周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

根本通明先生と剣術のはなし

老子、根本先生、剣術、刀剣、森鴎外、島田虎之助。そういうものを思うままに、ごちゃごちゃと話してみたい。

 

 

老子第六十九章のこと

老子は争いを忌む。自分から仕掛けない。

相手から当たってきて、やむを得ず争う。やむを得ず争う中にも、自分からはなるべく仕掛けず、相手の出方によって上手く対処しやっつける。

「行いて行く無し、執るに兵無し」とは、老子第六十九章にある言葉。敵に応じてこちらも進み、兵(武器)を執ることがあるが、どこまでも積極的な気分がない。

 

根本先生曰く

これについて根本先生曰く、

撃剣も此の通りだ。此方から無理に撃てば必ず過つ。敵の動く処を待つて居つて、其敵が動いて出る処へ吾れ知らずに、此方の撃ちが撃ち込んで往く。撃ち込まうといふ気があれば、却つて勝てない。

国家間の戦争でも、個人間の争いも同じというわけ。

 

先生の鍛錬

先生は戊辰戦争の折、大刀引提げ戦場を疾駆、軍功第一等賞を賜った。流石に武の心得があったものと思われる。

武術に関して、先生はこう話す。

年少時代の運動は武術であつた。秋田の明徳館といふ学校では文武共に教へたので、私は剣術・柔術・槍術など随分熱心にやつたもので、人にまけなかつた。

学校のみならず、当時の士族たるものが撃剣を使ふには、朝未明に稽古したものだ。士族は誰も皆左様であつたとはいかぬ。百人中で其通り毎朝稽古をして上手になるものは一人か二人しかゐなかつた。

 

私が知っているのはこれくらいで、具体的にどのような稽古をしたのか、またどれくらいの腕前であったのか、詳しいことは分からない。

しかし、相当な腕前であったことは確からしい。

 

根本先生の刀剣趣味

根本先生は刀剣が大変お好きであった。或る本に、こうある。

(根本先生は)稀代の刀剣好きで、月俸の大半は悉く之に費やすと云ふことだ。それで是迄に集めた刀剣も中々尠くない。暇さへあれば始終之ればかりいぢくつて、自分が写真など撮る時は二本も三本も佩用して写すと云ふ塩梅で、宛然たる古武士である。

 

書生に刀を贈る

しかし、集めた刀剣への執着はさほどでもなかったらしい。別の本に曰く、

根本通明翁、最も古物を愛す。刀剣類を処狭き迄居室に並べ立つ。

書生あり、日清戦役の際従軍せんとし、翁の夥しく刀剣を蓄ふを聞き、馳せて翁を訪ひ、不用の一刀を無心す。

翁、其の書生の熱心に感じ、志津三郎兼氏の名刀一口を与ふ。兼氏の銘刀なるは予て彼も之を聞知せるところ、あまりに銘刀に過ぐるの故を以ていささか躊躇す。

翁、怒気を帯びて曰く、

「銘刀にあらざれば其用を為すべからず、行け!行け!行きて其の斬味を試みよ」

と。

書生倉皇謝辞を述べ、意気昂然として門外に去る。

 

鴎外に刀を贈る

また根本先生は森鴎外と交流があったようで、鴎外が小倉に赴任する際にも刀を贈っている。

 

北九州市文化財を守る会」の会報に、こんな記事がある。

小倉師団に赴任する鴎外森林太郎が東京を発ったのは、明治三十二年六月十六日であった。「小倉日記」にある。

「午後六時新橋を発す。根本通明氏餞するに藤四郎吉光の短刀を以てす」

この日記一巻が、不遇な小倉時代というものを、鴎外自身いかにきびしくとらえていたかが知られるのは、巻頭に凄愴なこの一節があるためである。

私は鴎外のことをよく知らないのだが、ここにある通り鴎外の小倉行きは左遷であったという。それを励ますために、根本先生は刀を贈ったのだろうか。

根本先生の弟子である公田連太郎先生は、失意の白秋を励ましたことで知られる。

根本先生は陽性、公田先生は陰性で大変違う味わいだが、やはり師弟である。

 

根本先生と剣術

森於菟(鴎外の息子)の随筆にも、こんな話がある。

父が小倉に転任した際には先生はわざわざたずねて来て吉光の短刀を餞別に贈られた。先生が庭の桜樹の枝にからまつた蛇を名刀を振つて切つた所を、小さい私が竹垣の隙から覗いた記憶が鮮明である。

 

蛇を斬る

この蛇を斬ったというのが、抜き打ちに切ったのか、それとも普通に切ったのか分からないが、簡単なことではない。

「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という。桜は傷に弱いのでやたらと剪定してはいけない。枝に絡まった蛇を切るには、桜には傷をつけず、蛇の胴だけを切っ先で斬る必要がある。

私は竹しか切ったことがない。竹を斬るのは簡単だ。当たり前に刀を振れば斬れる。

しかし、もし竹に巻き付いている蛇を、竹は斬らずに蛇だけ斬れと言われたら、うまくできるかわからない。難しいのではないかと思う。

胴の太い大蛇をちょっと斬って追っ払うならまだしも、日本の蛇は大抵小さなものばかりで、胴回りは極く細い。森於菟の文章から察するに、一度で、それもサッと斬り捨てたのだろう。

これは、心得がなければできることではない。

 

島田虎之助のこと

このような話をみると、根本先生は相当に武術を練ったのではないかと思う。

それが、冒頭の「撃ち込まうといふ気があれば、却つて勝てない」の言葉になったのではないか。

剣の腕前が上がり、高い境地に達すると、自然とこういう考え方になるようだ。

 

幕末の剣士に、島田虎之助という人がいる。直心影流の人である。勝海舟直心影流の免許皆伝だが、勝は島田虎之助の弟子であった。

島田という人がどれだけ強かったか、また立派であったか、彼の平生の話ぶりからよく分かる。彼常に曰く、

剣術の要処は人を撃つに非ず、一点の勝心もなく、静かなること山の如く、疾きこと電の如く、物と争はず、相手の精神を奪つて我剣上に置けば、敵は自然と畏縮して自由に撃つことが出来るのである。然るに精力を只勝たん、負けまい、などの争闘の間に置いて利不利を念とする様では到底真の術を得ることは出来ないのである。

されば剣道に君子と小人との別がある。希くば世の剣客をして皆孔孟の書を熟読させて、その心理を剣道に寓せしむれば、外に何の教法もあつたものではない。

 

この言葉など、根本先生の仰ることと全く同じだ。老子の教えそのままで、また孔子の教えにも通じるところである。

老子講義を読み、ああ、島田虎之助の言っていたことと同じだ、根本先生の剣術もそうであったかと、感慨深かった。このようなことが言える人にして、剣術が弱いはずがないのだ。

 

思うままに書いたのでまとまりのない文章になったが、根本通明という人のことを、少しでも知ってもらえれば嬉しく思います。

 

食・兵・信の軽重に就いて

顔淵篇の章句について質問があった。

論語の章句の中でも疑問を抱きやすい所であると思う。私自身、考えを整理するのに良い機会でもある。

そこで、DMで個別にお答えするのではなく、記事にします。

 

1.書き下し文と大意

問題の章句は以下の通り。

子貢、政を問ふ。子曰く、食を足し、兵を足し、民をして信ぜしむ。子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、此の三者に於いて何をか先にせん。曰く、兵を去らん。子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、此の二者に於いて何をか先にせん。曰く、食を去らん。古へより、皆死有り。民、信ぜざれば立たず。

 

1-1.大意

子貢が政治(に必要なこと)を問うた。

孔子がお答えになる。

「食と兵(軍備)を十分に備えること、そして信(政治と民との信頼関係)を築くことである」

子貢がまた問う。

「もし三つのうち、やむを得ず一つを棄てるならばどれを先にすべきでしょうか」

孔子曰く「兵である」。

子貢がさらに問う。

「では食・信のうち、やむを得ずどちらかを棄てるならば…」

孔子曰く、

「食である。昔から人間は死ぬと決まっている。信がなければ、民は立ってゆくことができない」

 

1-2.質問の内容

質問の内容をざっくりまとめると、

「まず兵を棄てる、これは分かる。しかし食を棄てて信を取る、これが分からない。たとえ信を棄てても、食を取り、民を生かすのが仁ではないのか」

ということだった。

 

1-3.好生は政治の根本

まず兵を棄てるのは分かりやすい。食と信がなければ、いくら兵があっても国は立ち行かない。

では「食を棄て信を取る」はどうか。食がなければ人は生きていけない。餓死者も出るに違いない。それでも敢えて信を取るのか。信を取り、民を死なせて仁といえるのか。

 

たしかに「民を生かすが仁」というのは正しい。

政治は民を生かすことを好み、殺すことを嫌う。これは儒教における政治の極く根本的な部分であって、孔子家語には「好生」という篇があるくらいだ。

 

1-4.大切な点

恐らく、質問者は「古へより、皆死有り」を読み違えたのではないか。この言葉は、命を軽んじているようにも聞こえる。「食を棄てる」というより「民を棄てる」という風に読んでしまう。すると、孔子の言葉が分からなくなる。

孔子が仰るのは「食も兵も大事だが、やむを得ざる場合には兵を棄て食を棄てる」であって、兵や食を軽んずるものではない。ましてや民を棄てるものではない。

 

2.孔子の考え

孔子の考えを汲むには、食と信の軽重を明らかにする必要がある。

そのためには、「食があって信がない政治」を考えてみるのがよいと思う。

 

食料政策に力を入れている。しかし信が一切ない。

そういう政治であれば、国はどうなるだろう。

 

2-1信がなければ経済は成り立たない

ざっくりと経済を考えるだけでも、信の重さがよく分かる。信がなければ経済は立ち行かない。

需給バランスは経済の重要な構成要素だが、需給は貨幣によって仲介する。貨幣の価値を裏付けるのは、国の保証である。さらに保証を裏付けるのは国の信用である。

政治が全く信を棄てるならば、その国に信用はない。信用のない国の保証など何の役にも立たない。貨幣の価値はなくなり、経済は全く立ち行かなくなる。

 

2-2.農本主義と資本主義

もちろん、孔子の時代と現代では経済が大きく異なる。孔子の時代は農本主義、現代は資本主義。

しかし、信がなければ立ち行かない点ではどちらも同じい。

むしろ農本主義は資本主義より深刻だろう。

資本主義であれば、必ずしも食に注力せずともよい。食の不足は資力でカバーすることもできる。

農本主義は、農業でほぼ全て決まってしまう。農業政策は極めて重要である。

ただし、これは「信を棄てても食を取れば良い」ということではない。根本的な部分ではやはり「信」の問題になってくる。「政治が農業を大切にしている」という信がなければならない。この信なくしては立ち行かない。

 

2-3農業にも信

国語など読むと、このことがよく分かる。

宣王が神田の耕作を怠った時、虢公はこのように戒めた。

「農業は民の大事です。天帝への供物も、民もここから繁殖します。すべては農業によって供給され、人々の親睦も、財貨・食料の充実も農業に依り、質実剛健な気風も農業から培われます」

 

この言葉を表面だけ見ると、食料政策に力を入れなさい、という戒めにもみえる。ところが単にそれだけであれば、王が自ら神田を耕す必要はない。王自身の意識や務めはどうでも、臣下に命じて農民を監督させ「耕せ作れ」の一点張りでやればよい。

しかしそれでは駄目なのだ。王が農業を重んじているという信が重要であって、だからこそ王は礼法に則って祭祀を執り行う。

簡単に述べると、祭祀の様子は以下の通り。

 

陰陽の変化に合わせて正しい日を選び、司徒に命じて公卿百官庶民を戒め、司空に命じて神田に祭壇を作らせる。

王は斎宮に入って三日間の斎戒の後、地に酒を注ぎ、農具を祭り、百官庶民と共に神田へ行く。

礼法に則り、王が神田に鋤を入れる。これに続いて臣下も耕す。位の高いものから順々に、やはり作法に則って鋤を入れてゆく。その後庶民が耕し、全部で千畝を耕す。

耕作が終わると、王、卿大夫、庶民ら皆で食事をとる。

その後ようやく、后稷(農業の長官)が戒めの言葉を垂れる。

「今回祭祀を執り行ったから、今後これこれこういう気候になって、農業の時期がくるだろう。そしたら、しっかり農業に励みなさい。皆の精励によって、国は豊になる。

農業は重要なことであるから、政治の方でもこれだけのことをやった。だからお前たちも怠ってはいけない。怠る者は刑罰に処するであろう」

これで庶民は、政治が農業を大切にしていることを知り、信が芽生える。

昔の人は、神に対する信仰心が極めて篤かった。「王様が農業のことをしっかり考えて、神様もしっかりお祀りしてくださる。だから農業はうまくいくし国は豊かになる」という確固たる信があった。

政治にこの信があって、はじめて庶民は農業に怠ることなく励み、経済も回ってゆく。

 

2-4.信を棄てれば混乱を極める

古代中国で、農業を中心とした経済が成り立つためには、政治が農業を重んじているという信が必要であった。この信を棄ててしまえば、いかに食を図ったところでうまくいかない。

そもそも信を棄てた国の為政者が、国民のために、まともに食料政策に取り組むとは思えない。上下一致で農業に取り組むことができず、生産性は低下する。政治のほうでは「耕せ作れ」の一点張りで、税もしっかりとろうとする。庶民の生活は苦しく、土地を棄てて逃げ出す者も大勢出る。耕す者のいない荒れ地が増える。食料事情はどんどん悪化していく。

 

食料問題だけではない。信を棄てれば犯罪も多発する。

政治に信がないのだから、国の定める法律や制度を誰も信用しない。食うに困れば盗賊にもなる。警察組織が取り締まってくれるという信用もない。人々は自衛するほかなくなる。

初め自衛目的であった集団が力をつけ、地域を実効支配するようになる。いわゆる軍閥であり、群雄割拠の時代が幕を開ける。歴史が大きく変わるとき、中国ではこういうことがいくらもある。

その他色々なことについて考えてみても、政治に信がなければ国は全く立ち行かなくなる。もはや国の体を為さなくなる。

食うためなら、生き延びるためなら何でもありの社会になる。弱肉強食の野蛮な世界が現出する。政治に対する信だけではなく、地域への信や個人間での信も危うくなる。

こうなると、民は立ってゆかれない。一刻だって安心して暮らせない。こんな悲惨なことはない。食を棄てるどころの話ではない。

 

2-5.立て直しも困難

立て直しも困難だろう。立て直しを図ったところで、民が政治を信用していないのだから、何事にも協力しない。むしろ反発する。

外圧を受けたり、国内で運動が起こったりして現政権が転覆、それで国が立ち直ることはある。信のない政治をやっつけて、信のある新しい政治が起こって、それで初めて復興が始まる。信が出発点になる。

国を潰すも興すも信次第。政治を行う上では「信」というものが何より欠かせないわけだ。

 

3.食を去り信を取る

仮に食を棄てても、信があればまだ何とかなる。確かに、民はひもじい思いをするだろう。餓死者も出るかもしれない。しかし政治に信があれば、国全体で乗り越えていくこともできる。

 

3-1.季氏篇に曰く

季氏篇にこんな言葉がある。

蓋し均しければ貧しきこと無く、和すれば寡なきこと無く、安んずれば傾くこと無し。

公平であれば貧しいということはない。皆が和すれば不足ということもない。心が安ければ国家が傾くことはない。

政治が食を棄て、食料事情が貧しくなった。しかし政治に信がある。政治家はしっかりやっている、苦しい中でも公平を期し、食料が一部に偏るようなこともない。この信があれば、本当に貧しいということはない。

