周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

続・微生高は正直者か諂う者か

論語公冶長篇に登場する人物に、微生高びせいこうという人がいる。

これは色々と議論の多い章句で、大体のことは以前記事にした。

shu-koushi.hatenadiary.com

この記事でははっきりと結論を出せなかったが、最近論語徴を読んで、非常に納得がいった。

そこで再び記事にする。

 

微生高は正直か

問題の章句は以下の通り。

子曰く、たれか微生高をちょくと謂ふ。或るひとけいを乞ふ。諸を其の鄰に乞うて而して之を与ふ。

簡単に訳すると、

「先生が仰った。『誰が微生高を正直者と言ったのか。或る人が微生高に酢を貰いに行ったらしい。すると彼は自分の家にもなかったから、隣家から貰ってきて与えたということだ』」

 

二通りの解釈

簡単に言えば、微生高の振舞いについて、以下の二通りの解釈がある。

  • 微生高は正直者であると評判だが、そんなことはない、寧ろ諂う者である(批判的な解釈)
  • 微生高は正直と評判だが馬鹿正直ではない。なかなかどうして融通が利く(肯定的な解釈)

 

批判的な解釈

批判的な解釈では、「無いものは無いというのが正直であって、他人からわざわざもらってくるようなのは正直とはいえない。諂いである」とする。

もっと言えば、「そんな不正直者が、正直者としての評判を得ているのは、『名をぬすむ』ことであって大変悪い」とする。

根本先生などはこの意見で、微生高を厳しく批判している。

 

肯定的な解釈

肯定的な解釈は、「微生高は馬鹿正直として知られるが、本当のところはどうだろうか。自分の家になくても、『ない』と言わずに隣家から貰って対処する。なかなか融通が利くではないか」というもの。

淡窓先生などは、この立場。正直は正直でも、情のある正直であり、困っている人を何とか助けようとする思いがあると。

 

論語徴の解釈

以前の記事では、どちらとも決めかねた。どちらにも一理ある。

論語徴を読んで、初めて納得がいった。徂徠先生は、批判も肯定も間違いだとしている。この視点はなかった。

 

以下、要点をまとめてみる。

 

1.微生高は郷人

まず、微生高と孔子は同郷であること。

これは、論語に明記されているわけではないが、そうと考えられる根拠がある。

論語憲問篇に、微生畝びせいほという人が登場する。この人はこんなことを言う。

きゅうよ、お前はどうしてそう齷齪しているのだ。世におもねっているように見えるぞ」

丘は孔子の名。姓は孔、名は丘、字は仲尼ちゅうじである。

当時の礼として、名で呼ぶのは目上から目下に対してのみ許される。親が子を、君主が臣下を、先輩が後輩を名で呼ぶのは良い。親しみを込めて名で呼ぶことも多い。しかし逆の場合はもちろんのこと、友人同士でも名で呼ぶのは非礼とされた。

つまり「丘や」と呼び掛けていることから、微生畝が孔子の先輩であることが分かる。

また、会話の内容を見ると、両者の関係は浅くないと思われる。あまり知らない間柄であれば、「何を齷齪」とか「阿っているなあ」とか言わないだろう。先輩後輩としてある程度の関係があるから、こんなことも言える。

これらのことから、微生畝と孔子は同郷の先輩後輩であることが分かる。

そして微生高と微生畝は共に微生で同姓。これを以て徂徠先生は、「高(微生高)は必ずその族ならん、ゆゑにその郷人たることを知る」、微生高はきっと微生畝と同族であろう、だから孔子と同郷であろうと解する。

 

2.微生高はご近所さん

次に、微生高が孔子のご近所さんであること。

この章句で、孔子は「“ある人”が微生高の家にお酢を貰いに行ったらしい」と話している。

しかし実のところ、この「ある人」は全く知らない誰かではなく、孔子の家の者であろう。

お酢を貰ったとか、あげたとかいうのは極く些細なことで、どこかの誰かがそんなやり取りをしたところで、孔子の耳に入ってくるはずがない。

現代のようにSNSでもあれば、微生高自身がつぶやいたり、その周りの人がつぶやいたり、それを孔子とかお弟子が見たりするかもしれない。

しかし情報技術が発達していなかった当時、情報の伝達には時間も労力もかかる。お酢がどうこうというような、些細な情報が拡散するとは考えにくい。

したがって、この些細なお酢のやり取りに、孔子自身が何らかの形でかかわっていたと考えるのが自然だ。

 

