周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

論語記事まとめ

無計画に、思うままに記事を書いているが、論語をよく引き合いに出している。

今後も、論語を様々に引用しながら記事を書いていくことと思う。

しかし、論語に記載されている順番に沿ったものではなく、いずれ整理がつかなくなるだろう。

 

私にとっても、読む人にとっても見やすくなると思うので、随時ここにまとめていきたい。

 

 

 

学而第一

1.学びて時に之を習う

孔子の理想とする「よろこび」とは - 噬嗑録

 

1-1 学びて時に之を習う

時習と喜び - 噬嗑録

 

1-2 朋有りて遠方より来る

「朋有りて遠方より来る」の戒め - 噬嗑録

 

4.曾子三省

理想的学徒 - 噬嗑録

日々どれくらい勉強すべきか - 噬嗑録

 

11.父在せば其の志を観、父没すれば其の行いを観る

剣の呼吸で孝行す - 噬嗑録

 

14.君子は食飽くを求むること無く

好学考 - 噬嗑録

 

16.人の己を知らざるを患えず

腹中の書 壺中の天 - 噬嗑録

 

為政第二

 

3.刑と礼

肩こって学問進む - 噬嗑録

6.孟武伯孝を問う

親の年齢を知る孝行 - 噬嗑録

 

12.君子は器ならず

弁才縦横、商才抜群、子貢は瑚璉なり - 噬嗑録

 

15.学んで思わざれば罔し、思いて学ばざれば殆うし

一陰一陽の応用 - 噬嗑録

 

16.異端は害なるのみ

異端を攻めよ - 噬嗑録

 

17.知らざるを知らずと為せ

知らざるを知らずと為せ - 噬嗑録

子路が恐れたもの - 噬嗑録

 

 

八佾第三

3.不仁ならば礼楽を如何せん

仁と礼楽 - 噬嗑録

 

5.夷狄の君有るは

夷狄の君有るは・・・ - 噬嗑録

 

7.君子は争ふ所無し

なぜ君子は争わぬか - 噬嗑録

 

14.周は二代に監みて、郁郁乎として文なるかな

弁才縦横、商才抜群、子貢は瑚璉なり - 噬嗑録

 

16.射は皮を主とせず

なぜ儒教では婚礼を重んじるか - 噬嗑録

 

17.告朔の餼羊

暦のはなし - 噬嗑録

 

25.韶は美を尽くせり

革命の是非 - 噬嗑録

 

里仁第四

3.唯仁者のみ能く人を好み悪む

性善説と性悪説 - 噬嗑録

性善説に関する追記 / 独学について思うこと - 噬嗑録

天とは何か - 噬嗑録

 

5.富と貴きとは人の欲するところ

富貴・貧賤・君子・小人 - 噬嗑録

 

7.民の過ちや、各々其の党に於いてす

DaiGoの騒動に思うこと - 噬嗑録

 

8.朝に道を聞かば

孔子の悲哀 - 噬嗑録

机上の空論に陥らぬために - 噬嗑録

 

9.悪衣悪食を恥ずる者は

悪衣悪食を恥ずる恥 - 噬嗑録

 

15.夫子の道は忠恕のみ

一以て之を貫く - 噬嗑録

 

21.父母の年を知るべし

親の年齢を知る孝行 - 噬嗑録

 

公冶長第五

1.子、公冶長を謂う

鳥の声を解した公冶長 - 噬嗑録

 

4.汝は器なり、瑚璉なり

弁才縦横、商才抜群、子貢は瑚璉なり - 噬嗑録

 

5.雍や仁にして佞ならず

仲弓の「南面の才」を作る三要素 - 噬嗑録

 

7.桴に乗りて海に浮ばん

夷狄の君有るは・・・ - 噬嗑録

 

9.宰予昼寝す

宰我昼寝考 - 噬嗑録

 

13.子路聞有りて

子路が恐れたもの - 噬嗑録

 

22.伯夷叔斉は旧悪を念はず

微生高は正直者か諂う者か - 噬嗑録

 

23.孰か微生高を直なりと謂ふや

微生高は正直者か諂う者か - 噬嗑録

 

雍也第六

1.雍や南面せしむべし

仲弓の「南面の才」を作る三要素 - 噬嗑録

 

2.顔回なる者有り。学を好み、怒りを遷さず、過ちを弐せず

怒りを遷さず、過ちを犯さず。亜聖・顔回の真骨頂 - 噬嗑録

 

9.賢なるかな回や

俚諺を儒学で解すると(1)果報は寝て待て - 噬嗑録

 

16.文質彬彬

儒学的文章についての覚書 - 噬嗑録

 

述而第七

1.述べて作らず、信じて古を好む

なぜ長生きすべきか - 噬嗑録

 

6.道に志し、徳に據り、仁に依り、芸に游ぶ。

「立つ」とは何か ―孔夫子三十の境地― - 噬嗑録

 

12.斎・戦・疾を慎む

論語の建て前 - 噬嗑録

 

20.怪力乱神を語らず

論語の建て前 - 噬嗑録

 

泰伯第八

2.天下を三分して其の二を有ち

革命の是非 - 噬嗑録

 

7.死して後に已む

身内の死に思うこと - 噬嗑録

真面目考 - 噬嗑録

 

13.三年学んで穀に至らざるは

日々どれくらい勉強すべきか - 噬嗑録

 

21.舜に臣五人有り

革命の是非 - 噬嗑録

 

子罕第九

16.君子の道は川のごとし

無窮を考える - 噬嗑録

 

郷党第十

先進第十一

・季路鬼神に事ふることを問ふ

下学して上達す - 噬嗑録

 

・聞くがままに斯に諸を行はんか

下学して上達す - 噬嗑録

 

17.参や魯なり

 

25.子路・曾晳・冉有・公西華侍坐す

25-4.曾晳の志

腹中の書 壺中の天 - 噬嗑録

 

顔淵第十二

1.克己復礼

克己復礼にみる孔門の気骨 - 噬嗑録

礼とはなにか - 噬嗑録

性善説と性悪説 - 噬嗑録

性善説に関する追記 / 独学について思うこと - 噬嗑録

 

21.徳を崇うし、慝を修め、惑ひを弁ずる

徳とは何か - 噬嗑録

 

子路第十三

憲問第十四

10.或る人子産、子西、管仲を問う

鮮血淋漓の学問がしたい~古写本論語の重要性~ - 噬嗑録

 

21.何如なるを斯れ士と謂ふ可きか

「士」に関する問答 - 噬嗑録

 

・我を知ること莫きかな

下学して上達す - 噬嗑録

 

衛霊公第十五

1.君子固より窮す

報われない努力について - 噬嗑録

机上の空論に陥らぬために - 噬嗑録

 

季氏第十六

陽貨第十七

22.飽食終日

真面目考 - 噬嗑録

 

25.年四十にして悪まるる者

徳とは何か - 噬嗑録

 

微子第十八

3.斉の景公、孔子を待ちて曰く

組織は人材をいかに遇するべきか~孔子が斉を去った理由~ - 噬嗑録

 

8.可もなく不可もなし

理想は「可もなく不可もなし」 - 噬嗑録

 

子張第十九

 

6.博く学びて篤く志す

机上の空論に陥らぬために - 噬嗑録

 

堯曰第二十

趁無窮

日本画家の横山大観。この人の師は岡倉天心だが、天心が大観に与えたのは「趁無窮」の三文字であった。

 

趁無窮、無窮をふ。

 

同じ「おう」でも漢字は色々だ。最も一般的なのは追。逐の字もある。しかし趁はあまり見ない。詩の中ではしばしばみるが。

なぜ天心は「趁」と書いたのか。本当のところは分らないけれども、私なりに考えてみた。

 

追・逐・趁

徂徠先生『訳文筌蹄』に曰く、

追・・・あとから追いかけ追い付くなり。

逐・・・大抵追と同じ、物を追う意あり、追い退くる意あるなり。ついてゆく意はなきなり。

趁・・・追いかけて履むなり。すかさず追う意なり。

それぞれ違いがある。

追う対象によって使うべき字が変わる。無窮をおう場合、追・逐は適当でなかろう。

 

無窮を追えるか

無窮とは、窮まりの無いことである。果てしないといってもよい。

窮まり無きもの、果てしなきものは、いくら追いかけても追いつくことはない。

そもそも「“あとから”追いかけ追い付く」というが、どこを、なにを追ってゆくのか。

前に仲間がいるなら、それをあとから追うのである。ついてゆくのである。

しかし無窮の場合、どのようにでも、どこまででも、果てしなく窮まり無し。追うべきものが前にあるか後ろにあるか、西に追うのか東に追うのかわからない。そのあとを追うことはできない。追い付くこともできない。

 

無窮を逐えるか

逐はどうか。追うには追うが、ついてゆく意味はないという。

例えば放逐という言葉がある。これは悪者などを僻地へ追い遣る。僻地に追い退け、罪に服せしむ。ついてゆくことはない。だから追い付くこともない。

無窮をおうのに「逐」の字を当てることはできない。無窮を追い求めることはあっても、追い退けるものではない。

 

孔子の徳は無窮

顔回の言葉を思い出す。

顔回孔子の徳を讃嘆して、「之をれば前に在り、忽焉こつえんとして後に在り」と言う。前にいたかと思えば後ろにいる、自由自在・融通無碍であると。

だから「之に従はんと欲すと雖も由末よしなきのみ」、先生に追従しようと熱望するのだがどうにもならない。

 

道は無窮

天の命を性といい、性に率うことを道という。大道を往くことは性に適う。性に適えば天の命にも適う。道と天命はふたつのものではない。道即天命である。天が無窮であればその命も無窮、道も無窮である。

そもそも、無窮ゆえに名付けようのないものに対して、教えを立てるために強いて名付けて天とか道とかいったものである。老子はそうおっしゃる。本来異なるものではない。

 

孔子の五十にして天命を知った。これは無窮を知ったことにほかならない。頭で、知識として知ったのではない。無窮に至ったのである。

 

道は履むもの

孔子はいかにして道を求め、無窮に至ったか。

思うに、孔子は無窮を追いかけ追い付いたのではない。いかに孔子とて、無窮を追うことはできない。追えば顔回のように由末きのみ。

無窮であるから、道は前にもある、後ろにもある。今ここにもある、過去にも未来にもある。近くにもある、遠くにもある。あとを追いかけ追い付くことはできない。従はんと欲すれば由末きのみ。

 

孔子は、道を履んだのである。履み行ったのであって、追従したのではない。今この時、ここにある道を一つずつ履んでいったのである。

 

子曰く、仁遠からんや、我仁を欲すれば斯に仁至る。

 

仁は遠いものだろうか。もちろんそうだろうが、遠くへ至るには一歩ずつ履むことが肝心である。一歩は遠くない。今この時、この一歩は欲すれば誰でもできる。それを繰り返せばやがて遠くにも至る。欲すれば至る。

 

道遠からんや、我道を欲すれば斯に道至る。

欲すれば道至る。無窮にも至る。

 

