周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

信を失った者の末路

儒学では信を重んじる。

信が重要、これは当たり前と言えば当たり前である。しかし当たり前すぎて、なぜ大切かと言われるとよく分からないものでもある。

なぜ信は重要なのか。信を失えばどうなるのか。

 

信とはなにか

荻生徂徠先生は信を以下のように解く。

信なる者は、行ひ言にたがはず、符節を合するが若きなり。

(信とは、行動と言語があたかも割符を合わせるようにぴったりと一致することである)

「信」はにんべんに言うと書く。人の言葉に嘘があってはならない。人の言葉はすべからく真実であるべきだ。人の言葉は誠であるべきだ。

誠はごんべんに成すと書く。言ったことを言った通りに成す。言ったことに嘘がなく、真実であることを「まこと」という。だから「信」と書いて「まこと」とも読む。

人間であれば言葉に嘘があってはならない。嘘を吐く者はもはや人とは言えない。

いにしえの人は、「信」をこのように厳しく考えた。

 

論語の教え

論語にも「信」を教える言葉がたくさんある。有名なものを為政篇からひとつ。

子曰く、人にして信無くんば其の可なるを知らざるなり。大車にげい無く小車にげつ無くんば、其れ何を以てか之を行らんや。

大車は荷車、牛がく。小車は人の乗る車で馬が牽く。

輗・軏は車の部位。大車ならば輗に牛を、小車ならば軏に馬を着けて車を牽かせる。輗・軏がなければ車は進まない。

信は輗・軏のようなものだと孔子は仰る。

 

益軒先生曰く

この章句について、私が最も感服したのは貝原益軒先生の解釈である。

車と牛馬とは別の物なれど、輗と軏とあれば、是を以て牛馬に車をかけて引かしむべし。若し此のものなくんば、何を以てか車をやるべきや。

人にまじはるに信ならざるも亦かくの如し。人と我とは二物なり。信実を以て交はれば、互に感通して道行はる。若し信なくして人と交はらば、我、人にまことなく、人、我を信せず。彼と我と感通せず。何を以てか道行はれんや。

車と牛馬は別の物だが、輗と軏によって車と牛馬を間違いなく結びつけることで、道路を進むことができる。

我と人とは別の物だが、信によって我と人とが偽りなく交わることで、道を行うことができる。

輗と軏がなければ車と牛馬は別の物のまま。信がなければ我と人とは二物のまま。

これは大変良い考え方である。

 

信を失った者はどうなるか

現代のように信が軽んじられる時代においては、信などなくても生きていかれるようだが、決してそうではない。

信を失った人間はどうなるか。

孔子は「信がなければどうして生きていかれようか(生きていけるはずはない)」と仰る。

人間は一人では生きていけない。人と交わりながら生きていく。

我に信なく、人と感通しないようでは、まともに生きていくことはできない。

 

人にして恒なければ

論語子路篇に曰く、

子曰く、南人なんじん言へる有り。曰く、人にしてつねなければ、以て巫医ふいを作す可からず。

南人とは南方の人。古代中国では、北方で儒教が起こり南方で道教が起こったと言われる。儒教は礼楽を重んじるように極く現実的だが、道教では自然を重んじる。

だから文化も大きく異なる。南方ではシャーマニズム的な信仰が強く、南人は巫術を以て医術とするところがあったらしい。

それで南方の人が言うには、恒のない人であれば、巫(神に仕える人)は祈祷や治療を行わない。

恒は常とは違う。常は太陽に象り、恒は月に象る。太陽には満ち欠けがなくいつも同じで変わらない。月には満ち欠けがあり、変わらない中に変わるところがある。

人間が生きていく中では色々な出来事がある。進退も盛衰もあってたえず変化するが、そんな中でも徳においては一貫して変わらない所があるべきだ。それを恒という。

徳を恒にしなければ、行いが始終変わる。節操なく変化する。

利欲に流され、今日はこちらで良い顔をし、明日はあちらで良い顔をする。

恒のない者の言葉には嘘がある、まことがない。まことがなければ神もうべないたまうことはない。だから祈祷も治療も断るというわけ。

 

この言葉に続けて孔子はこう仰る。

其の徳を恒にせざれば、つねに之にはじすすむ。

恒なく信なく、巫医も断られる。

これは南方の人からすれば、神に棄てられたようなものだ。信仰の厚い土地では、神に棄てられた者は人からも棄てられる。いつでも必ず恥辱を受ける。

まさに「可なるを知らざるなり」で、南方の社会でまともに生きていけるわけがない。

 

天下に身の置き所がなくなる

「其の徳を恒にせざれば、或に之に羞を承む」は、易の雷風恒らいふうこうの言葉である。ここには一層厳しいことが書いてある。曰く、

九三、其の徳を恒にせず、或に之に羞を承む。ていなれどもりん

象に曰く、其の徳を恒にせざれば、るる所きなり。

徳に恒のない者は利欲に流される。信がない。

信のない者を重んじる者はない。軽く扱われる。いつでも必ず恥を受ける。

 

節操なく動き回る中には、時折正しい選択もあるだろう。しかしそもそも節操がないから、正しい所に長く留まることはできない。貞(正しい)であっても吝(恥ずべきこと)である。

恒がなく信がなければ、どこへ行っても相手にされない。今日はこちらへ来て良い顔をしても、明日には別のところに行ってしまう。言葉には嘘ばかり。そんな者は誰も相手にしない。

だから「容るる所无きなり」どこへ行っても受け入れられない。何かまずいことがあって困窮した場合に助けを求めても、皆な知らん顔をする。

 

信がなければ、広い天下のどこにも身の置き所がなくなる。広い天下のどこにも身を立てる所がなくなる。

まさに「人にして信無くんば其の可なるを知らざるなり」で、広い天下のどこにいっても不可なり。

 

陽虎が良い例だ。季孫斯に反旗を翻して一時魯の実権を握ったが、後に敗れて魯を去った。

この時、陽虎を受け入れる国がなかった。天下に容るる所が无かった。

陽虎を受け入れたのは、広い天下で趙鞅ただ一人であった。

 

信足らざれば…

孔子ばかりではない、老子も同じことを言っている。曰く、

信足らざれば信ぜざる有り。

自分自身が信に欠けるならば、人も自分を信じてはくれない。

もちろん、十分な信を備えることは難しい。大抵の人は多かれ少なかれ信に欠けるところがあるだろう。

少しく信に欠ける人に対して、人は「あの人は少し信用ならない」と思う。

大いに信に欠ける人に対して、人は「あの人は全く信用ならない」と思う。

ゆえに根本通明先生曰く、

人間に於ては、信義を欠くほど悪いことはない。

信に欠けるところがなくなるように、嘘のなくなるように、学問を積んでいきたいものである。

 

まとめ

信は大切である。信を失えば、まともに生きていくことはできない。

その実例が、最近あったではないか。国会に欠席し続け、除名処分を受けた元参議院議員

彼は元々、人の過去を暴露しまくることで一部から人気を得た。それで議員にまでなったわけだが、もとより信が全くない。

暴露の内容が真実であったかどうかは知らないし、興味もない。たとえ信実であっても信義のあろうはずがない。

そんな者が議員になろうと、何になろうと、其の可なるを知らざるなり。ろくなことにはならない。

こんなことは分かり切っていたが、実際そうなった。今や国際指名手配を受けている。

彼は日本に帰らないという。海外で逃亡生活をするのだろうか。

しかし信無くんば容るる所无きなり。天下のどこにも身の置き所はない。