つまりこういうことだ。

微生畝と孔子は先輩後輩で、微生の家とは古くから付き合いがある。

その同族の微生高は地元で正直者と評判。孔子も愛すべき若者と思っていた。

孔子の家でたまたま酢を切らしていた。どこかから貰ってくるほかない。

微生高の家は近所だった。孔子は家の者を微生高の家へやった。

 

微生高が孔子のご近所さんというのは、こういうわけである。

 

3.戯れの言葉

そして、この章句の言葉は戯れであるということ。

徂徠先生は、「愛すべき微生高に対し、孔子が戯れを言ったに過ぎない」とする。

そもそも、些細なお酢のやり取りは、正直・不正直にあまり関係ない。

「うちにもありません」といったくらいで、正直者として褒めるほどのことではない。

隣家から調達したくらいで、不正直者と責めるほどでもない。

 

徂徠先生の指摘には納得がいく。曰く、

瑣事さじを以てして人をそしるは、閭巷間りょこうかんの匹夫匹婦の事、あに孔子にありと謂ふべけんや。

些細なことで人を譏るのは、つまらない男や女のやることで、孔子がそんなことをするだろうか(するはずがない)。

 

この章句で、孔子は「たれか微生高をちょくと謂ふ」と仰る。誰があの微生高を正直者といったのか。

たしかに正直かどうかに言及している。しかしこれは、正直か不正直かを言い立てるものではない。真面目に褒めたり貶したりするのではない。単なる戯れに過ぎない。

 

昔テレビか何かで見たが、こんな笑い話がある。芸人の面白トーク

ある芸人が空港をぶらぶらしていた。すると、レストラン街でK1ファイターのピーター・アーツを見かけた。ファミレスに入るか、回転寿司に入るかで何分も迷っていた。

「20世紀最強の暴君」などと言われ、全盛期はやたらと強かったこの人が、こんな小さなことで悩んでいる。それを見て笑っちゃった。そんな話。

これは親しみを込めた戯れである。ピーター・アーツのことを、意外と小心者で優柔不断とか、変なところでこだわるとか謗っているのではない。

 

4.この章句の意味

微生高への戯れもまた同じ。

微生高の愛すべき一面に対し、孔子は親しみを込めて戯れを仰った。

 

微生高のもとへ、孔子の家の者がやってきて、「お酢を貸してください」という。

しかし微生高の方でもお酢を切らしている。とはいえ、手ぶらで帰すのは忍びない。

そこで鄰から借りてきてやった。

 

微生高が正直者として評されていたことは事実らしい。どちらかといえば融通の利かない、馬鹿正直な評判であったのかもしれない。馬鹿正直であれば、微生高はその評判にもまた馬鹿正直に応えようとしただろう。正直という評判に違わぬように振舞っただろう。

しかし、このお酢の一件では、ある意味正直でないことをやった。普段の評判と違うことをやった。

それで孔子は、酢を持って帰ってきた家の者や、弟子に向かってこんな戯れを言ったのだろう。

誰があの微生高を馬鹿正直と言ったのかな。

誰かさんが酢をもらいに行ったら、自分も切らしていた。

あの正直者なら、馬鹿正直に『ない』とか言いそうなものだが、わざわざお隣から貰ってきたんだと。

さて微生高は果たして評判通りの馬鹿正直かな。(案外そうでもない。それ以上に親切だよ)

弟子が見聞きしたこと、またそのメモを持ち寄って、論語ができた。微生高のことで孔子が戯れに言ったことを、弟子の一人が記録していたに違いない。

徂徠先生の解釈では、孔子が郷里の人と親しく付き合ったことの一例として、この話を載せたのだろうと。確かにそうかもしれない。

 

論語徴の解釈は、私には最も無理がなく、また面白く思われた。

 

孔門の学風

この章句を、このように解釈して面白いのが、孔門の学風が垣間見えることである。

 

微生高への教誨

徂徠先生は、この言葉は戯れであると同時に、微生高への教誨も含んでいるとする。

正直者の微生高が正直でない振舞いをした。それを良い機会として、微生高を諭す意図があった。

すると、孔子教誨はこんな風になろうか。

お前は正直者と評判で、お前自身も直を以て任じている。

しかし正直が一番だ、自分は正直だと、高ぶった態度になるところがある。

そんなお前が、今回は自分の正直を枉げて、お酢を隣家から借りてくれた。

それで良いんだよ。正直は正直でも、馬鹿正直になる必要はない。

世の中、正直だけでは通らないことがいくらもあるから。

 

孔子の教育法

これは、孔子流の教育であろうと思う。

 