趁無窮

岡倉天心が「趁無窮」といったのは偉いことだ。無窮は、趁うのでなければならない。

趁は追いかけ履むなり。すかさず追うなり。

どこか遠くにあるものを、追いかけ追い付き履むのではない。今この時、ここにあるものをすかさず追って履むのである。

「我仁を欲すれば斯に仁至る」というのも、我が仁を強く欲するから、仁を為すべき機会を敏に捉えることができ、敏に捉えるからすかさず追うことができ、すかさず追うから履むことができ、履むから斯に仁至る。

 

無窮は趁わねばならぬ。それでこそ、無窮を身に体することができる。無窮を得ることができる。徳は得なり、無窮の大徳が我がものになり、仰げばいよいよ高く、鑽ればいよいよ堅く、前に在り後ろにあり、高大堅固自由自在。

高大堅固は剛、自由自在は柔、無窮なれば剛柔相和し円満具足。お前の絵はそれを目指せ、そのためには無窮を趁うべし。天心が大観に言ったのは、そういう意味ではなかったか。

 

大観四十五歳の絵(瀟湘八景)を、夏目漱石はこう評した。

「一言でいふと、君(大観)の絵には気の利いた様な間の抜けた様な趣があつて大変に巧みな手際を見せると同時に、変に無粋な無頓着な所も具へてゐる」

漱石は、大観の絵の無窮性を述べたのである。

 

大観の絵がなぜあれだけ立派なのか。大観が「趁無窮」を奉じたことを知り、納得がいった。無窮を趁って已まぬ者の絵が、立派でないはずがないのである。

 

私は学問してきたつもりだった。しかし今日の今日まで、道を漠然と追っていただけだった。

これからは趁わねばならない。追うことは、もうやめにする。

克己復礼の実践について

般若心経を日に百回読誦。この習慣を続けるうち、集中力が極度に高まる感覚が増えた。

回数を重ねるごとに徐々に入り込んでゆく。集中力が高まってくる。

 

例えば、目を開いているのに目を閉じたようになる。

部屋は薄っすら明るい。目が開いていればモノが見えるのが道理だ。しかし真っ暗になり、線だけになる。一点を見つめて目を閉じると残像がしばらく見えるが、あんなふうに見える。

見ているはずのものが見えなくなる。確かに見えているが、脳がその刺激を受けなくなっている。これはおそらく集中力によるものだろう。

 

似たことは誰にでもある。極度に集中していたら、見えているはずのものが見えなくなる。

視覚だけではない。五感はどれも同じだろう。人に声をかけられても聞こえなくなる。聞こえるものが聞こえなくなる。音は確かにあるが、脳がその刺激に反応していない。

孔子が韶を聞いて肉の味がわからなくなった(味覚)というのも同じことと思う。

ただしこの場合、「感じる→感じない」への変化が曖昧だ。次第に集中し、いつの間にか感じなくなる。

 

般若心経を唱えていると、「見える→見えなくなる」という変化がまざまざとわかる。体感できる。

今はまだ、極く浅い感覚だ。しかしこの感覚を具体的に掴めば、自分の意思であらゆるノイズを断ち切り、集中状態へと持ち込めるようになるかもしれない。

ノイズを断つというのは、外から内への刺激そのものを断つのではない。刺激そのものを断つなら、目を閉じたり、耳栓をしたりするのが手っ取り早い。

そういうことではない。外から内への刺激はそのままに、内のほうで刺激に左右されないのである。

この感覚は、学問の大きな助けになるに違いない。克己復礼の実践にも役立つのではないか。

 

論語顔回篇の問答。

顔回「仁とはどういうことですか」

孔子「己に克って礼をむのが仁だ」

顔回「具体的にはどうすればよいでしょうか」

孔子「非礼は視るな、聴くな、言うな、行動にあらわすな」

顔回「私は不敏ですが、その教えを一生の仕事にいたします」

 

孔子の時代は非礼にあふれていた。だから孔子は礼を重視したわけだ。そんな時代に、非礼を全く視ず、聴かずに生きることはできない。あえてそれをするならば、単に非礼から目を背け、耳を背けているに過ぎない。それは孔子の道ではない。

非礼を直視し、しかも惑わされず、礼に生きるのが孔子の道である。

 

「克己」の「己」は「身」であると、根本通明先生は仰る。身には欲がある。

非礼はたしかに存在する、目にも視える。耳にも聞こえる。しかし非礼から刺激を受け、影響されるかどうかは自分次第である。

非礼が我が身(己)を刺激する。その刺激に惑わされず、欲に流されないことを克己という。

 

集中することによってノイズ(非礼)の影響を断ち切ることができれば、孔子の仰るうち「非礼を視るな、聴くな」は達せられる。非礼を視ても聴いても惑わされず、克己の半分は達せられる。

「非礼を言わず、行動にあらわさず」も同じ。非礼なる言動の多くはノイズの影響が表面化したものだ。外部の非礼に刺激され、影響され、惑わされ、言動が非礼に陥る。克己によって非礼を視ず聴かずの状態になれば、非礼なる言動も減るだろう。

 

もちろん、外部の非礼があってもなくても、非礼な言動がなくなるわけではない。外から内への刺激とは関係なく、内のほうで勝手に刺激が起こり、欲に流されることがある。

食欲がわかりやすい。

美味そうなものを見て食欲がわくことがある。これは外から内への刺激で欲が生じる。

しかし、美味そうなものを見なくても、勝手に腹は減ってくる。腹が減れば食欲が出る。これは外からでなく、内のほうで刺激が起こり、欲が出てくるわけだ。

 

非礼もそうで、非礼は外から内へ向かうもののほか、内でおのずと生じるものがある。

例えば、礼では手足をこう動かすべき、ということがある。しかし疲れて億劫であれば、非礼なる行動に陥りやすい。この非礼は内で起こったものだ。それに刺激せられて、惑わされ、我が身の欲に流され、非礼が表面化する。克己のためには、内なる非礼にも刺激せられてはならない。

 

非礼に刺激されることがなければ、礼に外れることはない。礼に外れなければ、礼を正しく履むことができる。克己があって復礼がある。

克己するには、集中することだ。自分の日々の務め、学問、大きく言えば道というものに本当に集中すれば、非礼に惑わされにくくなる。

 

大学に曰く、心ここに在らざれば視れども見えず、聴けども聞こえず。

心がここにない、他に奪われている、集中していない。そういう状態では、視ても(本当のことは)見えない、聴いても(本当のことは)聞こえない。

集中することで視ても見えない(視るものに刺激されない)、聴いても聞こえない(聴くことに刺激されない)とは大違い。

 

集中すればどうなるか。心焉に在れば、耳目聡明。

耳が当たり前に聞こえるのではなく、よく聞こえる。非礼を聴いて、当たり前に聞こえるだけでは刺激され惑わされる。耳が聡ければ、明らけく聞こえる。本当のことがわかる。聞くべきもの(礼)を聞き、聞くべきでないもの(非礼)は聞いても惑わされない。

目も当たり前に見えるのではなく、よく見える。非礼を当たり前に見て、刺激され惑わされるのではない。聡く明らけく見て、本当のことがわかる。

 

もちろん、耳目の聡明さにも程度がある。耳目聡明になりきれば仁に近い。

易には「そんにして耳目聡明、柔進みて上り行き、中を得て剛に応ず。是を以ておおいとおる」とある。

 

巽は巽順、へりくだって従順であること。孔子の教えを受けて「一生の仕事にします」といった顔回のように、聖人賢人にへり下り、教えに従順であること。

これは、集中するということだ。一つの教えに集中せず、色々な教えを行ったり来たりするのは従順ではない。正しい教えに集中し、従順であるから学問修養が進む。耳目も聡明になってくる。

耳目が聡明になるにつれて、物事が正しくわかり、非礼に惑わされることが減る。克己し復礼し、仁に近づく。

やがて真に耳目聡明になれば、もはや明徳といえる。耳目が聡明であれば心の徳は必ず明らかであり、心の徳が明らかであれば必ず耳目は聡明なのである。明徳は仁である。

 

さらにいえば中庸である。あらゆる物事の中なるところが正しくわかり、失うことがない。

顔回はそうであった。顔回といえば「過ちをふたたびせず」で、過ちを繰り返さなかった。これは、一度失敗したことを繰り返さないという意味ではない。

非礼を犯す際、まず非礼が心に浮かぶ。これが一度目の過ち。浮かんだ非礼を言動にあらわす、これが二度目の過ち。顔回にはこの二度目がない。心に浮かんだものを心の中でよく考えて、非礼であれば去ってしまう。一度目があって二度目がない。これが顔回の「過ちを貳せず」である。

孔子の教えに巽順で、非礼を視ず、聴かず、言わず、為さず、克己復礼に努め、やがて耳目聡明・明徳・中庸に至った顔回だから、過ちを貳しなかった。

孔子が「己に克ちて礼を復むを仁と為す」と仰ったのは嘘ではない。顔回が証明している。

 

巽順にして耳目聡明・明徳の仁者が上に立てば、万事が中を得る。柔順にして中なる徳があるから、剛強にして中なる徳を持った賢人とも相応じ、引き立てることができる。だから元に亨る、すべてうまく回っていく。

易ではそう教える。

 

学問における集中の功を大きく言えば治国平天下、小さく言えば克己復礼。小より大を為し、近きより遠くへ及ぼし、低きより高きに至るのが儒学である。

儒学を学ぶものは克己復礼に努めるべきだ。内外の刺激を受けても、惑わされぬこと。そのためには集中すること。

畢竟、克己復礼は集中力の如何にかかっている。今の世の中、集中を妨げるものが非常に多い。目の前の集中すべきこと以外はすべて「異端」である。

孔子曰く、攻乎異端、斯害也已。

普通、これは「異端おさをむるは斯れ害あるのみ」と読む。異端のことを修めるのは害になるからやめよと。

根本先生もそのように解したが、後年改められた。「異端をめよ、斯れ害あるのみ」と読み、

異端をむるは猶敵を攻むるが如くせよ。之を攻落して正に帰せしめよ。異端は有害無益なり。

と解した。

 

礼でいえば、非礼は異端である。

「非礼をおさむるは、斯れ害あるのみ」では弱い。非礼を攻むるとは、非礼を視る、聴く、言う、行動にあらわすこと。非礼に刺激され、欲に流されること。確かに害でしかない。

ならばどうするか。孔子は「克己復礼せよ」と仰った。そのためには非礼を視るな、聴くな、言うな、行動にあらわすな。

これは、単に「非礼は害だから遠ざけよ」ではない。己に克つとは、刺激と欲から逃げ回ることではない。非礼を直視し、刺激せられる己と対峙し、克てということだ。

 

王陽明の言葉に「心中の賊を討つ」とある。また山田方谷先生の漢詩にも同じことがある。あるとき方谷先生は、胃潰瘍のために激しく吐血する。血を吐きながら詠んだ詩はこうである。

 

賊拠心中勢未衰 賊、心中にりて勢い未だ衰へず
天君有令殺無遺 天君令あり、殺して遺す無かれと
満胸迸出鮮鮮血 満胸迸出す鮮々の血
正是一場鏖戦時 正に是れ一場鏖戦の時

 

