周黄矢のブログ

噬嗑録

噬嗑とは噛みて合うなり。東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

論語記事まとめ

無計画に、思うままに記事を書いているが、論語をよく引き合いに出している。

今後も、論語を様々に引用しながら記事を書いていくことと思う。

しかし、論語に記載されている順番に沿ったものではなく、いずれ整理がつかなくなるだろう。

 

私にとっても、読む人にとっても見やすくなると思うので、随時ここにまとめていきたい。

 

 

 

学而第一

1.学びて時に之を習う

1-1時習

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4.曾子三省

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11.父在せば其の志を観、父没すれば其の行いを観る

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16.人の己を知らざるを患えず

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為政第二

6.孟武伯孝を問う

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12.君子は器ならず

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15.学んで思わざれば罔し、思いて学ばざれば殆うし

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16.異端は害なるのみ

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八佾第三

5.夷狄の君有るは

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14.周は二代に監みて、郁郁乎として文なるかな

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17.告朔の餼羊

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里仁第四

5.富と貴きとは人の欲するところ

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7.民の過ちや、各々其の党に於いてす

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8.朝に道を聞かば

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9.悪衣悪食を恥ずる者は

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21.父母の年を知るべし

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公冶長第五

1.子、公冶長を謂う

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4.汝は器なり、瑚璉なり

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5.雍や仁にして佞ならず

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7.桴に乗りて海に浮ばん

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14.子路聞くこと有りて

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雍也第六

1.雍や南面せしむべし

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2.顔回なる者有り。学を好み、怒りを遷さず、過ちを弐せず

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9.賢なるかな回や

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述而第七

泰伯第八

7.死して後に已む

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子罕第九

郷党第十

先進第十一

17.参や魯なり

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25.子路・曾晳・冉有・公西華侍坐す

25-4.曾晳の志

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顔淵第十二

1.克己復礼

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子路第十三

憲問第十四

10.或る人子産、子西、管仲を問う

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衛霊公第十五

季氏第十六

陽貨第十七

22.飽食終日

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微子第十八

8.可もなく不可もなし

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子張第十九

堯曰第二十

宰我昼寝考

孔門十哲の一人で、言語に優れているとして子貢と並んで挙げられた人物に宰我さいが宰予さいよ)がいる。

今回は、宰予の昼寝について考察する。

 

宰我について

十哲に入るくらいだから、優れた人物に違いない。

しかし、論語からは全くそれが見えてこない。

 

孔門の問題児

とにかく、いいところがない。

哀公を煽って叱られたり、

三年の喪を唱える孔子に「一年でいいでしょう」と意見して呆れられたり。

 

中には、

井戸に人が落ちたといえば、それが嘘でも君子は井戸に飛び込みますか?

(君子の仁の心に付け込んで、危害を加えることができますか?)

という、ちょっと訳の分からない質問をしたり。

 

心酔する宰我

ただ、高弟が等しくそうであったように、孔子への心酔ぶりは徹底している。

孟子』には、宰我孔子を称えた言葉がある。

曰く、

予を以て夫子を観れば、堯舜に賢ること遠し

予は宰予、堯舜は古の大聖人。

 

本来、聖人と聖人を比べてどちらが偉い、などと優劣をつけることはできない。

聖人は天地の徳と一体化している。

天地の徳は天地の徳であって、この上なく崇く尊いものであり、それより上はない。

それでも、宰我に言わせると「先生は堯舜なんかよりはるかにすごい」。

と、こういう心酔ぶりであった。

 

子路との違い

同じく孔子に心酔している高弟に子路しろがいる。

子路孔子を強く慕い、孔子もまた子路を愛した。

それがうかがえる言葉もたくさんある。

しかし、宰我には孔子の愛情が感じられない。

聖人の孔子のことであるから、弟子によって好き・嫌いという区別はないだろう。

叱って伸びる子もいれば、褒めて伸びる子もいるように、教育方針の違いと思う。

 

子路という人は、孔子から「いかだで海を渡って遠くへ行こう。(危険だが)子路ならついてくる」と言われて喜ぶ人だ。

その喜び方も、私のイメージでは欣喜雀躍、小躍りせんばかりに喜ぶ子路が思い浮かぶ。

孔子の愛情を真直ぐ受け止め、それに甘えることなく、道を歩むエネルギーに変えてしまう、子路はそんな人だったと思う。

 

宰我の悪いところ

宰我は、おそらくそうでなかった。

子路よりは人間が小ぶりで、頭は大変よく、理屈に過ぎるところがあり、剛情でもある。

 

宰我の剛情さ

孔子との問答をみるとよくわかる。

三年の喪を重視する孔子に対し、宰我は勝手な理屈で「一年で良い」と主張する。

それを、孔子はこう諭す。

なぜ三年かよく考えよ。

本来三年でも短いくらいで、五年でも十年でも良い。

しかしそれでは色々と支障が出る。

天子が十年も喪に服して政務を離れると政治がおかしくなる。

 

子供は生まれてから三年間、親に守られて懐で育つ。

短いけれども、親の寵愛を想い、天子から庶民まで三年と決めたのだ。

 

なぜ喪中、君子は普段通りの生活をしないのか。

美味しいものを食べても、それを食べることができない親を想えば美味くなく、

良い衣服を着ても、親が土や草をまとっていることを想えば嬉しくなく、

美しい音楽を聴いても、それを楽しむ親がいないと想えば楽しくないからだ。

そして孔子が、

なんじにおいて安きか

(お前は、たった一年喪に服したくらいで美味いものを食い、良い服を着、楽しい音楽が聴けるというのか)

すると、宰我は答えた。

之を安んず

(私はできます)

宰我の剛情さがよく表れている。

 

宰我ほどの者が、孔子の教えを理解しないはずはない。

しかし、反発し続ける。

この剛情さを、孔子は憎んだものと思う。

最後は孔子も、

女安くば則ち之を為せ

(お前がそれでいいなら、勝手にせよ)

と匙を投げ、「宰予は不仁だ」と嘆いた。

 

孔子は怠惰を嫌った

これが、宰我に厳しかった理由だと思う。

宰我は、子路のようにはいかない。

子路と同じように愛情を注げば、宰我はおかしくなるのではないか。

三年の喪が長すぎるというのも、結局は喪中の生活が辛いからであり、そこには安楽のために道を枉げようとする気持ちがある。

こういう安楽な心を、孔子は非常に嫌った。

 

真面目な弟子を評価した

逆に、真面目に努力を重ねる弟子はいつも褒めた。

それが君子の道だからである。

易の乾の卦には、「君子終日乾乾くんししゅうじつけんけん」とある。

乾の卦は純粋な陽であり、どこまでも疲れずに励む積極性を意味する。

君子はそうあるべきだ、一日の初めから終わりまで、休むことなく務めるのが君子だ。

 

なぜ顔回は愛されたか

孔子顔回を特に愛したのも、その真面目さゆえである。

子貢が顔回を評した言葉に、

能くつとき、よわ

(いつも早起きで、夜遅く寝る)

とある。

夙はどれくらい早いか。

根本先生の説によれば、

一体孔門などは朝が早い。今日で言へば二時頃に起きる。

もちろん、早起きしても日中ぼんやりしては意味がない。

終日乾乾で務めたからこそ、顔回孔子に愛されたのだと思う。

 

心が通い合う師弟

一門がきょうで危険な目に遭い、顔回がいなくなってしまった。

孔子はこれをひどく心配した。

しばらくして、顔回が無事に姿を現した。

孔子は「お前が死んだかと思った」というと、顔回は「先生が生きておられるのに、私が死ぬはずはないでしょう」と答えた。

 

心が通い合っていた。

この難に遭ったとき、孔子は「天は私に徳を与えた。その私を、乱暴者ごときが殺せるものか」と言った。

顔回の方では、「天徳があるから先生が生きておられる。その愛情を受け、徳を修める私も、死ぬはずがありません」という気持ちだったのだろう。

 

孔門の隆盛と師弟愛

孔子顔回を愛し、顔回孔子を愛した。

それは親子の愛情のようだった。

普段は謹厳な孔子顔回に愛情を注ぐ様をみて、他の弟子たちは「先生にもあんなところがあるんだ」と思い、孔子を非常に慕うようになった。

孔子が三千人という多くの弟子を持ったのも、顔回の存在が大きい。

 

それぞれ異なる教育方針

孔子が愛情を注ぐことで、顔回は亜聖となった。

子路孔子の愛情を受け、やはり大人物となった。

顔回子路も、ラクをしようとする人ではない。

愛情を注いでも、それに甘えてだらけることはない。

 

しかし宰我は、ラクをしようとする人である。

下手に愛情を注げば、それに甘えておかしくなるかもしれない。

孔子はこんな風に考えて、厳しく接したのではないか。

もし顔回子路が怠けるタイプの人間であったら、孔子宰我と同じように厳しく接しただろう。

 

宰我が昼寝で叱られた理由

さて、以上のことを踏まえて宰我の昼寝の話。

最近、気軽に楽しめたら良いと思い、ちょっとしたクイズをやっている。

こんな問題を出してみた。

 

 

本文

本文は以下の通り。

宰予、昼寝す。子曰く、朽木きゅうぼくる可からず。糞土ふんどしょうる可からず。予においてか何ぞめん。

 

宰予が昼寝していた。

それを見て、孔子が仰った。

「朽ちた木には彫刻はできない。

ゴミくずで作った垣根に上塗りをしても立派にはならない。

宰予を責めても仕方ない」

 

諸説紛々

この問題には、少々迷った。

宰我の昼寝を孔子が怒った理由については色々説があり、困惑している学者も多いからだ。

いくつかの解釈を挙げてみる。

 

昼寝したぐらいで、こんなに叱られては大変で、孔門の教えはとても凡人の及びつかぬところのようであるが、宰我に就いては、何か特別の事情があっての孔子の叱責だろう。

吉田賢抗先生『新釈漢文大系・論語

 

宰我もえらく孔子から見限られたものであります。ちょっと昼寝したくらいで、なぜこれほどまで孔子が言われるのか、昔から色々議論がなされておる。

とにもかくにも、四科十哲の一人に挙げられておるほどの人物でありますから、良いところがたくさんあったに違いない。ところが良いところがわからなくなってしまって、悪いところだけが残っておる。まことに気の毒な話であります。

安岡正篤先生『論語の活学』

 

私的解釈

私なりに解釈してみる。

冒頭から述べてきたように、宰我は気力が弱く、怠けやすい性質であった。

昼寝もその表れである。

 

昼寝するような怠け者は君子といえない。

宰我は高弟の一人であるし、色々なことを教えたいとも思うが、怠けものにいくら教えても仕方がない。

気力が弱くて、怠け癖がある奴はモノにならない。

そんな者に教えても、朽ちてボロボロになった木に彫刻するようなものだ。

 

私なりの解釈によれば答えは①となる。

宰我の人となりから考えて、②や③はまずありえない。

 

宰我は礼に欠けると言われたから、ひょっとすると④はあるかもしれない。

しかし、そのような話は残っていないし、孔子が見限るほどの話でもないと思う。

私の先生

私の先生は・・・

私の先生は、公田連太郎先生である。

もちろん、たくさんの人から学んできた。

孔子にはたくさん学んできたし、儒学徒ならば当たり前である。生涯にわたって教えを乞うだろう。

古い時代の聖人賢人には、尊い先生がたくさんおられる。

公田先生を教えられた根本先生は、先生の先生であるから大先生おおせんせいといえる。

色々な先生がいていいと思うし、それがまともであろうし、優劣をつけるのでもない。

 

しかし、小倉鉄樹翁が「おれの師匠は…」と鉄舟先生を親しまれたような感覚で言えば、私の先生は公田先生なのである。

 

小杉放庵の書簡

日本の古本屋で、小杉放庵の書簡が出品されていた。
美術評論家松下英麿なる人に宛てた手紙で、公田先生の『易経講話』を勧める内容である。

商品画像を見ると、以下のように書いてある。

根本通明は明治の易の権威 その門人で公田翁があつたわけです 多分易の講義の最良で最後のものかと思ふ

f:id:shu_koushi:20211018113536p:plain

 

地蔵さまが好き

小杉放庵は、公田先生と五十年以上の付き合いがあったという。

『公田翁のこと』という文章も書いている。

 