相手によって教える

孔子は、相手の学問の程度やその時々の境遇によって教える。

これは、述而篇でよく分かる。

孔子は、弟子に満々たる情熱、烈々たる求道心があってはじめて教えた。

考えに考えて、もうすぐ分かりそうだが言葉にならず、口をもごもごさせている。もどかしい。そこまで来たら、一言ポンとやる。それで弟子はたちまち悟る。

普段から真面目で、よく学び考えている弟子は、ちょっと教えてもよく分かる。少し教えてやると、そこから考えて「こうでしょうか」「ああでしょうか」「なるほどこういうことでしょう」となる。そういう弟子であって初めて教える。

 

子夏の話

子夏の話が分かりやすい。

子夏「詩に『功笑倩たり、美目盼たり、素以て絢を爲す』とあります。これはどういう意味でしょうか」

孔子「絵を描く時、白で仕上げるということだ」

子夏「…なるほど、礼は後ですね」

孔子「よう言うた。これでお前とようやく詩の話ができる」

 

子夏の学問も随分進んだ。もう彼とは詩の話ができそうだ。

そういう期待があったから、孔子はこのように教えたのだろう。

教えるに足るだけのものが相手にあって、初めて教える。これが孔子の教育法である。

 

微生高の場合

このように考えると、微生高への戯れも何となくわかる気がする。

微生高は正直者、本人も正直であろうと頑なに振舞っている。

そんな彼が正直ではないことをした。お酢の一件について、彼自身は特に何も考えていないかも知れない。しかし戯れにせよ、「誰があれを正直者と言ったのか?」などと言われれば、必ず感じるところがある。煩悶する。

こういう煩悶があってこそ、彼自身も悟る。

 

なぜ直接言わぬか

次に、なぜ微生高に直接言わなかったか。

せっかく教えるなら、弟子に戯れるような回りくどいことをせず、直接教えたらよさそうなものだ。

 

これもまた、孔子の教育法であろうと思う。孔子は、直接教えるのではなく、あえて弟子を介して間接的に教える場合がある。

 

孟懿子との問答

例えば為政篇、孟懿子もういしへの教え。

 

孟懿子が孔子に孝を問うた。

孔子は「違うこと無し(親の心に違わないことです)」とだけ答えた。

孟懿子はそれ以上尋ねなかったのだろう、それきりになった。

より詳しく尋ね、深掘りするには、相応の学力が必要だ。学問が未熟では、そもそも疑問が出てこない。質問が浅く、理解もいい加減になる。

恐らく孟懿子はよく分かっていない。孔子にはそれが分かる。

 

孔子の真意

そこで帰る道中、御者の樊遅はんちにこう語った。

 

孔子「今日、孟懿子から『孝とは何ですか』と聞かれた。だから『違うことのないように』と答えたよ」

樊遅「それだけですか。どういうことでしょう」

ここで孔子は、「生けるときには之に事ふるに礼を以てし、死するときは之を葬るに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす」と言った。

樊遅が相手だから、このように言った。樊遅ならばこれで分かる。ここに含まれる意図はこうである。

私が孟懿子に言いたかったのはね、「礼に違わぬようにせよ」ということだ。

親が生きていれば礼を以て事える。親が亡くなったら礼を以て葬る。亡くなった親を祭るにも礼を以てする。何事も、礼こそが則だよ。

季孫・孟孫・叔孫の三家の権力は君主を凌ぐ。傲り高ぶって、君臣の礼を乱している。

飲食や衣服、また普段の挙動言動が礼に外れていることが多い。生きているうちの礼に、色々間違いがある。葬儀や祭祀もそうで、例えば天子の礼楽を勝手に用いたりする。

こういう僭礼せんれい(礼を超えた振舞い)が多すぎるのだ。

 

なぜ孟懿子に「礼に違うこと無し」と言わず、単に「違うこと無し」と言ったか。それは順番があるからだ。

孟懿子の学問はまだまだ未熟だ。そんな彼に「礼に違うな」といったらどうなるか。親が礼に外れている、しかし自分は礼に違うべきではない、その間で苦しむだろう。教えを重んじ、親の非礼を厳しく責めるかもしれない。

それは不孝だ。孝を問う孟懿子に「礼に違うな」とは言えない。まずは親の心に違わぬところから出発だ。

しかし孟懿子は孟孫家の者だ。ただ親に違わぬだけでは、やがて彼自身が僭礼に陥る。

親の心に違わぬといっても、親と同じように自分も君主を凌ぐようになれば、君臣の道に外れる。それが果たして本当に孝といえるだろうか。言えまい。

 