賊とは、心の中に巣くう賊、刺激と欲に流される己。その勢いが未だ衰えない。克己復礼が十分でない。

この賊を一人残さず殺せというのは、天よりの厳命である。

中庸に曰く、天の命ぜる、之を性と謂ふ。性にしたがふ、之を道と謂ふ。道を修むる、之を教へと謂ふ。

孔子の教えに克己復礼あり。この教えによって道を修め、性に率うことは天命にほかならない。

この天命を奉じ、克己復礼に努めてきた。見よ、胸をいっぱいに満ちた鮮血が今迸る。大いに吐血した。これは奴ら(心中の賊)の血である。

さあ決戦の時、一気呵成にやってしまえ。奴らを皆殺し(鏖)にするのは今だ。

 

まさしく「異端を攻めよ」だ。この気合いでやってこそ、異端・非礼に流れる己に克ち、礼に復ることができる。耳目聡明・明徳・中庸は、その先にあるのではないか。

集中して取り組むことが大前提である。学問は、ただやればよいというものではない。集中しなければならない。それでこそ修養が進むし、克己復礼にもつながる。その工夫を続けたい。集中するにも試行錯誤と工夫がいる。

 

思うままに書いた。もっとよく考える必要があるだろう。しかしともかく、般若心経の読誦を重ね、体験したことを考え、ある程度まで敷衍できたと思う。

睡眠と陰陽のはなし

最近、睡眠を陰陽の理で考えると、色々と得るところがあったのでまとめてみたい。

ツイッターでお付き合いのある人の中には、睡眠に悩みを抱える人もいるようだ。参考になればよいと思う。

 

睡眠の意義

寝るべき時に寝られぬと、翌日の体調が優れず、仕事や勉強にも差し支える。

眠るのは極く良いことで、なんだか調子が悪いと感じているとき、睡眠がうまくいっていないことが多い。

どうも気が振るわないと思ったときは、気力が枯渇しているのである。枯渇しているものを振るおうと思っても無理がある。なぜ枯渇するかといえば、元気の巡りが悪いからである。

貝原益軒先生の『養生訓』では、元気は睡眠によって循環すると説く。睡眠をよくとり、元気を巡らせてやれば気力も湧いてくる。私の体験的にも、これは確かなことと思う。

 

睡眠と陰陽

陽は積極、強、剛、動、日向、明、昼、充実など。

陰は消極、弱、柔、静、日蔭、暗、夜、空虚など。

 

動と静でいえば、仕事したり勉強したり遊んだり、活動するのは動であり陽の分野である。静は安息、休息、睡眠で陰の分野。

だから人間は昼に活動して夜は眠る。体質や遺伝などで夜型・朝型があるし、私もどちらかといえば夜型の傾向があるが、陰陽の理からいえば昼に動、夜に静。

 

したがって、夜に眠ろうと思えばこの陰陽の理に沿えば良いのである。

夜に眠るは陰、陰は柔であり静であり暗。ここを押さえるとよく眠れる。

 

1.静

安眠するにはまず静から手を付けたらよいと思う。これは動静の静ではなく、静寂の静。

静も陰の分野だが、今の時代はなかなか静かでない。夜でも車がそこら中を走っていて、私は車の音が大嫌いである。

スマホも厄介だ。昔、携帯が一般的でなかった時代、夜以降は連絡がくることはなかった。20時過ぎてから友達の家に電話しようものなら、親から「相手のお宅はご飯かもしれないし、こんな時間に電話するな」と叱られた。

今はスマホで簡単に連絡が取れる。陰の時間、静であるべき時間に遠慮なしに踏み込んでくる。これが睡眠の妨げになる人は多いのではないか。

多忙な人は別として、普通の人は日が暮れたらマナーモードにするだけで全然違う。私は24時間マナーモードだし、あまり人に連絡先を教えないから、ほとんど連絡がこない。いつも静かである。

都会はスマホ以外にも騒音があるだろう。周りがどうしても五月蠅ければ耳栓をしたら良い。耳栓はモルデックスが良い。ただし、アラームが聞こえなくなるので要注意。

 

2.柔

喧騒を遠ざけたら、次は柔。夜は陰、陰は柔、柔はやわらか。体をやわらかにするのである。

昼は陽で剛、剛は固い。昼間活動した体は、そのままでは固くなっている。筋肉が固い。その証拠に肩や首や腰が凝る。これは剛であり陽であって、睡眠とは相反する。

そこで体をほぐす。早い話、お風呂にでも入って、その後ストレッチするとよい。10分のストレッチでも馬鹿にならない。

 

3.暗

ストレッチの次は暗。

昔々は日が沈めば明から暗の時間になった。二宮尊徳翁は火を灯して勉強に勤しんだわけだが、油がもったいないと叱られた。夜は暗いから眠るのが普通だった。

現代は異なる。夜でも街は光に満ちているし、室内でもボタン一つで電気が点く。スマホを触れば画面の光が暗を逐いやる。陰の時間に陽になるのだから、眠りの妨げになって当然だ。

スマホの光で睡眠の質が下がるというのはよくある話だが、スマホの光に限らず、明(陽)であれば何でもそうではないか。

夜眠りたければ暗に徹することだ。明かりを消してスマホも触らず、真っ暗闇で休む。

 

4.再び静

部屋を暗くしたら再び静。

今度は動静の方の静。昼は陽で動の時間だから、よく活動する、体も動かす。夜は陰だから心と体の動きを少なくする。

体の動きを減らすのは容易い。横になるだけでよい。

難しいのが心の動きを減らすことだ。心がざわざわ動いていると、体を静にしても眠れない。不眠になるのもこれだろう。

 

心を静にするコツは呼吸にある。たかが呼吸と侮ってはならない。呼吸と心の関係は大変密接だ。

普通、人は1分間に18回くらい呼吸するという。これは平常時・活動時・陽の時にそれだけ呼吸するのであって、動の呼吸である。呼吸が動では、心が静にならない。

事は簡単だ。呼吸が静になると心も静になる。ゆっくり吸って、少し息を止めて、ゆっくり吐く。

ゆっくりであればあるほど良い。もちろん人によって心肺機能が異なるので、無理のない範囲でゆっくり呼吸する。無理にやろうとすると、その「無理をする」「気張る」ということ自体が静ではなく動の方になるから睡眠には役立たない。

私は20秒吸って、5秒止め、20秒の感じ。測ったのではないが、大体そんな感じだ。心で1...2...と数えるのではなく、無理なく適当に、5・5・5でも10・10・10でも、自分に気持ちの良いペースでやったらよい。

 

5.再び柔

ゆっくり呼吸していると、それだけで眠ってしまうことも多いが、不安がある人は眠れないかもしれない。ゆっくり呼吸しても、あれこれ考えていると頭は動であり静でないから眠れない。

このとき、頭を柔の方へもっていく。柔ばかりイメージする。自分が柔らかになっていくことをイメージするとよく眠れる。

人間の肉体は本来固体だが、固体は固い、固いは剛であり陽である。そこをイメージで柔にする。

液体は固体より柔らかだ。水は高いところから低いところへ流れる、器によって形を変える。液体は極く柔順である。

八卦でいえば、太極から陰陽両儀が生じ、陽は太陽・少陰へ、陰は少陽・太陰へと分かれ、このうち少陽が坎(水)と巽(風)に分かれる。水は陰の陽なるものである。陽を陰が覆う形だ。

説卦伝に曰く、震に出で、巽に斉ひ、離に相見、坤に致役し、兌に説言し、乾に戦ひ、坎に労し、艮に成言す。

水は坎、坎に労す。労は慰労であり休息である。水は五行の中で最も冷たく、方角で言えば北、季節で言えば冬至、農閑期であり、万物が一年の仕事を終えて休む。これが坎、水。

人間として肉体を持つ以上、陽なる形質は免れない。しかしイメージは自由だ。太陰は難しくとも、少陽くらいにはなれるのではないか。イメージで陽を陰で覆って、半ば液体となり、柔らかになって眠るのである。

例えば仰向けに寝ているとして、自分の背中が布団と接している。背中に意識を向けて、自分の体が柔らかになる柔らかになると思い込む。自分の体が固体から徐々に液体になっていく。体が布団に沁み込んでいくような、沈み込んでいくような、布団と我と一体感が生まれる。布団と我の境界が曖昧になる。これは柔である。水(我)が器(布団)の形と一体になることと同じい。

もしこれで眠れない場合、柔らかになろう柔らかになろうと頑張って、却って陽になっているのだ。慣れが必要なのかもしれない。

 

陰陽の理は科学的

人間には交感神経と副交感神経というのがある。交感神経は活動時のもの、副交感神経は安静時のもの。陰陽でいえば交感神経が陽、副交感神経が陰だ。

安眠のためには、交感神経から副交感神経への切り替えが肝要であると、昔何かの本で読んだ。

陽から陰へ、明から暗へ、動から静へ、剛から柔へ、交感神経から副交感神経へ。それで眠れる。陰陽の理は実に科学的である。

 

惰眠・昼寝を戒める

このように眠ると、寝覚めもすっきりしている。寝すぎることはない。

しっかり寝たいが、長く眠るのが良いのではない。益軒先生は、しっかり眠れ、しかし惰眠は悪いと仰る。曰く、

ねぶり(眠り)をすくなくすれば無病になるは、元気めぐりやすきが故也。ねぶり多ければ元気めぐらずして病となる。

また、益軒先生は昼寝を戒める。陰陽の理からいっても、確かに昼寝は悪かろう。昼は陽で活動、夜は静で休息、それで元気がよく循環する。昼に寝たのではこの循環が乱れるからよくない。

ただし、益軒先生が説いた時代の背景も考慮したい。

なんといっても、当時は今のようにアラームがない。ちょっと昼寝しようと思っても、疲れていたら1時間、2時間と寝てしまう。益軒先生の仰るのは、

「昼寝を過ごした結果、夜に元気が有り余って眠れず、元気の循環も悪くなる、ならば昼寝せぬがよい」

ということではないか。

 

益軒先生も、昼寝が絶対にダメというのではない。だから養生訓には昼寝のコツも書いてある。

  • どうしても眠たければ、横にならず壁に寄りかかって眠れ
  • ひどく疲れて、どうしても横になりたい場合には、側に人を置いて少しだけ眠り、適当に起こしてもらえ

横になれば眠りすぎるから悪い、横になるとしても短く切り上げよということだ。

具体的に何分くらい昼寝すべきか、養生訓には書いてない。私は長くて30分と思っている。今の時代はアラームがあるから、人を側に置かなくても昼寝できる。短時間の昼寝は、必ずしも悪くない。山岡鉄舟先生は睡眠時間が短かったというが、眠ければ昼寝したという。

 

もっとも、どうしても眠いという場合を除き、私は昼寝しない。体験的に、昼寝しない方が夜よく眠れる。

 

最後に

最近、睡眠のサイクルを大きく変えた。生活そのものが良くなったと思う。この変化にあたり、陰陽の理をよく考えた。それでうまくいった部分が大きい。

私なりの易の応用である。

礼を愛しむ心

礼記を筆写していて、ひとつ気づいたことがある。

論語八佾篇、告朔の餼羊のはなし。

 

 