小杉放庵は、20代の頃に鉄舟寺に参禅したことをきっかけに、公田先生と付き合うようになった。『公田翁のこと』には

公田翁は仏さまの中で、地蔵さまが一番好きだと言って居られた

とある。

公田先生の人となりが知れる、貴重な逸話である。

 

地蔵さまに倣った公田先生

地蔵菩薩の悲願は、衆生の救済である。

お寺の御堂に鎮座するのでなく、野道や山道、村のはずれなど、なんでもないようなところに立って、風雨をものともせず、現世にすがるもののない衆生をお救いなさる。

 

在野を貫かれた公田先生

公田先生も、地蔵さまのような生き方をされた。

 

学者ではなく学生

公田先生は在野にこだわり、地位や名誉を顧みず漢学や仏教に励み、多くの書を著した。

お若いころは、浪々となされたらしい。知人の子に英語など教えながらその家に居候する、といった生活を送られた。

地位や名誉はもとより、安定した居住すなわち安居も求めなかったし、飽食暖衣も求めず、たた一筋に道を求められた。

 

晩年、先生は漢学者として広く知られていたが、何かの折に先生は「私は漢学者じゃありませんよ」と語気強く仰ったことがあるという。

学者という立場や肩書を身にまとうことを嫌われたものと思う。

一生涯にわたって学問を怠らず、ひたすらに研鑽し、「学者」ではなく「学生」でありつづけた。

自分の職業をどうしても書かなければならない時は、「学者」ではなく「学生」と書かれた。晩年の話である。

 

地蔵さまに倣いつづけた公田先生は、いつしか学識を認められるようになり、“在野”の“学生”でありながら、小杉放庵をして「易経講話は最良にして最後の講義」と言わしめた。

 

地位・肩書は関係ない

色々な学問について、特に易学などの難しい学問であればあるほど、「学者でなければ信用ならない」とか「大学教授など正規の研究者でなければ、理解できるはずがない」などといわれる。

もちろん、地位のある学者の教えは信用できることが多い。一般的な傾向として、それは確かにある。

 

しかし、必ずしもそうでない。

そのような決めつけは嘘であると私は思う。

公田先生を知っているからだ。

先生と仰いでいるからだ。

先生の易経講話は本当に素晴らしいものだ。

易を学んでおきながら、公田先生と易経講話を「在野」というだけで軽視する者がいるなら(そんなのは聞いたことがないが)、モグリ・エセといってよかろうと思う。

 

学究ではなく求道を

私は公田先生に倣いたい。

公田先生が学者ではなく学生として歩まれたのは、先生の生涯の目的が「学究」ではなく「求道」にあったからだと思う。

私も、学究は志していない。良い例えか分からないが、もし道を得られるならば、それまで学んだものを全て忘れたって構わない。

そんな姿勢だから学者にはなれないだろうし、なりたいとも思わない。

私も公田先生のように、学生であり続けたいと思う。

鮮血淋漓の学問がしたい~古写本論語の重要性~

論語には、色々な本がある。

もちろん、元はお弟子たちが作った唯一のものがあったが、長い歴史の中で様々なものが生まれた。

中には意味が通じないものや、解釈の疑わしいものがあるから、儒学を学ぶうえで障害になりやすい。

 

ではどうするか。

一冊にこだわらず、色々な人の解説した論語を読んでみるのが良い。

特に、日本の古写本論語こしゃほんろんごを底本にしたものを読むと、驚くほど理解が進む。

 

論語の問題点

昔は紙がなく、印刷技術もなかった。

本を作るには、竹簡や木簡に人の手で筆写する必要があった。

紙ができてからも、やはり人の手で筆写が行われただろう。

木版印刷の発明は、紙の発明よりずっと遅い。

古い経書などは、基本的に筆写されたものが流通し、普及したのである。

 

誤写が生じる

流通の過程で筆写を繰り返すと、どうしても誤写が出てくる。

誤写した論語を底本として筆写すれば、誤写したものが広く出回る。

それをまた誤写する人も出てくるから、なかなか元の形を保つことができない。

 

戦禍に見舞われる

誤写以上に問題となるのは、歴史の変動に伴う散逸さんいつである。

中国では、何度も王朝が変わっている。

王朝が変わる時には大混乱に陥るもので、学者が多く殺されたり、経書が焼かれたり、いわゆる焚書坑儒ふんしょこうじゅのようなことも起こる。

論語の成立時期は定かでない。何を以て成立と捉えるかによっても変わる。

金谷治先生の論によれば、

論語』の編纂については、はっきりしたことは分からない。孔子の没後、その門人たちの間で次第に記録が蓄えられ整理されて種々のまとまりで伝えられ、やがてある時期に集大成されたもので、その時期はおそらく漢の初めごろ(BC2世紀)のことであろう。

とのことである。

ひとまずここを成立時期とすれば、焚書坑儒の時代、まだ論語は成立してなかったことになる。

しかし、その後も中国では経書の著しい散逸を招く大乱が度々起こっているし、その影響は大きい。

 

散逸しやすい性質

大乱が収まると、心ある人が再び道の再興へと動き出す。

この時、戦禍を免れた論語があればよいが、なかなかそうはいかない。

一部が焼けるなどして、完全なものが残りにくい。

 

それに、大体からして竹簡・木簡はあまり丈夫でない。

簡単に壊れるというのでもないが、縦糸と横糸を使って本を編むから、紐が切れるとバラバラになってしまう。

孔子の「韋編三絶いへんさんぜつ」が良い例だ。孔子は易を大変熱心に勉強された。何度も何度も読んだために、竹簡の糸が切れてバラバラになること三度であった。

したがって、大乱の中で焼けてしまうほかに、バラバラになって収拾がつかなくなる、といったことも多かっただろう。

 

長い歴史の中で混乱に陥る

ここに論語の問題がある。

おそらく多くの誤写を経て普及し、元の意味から離れつつある。

その上に戦禍で焼けたり、バラバラになったりする。

拾い集めて再び作るが、そのために章句の配列で混乱が起こる。

また、編纂の過程で誤写などがさらに多くなる。

その結果、部分的に意味が通じなくなることも出てくる。

意味が通じなければ、なんとか通じるように解釈する必要がある。

多くの学者が熱心に取り組むが、誤ったものを正しく解釈するのは困難であり、学者の中で一致した見解も生まれにくい。

だから、様々な注釈書が生まれ、後学の人はますます混乱する。

 

古い写本を学ぶべし

論語の本意を得るには、できるだけ古い写本を学ぶのが良い。

古ければ古いほど、誤写が少ない。戦禍の影響も小さい。

ただ、中国の論語にはそれが期待できない。

古い写本が欲しいと思っても、長い歴史、度重なる戦禍で失われているからだ。

 

古写本論語とは

そこで、日本に伝わった古写本が非常に役立つ。

日本に論語が伝わったのは、古事記によれば応神天皇おうじんてんのうの御代とされる。

応神天皇百済くだらへ、

もしさかしき人あらば貢上たてまつ

(もし賢者がいたならば献上せよ)

と仰った。そこで百済では、和邇吉師わにきしという学者に論語千字文を持たせて献上した。

 

応神天皇の御代は、西暦でいえば270~310年。

この時、中国は三国志の時代が終わって晋に入ったころ。

司馬炎皇位簒奪さんだつし、晋を建てたのが265年である。

 

日本伝来以降の中国論語の混乱

その後も中国は実に多くの禍に見舞われた。

この辺のことは詳しく調べたことがないので詳細は避けるが、隋から唐へ移る時にも経書が随分散逸したという。

その後、宋学が勃興してくる。

形を変えながら普及したものが大乱の中で失われ、それを再興しようとする大きな動きが起こった。

散逸の程度が軽微であればよいが、決して軽微とはいわれない状況で二程子にていし朱子などが奮闘した結果、論語の本意からどうしても遠ざかるところも出てきた。

実際、意味の通じない所もある。

 

古写本論語の純粋性

日本への伝来は、金谷先生の仰るBC2世紀ごろから数えて400~500年後。

この期間は、論語にとって幸いであった。

まず、焚書坑儒的な大禍に見舞われていない。

また漢の時代に儒教は国教となり、研究も盛んになった。

その時期を経て、日本への伝来である。

 

ここに古写本論語の純粋性を見る。

年代から考えると、色々な論語がある中でも、かなり雑味の少ないもの、純粋性の高いものが伝わったといえる。

そして、その論語は形を保ち続けた。

日本では王朝が変わったことがなく、戦乱によって経書が被害を受けることもなかったからだ。

もちろん、筆写の過程で誤写が生じた可能性も考えられるが、意味はよく通じる。

 

古写本論語で蒙を啓く

現在、一般的に流通している論語は、基本的に中国の歴史に強く影響を受けている。

執筆する者としては、長い歴史の中で生まれた様々な解釈を全く無視することはできないし、宋学の影響はかなり大きい。

私が持っている論語の中でも、服部宇之吉先生の『国訳論語』は大正時代に書かれた古いものである。

これは底本が明らかでないが、日本の古写本論語と比較すると、中国の歴史に揉まれた論語の影響を強く受けているように思う。

 

現在出版されている論語も、100年前に出版された論語も、等しく中国論語の影響を受けている。

普通に論語を勉強していると、当然ながら日本の古写本に触れる機会がなかなかない。

複数の解説書を読んでも、それぞれの根っこが中国論語である以上、「蒙を啓かれる」といった進歩・飛躍がなかなか得られない。

だからこそ、色々な論語を読む中で日本の古写本論語に触れると、学問が大いに進む。

私はそういう印象を抱いている。

 

古写本論語で理解が進む具体例

古写本論語の具体的な利点はどんなものか。

ひとつ具体例を挙げてみる。

これによって古写本論語の効用は疑いなし、そんな例がいくらもあるが、ひとつだけ挙げてみる。

 

「彼なるかな」では意味不明

論語憲問篇に、以下のような章句がある。

或るひと子産しさんを問う。子曰く、恵人けいじんなり。子西しせいを問う。曰く、かれなるかな、彼なるかな管仲かんちゅうを問う。曰く、じんなり。伯氏はくし駢邑べんゆう三百を奪う。疏食そしはんし、よわいを没するまで怨言えんげん無し。

これが、一般的な書き下し文である。

服部宇之吉先生の『国訳論語』では以下のように解する。

ある人が孔子に、子産の人物を問うた。子は「恵み深い人だ」と仰った。

次に子西について問うた。子は(批評するほどではないとして)「あの人か、あの人か」と仰った。

次に管仲を問うと、子は「(偉い)人物である。斉の大夫である伯氏を罰して土地を没収した。伯氏は貧乏で苦労したが、死ぬまで管仲を怨むようなことを言わなかった(管仲の裁きに感服したからである)」と仰った。

 

ここで問題となるのは、「彼なるかな、彼なるかな」である。

服部先生は注釈で、

批評するほどでないから、何とも批評らしい言がない。

としているが、どうもすっきりしない。

子産や管仲に対しては「これこれの人である」と評価しているのだから、子西に対しても何か一言あってよさそうだ。

 

「佊なるかな」で意味が通じる

古写本論語を見ると、この疑問が氷解する。

古写本論語では、

或るひと子産を問う。子曰く、恵人なり。子西を問う。曰く、なるかな、佊なるかな管仲を問う。曰く、人なり。伯氏が駢邑三百を奪う。疏食を飯し、歯を没うるまで怨言無し。

となっている。「彼なるかな、彼なるかな」ではなく「佊なるかな、佊なるかな」である。

おそらく、筆写するうちに「佊」を「彼」と誤写し、長い歴史の中で定着したものと思う。

 

大変に似た漢字だが、「佊」と「彼」では意味が全く違う。

「彼なるかな、彼なるかな」とすれば、服部先生の仰る通り批評の意味をなさない。無理に解釈すると、「孔子は、子西を評価に値しないとして・・・」といったことになる。

 

では「佊なるかな、佊なるかな」はどうか。

「佊」とは「よこしま」を意味する漢字だ。

したがって、「佊なるかな」は

  • 「偏っているね」
  • 「中庸を得ていないね」

といった批評の言葉となる。

 