だから親に事えるにも、せめて自分は礼に違わぬように事えるよう心掛けるべきだ。

また、いずれは父上の葬儀もすれば、祭祀もすることになる。その時も礼に違わぬようにするべきだ。

本当に孝行しようと思ったら、孟懿子は親に違うことなく、その中で礼に違わぬようにしなければならない。礼に違わぬことが真の孝になる。そう教えたかったのだよ。

 

樊遅に告げさせる

孔子は、樊遅に語ったようなことを孟懿子にも教えたかったが、孟懿子の反応は薄く、さらなる質問もなかった。

孔子は相手に合わせて教える。深掘りしてこないものを、孔子の方から細かく教えることはしない。

孟懿子には「孝」をもっと知りたい、理解したい、極めたいという烈々たる思いがなかったから、孔子も詳しく語らなかった。

 

とはいえ、そのままにしておけない。三桓氏の僭礼は魯国の大問題である。

孟懿子への教えをきっかけに、孟孫家の僭礼が改まるかもしれない。これは極めて重大なことである。

そこで孔子は樊遅に語り聞かせた。後日、樊遅から孟懿子に告げさせようとしたのである。

「先日、先生とこんな会話をなさったそうですね。あの時、先生は『違うこと無し』とだけ仰ったとか。その帰り道、私にも同じことを仰ったので、意味が分からず聞いてみたのです。すると先生はこんな風に仰いました。その心はおそらく…」

 

「樊遅に告げさせるため」という解釈は割と一般的なようで、根本先生の講義にもそうある。曰く、

同門の間に互ひに通ずるは、此の時の風になつて居るから、それで孔夫子の方でも、樊遅の方から詳しき事を孟孫に言へと仰せられずとも、樊遅の方から同門で伝へる事は判つて居りますから、斯の如くなされたのである。

 

間接的に伝えること

ついでにいえば、心理学にウィンザー効果というのがある。直接言わずに間接的に伝えたほうが効果が高まるというもの。

孔子がこれを意図したかどうか知らないが、そういう部分もあったのかもしれない。

孔子に直接言われれば、何んとなく呑み込んでしまって深く考えない。しかし同門の朋友から言われたらそれなりに考えるし理解もする。孔子の意図がよく分かる。

 

直接言わずに間接的に、ということは諫言や教訓する場合に昔からよくあることだ。回りくどいとか、卑劣とか、小手先のテクニックとか、そういうものでもない。

ちょっとズレるけれども、葉隠にもこんなことがある。

諫言の道に、我其位に非ずば、其位の人に云せて御誤り直る様にするは大忠也。

上の者を諫める際、自分が下位であるために聞き入れられないことがある。そんな時は、同じ地位の人に言わせるように仕向けると良い。

諫言の目的は「考えを改めさせること」であって、聞き入れられねば意味がない。

諫言というと、無礼を顧みず諫めるもの、遠慮なしに直言するものと考える人もいる。

だが、それで聞き入れられるなら良いが、大抵はそうでない。却って相手が意固地になることも多い。

最終的に聞き入れられることが重要であって、そのためには間接的でも何ら問題なく、最も良い方法で諫言してこそ本当の忠義といえる。

 

葉隠にあるのは「下位から上位への諫言」だ。論語にあるのは「先生から弟子への教訓」だ。この点では異なるが、要は相手が受け入れやすいように、近い立場のものを介して間接的に伝えるという意味では同じい。

高齢のものが若い者に教えることも大切だが、若い者を介して間接的に教えて、はじめてよく理解できることも多い。

先生から弟子に教えることが基本なのはもちろんだが、弟子から弟子へ間接的に伝えることでよく分かることも多い。

 

微生高も同じか

微生高の場合も同じではないだろうか。

微生高は孔子の弟子ではないから、弟子から弟子という流れでは伝達されない。

しかし微生高は孔子の近所の人で、調味料を気軽に借りに行けるような親しい付き合いがある。

ならば、孔子の家の者や弟子が、微生高と接する機会は多々あったろう。

 

そんなとき、家の者や弟子が微生高に言う。

「この前、あなたからお酢をいただいたでしょう。そのことで先生がこんなことをいっていましたよ」

それを聞いて微生高はこう思う。

確かに自分は正直正直と言いながら、不正直な振る舞いもある。しかしそれは悪いことだったろうか。

孔先生によれば、こういう不正直は良いらしい。馬鹿正直よりずっと良いらしい。今後はもっと正直を工夫してゆこう。

こんな風に悟るのではないか。

 

まあ、これは私の想像でしかないけれども、微生高の振舞いを厳しく責めたり、殊更に褒めたりするよりは自然に思われるんだが、どうでしょうか。