逆に、いくら食が豊かであっても、信がなければだめだ。皆なが大いに食べていても、誰それは人より美味いものを食ってけしからんというようなことになって、貧しさを訴えるものが出てくる。

 

信があれば和もある。少ないことを憂えず、争いを起こさず、皆なで協力して乗り切ることができる。

こうなると、食は貧しくとも安心できる。政治はよくやっているという信があれば、これから良くなっていくという希望がある。希望がなければ、終わりの見えない苦しみの中で暮らすほかない。しかし希望があれば、貧しいながらも安んじるところがある。

食を棄てても信を取れば、国が滅びることはない。

 

3-2.子路の信

信によってよく治めた例のひとつに、子路の治績がある。

子路が蒲という邑の長官になった。治めてから三年のこと、孔子が蒲を訪れた。

邑の境に入るや、孔子は仰る。

「善いかな由や、恭敬にして以て信なり(よくやっているな、由(子路)は。つつしみを以て政治に臨んでいるから、民に信用がある」

まだ邑の様子を見ていないのに褒めるので、お供をしていた子貢が言った。

「先生はまだ子路の政治を実際に見ていませんのに、どうしてお褒めになるのですか」

孔子がお答えになる。

「いや、私はもう子路の政治を見ているよ。

この邑は田がよく耕してあり、荒地の開拓も行き届いている。田畑の溝は深く掘ってある。

邑の境から見ただけでこれが分かるのは、それだけこの邑の民が努力しているからだ。農事に励んでいるからだ。

子路は、恭敬を主として政治に取り組み、民から信を得ているのだろう。信があれば民は努力する(此れ其の恭敬にして以て信なり、故に其の民、力を尽すなり)。

だから子路を褒めたのだよ」

 

子路が赴任した当初、この邑は水害に悩まされていた。

民は貧乏で、食うや食わずで治水工事に従事した。子路が哀れに思って食料と水を振舞い、孔子から「私的に恩を施すな(それは却って君主の無慈悲を顕すことになる)」と叱られたほどだった。

それが三年でよく治まった。子路は信を以て改革を成し遂げたわけで、これが「信ありて食足る」ということだ。

 

これは、孔子家語の弁政にある話。

孔子家語によって論語が分かることもしばしばで、最近、私の中で家語の重みが増している。

 

結論

為政者(子路)が恭敬にして以て信、それで農業が盛んになる。

国語の例でも、王様が恭敬にして祭祀に務めて以て信、それで農業が盛んになる。

 

信があれば食の問題も解決する。食は信の内に含まれる。

信ありて食足る。食足れども信なくんば民は立たず。

ゆえに、食と信のいずれかをやむを得ず去るならば、食を去って信を取る。

食と信について、孔子はこのように考えたのではないか。

孔子が政治に大切なものを「信>食>兵」と仰ったのは、こういうわけであろうと私は思う。

 

これで、「食を取り信を棄てる」と「食を棄て信を取る」と、どちらが仁かという問題にも結論を出せる。信を取る方が仁である。

 

 

 

この章句について、今回のように具体的に考えたことはなかった。書き進めるうちに国語などにも思い当たり、理解が深まった。

質問をいただき、ありがたいことでした。

 

 

 

 

公田先生はなぜ占わなかったのか

公田連太郎先生の座右の書は、呻吟語であった。

今回は呻吟語のお話しです。

 

教えの四等級

呻吟語では、教えの等級を四つに分けている。簡単に書くと以下の通り。

 

第一等は、自然(為す所無くして為ること)を説く。

第二等は、当然(性分の尽くすべき所、職分の為すべき所)を説く。

第三等は、不可不然(そうでなければならないこと)を説く。是非とか毀誉の話。

第四等は、不敢不然(そうしないわけにはいかないこと)を説く。利害とか禍福の話。

 

仮の例え

易や老子が第一等として分かりやすい。もちろん論語も第一等。

孟子荀子は第二等といってよいだろう。

その他の諸子に広げて行くと、第三等の話が随分でてくる。

時代と共に邪説も色々でてきて、それらは第四等にあたるだろう。

 

論語の活用は様々

分かりやすく言えばこんな感じになるだろうが、実際には「論語は第一等」「孟子は第二等」のような分け方は違うだろう。読み手や用い方によって等級は変化する。

そもそも儒学では人間を本位として道を立てている。本質的に第一等であるとしても、人世に応用すれば第二等以下にもなる。第三等のように説くこともでき、第四等のように説くこともできる。

 

第一等としての論語

伊藤仁斎先生にとって、論語は第一等の教えであったといえる。論語に宇宙の根源を見た。

 

第二等としての論語

北宋の宰相・趙普曰く、臣に論語一部あり、半部を以て太祖を佐けて天下を定め、半部を以て陛下を佐けて太平を致す。

趙普は、論語から第二等の教えを汲みとったのだろう。無為自然ばかりでは天下は治まらない。民衆を導くにはその性分を考えて制度を整える必要があるし、人臣の職分についても同様である。第二等的な用い方が必要となる。

 

第三等としての論語

論語を第三等としてみる場合はどうか。

 

孔子は正名を重んじる。儒教が名教ともいわれるゆえんである。論語でも左伝でも、名を正すということがよくある。その場合にはやはり是非善悪の話になる。

また、孔子には「蘧伯玉は君子だ」「子産は恵み深い人だ」「寗武子は立派だ」など称賛する言葉がある。もちろん、非難する言葉もある。毀誉褒貶ということが出てくる。

 

このように、第三等的な見方もできる。これも論語の用い方の一つであるし、個人の修養の上では欠かせない。

修養の足らぬものが第一等を汲んで自然だ宇宙だとなれば、それはただの「変な人」になる。

第二等もそうで、身の修まらぬ者が天下国家や大義・正義を論じるようになると、これも碌なことにはならない。

 

もっとも、孔子の道からいえば、個人の修養は通過点に過ぎないのだから、第三等にこだわり過ぎるのは悪い。

仏教でいえば小乗に泥んで大乗に進まぬようなもので、これはお釈迦様の戒めるところ。小乗を修め、我ひとり高く止まって、未熟な者をどこか見下すところがある。

これと同じで、修養においては第三等としての論語も必要だが、低いといえば低い。

 

第四等としての論語

第四等はどうか。もちろん第四等としての用い方もある。

孔子も利を言うことがある。子罕篇に「子、罕に利を言ふ」とある。利について多く述べたのではないが、いくらかは述べている。

元亨利貞にも利とあるように、そもそも利は天徳の一つである。道に背いて利を取るは悪いが、利そのものが悪徳なのではない。人に利を施すのは仁であるし、己で利を貪るのは不仁である。

論語から利害禍福の説を汲むことも、修養の上では役に立つ。

 

しかし第四等で最も低い。利害や禍福のことは、四書五経を当たり前に読めばわかることであって、極く初歩的な事である。

 

公田先生はなぜ占わなかったのか

このように色々に考えるうちに、ひとつ気づいたことがある。

呻吟語は公田先生の座右の書であった。易を教えの四等にあてはめると、先生が占いを好まなかった理由がわかる気がしたのだ。

 

公田先生と占い

公田先生は、生涯でただの一度も占わなかった。このことについて、先生はこう仰る。

「私は、占いを行うべき性能を持っていないものであると自ら信じておるので、自ら占いをしようと試みたことはなく、占いによって解決しなければならぬと思うほどの重大なる事件にも幸にして遇わなかったので、他人に占いを依頼したこともないのである」

公田先生が心にもないことを言うはずはない。先生は、本当に「自分が占っても無駄」「占う必要もない」と思っていたであろう。

 

南隠老師の影響

ついでに言えば、師匠の教えも影響しているように思われる。

公田先生の師は、漢学では根本通明先生、禅では渡辺南隠老師であった。

周易講義など読んでも、根本先生は占いとしての易についても普通に解説するだけで、公田先生のようなことは仰らない。

しかし南隠老師は違ったらしい。南隠老師は占いとしての易に否定的で、

「占いをしてみなくてはわからぬようなことでは、とろくさい」

と言っておられたとか。

これも、公田先生に影響を与えたのかもしれない。

 

公田先生の興味

しかしそれ以上に、占いとしての易を好まなかったらしい。易経講話にこうある。

孔子の前後の時代に、易が占い専門の書物ではなくなり、占いの外へ一歩か二歩か抜け出したのである。

私の好むところは文王・周公の占いの易ではなく、大きくいえば宇宙、小さく言えば人生の変化の義理を説くところの孔子の易を好むのである。占いとして解する易説には多くの興味を持たないのである」

 

呻吟語に当てはめる

この言葉は、呻吟語の教えの四等級に当てはめると一層よくわかる。

 

先生の好んだ「大きく言えば宇宙の変化の義理を説く易」は、呻吟語でいうところの「自然を説く易」であり、第一等である。

また「小さく言えば人生の変化の義理を説くところの易」は、呻吟語でいうところの「当然を説く易」にあたる。人生を細切れにみると第三等の趣きがあるが、人生全体の変化の義理であれば性分の尽くすべき所・当然が重要である。ゆえに第二等。

 

先生の好まなかった「占いとして解する易説」では、易の言葉を予言として尊重し、その時々の出処進退や吉凶禍福を占う。

出処進退には是非と毀誉を伴う。ゆえに第三等の「不可不然を説く易」といえる。

吉凶禍福には利害を伴う。「不敢不然を説く易」であり、第四等である。

 

まとめ

呻吟語では「道には二然有り」として、自然と当然を重く見ている。公田先生も、第一等・第二等を尊重し、だから義理易を好んだのではないか。

しかし第三等・第四等はさほど重んじなかったであろう。だから占いとしての易説を好まず、ご自身で一度も占われなかったのではないか。

 

呻吟語を読んで、どうも私にはそんな気がした。

過ちを見て内に自ら訟むる者は顔回なり

過ちては則ち改むるに憚ること勿れ。間違いは是非とも改めるべきである。

当たり前のことで、極く簡単な道理だ。

しかし難しいといえばこれくらい難しいこともない。

 

改めるというのは、単に姿勢の上だけではない。同じ過ちを繰り返さないようになって、初めて改めたといえる。

そのためには内面的に真剣な努力を重ねる必要があり、これが大変に難しいのである。

 

 

過ちを見て内に自ら訟むる

論語公冶長篇に曰く、

子曰く、やんぬるかな、吾れ未だ能く其の過ちを見て内に自らむる者を見ざるなり。

(もうどうしようもないな。過ちを見て深く内省し反省する者を私は見たことがない)

これは弟子への戒めであろう。孔子は絶望する人ではないし、常に弟子に希望を抱いていたのだから、底から「やんぬるかな」と仰ったわけではなかろう。

 

二つの解釈

ここにある「過ち」について、二つ解釈がある。

ひとつは、人の過ちを見て内に自ら訟むる。

もうひとつは、己の過ちを見て内に自ら訟むる。

 

どちらと限る必要もないだろう。人の過ちも己の過ちも修養の糧となるなら、それが一番良いはずだ。

根本先生の論語講義は前者のように解釈している。しかしよくよく考えてみると、どうも後者の方が優れているように思われる。

 

耳目聡明とは

韓非子にこうある。

智は目の如きを患ふ。目は能く百歩の外を見るも、自ら其の睫を見ること能はず。

五常仁義礼智信。智は大切なものだ。

物事がよく見えよく聞こえることを「耳目聡明」という。耳目の良いことは智の優れていることを意味する。

 

ただ、耳目聡明ということについて、公田先生はこう仰る。

私は、従来、耳目聡明という言葉で、心の徳の明らかなることをあらわしておることに、興味を持っておる。心の徳の明らかなる人は、耳がよく聞こえ、目がよく見えるのである。耳がよく聞こえ目がよく見える人は、必ず心の徳が明らかなのである。

ただしこの耳目聡明ということは、耳や目のお医者さんがいうのとは、多少違うのである。耳目聡明というのは、物事の真相がよく見えたり聞こえたりするのである。

韓非子にあるのも、そういうことである。

目が良い人は百歩先をはっきりと見ることができる。だが極く近いところは見えない。自分のまつ毛さえ見ることはできない。

智というものは、目のようであってはならない。遠くも近くも見えて、他人も自分もよく見えるようであって、初めて智といえる。

 

しかし智というものは、往々にして目のようなところがある。これは憂うべきことである。

遠くは見えても近くは見えない。灯台下暗し。人を知るは易く、己を知るは難い。

これでは、耳目聡明とはいえない。本当の意味で智が優れているとはいえない。

 

人を知るは易し

智の昧い人であっても遠くは見えるし、他人の善悪はよく見えるものだ。

善悪どちらかでいえば、善にはさほど関心がなく、悪には大変敏感という人が多いように思う。

人の過ちはよく見えるのだ。過ちを犯した人を責め立てることもできるし、その過ちを見て内省・反省することもできる。反面教師という言葉も極く一般的だ。

つまり、「人の過ちを見て能く内に自ら訟むる者」は、そう珍しくないわけだ。

 

孟子に曰く、

世衰へ道微にして、邪説暴行有作る。孔子懼れて春秋を作る。

世の中が衰え、道が廃れた。邪説や暴行、例えば弑逆なども起こるようになった。孔子はさらなる乱れをおそれて春秋を作った。

春秋は、悪人の悪行を書き記して筆誅を加え、善人の善行には賛辞を与えた。

当然、孔子は弟子にも春秋を講じたわけで、弟子は度々「人の過ちを見」た。それを修養の糧にもしただろう。

「人の過ちを見て能く内に自ら訟むる者」は孔門にいくらもいた。それを孔子が「吾れ未だ見ざるなり」と仰るとは思えない。

 

己を知るは難し

では、「己の過ちを見て能く内に自ら訟むる者」ではどうか。

こちらは難い。人の過ちはよく見えても、自分の過ちを見るのは難しいからだ。

 

自分の過ちに気づかない人は論外だ。そもそも「己の過ちを見」ることができていない。

ここでは、自分の過ちに気づいているが、反省の足らない者をいう。こちらは罪深い。

過ちに気づかない場合、改めるきっかけかないわけだ。それはきっかけを与えたら良い。過ちを教えてやったら良い。

一旦、過ちを知ったならば、改めるかどうかは本人次第である。知りながら改めようとしないのは惰弱であり堕落に近づいてゆく。

知って改めない、これは自分の過ちを見過ごすわけだ。自分のことを棚に上げて人を責めたりなんかする。だから罪深い。

私も日々、この罪を犯しているに違いない。

 

過ちは断乎として改めるべきで、人を責めるような暇はないはず。こんなのは当たり前だ。当たり前だが簡単ではない。むしろ、こんな難しいことはない。

 

顔回の偉さ

孔子の弟子たちも、ここで苦しんだに違いない。己の過ちを見て、しかも中々改めることができない。

なぜ改まらないか。孔子の言葉によれば、内に自ら訟むることが足らぬからだ。

 

門中顔回のみ

門中ただ一人だけ、これができた人がいる。顔回である。

孔子は、顔回について「過ちを貳せず」と評した。同じ過ちを繰り返さない人であったと。

顔回は、己の過ちを見れば内に自ら深く訟め、改め、同じ過ちを繰り返さなかったのだろう。

 

子貢の顔回

孔子家語(弟子行)では、衛の将軍に乞われ、子貢が孔門の人々を論評する。

主だった弟子を様々に論評する中で、子貢は顔回を「過ちをふたたびせず」を以て評した。子貢が「己の過ちを見て能く内に自ら訟むる者」として評したのは、顔回ただ一人であった。