子西という人

子西は楚の公族で、昭王と一緒に苦労した人だ。忠義に厚い一面がある。

しかし、偏ったところがあった。

私が思うに、この「偏った」とは、「相応の才略に欠け、判断に偏りがある」の意味だろう。

 

左伝のなかで、孔子は昭王を激賞している。

昭王とともに苦労した子西にも、認めるところがあったろう。

大体、子産や管仲と並べて批評を求められているのだ。

子産や管仲は大人物だ。それに比べると劣るだろうが、子西もひとかどの人物であったはずだ。

孔子が、特に批評はないとして「彼なるかな」で済ませるとは思えない。

 

子西は、昭王の忠臣であった。忠義という美徳があった。

優秀な政治家でもあった。昭王の死後、恵王は50年以上にわたって楚を治めるが、その基礎づくりに子西は多大なる貢献をした。

昭王の死後、忠臣であり、公族であり、功績もある子西の権力が大きくなったが、それにふさわしいだけの才略がなかった。

実際、それが禍して殺された人である。

ごく簡単に書くと、子西は他の重臣の反対を押し切って乱臣を招き入れ、やがて怨まれて殺された。

詳しくは左伝を読んでいただきたい。哀公十六年のくだりに子西の最期が記録されている。

 

子西を惜しんだのではないか

また、「佊なるかな、佊なるかな」と二度繰り返しているところに、残念に思う雰囲気を感じる。

「ああ、あの人か。あれは偏ったところがある。(いいところもあるだけに残念だが)どうも才略に欠ける」

といったような。

 

道徳の乱れた当時、忠臣かつ能臣というのは得難いものであった。

しかし佊なるところがあった。昭王の死後、権力が大きくなるにつれて佊なるところ、才略に欠けるところが目立ってきた。

惜しむべき人物だが、おそらく殺されるであろう。

それを残念に思って、孔子は「佊なるかな、佊なるかな」と仰った。

私にはそう思える。

 

私的解釈

以上を踏まえて、この問答を私なりに解釈してみると、以下のようになる。

 

「鄭の子産は賢人ですよね。先生はどう思われます」

「あの人は恵み深い人だ」

「ああ、確かにそうです。あの人は恵み深いと評判でした。

楚の子西はどうです。あの人もなかなかの人物でしょう」

「あれには忠義がある。政治家としても優秀だ。しかし残念ながら、正しくない。偏っているね」

「忠義があっても正しくない・・・ならば、管仲はどうでしょう。

管仲も忠臣ですが、正しくないのではないですか。先生は管仲の礼節を問題にされたこともありますね」

「たしかに管仲は礼節に欠けるが、才略は欠点を補って余りある。

佊なるところ(よこしまで偏ったところ)がなかった。門閥家の伯氏でさえ、厳しく罰せられたのに全く怨みを抱かなかったほどだ。それは、管仲の処遇に佊なるところがなかったからだ。ゆえに天寿を全うできた。

子西には忠義があるが、管仲ほど才略がない。佊なる判断をして、怨みと禍を受けることがあろう」

 

末路を言い当てる孔子

孔子は、子路の勇に過ぎるところを度々たしなめられた。

正義を尊び、曲がったことが許せず、負けず嫌いの子路は、中庸を目指していかなければ危ないと。

結局、孔子が危惧された通り、子路は剛直に過ぎたために命を落とした。

 

ドラマ『孔子春秋』、子路の最期を知らされる孔子の姿が寂しい。

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子路が死んだという知らせを受ける御一門。子貢はその知らせに疑いを抱く。

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孔子は、状況から考えて知らせに間違いがないと話す。

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子路の性格では、死を恐れず戦ったであろう。死んだに違いない。

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子路は性格が禍して命を落としたが、孔子はその性格を愛していた。

 

同じように、孔子は子西の佊なるところを見て、

「この人は良くない、悲惨な最期を迎えるであろう」

と予見したのではないか。

 

子西が殺されたのは孔子が亡くなるより後だから、孔子は子西の最期をご存じない。

しかし、孔子は子西の最期を予見されていたのだろう。

 

易理が分かれば将来のことも分かる。

公田先生を教えられた南隠禅師は「占っているようでは鈍い」と仰ったが、こういうことだろう。

占わずして子路の最期を当てた孔子は、子西の最期も正しく見通していたのではないか。

そんな風に思う。

 

鮮血淋漓の学問がしたい

子産は恵み深い人、子西は才略に欠ける人、管仲は才略ある人。

三者三様に批評した言葉となる。

 

中国の論語では意味が不明だが、日本の古写本論語では意味が明らかである。

「彼なるかな」では意味が通じないが、「佊なるかな」ならば意味が通じる。

また「佊なるかな」と読んでこそ、孔子の「言外の言」に思いを馳せることもできる。

 

全て古写本論語が優れているとは言わない。

私は二程子、ことに明道めいどう先生を尊敬しているし、新しい写本や解釈からも積極的に学びたいと思う。

しかし、どうしても古写本論語に拠らなければ意味が通じない、理解に苦しむ箇所があるのも事実だ。

論語を学ぶには、古写本論語を底本とする解説書を含め、広く学ぶことが大切と思う。

自分で考えることは一層大切だ。

考えを進歩させるためには、実践も欠かせない。

中国の論語でも日本の論語でも、経文にとらわれてはならないし、実践しないのはなお悪い。

 

偏った学びは排すべきである。

孔子の一面しか見えないような学びは良くない。

広く学んで、生身の孔子に近いものを取捨選択していく。

広く学べば選択肢は多い。多いほど迷う。

しかし、一生かけて取捨していくのだから問題にならない。迷って良い。

 

古写本論語を含め広く読む意義もここにある。

古写本論語によって、一般に普及している論語への囚われが随分少なくなる。

私は、古写本論語に蒙を啓かれた。

 

孟子曰く、「ことごとく書を信ぜば書無きにかず」。

どの論語でも、その内容を信じ込むのはいけない。それでは意味がない。

孔子の気持ちを想いながら、自分なりに取捨選択していくことが大切だ。

 

孔子ご自身、そのように学問されたと私は思っている。

琴を習った際、孔子は「この曲を作った人のイメージが湧かない」と大変苦しまれた。

同じ曲を繰り返し習い、苦しんで苦しんで、あるときようやくイメージをつかんだ。

孔子は師襄(琴の師匠)にこう仰った。

「ようやく、作曲者のイメージをつかみました。その人の顔は浅黒く、背は高く、眼は遠くを見ております。おそらく文王ですね」

師襄は、

「そう思います。私の師も、この曲を作ったのは文王と言っておりました」

と答えた。

 

孔子は二千年以上前の人である。

その教えは古く、歴史の中で失われたり、真の意味から遠ざかってしまったものもあるだろう。

だから私は、文王の姿をありありと思い浮かべながら琴を修めた孔子のように、孔子の姿をありありと思い浮かべながら、孔子の気持ちを推し量り、斬れば血が噴き出すような生きた思想として論語を学びたい。

「士」に関する問答

ツイッターをやっているが、さほど意味を見出していない。

勉強などしていて、深く感じるところがあると書く。

ほとんど独り言のようなもので、誰かに意見を求めるでもなく、自分で感じたままに書いている。

理解を促そう、人にもわかってもらおうといった意識は薄く、誰かに疑問を呈されることを前提としていない。

 

数日前にツイッターで発言した内容について、思いがけず質問をいただいた。

自分では全く疑問のないことばかりツイートするが、そこへ疑問を投げかけられ、再度よく考える機会を得た。

興味深いやり取りであったが、発言が切れ切れになるツイッターではまとまりが悪く、言い尽くすことも難しい。

 

自分なりにまとめておきたいと思った。

質問していただいた方の了承も得たので、記事とする。

ツイッターでのやり取り

今回、二つの質問についてやり取りした。

本稿でまとめる質問は「」についてである。

 

私の発言

先日、私は以下のようにツイートした。

 

いただいた質問

これについて、以下のように質問をいただいた。

仁とは、思いやりの心とは、全てを包み込むもの。

普通に生きる人と士を「慈愛」の価値観で区別することに違和感を覚えます。

士とは、それほど偉大な人なのでしょうか。

普通の人の持つ仁の身に立ってこその士、ではないでしょうか。

仁とは、思いやりの心とは、とてつもなく広く深いもの。

私の学問の道の原点でもあります。

人が人を「慈愛」として区別することが果たして仁といえるのでしょうか。

仁とは、思いやりの心とは、全てを包み込むもの。

士も、士以外の人も、仁はあまねく包み込みます。

 

本稿では、この質問を、

  1. 「士」とは何か
  2. 士人しじん」と「庶人しょじん」に対する仁の違い
  3. 孔子は「士」に何を求めたか

に分けてまとめていきたい。

 

「士」とは何か

この質問を考えるにあたり、まず「士とは何か」について明らかにする必要がある。

これが分からなければ、士人に対する孔子の思いと、庶人に対する孔子の思いが区別できないからだ。

質問した方も、ここに疑問が生じたものと思う。すなわち、

「士人でも庶人でも区別する必要はない、仁はどちらも等しくおおうほど、広く深いものである」

ということだろう。

 

身分としての「士」

士とは、下層階級の出身でありながら、何らかの能力を認められ、身分を与えられた平民のことである。

孝経こうきょうでは、天子、諸侯、卿大夫、士人、庶人の順で身分を並べ、それぞれの身分においてなすべき孝行を教えてある。

 

「士」はどうあるべきか

身分としての士だけでは、士の実際を理解するには不十分である。

孔子の高弟も、季孫氏きそんしに仕えた陽虎ようこも、どちらも身分的には同じ士である。

しかし、両者は明らかに異なる。子路は陽虎は同じでない。子路は君子であるが、陽虎は乱臣である。

 

したがって、学問道徳の観点から士を捉える必要がある。

それを知るには、孝経の士人章第五が分かりやすい。曰く、

 

父につかふるをりて以て母に事ふ、而して愛同じ。父に事ふるを資りて以て君に事ふ、而して敬同じ。

故に母には其の愛を取り、君には其の敬を取る。之を兼ぬる者は父なり。

故に孝を以て君に事ふれば則ち忠なり。敬を以て長に事ふれば則ち順なり。

忠順ちゅうじゅん失はず以て其の上に事へ、然して後能く其の禄位を保ち、其の祭祀を守る。けだし士の孝なり。

 

(母に仕えるには愛を以て、君に仕えるには敬を以てする。これはどちらも父への愛敬と同じである。

したがって、父への孝心で君に仕えるならば忠義にもとることはなく、目上の者に仕えるならば孫順そんじゅんである。

忠義と孫順を失わなければ、よく用いられて地位や俸禄を失うことがない。祭祀を絶やす懸念もない。

これが士の孝行である。)

 

 

孔子が仰る「士」とは、このような在り方を指している。

士は、「君国に仕える者」という身分を表すと同時に、「君国に仕えて役に立つ者」という意味でもある。

 

後者の意味が重要だ。

説文には「士とは事なり」、段注には「能く事に事へる者を士と称す」とある。

君国によく仕えて役に立つためには、学問道徳が必要である。

だから孔子が弟子に求めた「士たるべし」とは、「学問道徳をしっかり身につけた人物になるべし」ということであった。

 

仁義は対象で変化する

士人の正しい意味が分かれば、士人と庶人に対する仁の違いが分かる。

 

質問の意図にあるとおり、仁は士人・庶人を問わず蓋う深さ・広さがある。

では、そもそもなぜ仁は深く広いものとされるのか。

それは、仁というものが対象によって変化するからである。

仁や義といった大きな徳には、そういう性質がある。

 

仁と義の違い

漢の董仲舒とうちゅうじょの言葉に、

仁の言たる、人なり。義の言たる、我なり。仁を以て人を安んじ、義を以て我を正しくす。

とある。

この言葉の通り、仁は人に対するもの、人を安んずるための徳である。義は自分に対するもの、自分を正しく保つための徳である。

 

仁は変化する

仁は人に対するものであり、仁を向ける相手によって色々な名前に変わる。

例えば、

  • 子が親に対する仁は孝
  • 臣が君に対する仁は忠
  • 夫妻間での互いに対する仁は愛
  • 朋友間での互いに対する仁は信

など色々である。どれも仁が根本であり、これらの徳を全てまとめて、一言で「仁」という。

 