八佾第三

論語八佾第三にこうある。

子貢、告朔こくさく餼羊きようを去らんと欲す。子曰く、賜や、爾は其の羊をしむ、我は其の礼を愛しむ。

告朔の儀礼には羊(餼羊=生きた羊)を捧げたが、子貢はそれを辞めにしたいと思った。

孔子が仰る。

「子貢よ、お前は羊が惜しむが、私は礼が惜しい」

 

愛と惜

原文の「愛」は「しむ」と読み下す本が多いように思う。根本先生は「あいす」としている。

どちらでもよいと思う。愛惜というように、愛しむ・惜しむはどちらも大切にすること。

大切なものだから、失えば残念だ。惜しい。

大切に思うから尊重する。愛する。

 

告朔とは

毎年、諸侯は天子から暦を賜わり宗廟に納める。

告朔の儀礼は毎月朔日に行う。宗廟に羊を供えて先祖を祀り、大史がその月の暦を告げる。

暦にはその月に為すべき諸々のことが書いてある。何日までに麦の種をまくとか、害獣を駆除するとか、役人が田畑を見回るとか、そういった諸々のことを告げるのが告朔。

宗廟に告げた後、大史は君公に暦を告げる。宗廟で先祖に告げ、朝廷で君公に告げ、朝廷ではそれに基づいて政事を行う。いついつまでにあれをせよ、これをせよ、今月はこれこれしちゃならぬと命令を下す。

 

餼羊を捧げる意味

告朔の礼では、単に羊の肉を捧げるのではない。餼羊を捧げる。これも重い。

祭にも高低があり、礼は一様ではない。祭としての格が下がるほど、礼の在り方は人間の生活に近くなる。曰く、

郊には血、大饗にはせい、三献にはせん、一献にはじゅく

郊祭(天を祭る)では血を供える。祫祭(宗廟で先祖を祭る)では生肉を供える。三献(社稷五祀を祭る)では少しく色の変わる程度に煮た肉を供える。一献(群小祀の祭)では十分に煮た肉を供える。

告朔には諸説あるが、餼羊、生きた羊を捧げたとある。宗廟の祭であるから、君主みずから羊を牽いて宗廟に行き、割き、生肉を供えたのだろう。

毎月のこととはいえ、告朔は大饗に属する祭であって、極く重い祭であったはずだ。

 

羊を去るはなぜ悪い

当時、告朔の礼は廃れていた。君公も宗廟に出るべきだが、魯では文公のころから怠っている。

こんなものは形ばかりで何の益もない、羊を供えるだけ無駄だ。子貢はそう考えた。

おそらく孔子に「あんなものは辞めたが良いでしょう」と言ったのだろう。すると孔子は「それは違う、お前は羊が惜しいというが、私には礼が惜しい」と仰った。

羊と礼になんの関係があるのか。

 

告朔の礼が含むもの

告朔は単なる報告ではない。非常に大きな意味を持っている。

宗廟に報告するだけでよいなら、朝廷に告げたり、人々に告げたりすることはない。ただ先祖に祈ればよい。宗廟だけで完結する礼は色々ある。

しかし宗廟から朝廷へ、朝廷から民間へと流れ、実行されていく。毎月のはじめに告朔の儀礼があり、その月の仕事が明らかになり、農業も暦に沿って行われる。

告朔を起点として月々の政事が行われることは、農耕社会にとって極めて重要なことだ。

 

これによってどうなるかといえば、まず農業がうまくいく。暦を守れば農業の段取りを誤ることはない。公共工事や戦争に人手を奪われることもない。

農業以外もうまくいく。漁業や林業なども暦に従うから、乱獲や乱伐が起こらず、必要なときに必要なだけ得られる。

 

暦を奉ずるは天を奉ずること

つまり告朔の祭を行い暦に従うことは、天徳に順うことと同じい。
天地の徳は生成化育、万物を生み育てるのが天徳である。人も鳥も獣も魚も植物も天徳によって育まれる。

天の徳を具体的にいえば、科学的なことになっていくだろう。昔はそういうことが分からないから、自然をもとに考えた。例えば日月星辰で考えた。日月の運行、暦でいえば特に月の盈虚、そういったものから時の移ろいを把握し、政事に応用していく。

 

儒教では天地の徳と政事を一体と考える。孝経で「天の道を用い、地の利を分かち」というが、これは「天の時に従い、地勢に応じて」といった意味合いである。

「暦に順う」、「天地の徳に順う」、色々な言い方ができるが、根本的に意味するところは同じ。

 

告朔の本質

また、儒教では順逆を重んじる。順は徳を益し、逆は徳を損なう。

暦に順うことは天地に順うことと同じい。天地の徳発揚昭著して万物に遍くいきわたり、生成化育の実が大いに現れる。農業ならば五穀豊穣。

 

つまり告朔の本質は「宗廟に告げて暦を奉じ、天の時を以てする」というところにある。
当然、根底には天地の生成化育の徳、豊かさへの希求と賛美がある。豊かさを賛美するならば、供物は相応に豊かであるべきだ。供物を惜しみ減らすのは礼に適わない。

口で豊かさを賛美しながら、手元は貧しい。これは儒学が忌み嫌う「誣」である。天地宗廟をあざむくのであって、非礼の大なるものである。

 

五牲の尊卑

五牲といって牲には五種ある。尊いものから順に牛・羊・豚・犬・鶏。

諸侯の社稷は少牢、羊と豚を供える。羊と豚では羊の方が尊い。少牢を羊のみとする説もあるが、いずれにせよ羊が尊いことには変わりない。

大夫は故無ければ羊を殺さず。故とは祭祀冠婚賓客等。

臣下の階級は上大夫(卿)、下大夫、上士、中士、下士の五等。上位にある大夫でさえ、特別なことがなければ羊を牲にしない。これでも羊の重さが分かる。

しかし故あれば殺す。故あって殺さぬは非礼である。晏平仲は大夫でありながら、先祖を祀るに羊を用いず豚を以てした。これは非礼である。

 

五牲は相為に用ゐず

左伝昭公十一年、楚が蔡を滅ぼした。楚の霊王は暴虐であったから、捕らえた蔡の太子を牲にして山を祀った。

それを聞いて、楚の賢臣が言う。

「不祥なり、五牲も相為に用ゐず。況や諸侯を用ゐるをや。王必ず之を悔いん」

五牲の間でさえ取り換えて用いることはしない。牲として養った動物でさえ代用しないのだから、人間は猶更である。ましてや諸侯を牲にするなど、不吉極まりない。王はきっと悔やむことになるだろう。

この二年後、霊王は殺される。それを孔子は「己に克ち礼に復る、霊王にそれができたら殺されることはなかっただろう」と評した。霊王は非礼のために殺されたと。

 

相応の礼

“相応”ということは、礼の根本である。その時、その場合にふさわしいようにするのが礼であって、手厚すぎるのも非礼、簡素にすぎるのも非礼だ。

五牲は相為に用いず。「大夫は故あれば羊を殺す」が礼である以上、牛に代えても非礼、豚に代えても非礼、何に代えても非礼。羊を豚に代えた晏平仲が非礼というのは、こういうわけである。

子貢の「羊を去る」という考え方も、礼の根本を蔑するものであり、晏平仲と同じ類の非礼にあたる。

 

これは常礼をいうのであって、非常時は除く。相応であれというのは、固定的でなく流動的であれということだ。時と場合にふさわしくせよということだ。

孔子曰く、

礼はあきらかにせざるべからず。礼は同じからず、豊ならず、殺ならず。

省は審なり、明なり。

礼は明確に心得るべきである。礼を一律に考えてはならない。時と場合によってふさわしい礼があり、豊かにしすぎても、簡素にすぎてもいけない。

 

礼を愛しむ心

告朔の場合においては羊が相応である。相応であれば礼に適う。礼に適うのだから、羊は最適最高の贄といえる。羊以外で代用する理由がない。

代用するには古礼を曲げる必要がある。時代の変化に応じて、相応・最適な形で礼を継承するならばよい。しかし「無駄である」が出発点であれば、大抵は無駄さえ省けば何でもよい、どんなこじつけもやる。全く、無駄を省くために礼を曲げるのである。

 

非礼を重ねる

告朔の餼羊を去り、古礼を曲げた。ふさわしい礼を曲げるのだから当然非礼だ。

非礼はこれで終わりではない。非礼に非礼が積み重なる。必ずそうなる。

 

五牲は相為に用いず。羊を豚や犬や鶏に代えるは非礼。告朔の餼羊を去れば、その後毎月、延々と非礼を積むことになる。

非礼を改めるには古礼に則って羊に戻すほかない。しかし「無駄だ」で羊を去った以上、無駄は無駄でも軽微な無駄にとどめたい。羊に戻すことは難しい。

「羊は去っても、せめてこれ(代用)だけは」とはならない。「これだけは」というなら「餼羊」がそれだ。先王の定めた礼であり、守るべき理由もある。古き良き道を継承していくこと自体、すでに善であり礼に適う。

それを安易に捨てたのだ。無駄を受け入れて羊に戻すより安易な方、現状維持もしくはさらなる低コストへ流れるほうがはるかに容易い。供物のレベルはじわじわ下がってゆく。

この考え方でいけば、向かう先は「一切無駄なし」「コストゼロ」だ。今の時代がそうだろう。「〇%オフ」とか「今だけ無料」とか、コスパとかタイパとか、そんなものであふれかえっている。

礼もなにもあったものではない。そもそも礼というのは、損すべき場合には損をする、無駄もする。礼のためにはそれを厭わない。

 

非礼が非礼を呼び、正しい礼から遠ざかってゆく。告朔の礼からどんどん遠ざかり、もう戻れなくなる。古礼は完全に失われる。

つまり、「告朔の餼羊を去る」ということは「告朔の礼を失う」ことと同じい。告朔は宗廟の祭であるから、祭を廃するといってもよい。

祭は廃すれば敢て挙ぐることなし。羊を去れば、いずれ祭を廃することになる。一旦廃すれば再び興すことはない。人間の都合で祭を廃したり興したりするのは非礼である。

礼は祭とともに滅びる。だから孔子は「礼が惜しい」と仰った。

 

礼は古の縁なり

礼記に曰く、礼とは本に反り古を修め、其の初を忘れざる者なり。先王の礼を制するや、必ず主有り。故に述べて多く学ぶ可し。

 

礼というものは、人が本性に反り、古い風習を修め用い、物事の初めを忘れないためのものである。

先王が礼を制定した際には、必ず主意(本に反り古を修むるを主とする意)があった。それに循い、明らかにすれば多くのことを学ぶであろう。

 

述べるは「口で言う」のほかに「先人の後にしたがう」「明らかにする」といった意味がある。

子曰く、述べて作らず、信じて古を好む。

孔子は、ただ先王の道を述べた。先王の道に循い、明らかにせんと心を砕いた。独自に教えを立てることをしなかった。

古の道を信じ、好むところが深かったからこそ、そうなさった。

 

ならば、本に反り、古を修め、初を忘れないためのよすがとして礼を重んじ、礼を惜しんだのも当然であろう。

 