 

孔子の弟子は蓋し三千人あり。優れた人も多かった。しかし「己の過ちを見て能く内に自ら訟むる者」は容易に得られなかった。

耳目聡明であること、己を知り内省し反省することがいかに難しいか、よく分かる。

 

嘆きと戒めの言葉

ここで孔子は「未だ見ず(見たことがない)」と仰る。

しかし顔回がいたのだから、見たことはあるわけだ。

「己の過ちを見て能く内に自ら訟むる者はすくなし(そういう人はめったにいない)」などと言いそうなものだが、なぜそう言わなかったか。

 

これは晩年の言葉で、孔子がこう仰ったとき、顔回は既に亡くなっていたのではないか。論語徴ではそう解する。

となると、この言葉は孔子顔回を偲び嘆く言葉であり、同時に他の弟子を戒め励ます言葉になるだろう。

 

以上を踏まえて、私はこの章句の意味をこう解する。

顔回が亡くなってからというもの、己の過ちを見て内に自ら訟むる者をまだ見ないなあ。

顔回はそうであった。過ちを繰り返さなかった。そういう弟子が確かにいたのだ。お前たちもこの先輩を見習って、日頃からよく内省し、己に過ちがあれば反省し、改めるよう努めなさい)

この章句は、顔回と合わせて考えると、一層深く理解できるように思う。

 

顔回を偲ぶこころ

孔子顔回は実の親子のようであったという。

顔回が亡くなった時、孔子は大変嘆き、それ以降、顔回を偲ぶ言葉をぽつりぽつりと遺されている。

 

この次の章句に、こんなことを言ってある。

子曰く、十室の邑、必ず忠信、丘が如き者有り。焉んぞ丘が学を好むに如かざらん。

十戸くらいの小さな村にも、私(丘)のように忠信に篤い者は必ずいる。学を好むことは人の天性であって、忠信の篤い者(天性に近い者)に教えを施せば、必ず学を好むようになる。どうして私の好学に劣るといえようか。私と同じく学を好む素質は、誰もが持っている。

 

孔子は「好学」ということを容易に許さなかったが、「人は本来みな学を好むもの」と考えていた。

そんな孔子も、顔回を偲ぶ時にはこのように仰る。

顔回といふ者有り。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。

顔回という者がいました。不幸にして短命でした。今はもういません。顔回が死んでからというもの、私は学を好む者を知りません)

学を好むは天性なり。孔門には学を好む者が大勢いたはずだ。しかし孔子は「未だ学を好む者を聞かざるなり」と仰る。

顔回の死を惜しむあまり、このような言葉になったのであろう。

 

これを、「未だ能く其の過ちを見て内に自らむる者を見ず」と合わせて考えてはどうか。

どちらも顔回を偲んで、「未だ~せず」と仰った。そう考えると、私には非常によく理解できる。

孔子顔回の師弟愛を思うと、「未だ~せず」の言葉が非常に重く感じられる。この言葉が孔子の体温を帯びる。胸が締め付けられるような思いがする。

それを噛みしめて、私は論語が益々好きになった。

 

 

 

続・微生高は正直者か諂う者か

論語公冶長篇に登場する人物に、微生高びせいこうという人がいる。

これは色々と議論の多い章句で、大体のことは以前記事にした。

shu-koushi.hatenadiary.com

この記事でははっきりと結論を出せなかったが、最近論語徴を読んで、非常に納得がいった。

そこで再び記事にする。

 

微生高は正直か

問題の章句は以下の通り。

子曰く、たれか微生高をちょくと謂ふ。或るひとけいを乞ふ。諸を其の鄰に乞うて而して之を与ふ。

簡単に訳すると、

「先生が仰った。『誰が微生高を正直者と言ったのか。或る人が微生高に酢を貰いに行ったらしい。すると彼は自分の家にもなかったから、隣家から貰ってきて与えたということだ』」

 

二通りの解釈

簡単に言えば、微生高の振舞いについて、以下の二通りの解釈がある。

  • 微生高は正直者であると評判だが、そんなことはない、寧ろ諂う者である(批判的な解釈)
  • 微生高は正直と評判だが馬鹿正直ではない。なかなかどうして融通が利く(肯定的な解釈)

 

批判的な解釈

批判的な解釈では、「無いものは無いというのが正直であって、他人からわざわざもらってくるようなのは正直とはいえない。諂いである」とする。

もっと言えば、「そんな不正直者が、正直者としての評判を得ているのは、『名をぬすむ』ことであって大変悪い」とする。

根本先生などはこの意見で、微生高を厳しく批判している。

 

肯定的な解釈

肯定的な解釈は、「微生高は馬鹿正直として知られるが、本当のところはどうだろうか。自分の家になくても、『ない』と言わずに隣家から貰って対処する。なかなか融通が利くではないか」というもの。

淡窓先生などは、この立場。正直は正直でも、情のある正直であり、困っている人を何とか助けようとする思いがあると。

 

論語徴の解釈

以前の記事では、どちらとも決めかねた。どちらにも一理ある。

論語徴を読んで、初めて納得がいった。徂徠先生は、批判も肯定も間違いだとしている。この視点はなかった。

 

以下、要点をまとめてみる。

 

1.微生高は郷人

まず、微生高と孔子は同郷であること。

これは、論語に明記されているわけではないが、そうと考えられる根拠がある。

論語憲問篇に、微生畝びせいほという人が登場する。この人はこんなことを言う。

きゅうよ、お前はどうしてそう齷齪しているのだ。世におもねっているように見えるぞ」

丘は孔子の名。姓は孔、名は丘、字は仲尼ちゅうじである。

当時の礼として、名で呼ぶのは目上から目下に対してのみ許される。親が子を、君主が臣下を、先輩が後輩を名で呼ぶのは良い。親しみを込めて名で呼ぶことも多い。しかし逆の場合はもちろんのこと、友人同士でも名で呼ぶのは非礼とされた。

つまり「丘や」と呼び掛けていることから、微生畝が孔子の先輩であることが分かる。

また、会話の内容を見ると、両者の関係は浅くないと思われる。あまり知らない間柄であれば、「何を齷齪」とか「阿っているなあ」とか言わないだろう。先輩後輩としてある程度の関係があるから、こんなことも言える。

これらのことから、微生畝と孔子は同郷の先輩後輩であることが分かる。

そして微生高と微生畝は共に微生で同姓。これを以て徂徠先生は、「高(微生高)は必ずその族ならん、ゆゑにその郷人たることを知る」、微生高はきっと微生畝と同族であろう、だから孔子と同郷であろうと解する。

 

2.微生高はご近所さん

次に、微生高が孔子のご近所さんであること。

この章句で、孔子は「“ある人”が微生高の家にお酢を貰いに行ったらしい」と話している。

しかし実のところ、この「ある人」は全く知らない誰かではなく、孔子の家の者であろう。

お酢を貰ったとか、あげたとかいうのは極く些細なことで、どこかの誰かがそんなやり取りをしたところで、孔子の耳に入ってくるはずがない。

現代のようにSNSでもあれば、微生高自身がつぶやいたり、その周りの人がつぶやいたり、それを孔子とかお弟子が見たりするかもしれない。

しかし情報技術が発達していなかった当時、情報の伝達には時間も労力もかかる。お酢がどうこうというような、些細な情報が拡散するとは考えにくい。

したがって、この些細なお酢のやり取りに、孔子自身が何らかの形でかかわっていたと考えるのが自然だ。

 

つまりこういうことだ。

微生畝と孔子は先輩後輩で、微生の家とは古くから付き合いがある。

その同族の微生高は地元で正直者と評判。孔子も愛すべき若者と思っていた。

孔子の家でたまたま酢を切らしていた。どこかから貰ってくるほかない。

微生高の家は近所だった。孔子は家の者を微生高の家へやった。

 

微生高が孔子のご近所さんというのは、こういうわけである。

 

3.戯れの言葉

そして、この章句の言葉は戯れであるということ。

徂徠先生は、「愛すべき微生高に対し、孔子が戯れを言ったに過ぎない」とする。

そもそも、些細なお酢のやり取りは、正直・不正直にあまり関係ない。

「うちにもありません」といったくらいで、正直者として褒めるほどのことではない。

隣家から調達したくらいで、不正直者と責めるほどでもない。

 

徂徠先生の指摘には納得がいく。曰く、

瑣事さじを以てして人をそしるは、閭巷間りょこうかんの匹夫匹婦の事、あに孔子にありと謂ふべけんや。

些細なことで人を譏るのは、つまらない男や女のやることで、孔子がそんなことをするだろうか(するはずがない)。

 

この章句で、孔子は「たれか微生高をちょくと謂ふ」と仰る。誰があの微生高を正直者といったのか。

たしかに正直かどうかに言及している。しかしこれは、正直か不正直かを言い立てるものではない。真面目に褒めたり貶したりするのではない。単なる戯れに過ぎない。

 

昔テレビか何かで見たが、こんな笑い話がある。芸人の面白トーク

ある芸人が空港をぶらぶらしていた。すると、レストラン街でK1ファイターのピーター・アーツを見かけた。ファミレスに入るか、回転寿司に入るかで何分も迷っていた。

「20世紀最強の暴君」などと言われ、全盛期はやたらと強かったこの人が、こんな小さなことで悩んでいる。それを見て笑っちゃった。そんな話。

これは親しみを込めた戯れである。ピーター・アーツのことを、意外と小心者で優柔不断とか、変なところでこだわるとか謗っているのではない。

 

4.この章句の意味

微生高への戯れもまた同じ。

微生高の愛すべき一面に対し、孔子は親しみを込めて戯れを仰った。

 

微生高のもとへ、孔子の家の者がやってきて、「お酢を貸してください」という。

しかし微生高の方でもお酢を切らしている。とはいえ、手ぶらで帰すのは忍びない。

そこで鄰から借りてきてやった。

 

微生高が正直者として評されていたことは事実らしい。どちらかといえば融通の利かない、馬鹿正直な評判であったのかもしれない。馬鹿正直であれば、微生高はその評判にもまた馬鹿正直に応えようとしただろう。正直という評判に違わぬように振舞っただろう。

しかし、このお酢の一件では、ある意味正直でないことをやった。普段の評判と違うことをやった。

それで孔子は、酢を持って帰ってきた家の者や、弟子に向かってこんな戯れを言ったのだろう。

誰があの微生高を馬鹿正直と言ったのかな。

誰かさんが酢をもらいに行ったら、自分も切らしていた。

あの正直者なら、馬鹿正直に『ない』とか言いそうなものだが、わざわざお隣から貰ってきたんだと。

さて微生高は果たして評判通りの馬鹿正直かな。(案外そうでもない。それ以上に親切だよ)

弟子が見聞きしたこと、またそのメモを持ち寄って、論語ができた。微生高のことで孔子が戯れに言ったことを、弟子の一人が記録していたに違いない。

徂徠先生の解釈では、孔子が郷里の人と親しく付き合ったことの一例として、この話を載せたのだろうと。確かにそうかもしれない。

 

論語徴の解釈は、私には最も無理がなく、また面白く思われた。

 

孔門の学風

この章句を、このように解釈して面白いのが、孔門の学風が垣間見えることである。

 

微生高への教誨

徂徠先生は、この言葉は戯れであると同時に、微生高への教誨も含んでいるとする。

正直者の微生高が正直でない振舞いをした。それを良い機会として、微生高を諭す意図があった。

すると、孔子教誨はこんな風になろうか。

お前は正直者と評判で、お前自身も直を以て任じている。

しかし正直が一番だ、自分は正直だと、高ぶった態度になるところがある。

そんなお前が、今回は自分の正直を枉げて、お酢を隣家から借りてくれた。

それで良いんだよ。正直は正直でも、馬鹿正直になる必要はない。

世の中、正直だけでは通らないことがいくらもあるから。

 

孔子の教育法

これは、孔子流の教育であろうと思う。

 

相手によって教える

孔子は、相手の学問の程度やその時々の境遇によって教える。

これは、述而篇でよく分かる。

孔子は、弟子に満々たる情熱、烈々たる求道心があってはじめて教えた。

考えに考えて、もうすぐ分かりそうだが言葉にならず、口をもごもごさせている。もどかしい。そこまで来たら、一言ポンとやる。それで弟子はたちまち悟る。

普段から真面目で、よく学び考えている弟子は、ちょっと教えてもよく分かる。少し教えてやると、そこから考えて「こうでしょうか」「ああでしょうか」「なるほどこういうことでしょう」となる。そういう弟子であって初めて教える。

 

子夏の話

子夏の話が分かりやすい。

子夏「詩に『功笑倩たり、美目盼たり、素以て絢を爲す』とあります。これはどういう意味でしょうか」

孔子「絵を描く時、白で仕上げるということだ」

子夏「…なるほど、礼は後ですね」

孔子「よう言うた。これでお前とようやく詩の話ができる」

 

子夏の学問も随分進んだ。もう彼とは詩の話ができそうだ。

そういう期待があったから、孔子はこのように教えたのだろう。

教えるに足るだけのものが相手にあって、初めて教える。これが孔子の教育法である。

 

微生高の場合

このように考えると、微生高への戯れも何となくわかる気がする。

微生高は正直者、本人も正直であろうと頑なに振舞っている。

そんな彼が正直ではないことをした。お酢の一件について、彼自身は特に何も考えていないかも知れない。しかし戯れにせよ、「誰があれを正直者と言ったのか?」などと言われれば、必ず感じるところがある。煩悶する。

こういう煩悶があってこそ、彼自身も悟る。

 

なぜ直接言わぬか

次に、なぜ微生高に直接言わなかったか。

せっかく教えるなら、弟子に戯れるような回りくどいことをせず、直接教えたらよさそうなものだ。

 

これもまた、孔子の教育法であろうと思う。孔子は、直接教えるのではなく、あえて弟子を介して間接的に教える場合がある。

 

孟懿子との問答

例えば為政篇、孟懿子もういしへの教え。

 

孟懿子が孔子に孝を問うた。

孔子は「違うこと無し(親の心に違わないことです)」とだけ答えた。

孟懿子はそれ以上尋ねなかったのだろう、それきりになった。

より詳しく尋ね、深掘りするには、相応の学力が必要だ。学問が未熟では、そもそも疑問が出てこない。質問が浅く、理解もいい加減になる。

恐らく孟懿子はよく分かっていない。孔子にはそれが分かる。

 

孔子の真意

そこで帰る道中、御者の樊遅はんちにこう語った。

 

孔子「今日、孟懿子から『孝とは何ですか』と聞かれた。だから『違うことのないように』と答えたよ」

樊遅「それだけですか。どういうことでしょう」

ここで孔子は、「生けるときには之に事ふるに礼を以てし、死するときは之を葬るに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす」と言った。

樊遅が相手だから、このように言った。樊遅ならばこれで分かる。ここに含まれる意図はこうである。

私が孟懿子に言いたかったのはね、「礼に違わぬようにせよ」ということだ。

親が生きていれば礼を以て事える。親が亡くなったら礼を以て葬る。亡くなった親を祭るにも礼を以てする。何事も、礼こそが則だよ。

季孫・孟孫・叔孫の三家の権力は君主を凌ぐ。傲り高ぶって、君臣の礼を乱している。

飲食や衣服、また普段の挙動言動が礼に外れていることが多い。生きているうちの礼に、色々間違いがある。葬儀や祭祀もそうで、例えば天子の礼楽を勝手に用いたりする。

こういう僭礼せんれい(礼を超えた振舞い)が多すぎるのだ。

 