義も変化する

忠義や信義といった言葉もある。忠や信は仁にも義にもなり得る。

忠は、

  • 臣下から君に対して向ける場合、忠は仁の変化したもの
  • 君の役に立つ臣下であるべく、自分自身を正す場合、忠は義の変化したもの

といえる。

信も同じ。すなわち、

  • 我から朋に対して向ける場合、信は仁の変化したもの
  • 朋にとって正しい我であるべく、自分自身を正す場合、信は義の変化したもの

といえる。

 

庶人への仁は慈愛

親が子に対する仁を慈愛という。

一国の王が人民に対する仁も、親が子に対する仁と同じであるから慈愛である。

孔子は政事をつかさどる君・大夫・士などに仁を求めた。これも庶人に対する仁であり、慈愛を求めたのである。

 

弟子(士人)への仁は師弟愛

士人と庶人では、仁の表れ方も違う。

孔子は弟子に対して「士」たることを求めた。したがって、孔子が弟子・士人に対する仁と、庶人に対する仁では表れ方が異なる。

  • 弟子には士たるべしと厳しく教え、厳しい愛があった
  • 庶人に対しては厳しく教えるのではなく、慈しみの面が強く出ていた

という違いである。

したがって、士人たれと求める弟子に対しては、厳しさを内包する「師弟愛」といった形で表れる。

 

拘泥は避けるべき

質問にあるように、士人と庶人を慈愛の価値観で区別するのではない。

士人と庶人では仁の向け方が違い、仁の表れ方も違うのである。

私の考えで自発的に区別するのではなく、仁の表れ方として自然的にそういう区別が生じるともいえる。

 

ただ、どちらも根っこは仁であるから、明確に区別することは難しいのかもしれない。

孔子は士人たる弟子に慈愛のまなざしを向けたこともあるだろう。

また、孔子

教へ有つて類なし

(教えを乞うものは誰でも教える。身分や過去の過ち、日ごろの行いで差別することはない)

と仰った。

入門していない庶人から何か教えを乞われたとき、師弟愛まではいかずとも、徳とはこういうものだ、人とはこうあるべきだといった厳しさを以て対することもあったと思う。

このほか、徳治において「親不孝をする者は罰する」というように、庶人に対する厳しい一面があったことも間違いない。

 

誰に対する言葉か

「士人と庶人に向ける仁とは」の問題を考えてゆくと、細部に拘泥こうでいする嫌いがあるので、考えすぎるのは避けたほうが良いと思う。

とはいえ、論語を読んでいると、士人・弟子に対する場合と庶人に対する場合、孔子の態度は明らかに違っておられる。

また、同じ士人・弟子でも、弟子によって教え方が色々に異なる。

したがって、論語の章句を紐解くには、「孔子は、それを誰に対して仰っているか」をよく考えなければ、混乱や曲解に陥る危険がある。

 

孔子が弟子に求めた「士」としての在り方

したがって、私がツイッターで「士に対するのでなければ、慈愛を以てすべきである」と書いた真意は、

 

孔子は弟子を『士』として教育するため、孔子の厳しい面が色濃く表れた。

人民に対するには、慈愛の面が色濃く表れた。

私自身や朋友は士を目指すのであるから、孔子の厳しい面を真直ぐ捉えるべきである。

そうでない(例えば儒学を学ばない)人にそれを求める必要はなく、道に外れた言動があっても、孔子の優しさで捉えるべきだ。

という意味である。

 

庶人への慈愛、許し

これについて、さらに以下の質問をいただいた。

道に外れた人とありますが、
孔子の優しさとは、全てを許すのでしょうか。
孟子にあるように、桀・紂は獣、畜生の類いとして弑するを是としました。
優しさ、を曖昧とすることに疑問を感じます。

私がここで言った「道に外れた者への優しさ」とは、桀や紂のような大悪人ではなく、あくまでも庶人に対する慈愛である。

庶人への慈愛を考える時、分かりやすい内容が孔子家語にある。

 

あるとき孔子は、法廷で争う親子を厳しく裁かず、後に不問とした。

当時、孔子は「国を治めるには孝道を正すことが第一」と唱えていた。

ならば、親子で争うのは治国平天下の大道を乱す罪である。しかし罰しなかった。

そこで季孫氏が、孔子の裁きに異を唱えた。

孔子は仰った。

 

「上に立つ者が道を誤っていながら、下の者が道を誤ったら罰する。これでは筋が通らない。

それに、我が国ではこれまで人民に孝道を教えることがなかった。その導きをせずに、孝道に悖るといって罰するのは、罪のない者を殺すのと同じだ。

十分に戒めることなく、急に成果を求めることは民をしいたげることにほかならない。

十分に道徳を敷いて、教化した後に罰するべきである」

 

これが、孔子の庶人に対する姿勢である。

無辜むこの民が道に外れたからといって、厳しく責めない。

罰するのは道理に合わぬ、非道である。

むしろ、人民を誤らせた原因を政治に見出す。

そして許す。

 

ただし、士人は別である。

人民を治めるべき、模範たるべき立場の者が道に外れた場合には厳しく罰する。

士より高い身分の大夫であった少正卯しょうせいぼうが誅殺されたのはこのためである。

 

士の道は厳しき

孔子は庶人には慈愛、士人には厳しさを以て対した。

では、孔子が弟子に求めた厳しさ、士の道とは、具体的にどのようなものであったか。

 

質問者の

士とは、それほど偉大な人なのでしょうか。

の問いに答えるためにも、論語からいくつか取り上げてみたい。

 

己を行うに恥あり

子貢から「士とはどんな者をいうのですか」と問われたとき、孔子は、

己を行ふに恥有り

(道に外れたら恥ずかしいと思う廉恥れんちがあり、十分に慎みながら行動する者を士という)

と仰った。子路篇の言葉である。

以下の通り、士には三等の別があるが、いずれも「己を行うに恥有り」の態度がなければ士とはいわれない。

真にこの態度を持っている人は極く少ない。

その日を普通に生きる人でも、この態度を全く持たないわけではないだろうが、強く持っているか、困難なる時にもこの態度を失わないか、となると疑わしい。

どんな時でも、「己を行うに恥有り」の態度を堅持するのが士である。

この意味だけでも、士とは偉いものといえる。

 

士に三等あり

これに続く子貢の問いに答え、孔子は士に上等・中等・下等の三等があると答えられた。

 

上等の士

まず上等の士とは、

四方に使ひして、君命くんめいはずかしめざるを士と謂ふべし

(外国への使者としてどこへ行っても、決して君命を辱めない者を士という)

と仰った。

これは、大人物といって良い。

学問道徳ともに十分でなければ、こうはいかない。

 

同じく子路篇で、孔子は以下のように仰っている。

詩三百を誦して、之に授くるにまつりごとを以てして達せず、四方に使ひして専対せんたいする能はずんば、多しといへどなにを以てん。

詩経三百篇を暗誦できるほど学んでおきながら、政治のことがよく分からなかったり、外国に使者として出向いて臨機応変に対応できなければ、いくら多く覚えたところで何の役にも立たない)

つまり論語読みの論語知らずを謗ったわけだ。

根本先生は、この解説で以下のように痛罵している。

今日の事に応ずることができねば、詩を誦むこと多しといえども、何の用に立つものか。これが腐儒ふじゅ(腐れ儒者)というものだ。

 

孔子の仰る上等の士とは、学問し、道徳を磨き、なおかつ政治や外交に学問を応用し、「快刀乱麻を断つ」の働きができる者を指す。

上等の士は「偉い人」といって間違いない。

 

中等の士

中等の士については、以下のように仰る。

宗族そうぞく孝を称し、郷党弟きょうとうていを称す。

(一族の間では、誰もが「あれは孝行である」と認めている。また一族の間だけではなく、外に出ても「あれはてい(目上の者に柔順)である」と褒められている)

つまり一族の間でも、一郷の中でも孝悌こうていで轟いている人である。

中等の士も偉い人と言って差し支えない。

 

下等の士

下等の士について孔子曰く、

言必ず信。行必ず果。硜硜然こうこうぜんとして小人なり。

(言ったことは間違いなく行う。信がある。言ったことは良くても悪くても行う。硜硜然、石の固まったように融通が利かず、小人である)

 

士の中でも最も低いものは信義に偏った者である。

良くも悪くも、言ったことは必ず行う。

悪いことでも改めずに実行するのだから、反省がないといえる。

「過ちては則ち改むるに憚ることなかれ」という教えが実践できていない。

したがって悪いところがあり、下等の士は上等・中等の士より格段に落ちる。

あまり偉いとは言えない。

しかし孔子は「こんな人でさえも得難い」とも言っている。

 

下等の士を愛した孔夫子

孔子は上等の士、少なくとも中等の士を理想とされたのだろう。

下等の士は、いわゆる公冶長篇に言う所の「狂簡きょうかん」が近いように思う。

 

陳蔡ちんさいで危険に遭遇された折、孔子

(魯に)帰ろうよ、帰ろうよ。

我が郷党の門人、特に若い者には狂簡なる者が多い。

(狂簡の狂は志が大きく、卑劣なところがないこと。簡も志が剛にして高く、細事にこだわらないこと。この狂簡がなければならない)

狂簡で、学問への意欲もあってなかなか良い。

しかしまとまりがない。事に処するに、中庸の道を以て裁断していくところまでは届かない。

国に帰って、狂簡な若者を仕立てたいものだ。

意訳だが、このように仰った。

 

狂簡なる若者は、下等の士に近い。

志が高く、性質が剛強で、世間一般の常識や名利が通用しない。言ったことは何でも守って信がある。善悪を充分に考えず果断である。

 

中庸を得ず、善悪を充分に考えずに果断であれば、時にしくじる。

上等の士ではありえない。

言ったことは何でも守るから「他とは違って、俺には信義がある」と俗なる世間を見下す者もいるだろう。

敬がない。一族あるいは一郷から「あれは狂っている」などと噂されることも多かろう。

中等の士でもありえない。

狂簡な人間は下等の士に近い。

 

しかし、これを仕立てれば良い人間、中等や上等の士が出来上がると孔子は仰った。

狂簡は、仲弓の敬簡に遠い。

狂は悪くないが、粗いところがあり、ことに敬に欠ける。

狂簡が敬簡になればなお良い。

孝経にあるとおり、敬を以て君に仕えるは士の孝である。

そうなれば、もはや狂簡・下等の士でない。敬簡・中等あるいは上等の士といえる。

教育によって、それは可能である。

 

孔子は、郷里の狂簡な若者に望みを抱いた。

一般に、教育者は素直で元気の良い若者を好むが、孔子もそうであったのだろう。

であるから、孔子は決して下等の士を否定したわけではない。

むしろ、下等であっても士と言い得るだけの人間を尊重しただろうし、そのような若者を愛しただろうと私は思う。

 

士は悪衣悪食を恥じぬ

子路は士であった。

子路の徳、というよりもほとんどの人の徳は、さまざまな形で表れる。したがって、ある面では上等の士とも言い得ようし、中等や下等に言い得ることもあるだろう。

ともかく士であった。

子路の狂簡なる一面が里仁篇によく表れている。子路悪衣あくいを恥じぬ人物であった。

顔回にも狂簡なる一面があった。悪食あくしょくを恥じぬ士であった。

このことは、以下の記事に詳しく述べた。

shu-koushi.hatenadiary.com

 

今回、疑問を呈された元のツイートも、この章句によって覚ったことである。

孔子曰く、

士、道に志ざして悪衣悪食を恥じる者は未だともに議するに足らざるなり

(道に志す士が、悪衣悪食を恥じるようではいけない。そのような人物は、ともに大事を語るに足らない)

 

魅力的な章句だが、筆写三度目にして、私は初めて「士、道に志して」に注目した。

士とは「事に任ずるの称なり」である。だからこそ、道に外れてはならないという慎みも必要になる。

しかし、この章句は「道に志す士」を対象とするものであって、士人や庶人を広く対象とするものではない。

士人たることを弟子に求め、師弟愛から出た厳しさであろう。道に志しておきながら、悪衣悪食を恥じる者を問題視しているのだ。

それを求めない庶人には、この言葉はふさわしくない。普通の人が悪衣悪食を恥じることには言及していない。

庶人が悪衣悪食を恥じても何ら問題ではない。むしろ「暖かいものを着たい、美味しいものを食べたい」というのが、庶人にとって自然である。

 