先づ其の礼を去つ

非礼を重ねた後、克己復礼で非礼を改める者もいる。しかしほとんどは、非礼を改めることができず、非礼で一貫することになる。

それを孔子は「国をやぶり家をほろぼし人をほろぼすは、必ず先づ其の礼をつればなり」と仰る。

子貢の「羊を去る」は「先づ其の礼を去つ」ということであって、非礼を重ねる端緒になりかねない。

 

こう考えると、「非礼を犯す」と「礼を失う」は違うようで同じだ。非礼を犯すのは積極的、礼を失うのは消極的な感じがするが、そうとは限らない。消極的に非礼を犯すこともあれば、積極的に礼を失うこともある。子貢の「羊を去る」は、積極的に礼を失うのである。

孔子は「礼を失ふ者は死し、礼を得る者は生く」と仰る。これは別に脅しでもなんでもない。

礼を失った者は非礼を重ねていく。非礼が重なれば死を招く。非礼を重ねて死んだ人など、いくらでもいる。

 

礼記をお読みなさい」

色々考え、書き連ねた。論語を読んだだけでは、このように考えることはなかった。

解説を読めば、論語だけでも「羊を去れば形式さえなくなる、形式がなくなれば礼はいよいよ廃る。羊よりも礼が惜しい」という意味は分かる。

しかし、それ以上のことは分からない。私は分からなかった。

 

礼記を読んで、分かることが増えた。論語が深くなった。

安岡先生が「五経はみな読みたいが、ことに礼記をお読みなさい」と仰った意味も、ようやく分かった。

左伝をやる前は礼記がつまらなかった。左伝を経た今は礼記がよく分かるし面白い。

公田先生が「春秋左氏伝を読むと、いろいろな経書がよく解るようになります」と仰った意味も、ようやく分かった。

なぜ孔子は御を執ったのか

論語について新たに思うことあり、考えながら書き、書きながら考え、まとめてみたい。

 

 

子罕第九に曰く

論語子罕第九にこうある。

達巷党の人曰く、大なる哉孔子。博く学びて名を成す所無しと。子之を聞き、門弟子に謂ひて曰く、吾何をか執らん。御を執らんか、射を執らんか。吾は御を執らん。

ある村の人が言う。

孔子は本当に偉い人だ。学問が非常に博く、名のつけようがない」

 

これは「君子は器ならず」ということだ。皿なら皿、茶椀なら茶碗、鍋なら鍋と、器であれば働きによって名をつけるが、孔子にはそれができない。

孔子の学問は博く、徳は崇く、なにか『これ』という名をつけることができない。子路なら勇、曾子なら孝というように名づけようもあるが、孔子にはそれができない。

これだけ大きいと用いる方も難しい。用いる方もよほど大きくなければ、孔子を活かすことは難しい。やはり名のつけようがない。

実際に名を成す所がない。なにか一つの徳なり才能なりで名を成していない。

 

それを聞いた孔子が弟子に仰る。
「名を成すとしたら、私は何を執ろうか。御かな、射かな。私は御を執ろう」

 

私的な解釈

この言葉を、一般的には「(士君子の教養である)六芸のうち、どれかひとつで名を成すなら…」と解する。

孔子が弟子に戯れに言ったもの、と解する本もある。

 

しかし、私はすこし違う見方をしている。

 

なぜ礼を執らぬ

学問に励み、弟子も抱え、名は広まった(村のある人さえ「偉大だ」と評する)。しかし名を成しているわけではない。

名を成そうと思えば、やれないことはない。孔子は六芸(礼楽射御書数)を修めている。それによって名を成すことはできる。

 

ここで疑問が生じる。なぜ礼を執らぬかということだ。

六芸の中でも重いのは礼楽だ。孔子の常の主張からすれば「礼を執ろうか、楽を執ろうか」となりそうだが、そうではない。「御か、射か」と仰る。

これを「孔子の謙遜」と解する本もあるが、果たしてそうだろうか。

孔子は、道においては譲らない人ではなかったか。もし六芸のひとつを以てするならば、孔子は「礼」と仰るように思える。

 

六芸ではなく技を執る

思うに、孔子のいう「執る」は、「執技以事上(技を執りて以て上に事ふ)」ではないか。技術を以て士官するということだ。

その場合、「執る」は六芸の礼楽射御書数ではなく、祝(祈祷)、史(書記)、射(弓射)、御(車御)、医(医術)、卜(卜占)、百工(諸々の工作)である。

 

六芸の「書」と、技の「史」は異なる。書は文字を知り文章を書くこと。史は人君の言行や国の記録を掌ること。史は専門技術である。

となると、六芸のうち技に含まれるのは射と御のみ。

 

つまり孔子の仰る「御を執らんか、射を執らんか」は、

「技を執って事えるならば、六芸を修めた吾としては、御か射を執ることになろう」

という意味ではないか。

 

なぜひとつだけ選ぶか

もう一つ気になるのは、なぜひとつだけ選ぶかということ。せっかく修めたのだ。御でも仕え、射でも仕えたほうが君のお役に立つのではないか。

 

技を執ると解すれば、ひとつ(御だけ)を選んだ理由もすっきりわかる。

礼記・王制に曰く、

凡そ技を執りて以て上に事ふる者は、事を弐にせず、官を移さず。

技術を以て事えた者は、二つ以上のことをやらない。射なら射、御なら御で、ひとつの技術によって事える。他の官職に移ることもない。

技を執る以上、「射も御も」という仕官はあり得ず、必ず「射か御か」となる。そこで孔子は「御を執らん」と仰った。

 

なぜ御を選ぶのか

さらに重要なのが、射ではなく御を選んだ理由である。

思うに、これは志の表れではないか。射を執るは孔子の志に合わず、御を執るは孔子の志に合うのである。

 

射の意義

まず射の意義について。

 

古の射

昔、射の意義は非常に大きかった。天子が祭礼の補佐を選ぶときは、射によって徳を量った。

 

天子が大射(弓射の会)を催す。諸侯は自国で射に優れた者を推挙する。

射に優れた君子が一堂に会して競う。君子は争ふ所無し、必ずや射か。その争いは君子なり。

君子の射は礼と楽に適い、的にも多く当たる。そこに徳義を見る。よって祭礼の補佐を拝命する。

補佐を多く出した諸侯は、天子より土地を加増される。そうでない諸侯は土地を削られる。

 

射て諸侯と為る

ゆえに礼記・射義に曰く、

射者、射為諸侯也(射る者は、射て諸侯と為るなり)

諸侯は嗣ぐなり(王制第五)。畿外の諸侯は土地を賜り、世襲する。土地を保つことは、諸侯としての地位を保つことと同じい。

自国で射儀を振興し、射に優れた者を多く養成し、推挙し、天子の覚えめでたく、土地の加増を受ける。それが諸侯としての地位を保つことにつながる。

「射で諸侯になる」というくらい、射の意義は大きい。

 

射の廃れ

しかしこれはもう昔の話だ。孔子の時代、大射は廃れている。孔子の説明も「昔、大射を催したときには・・・」と、古いこととして扱っている。

 

郷射(村落での弓射の会)は残っていた。しかしだいぶ廃れていたようだ。

孔子自身が郷射を主催した話がある。多くの見物人が集まったというが、それはやはり物珍しかったからだろう。

孔子は、見物人に細かく説明している。郷射が廃れていたからこそ、説明しなければわからない。古の射が廃れていくのを見るに忍びず、開催し、人を集め、実演し、説明したのだろう。

 

君子仁人の射ではない

孔子の時代、射の意義が完全に失われたわけではない。しかし春秋だ、戦乱の時代だ。礼儀・儀式としての側面よりも、戦闘技術としての側面がはるかに重視されたに違いない。

だから孔子は「射は皮を主とせず、古の道なり」と仰る。これは古の射を教える言葉でもあり、また古の射が廃れたことへの嘆きでもあろう。

「射の趣旨は的に中てることではなく、礼儀作法にある・・・しかしもう昔のことだ」

 

そんな時代に射を以て事えることは何を意味するか。

 

専一ということでは、孔子ほどの人はなかなかいない。乗田のときは乗田として、大司寇のときは大司寇として、その場その場で実績を残すのが孔子だ。

事を弐にせず、官を移さず、射を以て一途に事えたなら、ここでもやはり名を成しただろう。

戦乱の時代に射で名を成す場合、この「射」は戦闘技術としての射である。

養由基の射がそうかもしれない。楚の武将で弓の名人、「百発百中」とはこの人のことをいう。百歩離れたところから柳の葉を射て、百発百中であったと。

養由基自身が射をどう考えたかはともかく、その射が「皮を主」として用いられたことは間違いない。もちろん戦場でも活躍した。一矢で複数人を射殺したというから、正確さはもとより余程の剛弓である。

 

戦の技術だから悪いというのではない。それも射の役割だ。単なる技術に堕するのが悪い。

また春秋に義戦なし、当時は戦といえば道ならぬ戦ばかりで、そんな戦に用いる技術であればなお悪いということだ。

少なくとも君子仁人の射ではない。不義であれば一不辜をも殺さぬ。君子・仁者とはそういうものだ。

 

戦を慎む

衛の霊公や孔圉から戦について問われ、孔子は「知りません」と答えた。

戦について無知なのではない。これは孔子の慎みである。子の慎む所は、斎・戦・疾。

 

国の大事は祀と戎とに在り。戦は国家の一大事である。だから慎むべきなのに、霊公は興味本位で問い、孔圉は私闘について相談した。これは慎むどころか、戦いを好むものである。

司馬法に曰く、戦いを好めば必ず亡ぶ。戦いを好む者の問いに答え、助長するのは不仁である。だから孔子は「知らぬ」と仰る。

 

礼儀のことは知っていますが、戦のことは知りません。

仁の方面ならいくらでもお答えしますが、不仁の方面なら言うことはありません。

孔圉の問いをかわした孔子は、取る物も取り敢えず衛を立ち去った。

 

それくらい、孔子は戦を慎む人である。ましてや義戦なしの春秋時代、不義の戦のための射だ。孔子がそれを執ることはないはずだ。射を以て事えるのは、孔子の志ではないはずだ。

「射を執らんか、御を執らんか」の二択なら、どうしたって御が残る。

 

 

御の意義

ただし「吾は御を執らん」と仰ったのは、必ずしも消去法ではなかろうと思う。

教育者としての志の表れではないか。

 

御するとは

曲礼に、年を問われたときの礼を教えてある。曰く、

大夫の子を問へば、長ずれば能く御すと曰ひ、幼なれば未だ御すること能はずと曰ふ。

子の年齢を問われたときの大夫の作法。子がすでに大きい場合は「能く御す」、幼ければ「未だ御する能わず」と答える。

 

ここの「御」は六芸における車御の術ではなく、家事を見ることだという。家事は、一家の中だけのこと。家事を御するは子弟の務めである。

家事が治まるのは、大切なことである。左伝襄公二十七年、楚の子木が晋の趙武に尋ねる。

「あなたの国の士会という人は、どんな人物ですか」

趙武が答える。

「夫子の家事治まり、晋国に言ふに情を隠すことなく(以下略)」

士会という大人物を説明する際、一番に家事が治まっていることを挙げる。もちろんこれは、士会の家の子弟が能く御したことを意味する。

 