なぜ孟懿子に「礼に違うこと無し」と言わず、単に「違うこと無し」と言ったか。それは順番があるからだ。

孟懿子の学問はまだまだ未熟だ。そんな彼に「礼に違うな」といったらどうなるか。親が礼に外れている、しかし自分は礼に違うべきではない、その間で苦しむだろう。教えを重んじ、親の非礼を厳しく責めるかもしれない。

それは不孝だ。孝を問う孟懿子に「礼に違うな」とは言えない。まずは親の心に違わぬところから出発だ。

しかし孟懿子は孟孫家の者だ。ただ親に違わぬだけでは、やがて彼自身が僭礼に陥る。

親の心に違わぬといっても、親と同じように自分も君主を凌ぐようになれば、君臣の道に外れる。それが果たして本当に孝といえるだろうか。言えまい。

 

だから親に事えるにも、せめて自分は礼に違わぬように事えるよう心掛けるべきだ。

また、いずれは父上の葬儀もすれば、祭祀もすることになる。その時も礼に違わぬようにするべきだ。

本当に孝行しようと思ったら、孟懿子は親に違うことなく、その中で礼に違わぬようにしなければならない。礼に違わぬことが真の孝になる。そう教えたかったのだよ。

 

樊遅に告げさせる

孔子は、樊遅に語ったようなことを孟懿子にも教えたかったが、孟懿子の反応は薄く、さらなる質問もなかった。

孔子は相手に合わせて教える。深掘りしてこないものを、孔子の方から細かく教えることはしない。

孟懿子には「孝」をもっと知りたい、理解したい、極めたいという烈々たる思いがなかったから、孔子も詳しく語らなかった。

 

とはいえ、そのままにしておけない。三桓氏の僭礼は魯国の大問題である。

孟懿子への教えをきっかけに、孟孫家の僭礼が改まるかもしれない。これは極めて重大なことである。

そこで孔子は樊遅に語り聞かせた。後日、樊遅から孟懿子に告げさせようとしたのである。

「先日、先生とこんな会話をなさったそうですね。あの時、先生は『違うこと無し』とだけ仰ったとか。その帰り道、私にも同じことを仰ったので、意味が分からず聞いてみたのです。すると先生はこんな風に仰いました。その心はおそらく…」

 

「樊遅に告げさせるため」という解釈は割と一般的なようで、根本先生の講義にもそうある。曰く、

同門の間に互ひに通ずるは、此の時の風になつて居るから、それで孔夫子の方でも、樊遅の方から詳しき事を孟孫に言へと仰せられずとも、樊遅の方から同門で伝へる事は判つて居りますから、斯の如くなされたのである。

 

間接的に伝えること

ついでにいえば、心理学にウィンザー効果というのがある。直接言わずに間接的に伝えたほうが効果が高まるというもの。

孔子がこれを意図したかどうか知らないが、そういう部分もあったのかもしれない。

孔子に直接言われれば、何んとなく呑み込んでしまって深く考えない。しかし同門の朋友から言われたらそれなりに考えるし理解もする。孔子の意図がよく分かる。

 

直接言わずに間接的に、ということは諫言や教訓する場合に昔からよくあることだ。回りくどいとか、卑劣とか、小手先のテクニックとか、そういうものでもない。

ちょっとズレるけれども、葉隠にもこんなことがある。

諫言の道に、我其位に非ずば、其位の人に云せて御誤り直る様にするは大忠也。

上の者を諫める際、自分が下位であるために聞き入れられないことがある。そんな時は、同じ地位の人に言わせるように仕向けると良い。

諫言の目的は「考えを改めさせること」であって、聞き入れられねば意味がない。

諫言というと、無礼を顧みず諫めるもの、遠慮なしに直言するものと考える人もいる。

だが、それで聞き入れられるなら良いが、大抵はそうでない。却って相手が意固地になることも多い。

最終的に聞き入れられることが重要であって、そのためには間接的でも何ら問題なく、最も良い方法で諫言してこそ本当の忠義といえる。

 

葉隠にあるのは「下位から上位への諫言」だ。論語にあるのは「先生から弟子への教訓」だ。この点では異なるが、要は相手が受け入れやすいように、近い立場のものを介して間接的に伝えるという意味では同じい。

高齢のものが若い者に教えることも大切だが、若い者を介して間接的に教えて、はじめてよく理解できることも多い。

先生から弟子に教えることが基本なのはもちろんだが、弟子から弟子へ間接的に伝えることでよく分かることも多い。

 

微生高も同じか

微生高の場合も同じではないだろうか。

微生高は孔子の弟子ではないから、弟子から弟子という流れでは伝達されない。

しかし微生高は孔子の近所の人で、調味料を気軽に借りに行けるような親しい付き合いがある。

ならば、孔子の家の者や弟子が、微生高と接する機会は多々あったろう。

 

そんなとき、家の者や弟子が微生高に言う。

「この前、あなたからお酢をいただいたでしょう。そのことで先生がこんなことをいっていましたよ」

それを聞いて微生高はこう思う。

確かに自分は正直正直と言いながら、不正直な振る舞いもある。しかしそれは悪いことだったろうか。

孔先生によれば、こういう不正直は良いらしい。馬鹿正直よりずっと良いらしい。今後はもっと正直を工夫してゆこう。

こんな風に悟るのではないか。

 

まあ、これは私の想像でしかないけれども、微生高の振舞いを厳しく責めたり、殊更に褒めたりするよりは自然に思われるんだが、どうでしょうか。

「狂」ということ

「狂」という言葉がある。

狂は狂う。狂人といえば頭のおかしい人にも使うから、あまり良い意味とはいえない。

 

儒学では、狂を良い意味で用いることもあれば、悪い意味で用いることもある。これを混同すると大変な間違いになる。

 

 

悪い意味での「狂」

儒学において、「狂」を悪い意味で用いる場合、現代の用い方とあまり変わらない。

呂新吾先生の『呻吟語』では、狂を悪い意味で用いる。狂ということを厳しく戒める。

 

聖と狂の分れ目

例えば、こんな言葉がある。

聖と狂との分るるは、いやしくもすると苟くもせざるとの両字に在り。

ここの「狂」について、公田連太郎先生の訳注には「心の乱れて騒がしきこと」とある。

であれば、聖は心が騒がしくないことだ。心がよく治まっている。

 

聖と狂との分れ目はどこにあるか。それは「苟」と「不苟」の二字にあるという。

「いやしくも」とは、かりにも、万一にも。

「いやしくもする(苟)」と読んで、大漢和辞典には『徒に目の前の安をぬすむ』とある。まあ慎みのない様子で、公田先生の仰る通り騒がしいのが「いやしくもする」で、これが狂である。

「いやしくもせず(不苟)」であれば、いやしくもするところがない。騒がしいところがない。心がよく治まって、外物に動揺することもない。これは聖人に近い心持ちといってよい。だから「聖」。

いやしくもするは狂、いやしくもせざるは聖。不苟は聖人の心、苟は狂人の心。

狂人は騒がしく、慎みがなく、心が修まらない、徳の乏しい人であるから、小人と言い換えてよい。

 

聖は敬、狂は怠

では、聖であれば、狂であれば具体的にどういうことになるのか。

こんな言葉がある。

天下国家の存亡、身の生死は、只だ敬怠の両字に係る。敬すれば則ち慎む。慎めば則ち百務修まり挙がる。怠れば則ち苟くもす。苟くもすれば則ち万事やぶくずる。天子より以て庶人に至るまで、此の如くならざる莫し。此れ千古の聖賢の兢兢きょうきょうたる所にして、而して亡人の必ず由る所なり。

天下国家の存亡や一個の生死の境目はどこにあるか。敬と怠の二字にある。

敬虔な者には慎みがある。慎みがあれば、どんな仕事をしても間違いがなく、成果も挙がる。

怠惰な者には慎みがない。慎みがないから苟くもする。徒に目の前の安をぬすむ。不真面目で、手を抜く。だから何をやっても失敗する。

天子様でも庶民でも、この道理は変わらない。

だからこそ、古の聖賢はこの道理をひどく恐れ、敬を重んじ怠を退けたのだし、また実際に滅び去った者は必ずこの道理によってそうなったのである。

 

聖と狂の分れ目は不苟と苟にある。不苟であれば敬に、苟であれば怠になる。それが存亡と生死さえ分ける。

孔子の道、聖賢の道を学ぶ者であれば、須らく不苟であるべきであって、苟であってはならない。聖を目指すべきであって、狂などとんでもない。

 

孔子の教えとは

そもそも孔子は弟子に何を教えたか。「仁であれ」と教えた。

では仁とは何か。根本的なところを良く考えると、聖と狂の分れ目が一層よく分かる。

 

孔子の説いたこと

仁は、小さくみると人への思いやりとか優しさである。しかし孔子が説いたのは先王の道である。先王の道となると、天下を泰平に導く道であって、これは大なる仁である。

孝経にあるが、孔子は「先王の法言にあらざればはず」と仰る。孔子は先王の道を説くことに努め、弟子にも先王の法言を以て教えたのである。

また述而篇にも、「述べて作らず」とある。自分は先王の法言を述べているだけであって、自分で新たな教えを作り出しているのではないと。孝経で仰ることと全く同じい。

 

仁とは

儒教の徳目には色々あって、普通に言えば五常であり、仁義礼智信がそれにあたる。

しかし、これは教えを立てる上であえて徳目を分けたのであって、結局のところは一つになる。性善説の「性の善なるもの」、つまり儒学でよく言われる「本性」というのがそれである。

 

人は天から生まれる

本性とは仁である。仁は天の徳である。なぜならば、人は天から生まれるからである。

左伝・成公13年の伝に曰く、

民は天地の中を受けて以て生まる。

人は天地の中正の気を受けて生まれる。現代科学からいえば色々なことが言えるだろうが、少なくとも昔の人はそう考えたのだし、その上に色々な教えがあるのだから、これはこれとしてそのまま捉えて良い。

 

太極から天地が生まれる

この中正の気とは太極のことである。老子に曰く、

物有りて混成し天地に先立つて生ず。

天地が生じる前、なんだか分からぬ物があって、それが混ざって一つの塊のようになった。塊になったところで、なんだか分からないことには変わりない。名づけようがない。しかしそれでは教えようがないので、仮に道とか太極とか表現した。

そこから天地が生まれる。本来無名であるところから天地が生まれる。それを老子は「無名は天地の始め」といった。

 

天地から万物が生まれる

天地となれば、もう名がある。天といい地という名前がある。

そして老子は「有名は万物の母」という。有名(名のあるもの・天地)が生まれて、さらにそこから万物が生まれた。人も生まれ、草木禽獣も生まれた。

つまり、太極(中正)から天地が、天地から万物が生まれた。

 

人は万物の霊

書経に曰く、

れ天地は万物の父母、惟れ人は万物の霊。

天地が万物を生む。天地から生まれた人には霊性がある。万物に優れた霊性がある。知性とか理性とか徳性とか、そういうものを持って生まれる。万物の中でも、とりわけ天の徳を受けて生まれたのが人であると。

 

善の意味

易経にこうある。

一陰一陽、之を道と謂ふ。之を継ぐ者は善なり。之を成す者は性なり。

一陰一陽の道とは天の道。この世の道理。

天は陽であり地は陰である。つまり太極から天地・陰陽が生まれたわけで、陰もあれば陽もあってこの世は成り立っている。それが道(道理)である。

人は天地から生まれた。この一陰一陽の道理によって生まれたのであり、陰にも陽にも偏っては本当でない。よく善とか不善とかいうが、一陰一陽の道を継ぐ(正しく歩む)ところに、人間われの善があるのである。

善とは一陰一陽の道であり、一陰一陽の道とは天の道である。性でいえば天性。人間も天性を受けている。だから人の性は本と善。孔子は性善・性悪を言わなかったが、こういうところから性善説が正しかろうと思える。

 

仁とはどんな徳

この天性を、人に備わったものとしてみると「本性」だ。それを仁という。人間においては仁といい、天においては天理とか天徳とかいうのであって、畢竟どちらも同じい。

天は万物を生み育てる。生成化育の働きがある。これが天徳。

人もそれを受けているのだから、天より小規模であるとしても、生成化育の働きがあるべきである。人を助けるとか、教育するとか、色々ある。

小さく言えば思いやりや優しさ。大きく言えば、天下国家をよく治めて、万民を幸福にすること。根本はどちらも仁だが、働きは大小さまざまある。

 

先王の道は大仁

先王の道は、大きな仁を主とする。書経を貫く精神も、この大きな仁である。

「先王の法言にあらざれば言わず」「述べて作らず」と仰ったのだから、孔子が弟子に教えた仁も、この大きな仁であったはずだ。

これは、小さな仁を軽んじるのではない。それは大きな仁に含まれる。

大きな仁は成すが小さな仁は棄てるということはない。孟子が「一不辜ふこを殺して天下を得るも為さず(一人の罪なき者を殺して天下を得るということはしない)」と言ったのは、そういうことだ。

 

権道のためには小仁を棄てることもあり得るが、あくまでも権道の話である。権道でなければどうしてもいけない場合に限って、大仁のために敢えて不仁をなすこともある。

好ましくないと知りながら、敢えて進むのである。望んでやるものではないし、小仁を棄てて大仁を取ったなどと、得々とするようなのは権道ではない。良くてせいぜい覇道である。先王の道、つまり王道ではあり得ない。

 

孔子の志

孔子が教えたのは、先王の道、大なる仁の道である。やはり政治に志があったといえる。

ご自身も政治を志し、大きな業績もあげた。後には教育に力を注いだが、これも間接的に政治を為そうとしたのだろう。弟子を教育し、仁を抱かせ、天下を救うのだ。

 

となると、聖と狂のいずれであるべきか。

言うまでもなく聖である。

敬して慎む、不苟、それで百務修まり挙がる。政治も良くなる。人々の暮らしも良くなる。これは先王の道・大仁であり、孔子の理想とするところである。

狂はいけない。怠であり苟であり、万事隳れ頽る。狂人が為政者になれば、政治はダメになる。例えばおかしな制度を作る、税をむやみに取る、これまで積み重ねたものがどんどん壊れる。つまり狂が不仁になる。

 

良い意味での「狂」

以上のように、基本的に「狂」は悪い。儒者が最も忌むべき不仁のもとになる。

しかし、狂を良い意味で用いる場合がある。これはどういうわけだろう。

 

素質としての狂

孔子の有名な言葉。

子、陳にいまして曰く、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子狂簡きょうかん斐然ひぜんとして章を成す、之を裁する所以を知らず。

狂簡とあるが、ここでいう狂は「大きい」ということだ。とりわけ志が大きい。志が大きい者は、小さなことにこだわらない。小事小利のために卑劣なことをしない。

簡は簡略、粗略、粗削りなこと。

斐然は美しい模様のこと。狂簡であり、斐然として章を成す。粗削りだが志が大きい、良い素質を持っている。

 

この素質がなければ、小事小利に囚われて道を履み外す。とても仁は為せない。

ゆえに徂徠先生曰く、

先王の道は大なり、狂簡にあらずんば負荷すること能はず。

 

狂簡は仕立ててこそ

もちろん未完成であり、放置したままではいけない。志が大きく粗削りであれば、悪い意味での狂、騒がしい所が目立って、呻吟語にある悪い狂、不仁に陥る恐れがある。

 