これを読んで、私は、

孔子はお弟子に士たること、悪衣悪食を恥じぬ狂簡、剛毅を求めたのだ。普通の人、人民にはその厳しさを求めなかったのだな」

と覚った。

ここにも、弟子には師弟愛、民草には慈愛、という孔子のまなざしが見て取れる。

 

士と士の交わり

最後にひとつ。

質問への回答の中で、

私自身や朋友は士を目指すのであるから、孔子の厳しい面を真直ぐ捉えるべきである

と書いた。

士と士の交わりにおける孔子の厳しさとは何か。

 

子路孔子に「士とはどうあるべきか」を問うたとき、孔子は仰った。

切切偲偲怡怡如せつせつししいいじょたるを士と謂ふべし。朋友には切切偲偲、兄弟には怡怡如たり。

(切切偲偲、怡怡如を守るのを士という。朋友、つまり士と士の交わりでは切切偲偲であり、兄弟と交わるには怡怡如である。)

切切とは切実なるさま、偲偲とは励まし合うさま。

士と士は朋友として交わるには、互いに義がなければならない。

学問道徳を修めるべく互いに務め、朋友に正しくない所があれば切に責めるし、怠るところがあれば励ます。

朋友を責めるのだから、義ではなく仁ともいえるが、義の意味がより強い。

「朋友に対して正しく振る舞うため(自分自身が朋友にとって正しくあるため、義のため)に責める」のである。

これが朋友の交わりである。孔子も、弟子が互いに結び合う時、この厳しさを求めたはずだ。

 

なお、怡怡如は親しみを厚くすること。兄弟にはこれが第一で、朋友のような切切偲偲たる厳しさは不要である。

 

まとめ

これ以上は繰り返しになるし、8000文字を超えたのでこれくらいにしておく。

孔子の仁はどのようなものか、弟子にどのような在り方を求めたかなどについて、私はこのように考えている。

 

思いがけず質問を受け、再度よく考え、理解がさらに深まった。

丁寧に学んだつもりでも、まだまだ考える余地、理解の至らないところはあるものである。

今後も真剣に学びたい。

時習と喜び

論語には有名な言葉がたくさんある。

通読したことがない人でも、しばしば論語の名句を知っている。

そのひとつが、論語の冒頭の章句、「学びて時に之を習う」である。

 

子曰く、

①学びて時に之を習う、よろこばしからずや。

とも有りて遠方より来る、亦た楽しからずや。

③人知らざるをいからず、亦た君子ならずや。

 

原書では①~③をまとめて一つの章句とする。

しかし、この章句は大変重要なものであり、下手に要約などすると却って本意を損なう。

それを避けるため、まずここでは①を取り上げる。

 

 

師について学ぶべし

まず、学びて時に之を習う。

これは師について教えを受けることである。

 

師につかず学ぶは例外

昔は誰でも、師について教えを受けた。

もちろん、身分や貧窮を理由に、師につかずに学んだ人もいる。

しかし、「師について大成した人」に比べて、「師につかずに学んで大成した人」は少ない。

師につかず独学したことで、大成しなかった人のほうが圧倒的に多い。大成しないから存在も知られない。

師につかずに大成した、ごく少数の人が目立つ。

「独学でも大成できる」という印象にもなりやすい。

しかし本来、独学は悪い。

 

学問が捗らない

独学すると、師の導きがないだけに、学ぶ順序が分からない。

学問の段階に応じて、読むべき、相応しい書が分からない。

気ままにやっていると混乱しやすい。

師に導かれて学べば10で達する学問を、100も200も苦労する。

私がまさにそうである。学ぶ順序を意識するまでに10年かかった。

今後も、色々な苦労が待ち受けていると思う。

 

曲解に陥りやすい

独学では、曲解きょっかいに陥ることも多い。その時、正してくれる師がいない。

理解の浅い者が強烈な思想に触れた結果、過激に奔ることもある。

 

正しい順序で学び、次第に修養を深めていく。

この前提がないばかりに、薄っぺらな正義を振りかざして人を傷つける。

 

まだまだ学問する段階にある若者が、根っこの部分を固めずに実践ばかりを考える。

若者が政治活動などに奔る場合、このケースが非常に多い。

実際に、そんな人をいくらも見てきた。

 

現人に教えを請わぬは仕方なく

だから、本来学問は師について教えを受けるべきものだ。

私も、師がいればどんなに良かろうと激しく思う。

しかし、いないのだからどうしようもない。

この人に教えを受けたいと思ったことがない。そういう出会いはなかった。

 

既に亡くなった偉大なる人々、古くは孔夫子、ごく最近の人では公田先生を師と仰いで学んでいる。

このような聖人賢人を心の師とする以上、どうしても現人うつしびとが師になりえない。

そういう大賢者もどこかにいるのだろうが、縁がないのでどうしようもない。

 

とはいえ、直接教えていただけるものではない。独学するほかない。

これは、私が学問していくうえで、大変まずいことであると思っている。

思えば、私が筆写にこだわる理由はここにもある気がする。

独学であっても先師の教えを正しく学びたい、曲解に陥ることを避けたい、そう強く思うから丁寧に学ぶ。

丁寧に学ぶには筆写が一番良い、こういうわけである。

 

学の意味

さて「学」の意味。

学といえば「勉強する」のイメージが一般的だが、これは本義でない意味である。

学には色々な意味があるが、大きく分けて、

  • 「コウ」の音ならばなら
  • 「ガク」の音ならばさと

の意味である。

日本的な学の本義はコウのならうに近い。「学ぶ」は「真似ぶ」であり、倣う(模倣する)に近い。

 

ただし、この章句の学は「ガク」で「覚る」。

師に教えを受けると、なるほどと理解する。これが覚るということ。

 

習の意味

学校で「習」という漢字を教える時、「羽に白」と教える。

これは嘘だ。

 

習の成り立ち

習の白は、もとは「子いわく」の「えつ」である。

曰は象形文字で、祈祷の際に祈りの文章、神道でいうところの祝詞のりとを収める器の形である。

「曰」の真ん中の「一」が祝詞、上の「一」は蓋である。

 

羽への信仰

古代、祈祷の効果を高めるために、「曰」の上を「羽」で何度もこする儀式があったという。習はその様子を意味する漢字だ。

だから「羽に曰」ではじめて意味をなす。

学校で教える「羽に白」では意味をなさない。

 

古えの信仰において、羽には不思議な力があるとされた。

羽が飾りに使われたのもそのためである。孔雀くじゃくの羽など、美しいものは高値で取引された。

 

面白いのは、この信仰が世界各所で見られること。

 

マヤ文明と羽

有名なのがマヤ文明で、ケツァルの尾羽が殊に珍重された。

ケツァルは農業の神様ケツァルコアトルの使いであり、その羽は美しく力を持つ。

聖職者と王だけが身につけることを許された。

王が身につける美しい羽、これは富の象徴ともいえる。現在でも、グアテマラの通貨単位が「ケツァル」であるのは、そういうところに由来するのだろう。

 

古代中国と羽

中国でも、古代の戦士が頭に羽飾りをつけた絵が多い。

詳しく調べたことはないが、羽には霊的な力がある、それを人間の身体でも特に尊い頭部に飾り、能力を高めたり、無事を祈ったりしたのだろう。

美しいものほど、その力が大きい。したがって、奇鳥というような珍しい鳥が贈物・貢物になった記録も多い。

 

子路と羽

孔子の時代にも、この風習は残っていたと思われる。

史記列伝の、子路の記録からこれが分かる。

仲尼弟子列伝の子路のくだりに、

 

子路は性いやしく、勇力を好み、志伉直こうちょくにして、雄鷄おんどりかんし、猳豚かとんび、孔子陵暴りょうぼう

子路は性格が粗野で、武勇を好み、心は真直ぐで、雄鶏の羽で作った冠をかぶり、牡豚の革で作った袋を腰に下げ、孔子に無礼をはたらいた)

 

入門前、子路は侠客のような人物であり、男伊達を好んだといわれる。

中島敦の『弟子』でも、そのように描かれる。

孔子家語』では、どちらかといえば武芸者風に描かれている。ドラマ『孔子春秋』でも子路は剣客。

武勇を好んだ子路は、古の戦士の装束を真似て、鳥の羽でつくった冠をかぶったのだろうと思う。

 

羽で繰り返しこする

話が長くなったが、ともかく羽とはそういう霊的なものであった。

それで「曰」の上に置き、蓋をこすり、羽のもつ霊力で祈祷の効果を高めんとする。

こするときは何度もこする。

これが「習」の本義である。ここから派生して、「何度も繰り返し」の意味となり、延いては「学びて時に之を習う」で「学んだものを何度も繰り返す(=復習する)」の意味となった。

 

 

学ぶ喜び

学んだことを繰り返し繰り返し考えることで、さらに深く覚る。

だから面白くなって、説びも生まれてくる。

 

分かるから面白い

これは、誰もが思い当たるはずだ。

分からないうちは、面白くない。

分かりきったことも退屈で面白くない。

しかし、分からないものが分かってくる、これは面白い。

 

「分からないから面白い」と考える人もいるが、これも結局は「分かるから面白い」のである。

「分からない。だから、やがて分かってきたときの楽しみが控えている。それが面白い」というのが普通の感覚で、どこまでやっても絶対に分からないとすれば、そんなものが面白いわけがない。

 

図解がウケる理由

分からないものが分かると面白く感じられる。

このように考えると、要約や図解がウケる理由もわかる。

古典は難しい。「分からない」が「分かる」になれば面白いが、そこまでが難しい。

しかし要約や図解なら「分かる」になりやすい。だから面白い。

本当のところをいえば「分かった気になって面白い」。

本当は分かっていないが、分かった気になって面白い。

 

図解はドラッグのようなもの

ドラッグのようなものだと思う。

現実は悲壮でも、薬で多幸感を得られる。

現実は何も変わっていないが、面白く感じられる。

 

図解を見たところで、「古典をよく理解していない」という現実は何も変わらない。

しかし、よく理解できた気がする。それで面白い。

簡単に面白くなるからやめられない。

苦労して、本当の理解、本当の面白さを知るところからどんどん遠ざかっていく。

 

図解の愚かしさ

学びて時に之を習う、亦た説しからずや。

この意味が本当に分かると、図解がいかに馬鹿げているか分かる。

論語や、それに類する本を図解する者がいる。

図解そのものが論語の道に合わないことが分からない。

図解する者のひくさがよくわかる。

自分で自分の首を絞めているなと、私はいつも思う。

 

「時習」の解釈

学びて時に之を習う、の「時習じしゅう」の解釈は色々ある。

 

時々習う

まず、時々習うとする解釈がある。

一度教えられて覚ったからといって、そのままにしておくのはいけない。

機会があるごとに復習する、これを長い間続けていくと、もっと理解が進んで面白くなる。

このように解釈するものが多い。

 

諸橋轍次先生の『論語の講義』では、

「学んだところを機会ある毎に復習し練習していく」

 

金谷治先生の『論語』では、

「学んでは適当な時期におさらいをする」

 

根本通明先生『論語講義』でも、

「一旦教を受けて、時々打重ね打重ね、教を受けた所にりて、又考へて行つて」

 

「時々習う」の意味を強調している。

時々の積み重ねと考える解釈である。

 

常に繰り返す

「時々」ではなく、「常に」の意味を強調する解釈もある。

 

吉田賢抗先生『論語』ではそう解する。

「学んだことを常に繰り返し繰り返し学んだり、思索している」

 

服部宇之吉先生『国訳論語』では、

「時に之を習ふは、時々刻々に練習して能く熟するに至るを云ふ」

 

消極・積極の問題

「時々」と「常に」と、どちらが良いか。

「時々」ならば折に触れて、もっと言えば「あるとき、ふと思い出したように」復習する。

これは、良いことと思う。

ふと思い出して読み直す場合、そう思わせるような出来事、きっかけが身の回りにあったのだろう。それを活かす。復習のよい機会、今こそ復習に適当なる時期と考えて習う。

このように、積極的に「時々習う」のは良いことである。

 