車馬を御すれば家事も御す

単に体が大きくなり、年をくっただけでは家事を見ることはできない。心身の成長に合わせて学問し、健全な発達の結果として御することもできるようになる。

学問を始めるのは十歳。やがて十五歳になると六芸に入り、まず射と御を学ぶ。

学問し、御も習い、やがて能く御する(車馬を御する技術が身についている)ほどになれば、家事を見ることもできる。子弟の務めを立派に果たせる。

大夫のいうのは「うちの子はもう大きいですよ、立派に育って、家事も車馬も能く御します」ということではないか。

 

御で導く

技の中でも御を執り、上に事えて名を成せば、やがて子弟に御を教えることになる。

当時の戦は車を用いたから、御にも戦闘技術としての側面がある。御の達人が戦で活躍する話も少なくない。

しかし、射ほど直接的ではない。不仁の技にはなりにくい。

幼から長へと成長する過渡期、子弟に教育を施し、「未だ御すること能わざる者」から「能く御する者」へと導き、有為な若者を育てる。ならば活かす方、仁の方だから孔子の志にも合う。

 

まとめ

まとめると、私はこの章句を以下のように考える。

 

達巷党の人が言うのを聞いて、孔子が弟子に仰る。

 

「もし名を成すとしたら、何を執ろうか。

技に祝・史・射・御・医・卜・百工とある。六芸を修めた私には射と御がある。それで名を成せるだろう。

さて、御にしようか、射にしようか。

射はやめておこう。今の射のことは知らない。古の射なら良く知っているがね。

だから御を執ろう。御を通して若者を教えるというなら、やってみてもよい」

国家の盛衰と政事に関する覚書

論語について気付いたことの覚書。

 

 

富まさん、教えん

論語憲問篇。孔子が衛に行き、冉有がお供をした。衛に入り、孔子が仰る。

孔子「衛は人が多いな」
冉有「人が増えた上には、何を加えましょうか」
孔子「豊かにしよう」
冉有「ではその後は?」
孔子「人々を教育しよう」

 

先王の道

これは孔子独自の説ではない。孔子は「述べて作らず、信じて古を好む」で、先王の道を重んじ、独自の説を立てることをしなかった。

 

礼記にこうある。

曠土無く、游民無く、食節あり、事時あり、民咸其の居に安んじて、事を楽しみ功に勧み、君を尊び上に親しみ、然る後に学を興す。

土地の性質(気候や地勢、産物など)を慮って町を作り政策を実施すれば、土地を無駄なく活用できる。

荒地がなく、みな働くことができて遊び呆ける者はおらず、食料も自然と調整されて、労役の時期が外れることもない。人々は安心して暮らし、仕事を楽しみ成果もあがり、君臣上下の信も固くなる。

そこで初めて教育を盛んにする。

 

この文章は王制篇にある。王制とは王者の政治制度。

土地の性質にふさわしいだけの人が居り(少なければ増やし)、豊かにし、教育する。これが先王の道である。

 

伍子胥の嘆き

人を増やし、富を増し、教育する。儒学ではこの流れを基本とする。

 

呉王夫差は越を滅亡寸前まで追い込み、止めを刺さなかった。伍子胥嘆いて曰く、

「越が今後十年で民を増やし、豊かにし、その後の十年で民を教育するならば、二十年後には越が呉を滅ぼし、呉は沼になるであろう」

伍子胥の嘆きは哀公元年。この言葉の通り、同二十二年に越が呉を滅ぼした。

 

貧にして怨む無きは難し

人を増やせば、富を増すべきである。富の総量が変わらなければ、人が増えた分だけ貧しくなる。子路篇にこうある。

子曰く、貧にして怨む無きは難し。

貧困は人々に怨みを植え付ける。政治に不信感を抱くようになる。
人が増え、貧にして怨めば国家は立ち行かない。教育どころではない。

人を増やし、富まし、貧窮のため教育を受けられない者をなくす。これこそ、王者の仁義の政事である。

 

 

食・兵・信

顔淵篇の問答。

子貢「政治に欠かせないものは何でしょうか」
孔子「食・兵・信である」
子貢「やむを得ずどれか一つを去るとしたら、どれにしましょう」
孔子「兵を去るべきだ」
子貢「やむを得ず、食と信のどちらかを去るとしたら?」
孔子「食を去るべきだ。信がなければ国は立ち行かぬ」

 

憲問篇・子路篇の章句と照らし合わせると、疑問が出てくる。

国が貧しいから、兵や食を去らなければならない。貧にして怨む無きは難し。

兵や食を去れば、同時に信も失うのではないか。ならば食と信では、信を去るべきではないか。

ここが混乱しやすいところである。

 

三章句の解釈は

思うに、孔子冉有に語ったのは、国が栄えてゆく場合に採るべき流れである。子貢に語ったのは、国が衰えていく場合に採るべき流れである

人が増え、豊かにし、教育も施した。国は栄え、食も兵も信も充足した。
しかし満つれば欠けるが道理である。豊かさが油断・驕慢を生み、徐々に衰運が高まり、食・兵・信の維持が困難になる。
その場合、一に兵を、二に食を去る。

 

季氏篇にこうある。

蓋し均しければ貧しきこと無く、和すれば寡なきこと無く、安んずれば傾くこと無し。

公平であれば貧しいということはない。

食を去り、然して残った富・食が偏ることなく、上も下も等しく貧しくなる。それならば「和」である。皆が同じ調子で、貧しいには貧しいが「自分だけが貧しい(寡ない)」という不公平感は生まれない。不和に陥ることはない。

和すれば安し。なぜ安いかといえば、上下の間にまだ信が保たれているからだ。信は希望だ。信があれば、貧しい中にも希望を見出せる。信が復興の芽になる。心が安ければ国家が傾くことはない。

 

つまり孔子が仰るのは、兵や食を去っても信だけは失うな、信を最後の砦とせよということではないか。

 

 

三つの章句をこう紐づけてみたが、どうでしょうか。

勝つと打つとはどちらが先か

昨日、古い映画や音楽に対して「残ったものは凄い」という内容のツイートをした。

一夜明けて、酔いの醒めた頭で改めて考えると、色々思うところがあった。

これについて(と思われる)フォロワーのツイートを読んでも、考えさせられるところがあった。

考えをまとめてみようと、ブログに3時間ほど書きまくった。

 

テーマがややこしいから、話が逸れに逸れて、途中から剣道の話になった。

読み返してみると、「残ったものは良いかどうか」ということに関しては、よく分からなくなった。

しかし剣道のくだりは面白く書けたので、本題は全部削除して、剣道のくだりだけを残した。

 

 

考え方の癖

人それぞれ、物の見方・考え方には癖がある。人生経験、やってきた学問、触れてきた芸術や音楽やその他色々をもとに、癖が形成される。ツイートにも癖が出る。

自覚のあるものもあれば、ないものもある。私の場合、剣道をやっていたことが大きいと思う。

 

剣の達人は、打った、勝ったの勝負について、

「勝ったから打てたのだ、打ったから勝ったのではない」

という。

 

「勝った」は結果、「打つ」は原因。

「勝ったから打てた」といえば、結果が先、原因は後になるから時間的に変だ。

しかし不思議と、これがおかしい話ではないのだ。

 

打つが先か、勝つが先か

「勝ったから打てたのだ、打ったから勝ったのではない」

なぜこういわれるのか。

 

ひとつ、面白い話がある。男谷下総守と島田虎之助の試合である。

 

男谷下総守と島田虎之助

男谷下総守は幕末の人。直心影流の第十三代。とにかく強いが、強いだけでなく至って温厚な人で、それで男谷の剣は君子の剣、ついには「剣聖」と呼ばれたくらいの達人である。

一徳斎山田次朗吉先生の師が榊原鍵吉先生、榊原先生の師匠が男谷下総守だ。

 

島田虎之助は、勝海舟の師匠として有名。男谷門下で榊原先生とは同門。

この人が男谷先生に弟子入りする時の話が面白い。

 

若き日の島田

島田は剣の才に優れ、十代のころにはもう藩内に敵なしだったという。九州で武者修行した後、自分の腕前を試したいと江戸に出て、男谷の門を叩いた。天保9年、20代で身体も心も非常に強い頃である。

この時、男谷先生は40歳。こちらもまだ若い。

しかし男谷先生は小柄であったというし、それに加えて普段は温厚で、人と争わず、弟子と稽古をしてもそう強いようには見えない。

島田は「この人が本当に強いのか」と疑問を抱きつつ、男谷先生に手合わせ(三本勝負)を申し込む。男谷先生は、いつもの調子でゆるゆると相手する。

これに島田は拍子抜け。自由自在に打ち込み(打たされ)最初の一本を取った(取らされた)。二本目、三本目は男谷先生が悠々取る。

男谷先生の剣は老練で、柔の趣があったろう。対する島田は剛剣であったろう。剛を善しとする若き日の島田には、男谷先生の強さがわからない。それに一本目は簡単に取れた。

だから島田は「天下の男谷もこんなものか、噂ほどでもない、老いぼれたか」と思った。

 

井上伝兵衛に完敗

師とするなら、自分より圧倒的に強い人でなければならぬ。もう男谷には用無しと、他の門をめぐるうちに井上伝兵衛の道場にたどり着いた。

井上も直心影流の人で、男谷先生とは同門。直心影流藤川派の三羽烏といえば、男谷精一郎(下総守)・井上伝兵衛・酒井良佑。つまり井上という人は、男谷クラスの強豪と思われる。島田の相手ではない。

しかし井上は男谷先生ほど温厚ではないから、挑んできた島田を徹底的にやっつけた。島田はすっかり参って、弟子入りを申し込む。

すると井上「あなたはもう男谷先生のところへは行きましたか」

島田「行きましたが、あの方はもう老年で、私の師とするには足りません」

井上「それはあなたが弱いからだ。弱い者に男谷先生の真価は分からない。私が口をきいてあげるから、もう一度行きなさい」

 

男谷先生の真価を知る

この人がいうならと、島田は再び男谷先生に手合わせを乞うた。

男谷先生は、事の次第を井上から聞いていたのか。「この若者は天狗になっておるから、少々お灸をすえておやりなさい」というような。

今度は男谷先生も本気で立ち会った。

 

片方は達人、片方はただ強い人。実力差がありすぎる試合。こういうとき、どんな試合になるか。傍目からみたら、本当にコントのような試合運びになるという。

島田と男谷先生が向き合う。しかしもうそれで島田は駄目になってしまった。

男谷先生の眼光に射すくめられて、手も足も出なくなる。精神面で差がありすぎるのだ。

男谷先生が一歩詰める。島田が一歩下がる。

そのうち、島田は羽目板に押し付けられる。動きといえば一歩また一歩とジリジリ下がるだけなのに、島田は汗だくになり、精魂尽き果て、気づけば平伏して降参していたという。

 

これにて目出度く、島田虎之助は男谷下総守の門へ入った。

 

平山行蔵先生の剣

島田と男谷先生だけでなはい。こういう話はよくある。

例えば、江戸後期の剣術家に平山行蔵という人がいる。男谷先生より40歳くらい先輩だから、そう昔の人ではない。

男谷先生の弟子のそのまた弟子、山田次朗吉先生は平山先生を敬慕した。だから山田先生の話には、平山先生を語るものが多い。

 