だから孔子は仰る。

「彼らは狂簡で、良いものを持っている。しかし残念ながら、之を裁する所以を知らず」

裁はさばく。裁判とか裁断とかの裁。

衣類など仕立てるには、長い布は短く裁断し、短い布は継ぎ足す。長いものは短く、短いものは長くすることで仕立てる。

孔子の教育もそうである。ともかく大切なのは中(中庸)である。

人は天地の中を受けて生まれる。この中とは太極の極であり、天性であり、聖であり、仁である。

先王の道を履むには中でなければならない。中は偏りのないことで、長くも短くもなく、至極適当であること。人間には色々偏りがあるから、仕立てる必要がある。

つまり孔子の仰るのは、こういう意味だと思う。

故郷の若者は狂簡斐然、その素質は美しい生地のようだ。

しかし如何せん未完成で、裁断することも知らぬ。

そのままでは所謂「帯に短したすきに長し」で、どうにもならん。

だから帰ろうよ、帰ろうよ、帰ってこの若者たちを仕立てようよ。

 

狂の良し悪し

「狂」を良い意味で用いる場合、素質を良いとする。

しかし、良いのはあくまでも素質であって、素質を活かせず不仁をなす危うさも秘めている。狂は原動力のようなもので、力強く仁を為す場合もあれば、力強く不仁を為す場合もある。

だから「狂」を良い意味に用いるとしても、100%肯定するものではない。正しい学問教育を俟たなければ、本当に良いとはいえない。

 

「狂」を悪い意味で用いる場合、これはもう100%悪い。騒がしく、苟で怠で、世を乱す。不仁である。

孔子の仰る狂簡を表面的に捉えて、狂であれば何でも良いと考えるのはとんでもないことだ。

 

松陰先生の狂

好んで狂を言う人の中に、吉田松陰先生の「諸君狂ひたまへ」を奉じている人をみかける。

松陰先生を尊敬するあまり、この言葉を額面通り捉え、意図を解せず、悪い狂に陥るのである。

 

維新の志

松陰先生のいう「狂」も、論語にある「狂簡」の「狂」の意味である。「狂いたまえ」は、「志を大きく持ちなさい」ということだ。もっといえば、松門の弟子は皆志が大きかったのだから、「諸君の志を存分に奮いなさい」ということになろう。

 

幕府を打倒し、疲弊したこの国を一新する。それにより列強の侵略を退け、独立を把持する。当時、列強の植民地になった国は悲惨を極めた。独立を維持し、日本国民の平和を保つことは大なる仁である。先王の道に適う。

先王の道は大なり、狂簡にあらずんば負荷すること能わず。

松陰先生は維新という大きな志を抱く「狂簡の士」であったから、弟子に「諸君狂いたまえ」と指導したのは当然のことと思える。

 

切に嘱す

松陰先生の遺書である『留魂録』に、こうある。

一敗すなはち挫折する、あに勇士のことならんや。切にしょくす、切に嘱す。

一度の敗北で挫折するようなことでは、どうして勇士といえようか。切に頼むぞ、切に頼むぞ。

松陰先生が刑死したことは、例え一敗とはいえ松門にとって大なる敗北であったろう。しかし狂を抱く松陰先生にとって、維新という大きな志の前では死すら小事、生き延びることは小利であったろう。

 

「諸君狂いたまえ」と「切に嘱す」は、どちらも同じ気持ちから発せられた言葉だと、私は思う。

諸君狂いたまえ、そして私の志を引き継いでくれ、切に嘱す。

 

重い重い言葉

松陰先生の言葉は、切実で、深刻で、どうもに重くて重くて、私はこの言葉を口にしたくないのである。

このような言葉は、国家の非常事態に身命を賭して働く者、志士仁人にして初めて言える言葉である。今の時代に、ましてや普通に生活している者に言えることではない。

 

「『狂いたまえ』と松陰先生が言ったから」と、この言葉を撫で回して、我も狂たらんとするのは如何なものか。あまりにも軽いのではないか。

少なくとも松陰先生のいう狂からは程遠いだろう。狂は狂でも、良い意味での狂からは遠く、悪い意味での狂に近い。

安易で、短絡的で、それこそ狂の悪い部分が出ているではないか。こんな騒がしい考え方では、苟や怠になるほかないではないか。

我は狂なりと胸を張れるようなことではないだろう。

 

桂小五郎のこと

狂は良いか悪いか。どちらとも言い難い。見方によって変わってくる。

儒学ではしばしばこういうことがある。たとえば「愚」は普通悪いが、寗武子ねいぶしの愚には孔子でさえ「及ばない」と仰る。

 

しつこいようだが、狂には良い側面もある。志が大きく小事小利に囚われない。狂でなければ先王の大道を歩むには心もとない。

だからといって100%肯定すべきものではない。あくまでも素質である。学問で仕立てなければ害をなす。不仁になる。

 

この間違いを犯さぬためには、狂だ狂だと騒がずに慎むことだ。慎んだからといって、狂たる素質がなくなるわけでも、志が低くなるわけでもない。

呂新吾先生は「静」ということを重んじる。これは「静謐せいひつ」であろうと思う。狂を善しとするならば、同時に必ず慎みがあるべきであり、それが静謐ということになろうかと思う。

 

桂小五郎練兵館に入門して、わずか1年で免許皆伝を得て塾頭になった。剣においては天才といってよい。この人の剣は一言でいって「静謐」で、対する者は圧倒された。近藤勇も、桂小五郎には手も足も出なかったという。

桂小五郎は松門ではないが松陰先生の弟子である。「諸君狂いたまえ」「切に嘱す」と言われた一人であり、実際狂であったに違いない。しかし、悪い意味での狂った様子はなく、どこまでも静であった。

維新の動乱期にあれだけの働きをして、幾度となく危険な目に遭って、一度も剣を抜かなかった。一人も斬らなかった。

(一人斬ったという話もあるにはあるが、又聞きの記録であるし、よしんば事実であっても、やはり大したものである)

狂でありながら慎みがあり、静であるというのは、桂小五郎のような人をいうのかなと、漠然と思う。

慎みがあれば、殊更に狂を言わない。騒がない。それで百務修まり挙がる。ついには志を遂げる。維新を成す。大仁を成す。

 

まとめ

孔子の教えには無理がない。弟子の性質に応じて無理なく教える。無理強いしない。松陰先生もそうであったはずだ。

 

そもそも狂は素質である以上、狂でない者に「狂になれ」といったところで、狂いようのない者も多かろう。

「狂え」といってどうにかなるなら、何も孔子は郷党に帰ることはなかったはずだ。陳でもどこでも、その土地の人を教育すれば良かったはずだ。

松門の弟子は皆、師と志を同じくしていた。元より狂簡の士であった。つまり松陰先生の「諸君狂いたまえ」は、「狂簡たる諸君、私に続け」ということであって、狂簡でない者に「そんなことでは仕方がないから狂え」と無理強いするものではないだろう。

 

孔子は奇抜なことを教えない。革命を肯定することもない。権道を教えない。素質としての狂を好ましいとするが、それ以上に仕立てることを重んじる。

孔子でも松陰先生でも、教育する側が狂を肯定するなら良い。狂簡たる性質を持っている弟子に対して、仕立てることを前提として肯定するのは良い。

しかし論語を読み留魂録を読み、学ぶ側が殊更に狂を肯定し奉じるのは危うい。そもそも狂簡たる性質を持たない人のほうが多かろう。

 

狂のある者は狂のある者なりに、狂のない者も狂のない者なりに、慎みて怠ることなく学問すればよいのだ。

狂だ狂だというのは騒がしくって、どうも私は嫌である。

 

 

 

信を失った者の末路

儒学では信を重んじる。

信が重要、これは当たり前と言えば当たり前である。しかし当たり前すぎて、なぜ大切かと言われるとよく分からないものでもある。

なぜ信は重要なのか。信を失えばどうなるのか。

 

信とはなにか

荻生徂徠先生は信を以下のように解く。

信なる者は、行ひ言にたがはず、符節を合するが若きなり。

(信とは、行動と言語があたかも割符を合わせるようにぴったりと一致することである)

「信」はにんべんに言うと書く。人の言葉に嘘があってはならない。人の言葉はすべからく真実であるべきだ。人の言葉は誠であるべきだ。

誠はごんべんに成すと書く。言ったことを言った通りに成す。言ったことに嘘がなく、真実であることを「まこと」という。だから「信」と書いて「まこと」とも読む。

人間であれば言葉に嘘があってはならない。嘘を吐く者はもはや人とは言えない。

いにしえの人は、「信」をこのように厳しく考えた。

 

論語の教え

論語にも「信」を教える言葉がたくさんある。有名なものを為政篇からひとつ。

子曰く、人にして信無くんば其の可なるを知らざるなり。大車にげい無く小車にげつ無くんば、其れ何を以てか之を行らんや。

大車は荷車、牛がく。小車は人の乗る車で馬が牽く。

輗・軏は車の部位。大車ならば輗に牛を、小車ならば軏に馬を着けて車を牽かせる。輗・軏がなければ車は進まない。

信は輗・軏のようなものだと孔子は仰る。

 

益軒先生曰く

この章句について、私が最も感服したのは貝原益軒先生の解釈である。

車と牛馬とは別の物なれど、輗と軏とあれば、是を以て牛馬に車をかけて引かしむべし。若し此のものなくんば、何を以てか車をやるべきや。

人にまじはるに信ならざるも亦かくの如し。人と我とは二物なり。信実を以て交はれば、互に感通して道行はる。若し信なくして人と交はらば、我、人にまことなく、人、我を信せず。彼と我と感通せず。何を以てか道行はれんや。

車と牛馬は別の物だが、輗と軏によって車と牛馬を間違いなく結びつけることで、道路を進むことができる。

我と人とは別の物だが、信によって我と人とが偽りなく交わることで、道を行うことができる。

輗と軏がなければ車と牛馬は別の物のまま。信がなければ我と人とは二物のまま。

これは大変良い考え方である。

 

信を失った者はどうなるか

現代のように信が軽んじられる時代においては、信などなくても生きていかれるようだが、決してそうではない。

信を失った人間はどうなるか。

孔子は「信がなければどうして生きていかれようか(生きていけるはずはない)」と仰る。

人間は一人では生きていけない。人と交わりながら生きていく。

我に信なく、人と感通しないようでは、まともに生きていくことはできない。

 

人にして恒なければ

論語子路篇に曰く、

子曰く、南人なんじん言へる有り。曰く、人にしてつねなければ、以て巫医ふいを作す可からず。

南人とは南方の人。古代中国では、北方で儒教が起こり南方で道教が起こったと言われる。儒教は礼楽を重んじるように極く現実的だが、道教では自然を重んじる。

だから文化も大きく異なる。南方ではシャーマニズム的な信仰が強く、南人は巫術を以て医術とするところがあったらしい。

それで南方の人が言うには、恒のない人であれば、巫(神に仕える人)は祈祷や治療を行わない。

恒は常とは違う。常は太陽に象り、恒は月に象る。太陽には満ち欠けがなくいつも同じで変わらない。月には満ち欠けがあり、変わらない中に変わるところがある。

人間が生きていく中では色々な出来事がある。進退も盛衰もあってたえず変化するが、そんな中でも徳においては一貫して変わらない所があるべきだ。それを恒という。

徳を恒にしなければ、行いが始終変わる。節操なく変化する。

利欲に流され、今日はこちらで良い顔をし、明日はあちらで良い顔をする。

恒のない者の言葉には嘘がある、まことがない。まことがなければ神もうべないたまうことはない。だから祈祷も治療も断るというわけ。

 

この言葉に続けて孔子はこう仰る。

其の徳を恒にせざれば、つねに之にはじすすむ。

恒なく信なく、巫医も断られる。

これは南方の人からすれば、神に棄てられたようなものだ。信仰の厚い土地では、神に棄てられた者は人からも棄てられる。いつでも必ず恥辱を受ける。

まさに「可なるを知らざるなり」で、南方の社会でまともに生きていけるわけがない。

 

天下に身の置き所がなくなる

「其の徳を恒にせざれば、或に之に羞を承む」は、易の雷風恒らいふうこうの言葉である。ここには一層厳しいことが書いてある。曰く、

九三、其の徳を恒にせず、或に之に羞を承む。ていなれどもりん

象に曰く、其の徳を恒にせざれば、るる所きなり。

徳に恒のない者は利欲に流される。信がない。

信のない者を重んじる者はない。軽く扱われる。いつでも必ず恥を受ける。

 

節操なく動き回る中には、時折正しい選択もあるだろう。しかしそもそも節操がないから、正しい所に長く留まることはできない。貞(正しい)であっても吝(恥ずべきこと)である。

恒がなく信がなければ、どこへ行っても相手にされない。今日はこちらへ来て良い顔をしても、明日には別のところに行ってしまう。言葉には嘘ばかり。そんな者は誰も相手にしない。

だから「容るる所无きなり」どこへ行っても受け入れられない。何かまずいことがあって困窮した場合に助けを求めても、皆な知らん顔をする。

 

信がなければ、広い天下のどこにも身の置き所がなくなる。広い天下のどこにも身を立てる所がなくなる。

まさに「人にして信無くんば其の可なるを知らざるなり」で、広い天下のどこにいっても不可なり。

 

陽虎が良い例だ。季孫斯に反旗を翻して一時魯の実権を握ったが、後に敗れて魯を去った。

この時、陽虎を受け入れる国がなかった。天下に容るる所が无かった。

陽虎を受け入れたのは、広い天下で趙鞅ただ一人であった。

 

信足らざれば…

孔子ばかりではない、老子も同じことを言っている。曰く、

信足らざれば信ぜざる有り。

自分自身が信に欠けるならば、人も自分を信じてはくれない。

もちろん、十分な信を備えることは難しい。大抵の人は多かれ少なかれ信に欠けるところがあるだろう。

少しく信に欠ける人に対して、人は「あの人は少し信用ならない」と思う。

大いに信に欠ける人に対して、人は「あの人は全く信用ならない」と思う。

ゆえに根本通明先生曰く、

人間に於ては、信義を欠くほど悪いことはない。

信に欠けるところがなくなるように、嘘のなくなるように、学問を積んでいきたいものである。

 

まとめ

信は大切である。信を失えば、まともに生きていくことはできない。

その実例が、最近あったではないか。国会に欠席し続け、除名処分を受けた元参議院議員

彼は元々、人の過去を暴露しまくることで一部から人気を得た。それで議員にまでなったわけだが、もとより信が全くない。

暴露の内容が真実であったかどうかは知らないし、興味もない。たとえ信実であっても信義のあろうはずがない。

そんな者が議員になろうと、何になろうと、其の可なるを知らざるなり。ろくなことにはならない。

こんなことは分かり切っていたが、実際そうなった。今や国際指名手配を受けている。

彼は日本に帰らないという。海外で逃亡生活をするのだろうか。

しかし信無くんば容るる所无きなり。天下のどこにも身の置き所はない。

孔子の教えは男尊女尊である

最近、何かと男女の問題がさわがしい。ツイッターなどでも、そういった発言やニュースをよく見る。

私は、現代の男女の問題について学んだことがない。しかし、儒学を通して男女の関係について考えることも多い。

孔子は男尊女卑ではない。男尊女尊であった。今回はこのことについて書いていきたい。

 

孔子は男尊女卑か

論語陽貨篇に、こんな章句がある。

子曰く、唯だ女子と小人とは養ひ難しと為す。之を近づくれば則ち不孫、之を遠ざくれば則ち怨む有り。

 