しかし、「sometimes」の意味が強調されると良くない。

これでは、「時々」の意味が「散発的に」「切れ切れに」なり、消極的になる。

どうかすると「機会が得られるまでは復習しない」という意味になってしまう。

これは問題だ。そのような消極的な姿勢・思考では、復習の機会を、その時々にしっかりつかんでいくことも難しいだろう。

 

こう考えると、積極的な「時々」と「常に」はほぼ同じ意味になる。

この「常に」とは、禅でいうところの「正念相続しょうねんそうぞく」である。すなわち、

「どこにいても、何をしていても、常に論語に照らして物事を考えている。それが『習う』である」

ということであって、積極的「時々」と「常に」は同じ意味だ。

 

「時々」では消極的になりやすい人は、「時々」より「常に」を意識したほうが良い。そのくらいのものだろう。

それなら、消極的になり得ない。

いつも鞄に文庫版の論語が入っている。

机には、分厚い、しっかりとした論語がいつもおいてある。

それで常に習うようにしておくと、消極的に「時々に習う」よりずっと進歩するだろう。

 

孔子の本意は

孔子の本意を知るヒントは『中庸』にあるように思う。

 

『中庸』に「君子はときじくあたる(君子は時中じちゅうす)」とある。

これは、「中庸を得た君子は、一方に偏ることがない。どんなときでも、その時々の最も良いところを得ている」という意味だ。

ここの「時」も、積極的な「時々」でも、「常に」でもどちらでも通じる。

「その時、その時でベストな判断をする」ということは「常にベストな判断をする」と変わらない。

 

中庸の「時中」と同じように解するならば、「時習じしゅう」の解釈はほぼ一定する。

常に積極的な態度で道を求め、機会のあるごとに復習することだ。

 

学問の進み具合は人それぞれ異なる。

机上の学問だけではなく、生活環境や労働環境が違うのだから、経験による学びもそれぞれ異なる。

「ああ、これは論語にある~~~だな」と思い当たるタイミングは全く違う。

その時々で、思い当たるたびに復習の機会とする。

時々によく思い当たるためには、常なる積極姿勢が欠かせない。

孔子の仰る「時習」は、このように考えればよいと思う。

 

 

時勢に応じて

安岡正篤先生は、「時習」を「時勢に応じて習う」と解している。

これも優れた解釈と思う。

論語の教えは、二千年以上前のものである。

当時と現代では、真理に異なる所はないけれども、変わったことも色々ある。

論語にとらわれるあまり、現代に即した考え方・応用ができなくなれば、それこそ論語読みの論語知らずで空理空論に陥る。

それではいけない、だから「時勢に応じて習う」。

 

論語を読むとき、孔子の生きた時代を思いながら読む。これは当然大切。

しかし、現代に照らしながら読むことも欠かせない。

それでこそ、孔子の時代にも現代にも通じる、いわば「不変の真理」も見えてくる。

 

まとめ

「時習」の解釈は色々だが、いい加減な学者が解説したものでなければ、多くの解釈が根っこの部分では大差ないように思う。

どれも優れた解釈であるし、学ぶべきと思う。

色々な解釈を踏まえて、私自身は以下のように解釈している。

 

「教えを受けて、覚るところがある。それを積極的姿勢で、折に触れて復習し深めてゆく。

時々の復習を積み重ねるほど、理解が深まって喜びも大きくなっていく。

理解が深まれば、時勢に照らした読み方もできる。現実生活への応用もできるようになり、さらに嬉しくなってくる。」

 

やりたいこと

私には、明確な人生計画がない。

そういったものを立てたところで、天命と異なれば実現には至らない。

まだ天命の自覚がない。ならば計画はなくて当然であって、極く自然なことと思っている。

 

漠然とした理想はある。

 

住むならば田舎の平屋で、山の麓が良い。

周囲に人がいない、ぽつんとした一軒家が良い。

自動車もほとんど通らず、鳥や虫の声、雨の音、木々が風に吹かれる音などがよく聞こえるのが良い。

 

庭は広いのが良い。家庭菜園にしたい。

自分で食べるためにも野菜を作るが、食べるよりずっと多く作る。

それを食べに、山から鹿や猪が来るようなのが良い。

粟や稗、黍なども作り、実ったら庭に散らかしておく。鳥がやってくるだろう。

 

家は小さくて良い。

書斎、土間、客間があれば良い。

 

書斎は小ぢんまりとしていて、経書の類はしっかり揃っている。雑多な本はない。

そこで日々学び、執筆にも取り組む。

 

客間には囲炉裏があると良い。

年に数回、親族・義弟・朋友などの訪問を受ける。

春。庭の花や山の新緑を眺めながら酒を飲む。山に桜が咲いていると嬉しい。

夏。燦々と照る太陽、山は益々緑が深く、蝉はけたたましく鳴き、庭の鳥も活動的。それで酒を飲む。

秋。山は赤く色づいている。それで飲める。夜は虫の声を聞き、月を眺め、静かに飲みたい。徐々に気温が低くなり、肌にひんやりとくるのを感じながら飲む。秋は酒の肴が豊富だ。

冬。雪が降る。囲炉裏に火を入れ、鉄瓶で酒を温め、雪見しながら飲む。窓は開け放ち、ドテラを着て、体を小さくして飲んでいる。

1~2人の訪問を受け、これがやりたい。

 

 

やや広い道場を設けたい。

そこで学問を講じる。

特に募集することはないが、誰でも受け入れる。

若い人を教えられればなお良い。

 

お金は取らない。住み込みでも良い。

家庭に事情を抱えた子供などは、いつでも駆け込んでくると良い。

そこに行けば、やさしいおじさん(私)やお兄さん(塾生)がいて、話を聞いてくれる、大切なことを教えてくれる。

しかしふわふわ、だらだらしているのでもなく、きちんと礼がある。

 

 

 

こんなことがしたい。

もう10年くらいも前だろうか、弟にこんなことがしたいと話した。

今も変わらない。

 

目標は明確だ。孔子に似ることだ。

こんなことができれば、孔子に少し似るのではないかと思う。

昔から、孔子が理想像だったのかもしれない。

 

そのために、具体的に取り組んでいるわけではない。

強いていえば、ごく短期の学問については計画的に取り組んでいる。

天命の自覚はないが、立命は重く考えている。

儒家と菜食主義

ツイッターで、菜食主義に関する発言を目にすることがある。

菜食主義については、数冊の本を読んだだけで、それほど多くの知識はない。

 

また、私は肉が大して好きなわけではない。

もちろん、食えば美味しいと思う、嫌いでない。

強いて肉を食べなくても困らないという程度で、強いて避けようともせず、菜食主義とは遠い。

 

これまで、菜食主義についてあまり深く考えたことがなかったが、良い機会なのであれこれ考えてみる。

 

儒教に肉は欠かせない

まず、根本的なことだが、儒家は菜食主義を肯定しない。

強いて否定するわけでもないが、菜食の徹底となると否定せざるをえない立場にある。

 

祭礼と肉

儒教において、祭礼はまことに重要なものである。

祭事と政事は表裏一体だ。

どんな祭祀でも、大抵は肉を捧げる。

 

肉を捧げるは毎朝のこと

諸侯ならば毎日、肉を神に捧げた。

礼記玉藻らいきぎょくそう篇に曰く、「朝服して以て食す。特牲三俎とくせいさんそあり、肺を祭る」

まず朝は三俎、すなわち豚・魚・きたひ丸干しの肉)、殊にその日殺した生贄の肺を捧げ、神に朝食を差し上げる。

 

夜も肉を捧げる

夜は牢肉ろうにく(小さく切った肉)を捧げる。

古は「なますは細きを厭わず」で、生肉を調理するにはできるだけ細く切る。

肉は全て、大きく切るのは礼でない。古の大悪党である盗跖とうせきなどは人肉を膾で食ったというが、このとき肉の切り方は大きかったらしい。ここに盗跖の非礼、乱暴さが良く表れている。

全て肉には正しい切り方がある。ゆえに「きりめ正しからざれば食はず」。

牛なら牛、豚なら豚、鹿なら鹿で正しい切り方がある。

 

フグなど分かりやすい。

割正しからざれば、肝臓や卵巣、皮膚などを傷つけ毒が漏れる。

あるいは除去が不十分で毒が残る。大変危険で、割正しきことが不可欠である。

 

これと似たことが、全ての肉にはある。

だから、割を正しく、かつ小さく切ることで、はじめて礼に適って供物となる。

 

なお、貝原益軒かいばらえきけん先生の『養生訓ようじょうくん』にも、肉の大きく切ったものは気をふさぐから避けよとある。

 

大きなお祭りは肉も豊かに

論語八佾はちいつ篇の告朔こくさく餼羊きようのように、朔月の祭りには必ず羊を丸ごと一頭捧げる。

礼記玉藻篇には「朔月には少牢しょうろう」とある。少牢は羊のこと。

少牢を加えて五俎ごそ、すなわち豚・魚・腊の三俎に羊肉と羊の腸・胃を加えて五俎とする。

これで朔月に捧げる肉が整う。

 

神様のお下がりをいただく

祭った後、祭祀に携わった人などに祭肉が分配される。

君公が主催する祭祀であれば、臣は君から祭肉を賜る。

 

これは、君臣の礼を確かめる機会の一つであり、重要なることである。

祭りを行ったにもかかわらず、君から臣へ肉を賜らなければ、それは君臣の礼儀に反する。君が臣を軽んじた、となっても不思議ではない。

 

孔子が魯の大司寇を辞した経緯が好例である。

当時、魯の政治は乱れに乱れた。道徳も乱れた。

孔子は大変失望されて、もはや朝を去るべきかとお悩みになった。

そんなとき、大きなお祭りがあったが、君から臣へ祭肉を賜らなかった。

孔子は「もはやこれまで」と、魯を去ったという。

 

君公から賜った祭肉は「肉を宿めず」でその日の中に食べてしまう。日をまたがず食べるが礼。

自分で先祖などを祭った場合の祭肉は「三日を出さず」で、できるだけ味の変わらないうちに食べるのが礼である。

「三日を出づるときは之を食はず」、三日以上経過したら食べない。

時間が経てば肉は悪くなる。

そもそも、早く食べずに腐敗させたは非礼である。

そのうえ無理に食べて、体を損なってはなお悪い。

 

菜食主義になりえない

神様には肉を捧げる。肉食を否定すると困ったことになる。

菜食主義では肉食を忌む。人間が忌むものを神に捧げることはあり得ない。

人間も好む、良いものであるから捧げるのだ。大きな祭祀では肉を豊富に捧げる。

菜食主義では祭礼が成り立たなくなる。

 

そして、祭肉は神様のお下がりとしてしっかり食べる。

これが当たり前であるから、そもそも原始儒教において菜食主義という概念が生まれる余地はなかったといえる。

 

喪中の肉食

例外的に、喪中は肉食しない。

しかし、これは菜食を尊ぶのではなく、肉食を忌むわけでもない。

 

喪中は何を食べてもうまくない。

うまい肉を食えば、もはや親がそれを食べられないこと、美味しい肉を分かち合えないことなど、色々に悲しく思われる。だから肉を食べない。

肉を遠ざけて食べないのではなく、肉を食べる気がしないから食べないのだ。

 

事実、喪中の肉食は必ずしも禁忌ではなかった。

元来虚弱体質の者、高齢の者、病気に罹った者など、喪中であっても肉を食べて元気をつけることが許された。

いくら喪中とはいえ、ことさら肉食を避けて体を悪くするのは礼でない。

これは『小学』あたりに書いていたように思うが、どこに書いてあったか見つからなかった。記憶を頼ったので、あるいは間違いがあるかもしれない。

 

肉食は体を養う

祭祀に限らず、肉食は良いこととされた。

ただし、論語郷党篇に「肉は多しと雖も、の気に勝たしめず」とある。

「食」は「シ」と読んで常食すなわち米の飯の意。

味の良い肉がたくさんあっても、ご飯より多く食べてはならない。

それを守れば、肉は体を養うに良い。喪中の肉食も然り。

 

『養生訓』にも、穀物も肉も体を養うものだが、穀物の気が肉の気に勝てば長命、肉の気が穀物の気に勝てば短命とある。

儒家の養生の基本であろう。

 