その話をみると、平山先生の試合の様子がやはりそうなのだ。

或る人が平山先生に試合を申し込む。平山先生はそれを受けるが、男谷先生と同じ試合運びになる。

相手を気合で圧迫して、一歩一歩と進むうちに相手は道場の隅に押し込まれる。絶体絶命になる。

島田の場合、ここで降参したわけだ。これが島田の偉い所だ。大抵の剣士は、ここまでやられても絶望的な力の差を覚らず、最後の力を振り絞って打ってかかるという。

しかし、もう勝負はついているのだ。万が一の僥倖を恃んで打ち込んで、勝てるはずがない。いわゆるラッキーパンチのようなことは起こりえない。

平山先生の方でも、もう勝負あったと思っている。だから相手が撃ち込んできたところで、気合を緩め、にこにこしながら道場の中央に戻っていく。相手にゆとりを与えて、「もう一度やりたければどうぞ」と。

 

実力差がありすぎるから、相手はなぜこんなことになったか分からない。平山先生が強いのか強くないのか分からない。不思議でしょうがないから、もう一度挑む。次こそは気を確かに、こちらもただでは退かぬと。

もちろん、そんな心掛けで実力差が埋まるわけもない。何度でも同じ試合運びになる。周りで見ている人も、なにがどうなっているのかさっぱりわからん。

 

しかし、山田先生ぐらいになるとこの凄さがわかる。曰く、

剣道もここまでくると誠に達人である。

相手を打ったから勝ったのではない。勝ったから打てたのである。

相手をどのように打って勝つか、負けるか。剣道といえば、そういう肉体の勝負だけにみえるが、その前に精神の勝負があるのだ。

程度の低い者がやれば、肉体の勝負になるだろう。しかし、程度の高い者がやると、精神の勝負になる。

高い者と低い者がやれば、高い者が低い者を精神で圧倒する。

 

達人同士の試合

では高い者同士がやったらどうか。やはり精神の勝負になる。精神のより優れたものが勝ち、精神が拮抗すれば勝敗はつかない。

良い例が二つある。

 

榊原鍵吉と高橋泥舟の試合

まず、榊原先生と高橋泥舟

幕末、槍といえば山岡静山だ。静山の槍は、もうそれはそれは凄まじかったという。達人になるまでには苦行に苦行を重ねた人で、人格も極めて立派であったが、若くで亡くなった。

静山の死後、その人格にほれ込んでいた小野鉄太郎は、家格の低い山岡家の婿養子になった。後の山岡鉄舟である。

 

静山の弟の高橋泥舟もまた槍の名人。この泥舟と榊原先生が、将軍家茂の望みで試合することになった。

達人同士の試合は精神の勝負である。となると、道場で向かい合って「はじめ」で始まるのではない。試合が決まった時点でもう始まっている。

 

試合の数日前、榊原先生と泥舟が顔を合わせる。榊原先生が揺さぶりをかける。

「高橋さん、今度の相手はこの鍵吉だからね、ご用心なさいよ」

泥舟は馬鹿にされたと思いつつも「承知した」

 

試合の前日も、

「高橋さん、明日の相手はこの鍵吉だからね、しっかりなさいよ」

「承知した」

泥舟の怒りは募る。

 

そして試合当日。

泥舟が槍を構える。榊原先生は剣を大上段に振りかぶって、真正面に向き合う。胸と胴はがら空きだ。これは、剣と槍の勝負ではあり得ない構えだ。普通、槍先をよけるように、身体を斜めにする。

泥舟は幕府槍術師範。それを相手に、真正面に向き合って胸と胴を晒し、どこでも突いてこいというのだ。泥舟からしたら、こんな侮辱はない。もはや抑えられず、怒りに任せて突きかかった。

逆上した時点で、もう泥舟の負けは決まったようなもの。達人の試合は精神の勝負だから。

榊原先生は槍先を左右に払い、泥舟の面を打って勝負あった。

 

普通ならば決して負けない相手でも、心が乱れると負けを取ることがある。病気で負けたり、不安ごとがあって負けたり。

怒りに我を忘れる泥舟に対し、榊原先生は精神を保った。精神の勝負に勝ったから、槍先を払って面を打てたのである。

泥舟の槍を払いのけて、面を打ったから勝ったのではない。

 

榊原鍵吉と山岡鉄舟の試合

次に榊原先生と山岡鉄舟先生の試合。

泥舟との試合は公式だが、この試合は非公式で、日本剣道史にも書かれていない。

しかし榊原先生から山田先生へ、山田先生から弟子へ語られ、その他複数の目撃談もあるから、まあ立ち会ったのは確かだろう。

ある目撃談は米沢の儒者・伊佐早謙さんが語ったもの。聞き手は加藤寛治(山田次朗吉先生門下)。

伊佐早さんが中村敬宇の家で塾生をしているときに、鉄舟先生の家に遣いをした。そこで、鉄舟先生と榊原先生の試合を見たという。

話はこうである。

 

道場の周囲には鉄舟先生の弟子が大勢並んで、試合の始まるのを待っている。

やがて鉄舟先生・榊原先生が道具をつけて出てくる。鉄舟先生は太く短い竹刀、榊原先生は常寸(三尺八寸)の竹刀。

互いに一礼し、榊原先生は真っ直ぐ振りかぶる普通の上段、鉄舟先生は斜めに振りかぶる上段。

距離は三間。互いに気合をかけ、呼吸をはかる。

弟子たちは手に汗握り、見守っている。道場内はただ静寂。両先生のふうふういう呼吸だけが聞こえる。

動きはなにもないが、荘厳でものすごい光景であったと。

そのまま十分、十五分とたち、両先生は汗だくになり体からは湯気が立ち上る。足元には汗が流れて溜まる。

 

伊佐早さんの回想。

「かれこれ四十分も経ったかと思うころ、どちらから下がったかわからなかったが、お互いに礼をして竹刀を収めて、静かに別れられ試合は終わった」

 

 

弟子たちは、いつ勝負がつくかと見守っていたのに、どちらが勝ったか負けたか分からない。

加藤寛治の本にはこうある。

山岡先生と言ひ榊原先生と言ひ、如何に知己の間柄でも、試合の上にては決して遠慮をする様な方ではない。勝ちなら勝ち、負けなら負けと腕が違へば明瞭に「けり」をつける方である。

ところが双方互ひに寸分の隙がないので打ち込むことができず、遂に四五十分の長時間を立つたまま、気合を込めて居られたので、もうこうなると、どちらから止め様と心で知らせたか、恐らく同時に之で打ち切らうと、無言の内に話が出来て互に礼をし、引き退かれた事と思ふ。

この話をみても、結局精神の勝負だということがよくわかる。

 

勝負がつかぬから、お互いに打てなかったのだ。

打たなかったから、勝負がつかなかったのではない。

 

後の島田

再び島田虎之助。

元々才能もあれば努力もする人だ。男谷先生に門下生となった島田が、一流から超一流になるまでに、そう時間はかからなかった。

天保9年入門、天保14年まで研鑽した後、3年間の奥羽武者修行。島田に匹敵する剣士は一人か二人、天下無敵、そういわれるまでになった。

そして浅草に道場を開き、勝海舟も入門。島田はいつも、弟子にこんなふうに語ったという。

剣術の要処は人を撃つに非ず、一点の勝心もなく、静かなること山の如く、疾きこと電の如く、物と争はず、相手の精神を奪つて我剣上に置けば、敵は自然と畏縮して自由に撃つことが出来るのである。然るに精力を只勝たん、負けまい、などの争闘の間に置いて利不利を念とする様では到底真の術を得ることは出来ないのである。

されば剣道に君子と小人との別がある。希くば世の剣客をして皆孔孟の書を熟読させて、その心理を剣道に寓せしむれば、外に何の教法もあつたものではない。

これも、言わんとするのは

「打つから勝つのではない。勝つから打てるのだ」

ということだ。

 

学問も同じ

剣道にはこういう話が多く、非常に勉強になる。

 

勝ったから打てたのだ、打ったから勝ったのではない。

剣によってどれだけ自分を磨くか。男谷先生の座右の銘は「克己」であった。克己を重ね、精神と技(とりわけ精神)を磨くことで勝つ。こうなると、己が人を打つかどうかは問題にならない。打っても勝つし、打たぬでも勝つ。

 

学問も同じだ。

克己復礼で仁になる。学問して仁を得る。これを徹底することだ。それができれば、己と人の関係で間違うこともない。上手く立ち回ろうとか、策をめぐらすとか、こんな言説を残そうとかは全く問題ではなくなる。

どう振舞っても間違いない。ああしても、こうしても、どうしても全部道に適う。孔子七十歳の境地「心の欲する所に従って矩を踰えず」とは、そういうことだろう。

 

孔子は、学問でこの境地に達したのである。

論語その他の書物によって、孔子の様々な言行が伝わっている。剣道でいえば、それらの言行が「打つ」にあたる。そこから「孔子の教えはこうだ」ということもできるが、より根本的なところを考えるべきではないか。

 

学問を修め、道に達したからこそ(勝ったからこそ)、それらの言行があった(打てた)のだ。言行自体は、孔子孔子たるゆえんではない。

様々な言行は、孔子の学問の表層に過ぎない。そのひとつひとつに捉われると、孔子を見失うことになりはしないか。

孔子をして徳を為さしめたもの、所謂「先王の道」というものを軸として、孔子に学ぶべきではないか。

 

儒学を始めて、今年で三年になる。おそらく、四年目で四書五経の筆写が終了する。

しかし、その後もしばらく四書五経を中心に学び、他にはなるべく手を出さずにいこうと思う。

「勝つから打てる」いうところを目指して、根本を固めたいと思う。

無違考

論語為政篇、孔子と孟懿子の問答。

 

孟懿子が問う。

「孝とは何でしょうか」

孔子がお答えになる。

「無違(違ふこと無し)」

 

この「違うことなし」とは、何に違うことがないというのか。

その帰路、御者の樊遅と孔子の会話。

「孟懿子が私に孝を尋ねた。だから私は『違ふこと無し』と言ったよ」

樊遅が「どういうことです」と聞き返すと、孔子曰く、

生けるには之に事ふるに礼を以てし、死するには之を葬るに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす。

万事、礼を以てせよということだ。

 

 

この章句について、ひとつ思うところがあった。

 

そもそも、なぜ孟懿子が孔子に弟子入りしたかといえば、父(孟僖子)の遺言による。

昭公七年、孟僖子は昭公の供をして楚に行った。この時、孟僖子は礼を知らなかったため、昭公をうまく補佐できなかった。

帰国後、孟僖子はこれを恥じて礼を学んだ。曰く、

礼は人の幹なり、礼無くんば以て立つこと無し。

(礼は人の根本であり、礼がなければ世に立ってゆくことはできない)

 

昭公二十四年、孟僖子が死ぬ。家臣に対し、「孔子を師として、我が子(孟懿子と南宮敬叔)に礼を学ばせよ」と遺言した。

これにより、孟懿子は孔子に就いたのである。

ならば、孟懿子が孔子に孝を問うたとき、既に孟僖子は亡くなっている。

 