この章句を表面だけ読むと、かなり問題がある。

「女子と小人を養うのは難しいものだ。近づけ過ぎると狎れて無礼を働くし、遠ざけ過ぎると怨まれる」

 

女子と小人を並べてある。「女子とか小人とか、そういうつまらない人間は養い難いものだ」と書いてあるように見える。

養う・畜うといった言葉には、単に生かすという意味ではなく、「おさめる」「よくする」といった意味合いがある。孟子にも「心を養ふは寡欲より善きは莫し(心を修めるには慾を少なくするのが良い)」とある。

そう考えるとますますおかしくなってくる。女子や小人は養い難い。教育などによって良いものへと育てるのが難しいということになってしまう。

 

このように見ると、孔子の思想は男尊女卑になる。

これから色々お話ししていく通り、結局それは間違った解釈なのだが、なかなか分かりにくいから厄介だ。まあ孔子の方便である。

実際、このような記述に捉われた人から質問されたことがある。

儒教は男尊女卑だから現代には受け入れられないのではないか」

 

確かにその弊はある。しかしそれは後世の曲解であって、孔子は決して男尊女卑ではなかった。むしろ男尊女尊であったろう。

 

詩経と女性の徳

これは詩経を読むとよく分かる。詩経に、女性の徳を歌った詩がどれだけあるか。大体、冒頭の関雎かんしょからして女性の徳を讃えている。

女性によって男は良くも悪くもなる。女性の影響はまことに大きい。婦徳は偉大なものである。そういう思想に溢れている。

 

邪無し

孔子詩経を大変に重んじた。こんな言葉がある。

詩三百、一言以て之をおほふ。曰く思ひよこしま無し。

詩経の三百篇を貫くものを一言で言えば、「邪がない」ということだ。

邪とは心の邪、邪念。人には尊い本性があるが、慾によってそれが曇り、色々な間違いを犯すようになる。邪は慾のようなものだ。邪があれば純でなくなる。純なる本性が曇る。

詩経にはこの邪がない。純である。これは「誠」ということでもある。

詩経には国を思う歌がたくさんあるが、そこにも当然邪がない。地位や名誉のために国のために働くというような歌はない。

純乎として純なる歌、至誠の歌である。中庸にある通り「唯天下の至誠のみ能く化するを為す」で、至誠は純であるから人の心によく浸透する。他を感化する力がある。読む者は忠臣義士の心を我が心とし、善心を奮い起こすようになる。

だから古来、国を治める者の素養として詩が重んじられた。詩を学び、心を修めることで、延いては国を治める力にもなる。

 

孔子は男尊女尊である

詩経とは、そういうものだ。その詩経に、女性の徳を盛んに教えてある。

それを読む者にどのような影響を期待したのか。もちろん、道徳が盛んになることを期待したに違いない。

女性の徳はまことに重要なものである。これを詩によって学んだ者が国を治めるならば、当然女性の徳を軽視することはない。婦徳が盛んになることを目指すだろう。

その結果、女性の徳が盛んになれば国は興る。

もちろん、これは「女性の力が強くなれば」とか「女性の声が大きくなれば」とかの話では全くない。あくまでも徳の話である。

いくら力が強くとも、声が大きくとも、徳の力に比べたら取るに足らない。

 

女性の徳が男性に与える影響、感化の力は大きい。

徳を積んだ男性が、不徳の女性に溺れて堕落することが多い。

逆に不徳の男性が、賢徳の女性の感化によって立派になる話もまた多い。

人も国も、道義によって立つには女性の徳が欠かせないのである。詩経で女性の徳の偉大なることを知り、それを盛んならしめることで男性にも力となり、道義国家に近づくわけだ。

 

ここまで女性の徳が重要と書いたが、男性の徳も同じく重要である。どちらがより重要とは言えない。それは時と場合にもよる。

間違いなく言えるのは「一陰一陽、之を道と謂ふ」で、陰である女性の徳も、陽である男性の徳も、どちらが欠けても世の中はうまく回らないということだ。

詩経の精神を見れば、孔子が男尊女尊の立場であったことは明らかである。

 

伯魚への教え

孔子の御子息を伯魚はくぎょという。論語の中で、孔子が伯魚に教えたことが二箇所あるが、どちらも詩経に関する教えである。

これをよく読むと、孔子が詩を重んじたこと、男尊女尊であったことが一層よく分かる。

 

詩を学ばねば話にならぬ

孔子のお弟子に陳亢ちんこうという人がいる。この人があるとき伯魚に、

「あなたは先生から何か教わりましたか」

と尋ねた。息子であるから、何か特別に教わったことがあれば自分にも教えて欲しいと思ったのだ。

そこで伯魚が答えるには、

「昔、父が一人で立っておられたとき、私は(孔子の目の前の)庭を小走りで通り過ぎたことがあります。

そのとき父から『お前は詩を学んだか』と聞かれたので、『まだです』と答えました。

すると父は、『詩を学ばざれば以て言ふこと無し(詩を学ばなければ人に対して何も言えないぞ、話しができないぞ)』と仰いました」

 

些細な事に学問が現れる

目上の者の前を過ぎる際、小走りになるのは当時の礼である。

それを見て、孔子は伯魚に「お前は詩を学んだか」と仰る。おそらく、目の前を過ぎる伯魚の姿を見て、まだ学んでいないと分かったのだろう。

相手のささいな動きから学問や修行の程度を推し量る。こういうことはよくある。

 

例えば高野茂義という人がいる。この人は明治~昭和の剣道の達人。

身体が大きく、体重は90キロ弱。力も強く、相撲部屋に入門を勧められたこともあった。

その人が二階から降りてくる足音を、家族は一度も聞いたことがなかったという。廊下を歩く音も聞こえない。

気が充実していると足音がしなくなるのだ。気が抜けていると足音がうるさい。足音がバタバタしているのを見れば、気が抜けているな、修行が足りんなと分かるわけだ。

 

孔子がどのように見たか分からないが、やはり伯魚に対しても走る姿を見て「学問が足りない、詩をもっとよくせねばならん」と気が付いたのだろう。そうに決まっている。

 

詩で人情を知る

それで仰るには、「詩を学ばなければ、人と立派に話もできないぞ」と。

 

詩を学ぶことと、人と話すこと。これは大いに関係がある。

詩経の歌には邪がなく純であるからだ。詩を学べば人情道理を悟ることができる。人の心の動きが分かるようになる。

詩を学ばず人情道理を悟らねば、人の心の動きが分からない。当然、うまく話すこともできない。

 

周南召南をやらねば学問は進まない

別の機会に、孔子は伯魚にこんなことも教えている。こちらは、「女子と小人は養い難し」により関係の深いもの。

子、伯魚に謂ひて曰く、なんじ周南しゅうなん召南しょうなんおさめたるか。人にして周南・召南を為めずんば、其れ猶ほ正しくしょうに面して立つがごときか。

孔子が伯魚に仰った。

「お前は周南・召南を学んだか。人としてこれを学ばないうちは、土塀の前に立っているようなものだぞ」

 

周南と召南

周南と召南は、詩経国風の第一と第二。詩経の中で最も重要なるは周南召南の二篇である。

この二篇は家を治めることを教える。

家を能く治めることができれば、人を治めることもできる。延いては国も立派に治めることもできる。

 

注目すべきは、周南召南はほとんど女性の徳を歌ったものばかりであること。

婚姻などを歌ったものもあるが、それも徳のある女性を、男性が礼を以て迎える歌である。

なぜ徳のある女性に礼を尽くすのか。一家を治めるに、女性の徳の働きが非常に大きいからである。

 

もちろん男性の徳も大きい。男性が妻を治め一家を治めるところもあるべきだ。しかし同時に、女性が夫を治め、一家を治めるところもあるべきだ。一陰一陽、どちらも欠かせない。

 

牆に面するとは

「お前は周南召南を読んだか」

孔子が伯魚にこう仰ったのは、やはり何かの折に「伯魚には周南召南が足りない」と感じたのであろう。

周南召南を読まねば、其れ猶ほ正しく牆に面して立つがごとし。土塀の前に立っているようなものだ。

これも孔子の方便である。土塀の前に立っているとはどういうことか、なぜ悪いか、なぜ周南召南を読まねばそうなるかをよく考える必要がある。

 

目の前に土塀があるのだから、そこから前に進もうと思っても進めない。土塀にぶち当たるだけだ。

これと同じで、周南召南を読まなければそこから学問が進まなくなる。

土塀があってどうもならんと諦めるのではいけない。ぜひそこから進むべきなのだ。土塀は建物を囲っているのだから、それより中に入ればまた別の世界が広がっている。周南召南で土塀を越えてこそ、新たな境地が開けてくる。

 

孔子の牆は数仞

「牆」の例えは、論語にいくつか見える。

子張篇で、魯の大夫がお弟子の子貢に対し、「孔子よりもあなたの方が勝っているのではないか」と言った。

子貢はこう答える。

之を宮牆きゅうしょうたとふれば、の牆や肩に及べり。室家の好きを窺ひ見ん。夫子の牆や数仞すうじんなり。其の門を得て入らざれば、宗廟の美、百官の富を見ざらん。其の門を得る者或は寡し。

賜は子貢のこと、夫子は孔子のこと。

 

私の学問を牆に例えるなら、せいぜい肩くらいの高さでしょう。中を覗くのは容易です。覗けば家の装いや庭の様子など、まあ美しい所もあるかもしれません。

しかし先生の牆は数仞もあります。城壁のようなものです。背伸びしたって中を覗くことはできません。中を見るには門から入るほかありません。門を得なければ、宗廟のような建築の美しさや、大勢の人が中で働いている様子は見えません。また、門から入った人はほとんどいません。

 

孔子の学問は非常に高い。牆にすれば数仞である。天子の牆は約六仞。孔子の学問はそれくらい高いから、並みの人には分からない。

子貢の方が偉いと言った大夫には、子貢の学問が少し見えたのだ。それが素晴らしく思えた。孔子の学問はとても分からなかった。優れているとは思えなかった。

 

大夫には見えなかった、孔子の「牆」の中には何があったか。

子貢は「宗廟の美」「百官の富」と例えた。孔子の学問は高い塀に囲まれているけれども、よく学んで門を得ることができれば、そのような素晴らしい世界が見える。

 

周南召南は治国平天下の門

孔子が伯魚に仰ったのも、同じように解して良いと思う。

「人にして周南召南を為めずんば、其れ猶ほ正しく牆に面して立つがごときか」

周南召南を読まねば、とても越えられない高い牆の前に立っているのと同じで、牆の内に広がる素晴らしい世界は開けてこない。

周南召南を学ぶことが、門を得る機縁になるということだ。

 

それはそうだろう。

大学にもある。身を修め、家を斉え、国を治め、天下平らかなり。

詩経を読むと人情道理が分かり、身を修める助けになる。殊に周南召南を学べば婦徳が分かり、家を斉える道が分かる。それが治国平天下にもつながる。

 

孔子の道は聖人の道である。治国平天下は聖人の業である。孔子の数仞の牆の中には、聖人だけが知る世界が広がっているに違いない。

ここに入る門は色々あるだろう。ひとつではないはず。

治国の前に斉家や修身があるのだから、周南召南はその門のひとつといえる。

 

孔子の男尊女尊主義

以上を踏まえて本題に返る。

子曰く、唯だ女子と小人とは養ひ難しと為す。之を近づくれば則ち不孫、之を遠ざくれば則ち怨む有り。

 

女子の解釈

重要なのは「女子」の解釈であろうと思う。これを女性全般と解すると男尊女卑になる。

しかし、詩経から分かる通り孔子は男尊女尊主義である。とすると、この「女子」は女性全般を指すものではなく、女性は女性でも徳のないもの、周南召南にあるような女性から遠いものを指すと考えるのがよかろう。

小人と並べていることでも分かる。小人には「徳のない者」「身分の低い者」の二つの意味がある。「身分が低く徳のない者」でもよいだろう。

「身分が低く徳もない男性」と並べたことから、この「女子」は「身分が低く徳のない女性」と解するのが穏当だろう。

 

ここでは、あえて「身分が低く」という要素も考えるべきと思う。いわば下男下女、召使の男女といったニュアンスである。

それを我が家で雇っている。召使は住み込みで働くから、家の主人が養うことになる。

この養いが難しい。親しんで近づけ過ぎると、主人に狎れて無礼になる。かといって遠ざけ過ぎると怨むようになる。

 

孔子の真意は

もちろん、これは孔子の方便であろうと思う。

孔子は、一般的な関係を指して「主人と召使の関係はこうである、ああである」と説いているのではない。孔子の家で働いている下男下女に「養い難し」とうんざりしたのでもない。

孔子の志は天下にあったのだから、やはりこれは天下について言っているのである。

 

周南召南にある通り、女性の徳は偉大である。しかし女性の悪徳の害も甚大である。

周が衰えてからというもの、男女の乱れが甚だしくなった。諸侯の家でも、君主の夫人や側室の悪徳が原因で国が乱れることが珍しくなかった。

また、小人が権力を握った場合も同様である。君主の明を晦ませ、好き勝手に権力を振るって大乱を招く。

 

つまり孔子の仰るのは、こういう意味ではないか。

宮中に女官を抱える、夫人や側室を迎える。また多数の臣下を抱える。

世が乱れた今、徳のない女性や臣下も多い。しかしそれも含めて養い、国を治めていかなければならない。

これは大変難しいことである。

 

安井息軒先生曰く

女子と小人を養うのは大変難しいけれども、重要なことであるに違いない。

安井息軒先生は『論語集説』でこう述べる。

此の章は、後世の家を治むる者を警むるなり。此の二者、常人多く之を軽んじ、以て意と為さず。然るに人家の禍、往々にして此れに由りて起こる。慎まざる可からず。

身分が低く徳もない者を、多くの人は軽く考える。しかしこれが軽くない、むしろ重い。家の乱れはこういうところから起こってくる。

一般の家でも国家でも同じことである。ゆえに慎まざるべからず。

 

広瀬淡窓先生曰く

孔子の仰る「近づけ過ぎると不遜になる、遠ざけ過ぎると怨む」というのは、具体的にどういうことか。

広瀬淡窓先生の『読論語』が分かりやすい。「女子と小人」の註にこうある。

晋の孝武こうぶ、宮女のしいする所と為り、唐の憲宗けんそう、宦者の弑する所と為るが若し。

私はこの辺の歴史に疎い。十八史略にある簡単な内容しか知らない。

十八史略によればこうである。

 

孝武皇帝

東晋孝武皇帝は酒と女に溺れた。晩年、張貴人という女性を寵愛していた。ある日、孝武皇帝は酒に酔って、戯れに言った。

「お前も、もう廃すべき年齢になった」

張貴人はこのとき30歳。孝武皇帝は冗談で言っただけだが、30歳といえば当時としてはもう若くない。張貴人は皇帝の発言を真に受けて、自分が廃せられることを恐れた。それで、召使に命じて酒に酔った皇帝を殺してしまった。

女子を近づけ過ぎたために不遜となり、弑逆に至ったのである。

 

憲宗皇帝

唐の憲宗皇帝は衰退した唐を立て直したともいわれるが、その後段々と驕侈になっていった。

仏教と道教に傾倒した皇帝は、あるとき仙薬を飲んで精神に異常をきたした。宮中で仕える宦官が些細なことで罰せられ、死ぬことも増えた。周りの者はこれを怖れて、もう危ないから殺してしまおうということになり、宦官の陳弘志という者が弑逆した。