肉は体を養うのだから、これを親に差し上げるのは孝行である。

礼記内則篇には、親に差し上げるたくさんの肉料理について述べてある。

 

孝は儒教において根本的な、非常に重要な徳目である。

己の菜食主義を以て肉食を忌み、肉を以て親の体を養うことをしなければ不孝といえる。

 

肉食を忌み、孝の道に適うとすれば、親が菜食主義者の場合だろう。

親の行いや志をよく見て、それに適うように振る舞うのは孝である。

したがって肉食を忌むことも孝になり得る。

 

動物の命をどうみるか

菜食主義、肉食の否定の背景には、動物愛護の観点があるように思う。

たしかに、家畜の扱いにはひどいものがある。

そもそも、食われるために生まれてくるのは、どうも憐れで仕方がない。

鶏卵にしても、レイヤーの卵は食べる気にならない。一生日の目をみず、死ぬまで卵を産み続ける。

これらに対し、憐れに思うのは仁である。

 

仁の大小

しかし儒家にとって、これは小さな仁である。

小さいとはいえ仁であり尊いが、そのために大きな仁を棄ててはならない。

 

大きな仁とは何か。

治国平天下は大なる仁である。

孝経に曰く、孝は徳の本なり、教への由て生ずる所なり。

孝から儒の教え、すなわち明明徳、親民、止至善という儒家の三綱領も生まれてくる。

 

古来、天下を平けく治めるに祭祀は必要不可欠であった。

祭祀が適切に行われるならば仁政である。

祭祀に肉を捧げ、仁政を布くために、その必要上肉食を肯定するならば、それは動物の命を軽んじているのではないし、不仁でもない。

 

先祖を祭るに肉を用いる。

親を養うにも肉を用いる。

孝にも色々だが、その一部分は肉食と密接な関係にある。

祭祀ならばなおさらだ。

 

したがって、肉食を否定して動物を愛護するは小さな仁、肉食を肯定して家庭内の小道徳から治国平天下の大道徳へと推演するは大きな仁である。

 

命は平等ではない

親のため、先祖のため、祭祀のためといって、他の生き物の命を奪うのは不仁ではないか、命は平等ではないか。

そんな意見もあるかもしれないが、儒家はそう考えない。命は平等ではない。

 

兼愛では道徳が崩壊する

同じ人間であれば、なんでもかんでも全くの平等と考えるのは、儒家ではなく墨家ぼっかの思想である。

墨家は、身近な人も、赤の他人も等しく愛すべき(兼愛けんあい)であり、君公や親や兄弟などをことさらに愛することを差別的であり偏愛であると考える。

 

儒家はそうではない。身近な人と赤の他人の命は平等ではない。

もちろん、赤の他人の命がどうでも良いというのではない。自分と関係あろうと、なかろうと、命が尊いのは当然のことである。

ただ、身近な命は一層尊い、と考える。

 

全ての人間を全く平等に愛すればどうなるか。

道徳は成り立たなくなる。

 

平等でないところに義がある

親子、君臣などの関係において、強い仁愛で結ばれてこそ義や礼も生まれてくる。

 

親と赤の他人が全くの平等では、義はおかしくなる。

赤の他人を助けるために親を捨てることも成り立ってしまう。

 

儒家ではそれを認めない。

親の存命中は、互いに命をかける友を作ってはならないとする。

友への義によって命をかけ、親を残して死んだり、親に累を及ぼすは大なる不孝である。

儒家が基本的に遊侠・男伊達を嫌う理由もここにある。

 

平等でないところに礼がある

礼も同じ。

孝とは、子として親に礼を尽くすことだ。

忠とは、臣として君に礼を尽くすことだ。

 

兼愛を窮めてゆくと、親も君も他人も平等になる。

もっと言えば、自分も親も、家臣も君主も平等になってしまう。

これでは礼儀が成り立つはずもない。

 

儒教の建て前

自分に近しい人の命と、赤の他人の命を比べても平等ではない。

ましてや、人間と動物の命が平等であるわけがない。

それでよいのだ。

 

儒教は人間を本位とする

儒教は、人間世界を軸に教えを立てている。

天地とか、宇宙とか、大きなものから見れば人間など非常に小さな存在である。

しかし、人間として生まれ、人間世界に生きていくならば、人間を尊重すべきだ。

人間を本位として道を立て教えを立てるべきだ。

人世を尊重して教える、これが儒教の、聖人の教えの建て前である。

 

だから、儒教では天国とか極楽を説かない。

子路から「死とは、どうあるべきでござりましょう」と問われたとき、孔子は「そんなことより、生を考えよ」と答えられた。

これが儒家の基本的な態度である。

 

惻隠と動物愛護

動物を愛護するにも、人世を尊重し、人間への仁愛を推演して動物愛護を考えるべきだ。

それでこそ、人間以外の命に対して可哀そうに思う真心もでてくる。この真心を惻隠そくいんという。

孟子曰く、惻隠の心は仁の端なり。惻隠は仁より生じる。惻隠を求めることは仁を求めることにほかならない。

 

君子は台所を避ける

礼記玉藻篇に曰く、「君子は包厨ほうちゅうから遠ざく」

君子は台所に入らない。なぜか。

 

台所では生き物を殺して肉を得る。

それを神様に捧げる、あるいは料理に使う。

 

そのとき、生き物はやはり苦しみ悲しむ。

悲し気な声をあげることもある。

苦しさにうめくこともある。

断末魔の叫びも起こる。

 

その様子を見たり、その声を聞いたりしては、とても肉を食べる気になれない。

これを孟子は、

「其の生を見ては、其の死を見るに忍びず。其の声を聞きては、其の肉を食ふに忍びず」

といった。

 

その死を見て、声を聞き、さらに肉を食うならば、惻隠の心を殺して肉を食べているか、そもそも惻隠の心を持っていないことになる。

それは不仁であるから、惻隠の心を全うするべく包厨から遠ざかる。これを、

「凡そ血気あるの類、づからころさず」

という。

血気あるの類とは、血の通う生き物全般、それを自ら殺すことはない。「殺」から遠ざかる。

 

不食とは

不食というのもこれに基づく。すなわち、

  1. 殺すところを見たら食わない。
  2. 殺すと聞いたならば食わない。
  3. 自分で飼っているものは食わない。
  4. 自分を手厚くもてなすために殺されたものは食わない。

を四不食という。

4の解釈には戸惑っている。自分をもてなしてくれるものを食べないのは非礼ではないか。これは今後じっくり考えたい。

 

また、四不食も出典を探し出せず、儒教だったか道教だったか、あるいはそのほかだったか定かでない。

ただ、どちらであってもあまり問題にならないと思う。

 

中庸はどこにあるか

孟子の教えや四不食を考えると、儒教は肉食を肯定しつつも、生き物の命を慈しむ心もある。

儒教的中庸の道をここに見る。

 

動物を愛するあまり、人間と動物の命を混同したり、どうかすると人間の命を低く見る。

そんなものは小なる仁に囚われているのであって、もはや仁ではない。

もちろん中庸でもない。

 

動物愛護の観点を持たず、奔放に肉食するならば、時に惻隠を失う。

仁ではないし、中庸でもありえない。

 

丁度よきところ、中庸はどこか。

 

肉食のポジティブな面は変に疑うことなくしっかりと受け入れ、肉食であるべき場合には大いに肉食してよい。

そのうえで、惻隠の心を失わず、憐れむべきは憐れむ。四不食は守るし、特に必要なければ肉は食わない。

 

菜食絶対とは思わないし、肉食大歓迎でもない。

他人が肉食でも、菜食でも、正しく考え実践しているならばとやかく言う必要もない。

 

私のインドの友人はビーガンである。それは結構なことと思う。

私の兄は肉があればそれで満足というくらい、肉が好きである。それも結構である。

 

動物愛護といい、菜食主義といい、SDGsといい、その主張するところは誠に結構なものである。

しかしなんとなく不気味に感じることも多い。

行き過ぎた主張に陥りやすいからだろう。

それを唯一の正論のように振りかざせば、反発する人も大勢いて当然だ。

 

自分なりによく考えて、自分はこう思う、正しくはこうあるべきという所をつかんで、自分なりに実践すればいいのではないか。

孔子の教えでは、肉食は良いことである。孔子ご自身も肉を召し上がった。

私にはそれだけで十分だ。

 

長々と書いてきて、結局こんな風に思った。

克己復礼にみる孔門の気骨

論語の有名な言葉に「克己復礼こっきふくれい」がある。

論語を読んだことがない人でも、この言葉は聞いたことがあるのではないか。

克己し、復礼し、仁に至る。

最近、このことをあれこれ考えていた。

自分なりに結論を得たので記事にする。

顔淵の問い

論語顔淵篇の冒頭で、顔淵がんえん孔子に問う。

「どうすれば仁になれるでしょうか」

孔子は、

「己にち、礼にかえることだ」

と仰った。

 

入門当初の問答か

亜聖と呼ばれた顔淵である。孔門で仁を得た人だ。

その顔淵が仁を問うている。

仁を得た後、さらに問うことはないだろう。

したがって、これは顔淵が入門当初の問答であるとする見方もある。

服部宇之吉先生はそう解釈している。

 

私も、その解釈が良いと思う。

瑞々しく感じられるし、自然にも思える。

新たに入門してきた素直で聡明な若者に対して、聡明が素直に勝たぬよう、聡明を抑えるように「仁は己にあるのだ」と教えた。

孔子の指導方法から考えても、これが自然に思える。

 

克己とは

さて、克己。

克己とは、己に克つことである。

この「己」を深掘りすると克己がよくわかる。

 

己とは

根本先生は「己は十二支の巳であり、また身である」と教えている。

色々調べて見たが、「己と巳」を通用する出典が分からない。

大漢和辞典には「己と已と巳は全くの別物」と書いている。

また「巳と身」の通用も不明だ。

 

ただ、「己と身」は確かに通用する。広韻こういんには「己とは身なり」とある。

また大和言葉で解しても、こういう通用は十分に成り立つ。

例えば「カミ」は「神」「髪」「上」などを通用する。

「学ぶ」は「真似ぶ」。初学者が自由に学ぶことを否定し、謙虚に真似よと教える。これは日本的な伝統的な教育方法である。

「魂」と「霊」など、特に面白い。これは「魂(たましひ)」を「たまひし」と捉えることによる。

古く、霊をヒと読んだ。これを知っておくと日本の伝統思想が色々見えてくる。

 

「むすひ(結び)」もそうだ。「」である。

人と人が結び合う時、金銭など利害による結びつきならば嘘だ。のむすひが本物だ。

また「むすひ」は「」ともいう。男女のによって、あらたなが生まれる。古来日本人は、男女が子を設けることをの結す霊によって「す」と捉えた。

できちゃった婚を恥じる風潮が根強いのも、ここに起因する。

婚前でも明確な意志があり、霊と霊のむすひで子を設けるならば、それは産す霊であって極くめでたい。

しかし、何かの間違いで「図らずも」子ができてしまった場合、そこに霊と霊のむすひはない。大変な間違いを犯したと、多くの人が後悔する。

できちゃった婚とは、むすひがないことを後悔し、恥じるのである。

 

私は日本神話も随分勉強したが、言霊ことだまというのは本当に面白いし、美しい。

一昔前に、「美しい国ニッポン」という言葉が流行ったが、日本の美しさはこういうところにあると思う。

他にも色々あるが、かなり脱線した。また別の機会にお話しする。

ともかく、このような通用をもとに考えても「己と身」は通用する。

 

克己は克身なり

したがって、「克己」は「克身」でもある。

むしろ「克身」で考えたほうが分かりやすい。

「克己」すなわち「己に克つ」と考えると、「己」のイメージが漠然としているため分かりにくい。身体的にも、精神的にも、全てひっくるめて「己」のようなイメージがある。

一方、「身」はカラダである。精神の入れ物としての「身」である。

克己とは克身、身に克つことを意味する。

荘子などでは「無己」というが、これも同じ。「無身」ということだ。

 

欲望は身に起こる

本来、精神に私欲はない。私欲は身に起こる。

欲望を色々挙げてみるとよくわかる。

 

