところをいえば「分かった気になって面白い」。

本当は分かっていないが、分かった気になって面白い。

 

図解はドラッグのようなもの

ドラッグのようなものだと思う。

現実は悲壮でも、薬で多幸感を得られる。

現実は何も変わっていないが、面白く感じられる。

 

図解を見たところで、「古典をよく理解していない」という現実は何も変わらない。

しかし、よく理解できた気がする。それで面白い。

簡単に面白くなるからやめられない。

苦労して、本当の理解、本当の面白さを知るところからどんどん遠ざかっていく。

 

図解の愚かしさ

学びて時に之を習う、亦た説しからずや。

この意味が本当に分かると、図解がいかに馬鹿げているか分かる。

論語や、それに類する本を図解する者がいる。

図解そのものが論語の道に合わないことが分からない。

図解する者のひくさがよくわかる。

自分で自分の首を絞めているなと、私はいつも思う。

 

「時習」の解釈

学びて時に之を習う、の「時習じしゅう」の解釈は色々ある。

 

時々習う

まず、時々習うとする解釈がある。

一度教えられて覚ったからといって、そのままにしておくのはいけない。

機会があるごとに復習する、これを長い間続けていくと、もっと理解が進んで面白くなる。

このように解釈するものが多い。

 

諸橋轍次先生の『論語の講義』では、

「学んだところを機会ある毎に復習し練習していく」

 

金谷治先生の『論語』では、

「学んでは適当な時期におさらいをする」

 

根本通明先生『論語講義』でも、

「一旦教を受けて、時々打重ね打重ね、教を受けた所にりて、又考へて行つて」

 

「時々習う」の意味を強調している。

時々の積み重ねと考える解釈である。

 

常に繰り返す

「時々」ではなく、「常に」の意味を強調する解釈もある。

 

吉田賢抗先生『論語』ではそう解する。

「学んだことを常に繰り返し繰り返し学んだり、思索している」

 

服部宇之吉先生『国訳論語』では、

「時に之を習ふは、時々刻々に練習して能く熟するに至るを云ふ」

 

消極・積極の問題

「時々」と「常に」と、どちらが良いか。

「時々」ならば折に触れて、もっと言えば「あるとき、ふと思い出したように」復習する。

これは、良いことと思う。

ふと思い出して読み直す場合、そう思わせるような出来事、きっかけが身の回りにあったのだろう。それを活かす。復習のよい機会、今こそ復習に適当なる時期と考えて習う。

このように、積極的に「時々習う」のは良いことである。

 

しかし、「sometimes」の意味が強調されると良くない。

これでは、「時々」の意味が「散発的に」「切れ切れに」なり、消極的になる。

どうかすると「機会が得られるまでは復習しない」という意味になってしまう。

これは問題だ。そのような消極的な姿勢・思考では、復習の機会を、その時々にしっかりつかんでいくことも難しいだろう。

 

こう考えると、積極的な「時々」と「常に」はほぼ同じ意味になる。

この「常に」とは、禅でいうところの「正念相続しょうねんそうぞく」である。すなわち、

「どこにいても、何をしていても、常に論語に照らして物事を考えている。それが『習う』である」

ということであって、積極的「時々」と「常に」は同じ意味だ。

 

「時々」では消極的になりやすい人は、「時々」より「常に」を意識したほうが良い。そのくらいのものだろう。

それなら、消極的になり得ない。

いつも鞄に文庫版の論語が入っている。

机には、分厚い、しっかりとした論語がいつもおいてある。

それで常に習うようにしておくと、消極的に「時々に習う」よりずっと進歩するだろう。

 

孔子の本意は

孔子の本意を知るヒントは『中庸』にあるように思う。

 

『中庸』に「君子はときじくあたる(君子は時中じちゅうす)」とある。

これは、「中庸を得た君子は、一方に偏ることがない。どんなときでも、その時々の最も良いところを得ている」という意味だ。

ここの「時」も、積極的な「時々」でも、「常に」でもどちらでも通じる。

「その時、その時でベストな判断をする」ということは「常にベストな判断をする」と変わらない。

 

中庸の「時中」と同じように解するならば、「時習じしゅう」の解釈はほぼ一定する。

常に積極的な態度で道を求め、機会のあるごとに復習することだ。

 

学問の進み具合は人それぞれ異なる。

机上の学問だけではなく、生活環境や労働環境が違うのだから、経験による学びもそれぞれ異なる。

「ああ、これは論語にある~~~だな」と思い当たるタイミングは全く違う。

その時々で、思い当たるたびに復習の機会とする。

時々によく思い当たるためには、常なる積極姿勢が欠かせない。

孔子の仰る「時習」は、このように考えればよいと思う。

 

 

時勢に応じて

安岡正篤先生は、「時習」を「時勢に応じて習う」と解している。

これも優れた解釈と思う。

論語の教えは、二千年以上前のものである。

当時と現代では、真理に異なる所はないけれども、変わったことも色々ある。

論語にとらわれるあまり、現代に即した考え方・応用ができなくなれば、それこそ論語読みの論語知らずで空理空論に陥る。

それではいけない、だから「時勢に応じて習う」。

 

論語を読むとき、孔子の生きた時代を思いながら読む。これは当然大切。

しかし、現代に照らしながら読むことも欠かせない。

それでこそ、孔子の時代にも現代にも通じる、いわば「不変の真理」も見えてくる。

 

まとめ

「時習」の解釈は色々だが、いい加減な学者が解説したものでなければ、多くの解釈が根っこの部分では大差ないように思う。

どれも優れた解釈であるし、学ぶべきと思う。

色々な解釈を踏まえて、私自身は以下のように解釈している。

 

「教えを受けて、覚るところがある。それを積極的姿勢で、折に触れて復習し深めてゆく。

時々の復習を積み重ねるほど、理解が深まって喜びも大きくなっていく。

理解が深まれば、時勢に照らした読み方もできる。現実生活への応用もできるようになり、さらに嬉しくなってくる。」