憲宗皇帝が即位したころ、宦官の勢力が強かったらしい。その弱体化を図る施策にも積極的だった。つまり小人を遠ざけ過ぎたのである。それで怨まれ殺された。

 

孔子の立場から考える

孔子も、徳のない者による乱れを憂えていたのだろう。

しかしそれをあからさまに言うのは憚られる。孔子にも立場があり、守るべき礼がある。

 

この言葉を孔子がいつ仰ったか定かではないが、魯の国でも女子と小人による乱れがあった。

小人による乱れは分かりやすい。三桓氏が権力を振るっていた。陽虎のような者もいた。

斉の景公と魯の定公が会合を行った「夾谷きょうこくの会」では、孔子の活躍によって魯は斉に奪われた土地を取り戻した。

斉は、魯の強大化を恐れた。孔子の補佐によって魯が覇者になるであろうと。

そこで斉は大勢の美人と馬を魯に贈った。魯公と大臣たちは美人に溺れ、朝議に出席しなくなった。もちろん、周りの小人たちの助長もあっただろう。

礼も乱れた。こうの祭り(天を祭るもの)を行ったが、魯公は祭肉を大夫に分け与えなかった。

祭肉を分け与えるのが礼である。孔子は、魯公がこの礼を守れば国に止まろうと考えた。しかし魯公は礼を守らなかった。孔子はもはや望みなしと考え、国を去った。

 

孔子が「女子と小人は養い難し」と仰ったのは、このようなことを指すのではないか。

魯公が女に溺れたこと、小人が跋扈していたことをそのまま言えば、君公を謗ることになる。これは礼に反する。

孔子は礼を重んじ、君公を謗ることをしなかった。非礼を指摘された君公を庇い、他国の大臣から「孔子のような者でも身内びいきをするか」と責められたこともあった。孔子はそういう人である。

だから孔子は、単に「下男下女は養い難し」と表現することで、魯の乱れ諷したのではないか。私にはそう思える。

 

女子と小人を養う法

孔子は、女子と小人は養い難し、と仰る。

とはいえ、徳のない者は必ずいるものだ。それを憎むことが甚だしく、盛んに排斥などすれば却って乱れの原因となる。

徳のない者も徳のある者もいる中で、いかに治めていくかが重要だ。

これについて、易経に良い教えがある。

 

天山遯

易の六十四卦の一、天山遯てんざんとんの卦は、一卦六爻のうち三爻から上爻まで(上の四本)が陽爻、一爻目・二爻目の二本が陰爻。

陽爻は君子、陰爻は小人と見る。また、爻が上にいくほど地位が高いものとみなす。

ここでは上位の四爻、上から高い順に四つの位を君子が占めている。しかし、下位の小人も徐々に昇り、一爻と二爻を占めた。ここから小人の勢力が強くなっていく兆しがある。

小人の勢いが盛んになれば、君子は追いやられることになる。この流れがどうしても避けられない場合、君子は地位を去って世の中を避ける。

 

遁れることの是非

君子たるものが早々と逃げ出し、小人の跋扈を許す。これは一見すると悪いようだが、必ずしもそうでない。

どうしても小人の勢いに抗し難い時代がある。聖人君子でもどうにもならない時期がある。

そこで立ち上がる君子も立派には違いないが、正しいとは限らない。

 

歴史をみると、小人が朝廷に跋扈するのを憂えて賢人が起ちあがった例が少なくない。

しかしこういう場合、小人の勢いは日に日に盛んになっており、君子の勢いは日に日に衰えている。そこで立ち上がった君子は誅殺される危険が大きい。

誅殺したら終わりではない。小人は後顧の憂いを絶つべく、遁れていた賢人までも抹殺しようとする。粛清によって回天の芽がなくなってしまう。

君子が遁れずに起ちあがったことで、却って小人がますます勢いづく結果となる。

 

それを避けるために、君子は遁れる。

隠遁して悠々自適に暮らすのではなく、隠遁して小人の盛んな時代をやり過ごし、時期を窺うのである。

 

祭肉を賜らなかったことで孔子が魯を去ったのも同じことではないか。

養い難き女子と小人によって国が乱れ、礼が乱れた。これからも乱れは甚だしくなるだろう。そこで高い地位を守り続けるならば、勢いづいた小人に迫害される恐れがある。そうなる前に退き、別の方法を模索しよう。

たしかに孔子は遁れたが、国を棄てたわけではないし、志を枉げたわけでもなかった。

 

臣妾を畜へば吉

ともかく、このような場合の処し方、退く(のがれる・遁れる)道を教えるのが天山遯。

天山遯の九三にこうある。

九三、とんを繋ぐ。やまい有り、臣妾しんしょうやしなへば吉。

象に曰く、繋遯のあやうきは、疾有りてつかるるなり。臣妾を畜へば吉とは、大事に可ならざるなり。

 

遯は遁れる、繋はつなぐ。繋遯は遁れようとする者が繋ぎ止められて、遁れられないことをいう。

何に繋がれているかといえば、普通、ここでは下の小人に縛られて身動きが取れなくなると解する。

色々考えられるだろうが、例えば立場に縛られる。今の立場を放棄すれば禍に逢うこともないのだが、そうすると小人の跋扈を許すことになり、国がどんどん乱れていく。責任ある立場としてそれは避けたい。このような思いに繋がれる。

もちろん立場が上であるだけに、そこを去ることによって名利を失うことを恐れる人もいるだろう。

 

遁れるべきときに遁れないのだから、当然危うい。小人の勢いが強くなってくると、必ず禍が降りかかる。

かといって、大事に可ならざるなり。小人の勢いを削ぐために排斥運動をするなど、大きなことをするのは悪い。小人の抵抗が却って激しくなり乱を招く。

 

そこで、臣妾を畜えば吉。

臣妾は身分が低く徳のない者で、論語の「女子と小人は養い難し」と同じである。

この臣妾を養う道をもってする。(一爻・二爻の)小人を正しく取り扱えば吉である。

小人は近づけ過ぎると狎れる、遠ざけ過ぎると怨む。これを養うには、近づけ過ぎず遠ざけ過ぎず、適当に取り扱う。

すると一爻・二爻の小人が狎れたり怨んだりすることがなく、君子は禍を避けられる。

 

これは吉である。禍を避けた君子にとって吉であるだけではない。小人にとっても、人民にとっても吉である。

小人が君子を侵して高い位置に昇る。これは下が上を侵すこと、つまり乱であり大罪である。

また小人が権力を握ると、ろくなことにはならない。まずい政治を行い、軽々しく戦争などを起こし、大抵は奢侈に耽る。そのために税を重くする。人民にとって不幸である。

 

君子が小人をよく養い、せいぜい一・二爻目の低い位置に止めておく。

これによって、下が上を侵すことがなくなる。乱を防ぐことができる。

低く居るべき小人が高く昇ったところで、そんな栄華は長続きしない。早晩破滅を招く。つまり小人は君子に養われることで吉を得るわけだ。

すると人民が苛政に苦しむこともない。善政によって暮らしも良くなる。人民にも吉である。

 

なお、ここにあるのは臣妾を”畜ふ”。既に述べた通り、畜う・養うには「おさめる」「よくする」の意味がある。

下位の小人にも能力のある者がいる。このような能吏を君子の下でしっかりと活かし、政治に役立てる。

君子が小人を畜う、おさめる。小人の力をポジティブに、よくする方向で活かす。これでも国が良くなる。小人にとっても、人民にとっても吉である。

 

臣妾を畜えば吉とは、こういうことであろうと思う。

 

近づけず遠ざけず

易には、天山遯の九三に類する言葉が他にもある。

宮人を以て寵するは、終にとがきなり(山地剥、六五)

根本先生の解釈で読むと、少し変わった見方ができる。

 

宮人は宮中で召し使われる女官。女官は宮中の仕事をするもので、政治には関与しない。天子が宮人を寵愛したところで、政治に関与させなければ国を害することはない。咎めはない。

天子が小人に対するにも同じである。宮人を寵するように取り扱う。近づけるには近づけるが、近づけ過ぎることはない。近くで使うが枢機には関与させない。権力を握らせたり、政治に意見させたりしない。それならば害はない。小人に権力を授けるから害になる。

小人だからといって、これを憎んで遠ざけるようなことをすれば却って害をなすから、賢明な君主はこれをあえて寵して近づけておく。まあ、自分の近くで手懐けておいて、賢臣や人民に害のないようにする。近づけてしかも遠ざけ、遠ざけてしかも近づけるわけだ。

これが臣妾、女子と小人を養う道である。

 

易の方では、主に君子が小人を養うことを教えている。陽が陰に対する法、つまり男性の徳を以て治めることを説く。

女性の徳は大切だが、男性の徳も大切である。

男性の徳を以てすれば女子と小人、臣妾を制して乱れを防ぐこともできる。

これは男尊の方である。女尊も男尊もどちらも大切とは、こういうことである。

 

男尊女尊の世界が見たい

易経では、臣妾を近づけず遠ざけず養えば吉であるとする。咎めもない。

論語も同じことである。

どちらも「女子と小人は養い難し」としながら、女子と小人を養い、皆が吉になる道を示している。

 

またここでいう女子は、女性全般を指すのではない。むしろ孔子は、詩経からも明らかに分かるように男尊女尊であった。

この記事を読んだ人が、孔子論語儒教を以て「男尊女卑だ」という思い込みを解き、男尊女尊という価値観を知ってくれたならば、長々とお話しした甲斐がある。

 

今の時代、偏った意見が多い。

男尊女卑は悪い。それは当然のことだ。

しかしこれを責めるあまり、女尊男卑を正義とするような考えも随分多いように思う。女尊男卑も当然悪い。

男尊女卑と女尊男卑の争いが続けば、必ず分断が深まる。

 

解決策は男尊女尊にあるのではないか。男性は女性の徳を尊び、女性は男性の徳を尊び、一陰一陽で円満な道を為していくような、そういう世界を私は見たい。

子路に関する覚書

先日、久々に弟とお酒を飲んだ。といっても一ヶ月半ぶりくらいに。

大変よいお酒だった。

 

色々話したが、途中、子路について話すことがあった。

何も準備して話したわけではなかったが、話すうちに子路のことが一層よく分かった気がする。

お酒を飲みながらのことで、そのうち忘れてしまうかもしれないので、ここに書きつけておこうと思う。

 

 

きっかけは、「何のために学ぶか」という話になったこと。

自分が話したことを思い出しながら書いてみたい。

 

俺がなんで学問するかといえば、まあ簡単に言ったら、学問して強くなりたいというのが一番やね。

これは孔子も、「学問するのは強くなるためだ」と言うとる。

学問したら強くなるのが道理よ。でも学問して弱くなる人もおる。

それが何でか俺にはよく分からんけども、考えるけえやろか。学問するなら、考えんといかんけえ。

 

勉強したら疑問なんか出てくるやろ、学んだことと現代のギャップも大きいし。

そしたら考えるわな。考えるけど、何年か学んだくらいの頭でいくら考えてもさ、考えの及ぶことなんてたかが知れとろうが。それで、よく考えても答えが見えん、真面目な人ほど疲れるんやろなあ。

俺もそんな時期があったやろう、よう覚えんけど。付き合いのある学生さんなんかにもそういう人がおるよ。

別にそれは必ずしも弱いんやないし、悪いことでもないけど、そこで疲れて折れたとなると、少なくとも学問して強くはなっとらんわね。

 

あとこれはしょうもないけど、学問して偉そうにする人ね。なんぼなんでもこれは弱すぎるわ。

慎みがないもん。慎め慎めというのが孔子の教えなのに、それを学んで慎みがなくなっとる。学ぶ前よりも。

偉そうにして威張りくさって。威張りくさるいうけどね、ほんとによう言ったもんよ。臭くって臭くって仕方ねえわ。威張るだけ見た目は強いかもわからんけど、臭いばっかで弱いよね。

そうなりがちやけどさ、普通の人、普通以下の人、俺もそうやけど。これは怖いなあと思っとる。

威張るのはくだらん、馬鹿のすることよ。勉強して馬鹿になるなら、最初っからやらんがマシや。博打でもやっとった方がよかばい。孔子もそげん言うとった。

 

学問したら強くならんといけんのよ。

それで有名な話。孔子たちが餓死しかけたことがあるんよ。

論語だけじゃなくて色んな本に載っとるけえ、そういうことが間違いなくあったんやろ。

 

「陳蔡の野にやくする」いうてね。軍隊が孔子一行を囲んで通せんぼしたもんやけ、何もない野原に孤立したわけやな。

野原いうより荒野やったかもしれんね、「俺たち牛でも虎でもないのに、なんでこう彷徨わんといけんのか」いうて、孔子が歌ったげな。

誰が何で通せんぼしたかはいくつか話があるけど、まあ軍隊に囲まれた。

 

そんとき孔子たちは、楚という国に行こうとしよったんやな。

楚は南のおっきい国よ。春秋戦国いう時代があるやろ。その時代の強い国で、いっつも北ば攻めよる。

もう一つ呉という、これも強い国やけど、これが楚と戦争しよった。

陳とか蔡とかいうんは小っちゃい国やし、攻めて攻めて中原、中原いうんは中国の中心やな、そこに行こうと思ったら陳や蔡は通り道よ。楚が北を攻めようと思ったら、どうしたって陳や蔡が一番にやられるわけや。

楚と呉が争うのにも、蔡なんかは特にそのちょうど間にあるもんやけえ、巻き込まれるわけや。

そこで、楚に行こうとした孔子たちが疑われた。呉の兵に囲まれたとか、蔡の兵に囲まれたとか。

どっちにしても、楚には行かせんようにするやろ。呉にとって楚は敵、その時蔡は呉についとった。

 

孔子は理想の政治がしたかったんやな。それで王道いうもんを色んな国で説いたけれども、どの国の王様もようやらん。

楚の王様だけは立派な人やったみたいで、なら楚に行こうとなった。

井上靖が書いた孔子の小説やと、子路と子貢と顔回、この三人が孔子のとこで特に優れた人なんやけども、孔子はこの三人を楚に仕えさせたかった、という書き方をしとるね。そういうこともあったかもしれん。

まあ、そうなる前に王様が死んで、どげんもならんやったけども。

 

孔子は魯という国の人、そこで大臣になったことがある。それはもう、政治家として立派なもんよ。成績も抜群や。弟子にもすごいのがいっぱいおる。

これがまとめて敵についたらどうか。ちょっと敵に回せんやろう。それが楚に行って腕を振るおうというんやから、これはまずいと敵方では思ったんかもしれんね。楚が強くなったらいかんと。

それで孔子たちを囲んだと、何かの本で見たことあるな。

 

七日火食かしょくせず、いうてね。カショクのカはfire・火、物を煮炊きすること。まあ七日間メシ食われんやったんやなあ。

それでお弟子たちはみんな足腰立たんごとなった。もう死ぬかもしれん。

この辛い時に、孔子は平然と琴を弾きよったらしい。

ちょっとみたら意味不明よな、もう生きるか死ぬかのところで琴なんか弾きよったら。

やけえ子路には、俺たちの先生はどげんしたとやろか、死にそうな奴もおるのに、ちょっと俺が言ってくる、そういう気持ちもあったんやろう。

「先生、こんな時に琴なんか弾いて、おかしかやないですか」

「俺たち何も悪いことしとらん、むしろ良いことしよる、なのに何でこんな目に遭わんといけんのですか」

 