別の章句で、孔子はこう仰る。

父在せば其の志を観、父没すれば其の行ひを観る。三年、父の道を改むること無きを孝と謂ふべし。

志は心刺しで、心の差し向うこと、心がどこに向かうかということ。父の存命中は、その心の動きをよく察して事える。察することができなければ、直接伺って卒なく事える。

父の死後は(もう志をみることができないから)生前の行いをよく考えて、そこから思いを汲んで、我が行いもそれに違わぬように努める。

父の行いを観るうちに、間違った行いに気づくこともあるだろう。しかし喪中の三年間は、父を偲び行いを思うだけで、早急に改めるようなことはない。

孔子は、これを孝であると仰る。

 

孟懿子が孔子に孝を問うた時、父である孟僖子は亡くなっているのだから、孟懿子は孟僖子の行いを観ることによって孝をなすべきである。

では、孟僖子の生前の行いとは何かといえば、それは昭公七年にある

孟僖子、礼を相くること能はざるを病へ、乃ち之を講学し、苟も礼を能くする者あれば之に従ふ

(孟僖子は、昭公の礼を補佐できなかったことを気に病んで、礼を習うことを心掛けた。礼を知る人があれば、その人に就いて積極的に学んだ)

である。

つまり「『礼こそ人の根本である』として礼に努めたこと」が孟僖子の行い。その行いに「違ふことなし」、自分も礼を根本とし、学び、万事礼を以てすることこそ、孟懿子の為すべき孝である。

 

この問答のとき、すでに孟僖子の死後三年を経過していたと思われる。

したがって、父の行いを改めるも可なり。

当時、三桓氏(季孫・孟孫・叔孫)が権力を牛耳り、魯の君主は名ばかりであった。孟孫家の当主として、臣としての君に対する振舞いにおいては非礼であった。

孟孫家を継いだ孟懿子がその非礼を改めることは、父の心に違うものではない。父は礼を重んじたのだから、父の非礼を改めてこそ、真に「違うことなし」といえる。

 

孟孫氏はどうあるべきか、礼が幹であれば今のままでは悪い、改めるべきである。当主であるあなた(孟懿子)は、今こそよく考えて孝を為せ。

孔子は、この問答を良い機会として、一層礼を学び、万事礼を以てするように諭した。孟懿子が真に孝となれば、三桓氏の一角を改めることができれば、魯国の政治を正すきっかけになるだろう。

そんな意図があったのではないか。

 

この章句については、これまで色々考えてきたが、今のところ、こんな風に考えている。

簡易と安易と覚悟のはなし

ツイッターにつらつらと書いたら長文になった。

一応は書き上げたが、ツイッターで長文は読みづらい。文字数の調整のために、言葉足らずになることも多い。

あらためて、ブログにまとめて記載します。

(一連のツイートは削除しました。リツイート、いいねをいただきありがとうございました)

 

 

1.簡易と安易の違いは

繋辞伝に、こんな言葉がある。

乾は易を以てつかさどり、坤は簡を以て能くす。

易は容易であること、簡は煩雑でないこと。天道はそういうものだという。

 

何でも簡易が良い。簡易と安易を取り違えるところに危険がある。簡易と安易は似て非なる者だ。簡易は天道に適い、極く宜しい。しかし安易は悪い。

 

1-1.安易な学問

例えば論語を読む。

論語は、別に難解なものではない。安易な姿勢でも読むだけはできる。

簡単と言えば簡単だ。安易であるから、真剣でないから簡単に読めるわけだ。

 

1-2.簡易な学問

真剣に読むとなれば、簡単にはいかない。考えるべきことはいくらでもある。どこまでも広がっていく。それを約するには努力がいる。

煩雑になったものを努力で約して簡になる。本つ道に近づいてゆく。

簡は「一」ということだ。老子孔子も「一」を重んじる。一は単純、単純で易しい、簡易は天道、天道は無理がない。

簡易であるから、論語を身に体することもできる。

 

簡単は簡単でも、安易(簡単→簡単)と簡易(複雑→簡単)では大違いだ。

 

1-3.悩みについて

これは色々なことに言える。悩みもそうだろう。

悩みは辛い。できれば悩みは少ない方が良い。しかし「悩まない」ということにも二種類ある。

 

折角の人生、楽しまなければ損だと云うて、目先の安楽を貪る。悩むだけの気力もなければ頭もない。それで悩まない。安易だから悩まない、悩めない。

その逆は、悩むべき場合にどこまでも悩む。苦しいに違いないが、悩んだだけ成長がある。悩みと消化を繰り返すうちに洗練される。己の哲学を持つようになる。壺中の天を得る。簡易を得て、真に悩まない状態へと昇華する。

 

同じ「悩まない」でも、安易だから悩まないのと、簡易だから悩まないのでは大違いだ。

 

2.覚悟について

昨今の所謂自己啓発が悪い理由もここにある。

自己啓発に、覚悟を語るものがあるという。凡そ、「覚悟をもって生きなさい」などと勧めるのだろうが、そのような自己啓発は全く無益である。

覚悟を人に教えることはできない。人から学ぶこともできない。それをやろうというのだから、教える側も学ぶ側も安易だ。役に立つはずがない。

 

2-1.時限り場限り

「覚悟をもって生きる」というと、「覚悟」なるものが「ある」という状態がずっと続くと考えるきらいがあるが、そんなものは嘘だ。

覚悟はもっと瞬間的・流動的なものだ。ある難事に覚悟を以て臨み、為せばそこで一区切りだ。葉隠でいうところの「時限じぎ場限ばぎり」である。

 

当然、覚悟はその時々で変わる。コロコロ変われば信念がないようだが、本当の覚悟はそういうものだろう。

易はそうだ。六十四卦三百八十四爻の変化があり、変転して已まないところに易の尊さがある。

進む方ばかりに固まれば、退くべき場合に進んで死ぬことも出てくる。退く方ばかりに固まれば、何も得ることはできない。

時限り場限りで、覚悟を持って進むこともあれば、覚悟を持って退くこともある。

 

神武天皇御東征の折、兄君・五瀬命が敵の矢に当たり御隠れになった。このとき、皇軍は一時撤退しているが、これは進軍の方角を変えるためであった。

東征というからには、西から東へ進軍している。どこまでも東へ東へ、不退転の覚悟で戦ってきたものを、時と場合に応じて退却も覚悟する。覚悟を持って退くから、それが東から西への転進にもなるし、勝利につながる。

「東征」というひとつ大目標がある中に大小様々の覚悟があり、絶えず変転しているわけだ。人の一生も、国や世界の歴史も、この不連続の連続によって作られるのではないか。

 

2-2.「いざ」とはいつか

また「覚悟が備わっている」というのは、「いざとなったらいつでも覚悟ができる状態」ではない。

「いざとなったら」といえば頼もしく聞こえるが、大抵は安易さの裏返しだ。怠りを勇ましい言葉で飾っているだけで、本当に「いざ」というときに覚悟できるものではない。

「いざとなったら」というが、では「いざ」とはいつか。これは「いざ」か、あれは「いざ」か。なにがどうであれば「いざ」か。今は「いざ」か、覚悟すべきときか。

こんなものは単なる逡巡であって、なんの覚悟にもならない。

今こそ覚悟を決めるべきと思った時には、すでに出遅れている。「いざとなったらいつでも覚悟ができる状態」などというのは妄想だ。

 

いつでも「いざ」なのだ。日々いざいざと、終日乾乾夕惕若で努める。これは簡であり易である。瞬間瞬間が充実している。だから覚悟すべき時には、覚悟するという自覚もなく覚悟ができている。

それを葉隠にはこうある。

毎朝毎夕、改めては死々しにしに、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得。

朝でも夕でも、いつでも努めている。武士道とは死ぬことであれば、いつでも死身になって努めている。それでこそ、武士道が真に自由を得る。如何様にも覚悟できる。造次顛沛に於いても士道を外さない。

簡易でなければ「常住死身に成りて居る」ことはできない。簡易なればこそ、覚悟が備わる。

 

2-3.覚悟は自分でするもの

覚悟は自分でするものであって、人に教えられるものではない。

「覚悟ができるように人から啓発してほしい」という安易な姿勢を去らないうちは、覚悟が備わることはない。

覚悟のある生き方をするにも、簡易でなければならない。安易ではならない。

 

3.葉隠にみる覚悟

葉隠に「武士道と云ふは死ぬ事と見付たり」とある。「二つふたつの場にて、早く死方しぬかたに片付くばかり也。別に仔細なし」と。

これが覚悟である。簡易の最たるものだ。安易からは程遠い。日々武士道精進を重ね、簡易を得たからこの覚悟が備わる。

 

3-1.死方に片付く

ここにある「死方」とは、「死方しぬかた」であって「ほう」ではない。生きるか死ぬかの場合に、死ぬ確率が高い方を選ぶというのではない。

あれかこれか、生きるか死ぬか、どれを選ぶべきか、どちらに利があるか。そういう選択を超越してしまう。賢しらをサッと捨てて死に切ってしまう。覚悟そのものになり切ってしまう。それを「死方しぬかたに片付く」という。

 

3-2.生方に片付くは腰抜け

死方に片付かない者はどうなるか。

サッと死に切ることができない。利害を考えて逡巡する。あれかこれかの迷いが生き続けている。「生方いきるかたに片付く」わけだ。

生方に片付いた者は、利を考えて動く。生きるか死ぬかの場面であれば、誰だって死ぬより生きるほうが好きだ。生きるためには汚い手も使う。

それを孔子は「小人窮すればみだる」といい、常朝は「腰抜け」という。

 

3-3.死方に片付けば恥なし

死方に片付けば動じることはない。

それを孔子は「君子もとより窮す」といい、常朝は「胸すわつて進む也」という。

 

死方に片付き、胸すわつて進むからこそ、死中に活を求めることもできる。

陳蔡間に窮した孔子も、死方に片付いた。胸すわつて正々堂々と窮した。死中に活を得た。

 

死方に片付けば、よしんば死んでも恥ではない。小人・腰抜けとして死ぬわけではないからだ。君子として道を守って死ぬからだ。

サムライでも儒者でも、士であれば恥を嫌う。だから死方に片付くが良い。

この覚悟は、簡易によってのみ可能である。安易では生方に片付く。

 

3-4.根本通明先生曰く

覚悟覚悟とカンタンにいうが、自己啓発でどうこうできるものではないのである。

自己啓発に頼っている時点で、もう生方に片付いている。覚悟を求めて覚悟を失うことになる。ラクをしようとするから、本末転倒になる。

 

根本通明先生は、体でも頭でも心でも、「何でも使へばそれだけ健康になる」と仰る。「楽にして居る者は弱い、難儀した者は丈夫である」と仰る。

これは決して古い考え方ではないだろう。

正しく生きる上でも、学問する上でも、努力を重ねて簡易を得るべきで、安易な姿勢は忌むべきだ。

 

最近、努力や苦労を否定する意見も随分増えた。しかしそんなものは、どう考えても間違っている。

努力はするし苦労してもよいから、私は本当の覚悟が欲しい。