・美しいものを見たい→目に起こる欲望

・面白いことを聞きたい→耳に起こる欲望

・良いニオイを嗅ぎたい→鼻に起こる欲望

・美味しいものを味わいたい→舌に起こる欲望

・寒さや暑さを避けたい→皮膚に起こる欲望

・休みたい→身の疲れた部分に起こる欲望

 

といったように、欲望は全て身の上に起こる。

克身とは、この身の欲望に克つことを意味する。

身に克ち、身の欲望に動かされない人、荘子風には身の無い人、聖人とはこのような人をいう。

 

仁とは天稟の精神

身に欲望がなくなれば、精神だけが残る。

人のはじめは性もと善、本来天からけた精神、つまり天稟てんぴんの精神には欲がない。欲が起こることもない。欲に動かされることもない。

なぜ天稟の精神が曇ってしまうのか。身の欲に曇らされるからである。本来伸びるべき天稟の精神が発達を阻害される。

そこで、克己・克身で身の欲を去れば、精神が本来の天稟を存分に発揮してゆける。曇りなく発揮される天稟のまっさらな精神、これが仁である。

 

孔子は、仁は誰でも持っている、誰でも仁になれると仰った。それは全てこの意味であろう。

身の欲を去り、これまで欲望に埋もれていた仁を掬い上げること、「仁を得る」とはこのことだと私は思う。

 

復礼とは

孔子は顔淵に「克己し復礼すれば仁になれる」と教える。

「克己で仁になれる」とは言わずに「克己し復礼すれば仁になれる」と教えている。

私はこれをややこしく感じたが、今思えばそれほど難しいことでもない。

 

これは、やはり顔淵入門当初のことであろう。孔子の教え方がいかにも丁寧に思える。

「克己」と「復礼」の密接な関係にあることを教えた。

 

礼は自ら復るもの

「復礼」とは礼に復ること。礼を失ったところから、再び礼に復ることをいう。

 

礼というものは自ら実践するものである。

社会の中で礼儀を行うことを考えると、礼儀は社会から実践させられるものに思えるが、そうではない。そもそも、礼は仁から起こるものであって、ごく内面的な徳である。礼とは自分でむ道である。

したがって、「復礼」「礼に復る」というのも、「自ら礼に復る」でなければならない。

自分がやるかどうかであって、人は関係ない。だから孔子は顔淵に、

 

仁を為すは己に由る、人に由らんや

(礼に復って仁をなすには、身自らの努力によってやることだ。人にやらされるものではない)

 

と仰った。

 

復礼はどうするか

素直な顔淵は、孔子の「克己せよ復礼せよ」の教えをそのまま受け入れる。受け入れた上でさらに問うた。

「具体的にはどうすればよいでしょうか」

 

これはつまり、

「身に克って欲望を去り、礼に復るには、具体的にどうすればよいでしょうか」

との問いである。

身に克つべきことは分かった、それで礼に復ることも分かった。

しかし、礼に復るには具体的にどうすればよいかわかりませぬ、との問いである。

 

孔子は、以下のように具体的・実践的に教える。

  • 礼儀に外れたものは視るな
  • 礼儀に外れたことは聞くな
  • 礼儀に外れたことは言うな
  • 礼儀に外れた所作はするな

 

礼儀に外れたものを視る、聞く、言う、礼儀に外れた所作をする。

これは、身に起こった欲望によって礼に外れるのである。

そこから礼儀に復るのが復礼である。

身の欲望から、礼儀に外れたものを視たり聞いたりしていた。天稟の精神、仁を曇らせた。

それを視ず聴かずに改め、不断の心がけとする。

視ても目を留めない、聞いても承知しない。これも復礼である。

 

礼で防ぐ

礼と防は通用する場合がある。どちらも「おきて」「法」「そなえ」といった意味を持つ。

復礼は、特に防の意味が大きい。悪事や無礼を働かないように礼で防ぐ。つまり予防の意味である。

 

礼による防と、法による防は違う。法律にも抑制・予防効果が期待できるが、礼に比べると効果は薄い。

法律で縛れば、人民は『法律の範囲内なら大丈夫』と考え、法律違反でなければ悪事も恥じなくなる。何でもやる。しかし礼で治めるならば、人民は恥を知って正しくあるように心がける。

このように為政篇で孔子が仰ったのも、礼の予防効果にほかならない。

法律は、悪事をなしたものを戒め、さらなる悪行を防ぐ意味が大きい。礼はその前で防ぐ。

 

身の欲望で礼に外れた。

礼に復るよう努める。さらに、再び欲や邪が出るのをあらかじめ防ぐ。

つまり、

 

克己の失敗

→非礼に陥る

→礼に復る(身に克つ)

→仁を得る

 

という流れである。

克己、復礼、そして仁とは、こういうことである。

 

 

孔門の気骨

これを聞いて、顔淵は

「私は不敏ですが、ぜひ先生の仰ることを守っていきましょう」

と決意された。ひょっとすると、これが顔子の出発点だったのかもしれない、などと考えると武者震いがする。

 

克己復礼は、仁に至るための具体的手段といえる。

実践の手引きも十分である。

そして、非常に単純である。

非礼は視るな、聴くな、言うな。所作も非礼はいかぬ。

 

復礼の厳しさ

しかし、単純だから簡単というわけではない。

ほとんどの人が、このような教えとは無縁で生きている。

非礼に馴れてしまっている。

 

現代社会は、非礼で満ち溢れている。

ツイッターも、非礼で満ち溢れている。

一時期、非礼を視ず、聴かず、言わずのためにツイッターを辞めようかと本気で考えたし、今も辞めようかと思うのはこのためである。

非礼にどっぷりと浸かり、我が身の欲を引き起こして非礼に陥る。

そして仁から遠ざかっているのではないかと、怖くなる。

 

非礼から目を背けぬ

もっとも、克己復礼についてじっくり考えたことで、このような気分はかなり和らいだ。

非礼は視ても目を留めぬ、非礼は聞いても承知せぬ、これも復礼である。

全く非礼のない、いわば無菌空間で徳を養うのが正しいのかどうか。

非礼だらけの空間でこそ養える徳もあるのではないか。

 

孔子の生きた時代も、非礼にあふれていた。親子や君臣で殺し合う時代であった。

現代日本など比較にならないくらい、非礼にあふれた時代といえる。

孔子やお弟子たちは、そんな時代に、非礼から目を背けることなく道を学んだ。

非礼から目を背けて「非礼を視ず」ではない。非礼を直視しながら「非礼を視ず」であった。

 

私は、孔子の仰った「克己復礼」の四文字に、孔門の気骨を感じる。

先日ツイッターで、学問上の気づきで大変感動した、とつぶやいた。

「克己復礼」に孔門の気骨を知り、克己復礼とはこんなに素晴らしい教えであったか、ようやく気づいた、孔子の教えに少し近づいたかもしれない、そんな風に思い恍惚とした。

 

ツイッターの真価とは

私も、気骨のある学問をしたい。

結局、礼は自ら履むものであるし、自分次第だ。

非礼に満ち溢れている空間でも、礼に適った空間でも、そこで礼を履むのは自分次第である。

礼を失い、仁から遠ざかるのをツイッターのせいにするのは間違いではないか。

それは結局、自分の至らなさだと思うのだ。

 

ただし、非常に辛いのも事実。

非礼にまみれた場所で、非礼を視ず聴かず言わず、これはとても辛い。

吐き気を催すことも多い。それを飲みこんでゆくのが辛い。

 

この辛さは、復礼の厳しさだと思って耐えるだけだ。

そのように考えると、ツイッターも価値がある。

それ以上の価値はない。

牛のけつ

儒学をやっていると、なにぶん古い時代のことであるから、色々なことについて「果たしてそれは事実であったか」という問題が出てくる。

例えば、しゅんが実在したかどうかを問題にする人がいる。

このようなものは儒学の本質にはあまり関係のないことだが、とかく問題にしたがる人がいる。

以前、私もこれを意識しないではなかった。

そういう人を「牛のけつ」という。

 

明治の禅僧に南隠なんいんという人がいる。

公田連太郎先生はこの人に禅を学ばれた。

公田先生は若いころ、漢学を根本通明先生に、禅を南隠禅師に学ばれた。終生この二人を師と仰ぎ、晩年に至っても先生の書斎には根本先生・南隠禅師の写真が掲げてあったという。

 

この南隠禅師に面白い話がある。

あるとき、仏教学者が南隠禅師を訪ね、日ごろの研究の成果をしゃべりまくった。

特に、達磨だるま慧可えかのことを大いに喋った。

その学者が言うには、

「私の最新の研究によれば、慧可の断臂の話は嘘です。そういえば、達磨という人だって実在したかどうか甚だ疑わしい。禅というのは本当かどうかわからない物事が多く基礎になっていて、とてもあやふやなものです」

学者は、自分の研究で分かったことをなお喋りまくり、禅がいかにあやふやなものかをまくし立てる。

南隠禅師は「うん、うん」と感心したように聞いている。

 

次第に南隠禅師はうんざりした表情になってきた。学者も、偉い禅僧の気分を損ねることを恐れ、適当に切り上げて辞去した。

別れ際、南隠禅師は学者に言った。

「あんたは、牛のけつじゃな」

 

その場では聞き流して去ったが、学者には南隠禅師の言う意味がわからない。

色々調べてみても、「牛のけつ」がなにを意味しているのか皆目分からない。

鶏口牛後けいこうぎゅうごという言葉もある。「牛のけつ」は良い意味ではないのだろう。しかし本当のところはどうか、わからない。

 

後日、学者は再び南隠禅師を訪ねた。

「先日、禅師は私に『牛のけつ』と仰いましたが、どのような意味かわかりません。お教えいただけませんか」

「学者は頭が固くていかんな。牛は何と鳴く?」

「モー…ですか」

「そうじゃ。で、けつはお尻じゃな」

「・・・」

「モウのお尻。物知り。わしはあんたを物知りじゃと言ったんじゃ」

南隠禅師は大笑いしたが、学者は「なんだそんなことか、苦労して考えて馬鹿をみた」と、開いた口が塞がらない様子。

 

南隠禅師は大笑い、学者はあきれた。

これは、含蓄ある良い話と思う。

 

知識は全く無価値ではないし、面白いところもある。

クイズ番組などが好まれるのも、知識が面白いものだからである。

単に面白いだけで、本質的価値を高めるものではない。

しかし、物を色々知っていると、それを偉いことのように錯覚してしまう。

何も偉くはない、いくら知識があっても、そんなものは牛のけつくらいのもんじゃ、どうでもよいし、ありがたがるなんて馬鹿なことじゃと、南隠禅師は学者の物知りを皮肉ったわけだ。

 

仏教に対して多くの知識がある。達磨は実在したかどうか、慧可は本当に腕を自ら斬ったかどうか、この是非を論じる豊富な知識がある。

儒学についてもそう。舜は実在したかどうか、孔子が若いころ老子に会ったのは事実かどうか、顔子は何歳で亡くなったか、などをあれこれ論じる知識がある。

所詮はお遊びのようなものだ。退屈まぎれにはいいが、それ以上の価値はない。

 

達磨が実在したかどうか、慧可が腕を斬ったかどうか、そんなものは禅の本質・本義に関係のないことだ。達磨が実在の人物であれば禅の価値が高まる、架空の人物であれば禅の価値が損なわれる、そんなものではない。

舜も同じである。実在でも架空でもどちらでもよい。孔子が舜を実在の人物として教えられたのだから、それでよい。舜が架空の人物であったところで、孔子の教えが価値を失うものではない。

 

私は以前、「舜が実在の人物でないとすれば、舜の実在を根拠にした諸々の教えがあやふやになる。だから実在・架空はいっそのこと問題にせぬがよい」と考えていた。

しかし、これはある意味実在・架空を問題にしているのだから、「牛のけつ」的誤りといえる。

実在でも架空でも、どちらでも大して問題にならないのが孔子の教えだろうと、考え方を改めた。

 

そういうものを論じる知識があるのは良い。しかし、知識には知識以上の価値はない。

本質的価値を左右するものではない。知識を自慢げに披露するなどは滑稽でしかない。

ツイッターなどで、どうでもよいことを大袈裟に語る人をよく見るが、あれは滑稽を通り越して憐れである。

それを南隠禅師は「牛のけつ」と皮肉った。

 

牛のけつにはなりたくないですね。