儒学の古い本を読むと、確かに子路のいう通りなんよ。

良いことをしたら福がある、悪いことをしたら禍がある、これが基本やから、子路たちには福があるべきなんやけれども、でも死ぬような目に遭っとるわけだ。

論語やとこの話は極く簡単に書いてあるけど、『孔子家語』いう本には詳しく書いてある。

「昔の本にも吉凶禍福は人次第と書いてあるし、君子なら困窮せんと思います。でもこんな目に遭っとるのは、先生に徳がないからじゃないですか」

と責めるようなことを子路は言うとる。

 

子路孔子を心から尊敬しとる。孔子の教えなら何でも正しいというような人よ。孔子が教えることを熱心に守ってきた。まあ君子になるために骨折ってきた。

君子といえば立派な人のこと。なら立派に世の中を渡っていけるはずやね。しかし七日火食せずで死にかけよるわけや。それが悔しかったんやろなあと思う。

それで子路が「君子亦た窮すること有るか」という。窮するいうんは行き詰ること。君子でも行き詰ることがありますか、ないはずやないですか、でも実際こげん窮しとる、これはどういうわけですかと孔子に迫った。

 

そしたら孔子は、子路それは違うよと教える。

子路は「君子なら窮することはないはず」と言ったけれども、孔子は「違う、君子だから窮するんだ」と言う。これすごい言葉よ、わかるかね。

 

子路の云う通りよ。君子は立派な人。でも、世渡りが上手いか下手かは別問題やろ。それはそれ、これはこれや。

何もない時代なら上手く世渡りできるやろうけれども、当時は乱世やからね。

すると、立派な人は苦しまんとおかしいわけだ。だって、君子は道を枉げんもん。

君子やなかったらどうか、道を枉げるわけやな。なんかまずいことが起こりそう、道を枉げたら避けられる。どうするか。君子じゃなきゃ、やっぱり枉げるんやな。騙すのは悪いことと分かっとっても、人を騙して苦しみから逃れるとか。

君子は道を守る、何日も食われんようなことがあっても、それやけなんか人を騙そうとか、じたばたせんわけよ。策を弄さず、道を守って苦しむのが君子。

これを孔子は、「君子もとより窮する」と言ったわけや。君子だから苦しむんやと。

 

蘭という花があるやろ、あれは香りで有名や。今の日本やと胡蝶蘭みたいなもんばっかりで、あれは香りがせんのんよ。でも蘭は本来香りで有名よ。バニラなんかも蘭の仲間やけえね。

孔子子路に、君子は蘭みたいなもんやと云うわけや。

山の中で咲く蘭は、人に「いい香りやなあ」ち思われたいけえ咲くんか。違うやろ。そんなんどうでも、咲く時には咲くし、咲けば誰に気づかれんでも良い香りを撒き散らすわけや。

君子も同じよ。君子は道を守る、道を守れば徳がある。蘭が咲けば香るのと一緒よ、徳もあれば香る。

でも君子は人に立派やとか、偉いとかすごいとか、そう言われたくて道を守りよるわけじゃなか。仁とか義とか、礼もしっかりしとるし智慧もある、政治もようやる、皆なその人のこと好きよ。でも好かれたくて道を守りよるんやない。

蘭が咲けば香るのと同じで、君子も学んで道徳を身につけたら香らずにはおらんわけよ。苦しくても、苦しくなくても、認められても認められんでも、なにがどうでも君子なら道を守るし、道を守れば徳が香るわけやな。

 

逆に小人、徳のないもんはどうか。見た目が立派で君子みたいでも、徳がなけりゃ香らんわな。

それを孔子は「小人窮すれば濫る」いうてね、小人は苦しくなったらすぐに乱れるんやと。

小人は徳がない、そりゃ道を守らんのやけえ当然よ。何でもない苦しくない時なら守るかもしれんよ。でも何かあったら道を簡単に枉げてしまう。正しくないこともする。なりふり構わん。乱れまくって、わけわからんごとなるわけや。悪いことでもなんでもやる。

 

君子はそうやない。蘭みたいなもんで、苦しくても道を枉げん。小人とは大違いやと。孔子子路にそう教えるわけや。

これは子路には嬉しかったやろうねえ。嬉しくなって踊ったらしか。

えらい苦労しよるけれども、君子やから、正しいことしよるから先生と一緒に苦しむんやと。

孔子から、俺もお前も君子やから苦しんどるだけで、これでいい何も間違っとらんと言われたんやから。

子路の学問はここでぐんと進んだんやろうなぁと、俺は思うね。

 

俺もこの「君子もとより窮す」という言葉は大好きでねえ。これ、ほんとにいい言葉よ。

よく「正直者は馬鹿を見る」って云うやろ。これ、正直者を馬鹿にする言葉に聞こえるやろ。

でもね、孔子の言葉からすると、これは褒め言葉なんよ。君子もとより窮すると一緒やん。正直に生きて馬鹿を見た、道を枉げずに苦しんだ、どっちも一緒やんか。

いいよねえ。正直で馬鹿を見て、それでクソッとなるのが当たり前やし、どうかすると折れる。そこで、平然とできる強さが欲しいわけだ。俺が学問するのもそれよ。それだけ。孔子とか子路みたいになりたい、学問する理由なんかそれで十分やろう。

 

子路は勇で有名やった。勇者として知られとった。その勇者の子路が、餓えてくじけそうになった。

先生の孔子は全くそんな風なことない。平然としとる。

その理由を知って、「ああ自分の勇気は小さかった、大きい勇気というのは先生のようなのを云うんや」と、本当の、正しい勇気を知ったんやろうね。

 

それやけえ子路はあんな死に方できたんやろ。

その後子路は衛という国に仕えて、内乱に巻き込まれて死ぬんよ。

子路は主君のために戦う、けど劣勢よ。それで殺される。

戦っとる最中、冠のひもを切られた。

そしたら子路は「君子はいつでも礼儀を守るもんや」と、冠をきちんとかぶりなおして、それで殺されたわけや。

 

これすごいよねえ。涙がでるわ。

あのとき陳蔡の野で孔子と一緒に苦しんで、子路は小さな勇気で疑いを抱いたけれども、このときはもう違う。

窮するといえば、殺されるほどのことはないわけよ。

でも「君子また窮することあるか」で疑いながら殺されたんやない。「君子もとより窮す」で、先生の教えを守って堂々と窮して堂々と殺された。

これで、子路はほんとの勇者やった、立派な人やったとわかる。

 

子路を小勇から大勇に仕立てた孔子の偉さも分からないかん。

孔子はね、故郷の子たちを仕立てようと、そういうことを仰る。「仕立てる」っちゅうのがまたよかね。孔子らしか。

長すぎるところは短くして、短すぎるところは長くして、素材ごとに、まあ教える相手の性質なんかをよく考えて。教育は仕立てるんやな。

やけえ論語読んだらわかるよ、弟子によって教え方が全然違うけえ。ある人には「こうせえ」、別の人にはそれと真逆の「ああせえ」。

教えがブレとるわけやない。左に偏っとる人には右に行け、右に偏っとる人には左に行け。三千人も教えよったらそういうことがなんぼでもあるわけたい。

 

型にはめるなら十把一絡げで教えればよか。でも孔子は仕立てるけえ、そうはならんわけや。すごい人よほんとに。

孔子が仕立てたけえ、子路はあんな立派な死に方できたんよ。

 

ここまで一息に話した。弟は聞き上手で、人が話しているときに口を挟まないから、私が一方的に話した。

子路の死にざまを話したとき、弟も感動していたように思う。

子路っていう人は本当に偉かったんだよ」と言いながら、私は涙が出た。ちょっとしんみりした。

 

弟が言う。

子路って、ヤンキーみたいなキャラですよね。

孔子もそれが可愛かったんでしょうね。クラスで出来の悪い生徒が、先生からなんか可愛がられるみたいな」

これをきっかけに、また話した。

 

ヤンキーっちゅうと、ちょっと変な感じがするけど。でもまあ、そういうところはあったんやろうね、特に孔子に会う前は。

子路孔子に初めて会った時の話がおもしろいよ。

 

子路は剣の腕が立つ人やった。当時は乱世やし、剣は頼りになる。それで成りあがることもできるかもしれん。殺されそうになったら剣で戦えるし。

そんなら学問はどうか、子路は役に立たんと思っとったわけや。だって、いくら学問あったって、偉そうなこと言ったって、斬られたらおしまいやもん。

 

それで学者が嫌いやったんやろなあ。学問学問言うとる、孔子というのがおると。それをひとつやっつけようというんで、孔子のところに乗り込むわけだ。それで言うのが、

「学問が何の役に立つんや、南山の竹はそのままでも真っ直ぐやろもん」

 

南山は竹の名産地でヤダケいう、まあ弓矢にするのにちょうどいい竹やな。細くて真っ直ぐで、切ったらそのまま使えるような。

子路が言いたいのは、南山のヤダケみたいに素材がよければそれでよか、ということやね。もっと言ったら、子路子路という素材のままで十分に役に立つ、学問なんか何の役に立つんやと言いたいわけや。

 

そしたら孔子が言う。「しかしその竹に鏃をつけて、矢羽根をつけた人がいたんだよ。それが学問だ」

確かに南山の竹はいいよ、でも鏃をつけたらもっと深く刺さるし、矢羽根をつけたら遠くまで真っ直ぐ飛ぶ。

子路という素材もいいよ、でも学問したらもっといいもんになる、剣ももっとよく活きるというわけやね。

 

それで子路は参って、すぐに弟子にしてくださいと頭を下げた。これも子路の偉さよ。

人に難癖つけるようなもんは小才子が多くって、自分が間違っとるのがわかってもガチャガチャうるさかろうが。黙りゃぁいいのに。

子路はそういう人やない。潔さも子路の徳やね。

 

それで思うのは、孔子の教えはいつも一貫しとるんよ。

子路が初めて孔子に会って教えられたのは、学問は人をもっと良くするもの、強くするもの、っちゅうことやろ。

陳蔡の野で教えたのも、君子もとより窮す、学問で君子になったら、どんな苦労しても道を枉げんような強い人間になると教えたわけよ。

どっちも一緒やろ、学問は強くなるためにするんやと、ずっと教えよる。

強くなるためやと言われて弟子入りして、その通り強くなって死んだんやから、子路は本当に立派よ。

 

これまで、子路が入門するときの話は、それはそれとして単体で捉えていた。

しかし弟と話す中で、全部一つのつながりとして捉えることができた。

これはありがたいことだった。

 

また、私は本当に論語が好きなんだなと思った。

 

俺には子路が特別な人なんやけど、お前にはその理由がわかるやろ。俺が学問するのも、そういうことなんよ。

こういうことが分かるけえ、論語はいいよ。色々な本があるけど、論語が一番面白いかもしれんね。

中国の歴史で言ったら、三国志は面白いやろ。お前もスリーキングダムズ観たし好きやろうと思う。俺も好きよ。吉川英治三国志も何回も読んだし。

論語はちょっとみると、そんな面白くない。先生は普段こうやった、先生はあの時こう言った、弟子の誰それがこげん言いよった、そしたら先生はこげんなさった、ポンポン書いてあるばっかり。

 

でもずっと読んでいくと、孔子とか子路とか、いろんな人とか話がね、すごくリアルに見えてくるんよ。三国志に劣らず、論語は泣けるね。

俺は専門家やないし独学やけえ、深読みしたところで間違いもあるやろ。でもそれはそれで良かっちゃないかな。誰にも何も言わさんくらいやっていくしね。

孔子は正しい人間を作るために教えを遺したわけやろ。それを読んで色々考えたり、空想なんかもいっぱいして、それで俺という人間が少しずつマシになりよる。そこだけは誰も文句言われんろう。

やけえ本当に、論語はよかよ。

 

好きなことを話すと饒舌になるものだ。私は論語が好きなのだ。

弟に対して、このように滔々と話したことはあまりなかった。話してみるのも悪くない。

 

それに真剣に聞いてくれる人がいるのはうれしいことだ。

弟にはこれからも折々に話して、一緒に学問が進めば良いと思います。

孔子廟のこと

先日、ハノイ孔子廟を訪ねた。現地の言葉では「文廟」という。

廟というものに初めて足を踏み入れ、色々と勉強になることもあったので、ここにまとめておく。

 

 

廟は祖先や個人の霊を祀る場所。文廟では孔子を学問の神様として祀る。

特に「宗廟」という場合、祖先を祀る廟を指す。天子・諸侯・大夫・士はそれぞれ決められた数の廟を建てて祖先を祀る。これは孝経を読んでも良く分かる。

 

宗廟には様々な礼があるが、第一には祀る者の配置である。ここには厳格な順序がある。

中庸に曰く、宗廟の礼は昭穆を序する所以なり。

宗廟の礼、つまりご祖先を正しく配してお祀りすることには、世代の別を明らかにする意義がある。

 

天子は七廟、諸侯は五廟、大夫は三廟、士は一廟である。

例えば諸侯の宗廟であれば、順序は以下の通り。

①太祖廟(国を開いた太祖を中央・南面に配する)

②顕考廟(二代目を昭に配する)

③皇考廟(三代目を穆に配する)

④王考廟(四代目を昭に配する)

⑤考廟(五代目を穆に配する)

 

宗廟のように祖先を祀るのではなく、文廟のように個人を祀るにはどうするか。

文廟の場合、儒教の祖である孔子とその弟子たちを祀るのであるから、宗廟と似た趣きがある。

太祖のように中心となる廟は常に南面する。文廟では孔子が太祖に当たる。やや東に傾いているが、おおむね南面する位地に祀られている。

 

 

文廟では、世代の別を明らかにするのではない。その功績を顕彰し、お祀りするのである。

 

曰く、事を序するは賢を弁ずる所以なり。

祀る人の為した事の軽重によって順序を決め、複数の聖賢を祀る中にも別を明らかにするのである。

 

文廟の中で写真を取るのは気が引けたので、順序をメモしておいた。

 


まず、宗廟の昭穆に相当する部分。

 

孔子儒教の祖、中央・南面)
顔子(顔淵、孔子の一番弟子)
曾子(子思の先生)
④子思(孔子の孫)
孟子(子思の弟子)

 

孔子から孟子までの五廟は昭穆の序に一致する。儒教の道統がよく分かる。

儒教で亜聖といえば顔子孟子だが、事を序し賢を弁ずるに、やはり大きな隔たりがある。これは面白いことである。

 

さらに外側の十廟は順序が判然としない。昭穆と同じ考え方でいけば、

 

一、仲由(子路

二、顓孫師(子張)

三、端木賜(子貢)

 

となるのだが、この配列はどうも腑に落ちない。

ただ、十という数字から十哲に関係しているのだろう。順序はひとまず置いて、祀られていた弟子は以下の通り。

 

一、仲由(子路

二、端木賜(子貢)

三、閔損(閔子騫

四、冉雍(仲弓)

五、卜商(子夏)

六、顓孫師(子張)

七、冉伯牛

八、冉求(冉有

 

石に名を刻んであるのだが、廟内は薄暗くて見えにくく、また私は眼が悪いので九、十は読み取れなかった。

他に十哲といえば宰我子游。だからこの二人が入りそうなものだ。

しかし十に「公」の字が含まれていたようにも思う。となると公西赤が濃厚だ。

それに、今思えば九には「言」が含まれていた気もする。その時は「子游子游…」で探していたから「言偃」が浮かばなかった。

 

したがって、

 

九、言偃(子游

十、公西赤

 

の並びかなと思うが、もう一度行ってみないことには分からない。

誰か分かる方がいたら教えてください。