「狂」という言葉がある。
狂は狂う。狂人といえば頭のおかしい人にも使うから、あまり良い意味とはいえない。
儒学では、狂を良い意味で用いることもあれば、悪い意味で用いることもある。これを混同すると大変な間違いになる。
悪い意味での「狂」
儒学において、「狂」を悪い意味で用いる場合、現代の用い方とあまり変わらない。
呂新吾先生の『呻吟語』では、狂を悪い意味で用いる。狂ということを厳しく戒める。
聖と狂の分れ目
例えば、こんな言葉がある。
聖と狂との分るるは、
只 だ苟 くもすると苟くもせざるとの両字に在り。
ここの「狂」について、公田連太郎先生の訳注には「心の乱れて騒がしきこと」とある。
であれば、聖は心が騒がしくないことだ。心がよく治まっている。
聖と狂との分れ目はどこにあるか。それは「苟」と「不苟」の二字にあるという。
「いやしくも」とは、かりにも、万一にも。
「いやしくもする(苟)」と読んで、大漢和辞典には『徒に目の前の安をぬすむ』とある。まあ慎みのない様子で、公田先生の仰る通り騒がしいのが「いやしくもする」で、これが狂である。
「いやしくもせず(不苟)」であれば、いやしくもするところがない。騒がしいところがない。心がよく治まって、外物に動揺することもない。これは聖人に近い心持ちといってよい。だから「聖」。
いやしくもするは狂、いやしくもせざるは聖。不苟は聖人の心、苟は狂人の心。
狂人は騒がしく、慎みがなく、心が修まらない、徳の乏しい人であるから、小人と言い換えてよい。
聖は敬、狂は怠
では、聖であれば、狂であれば具体的にどういうことになるのか。
こんな言葉がある。
天下国家の存亡、身の生死は、只だ敬怠の両字に係る。敬すれば則ち慎む。慎めば則ち百務修まり挙がる。怠れば則ち苟くもす。苟くもすれば則ち万事
隳 れ頽 る。天子より以て庶人に至るまで、此の如くならざる莫し。此れ千古の聖賢の兢兢 たる所にして、而して亡人の必ず由る所なり。
天下国家の存亡や一個の生死の境目はどこにあるか。敬と怠の二字にある。
敬虔な者には慎みがある。慎みがあれば、どんな仕事をしても間違いがなく、成果も挙がる。
怠惰な者には慎みがない。慎みがないから苟くもする。徒に目の前の安をぬすむ。不真面目で、手を抜く。だから何をやっても失敗する。
天子様でも庶民でも、この道理は変わらない。
だからこそ、古の聖賢はこの道理をひどく恐れ、敬を重んじ怠を退けたのだし、また実際に滅び去った者は必ずこの道理によってそうなったのである。
聖と狂の分れ目は不苟と苟にある。不苟であれば敬に、苟であれば怠になる。それが存亡と生死さえ分ける。
孔子の道、聖賢の道を学ぶ者であれば、須らく不苟であるべきであって、苟であってはならない。聖を目指すべきであって、狂などとんでもない。
孔子の教えとは
そもそも孔子は弟子に何を教えたか。「仁であれ」と教えた。
では仁とは何か。根本的なところを良く考えると、聖と狂の分れ目が一層よく分かる。
孔子の説いたこと
仁は、小さくみると人への思いやりとか優しさである。しかし孔子が説いたのは先王の道である。先王の道となると、天下を泰平に導く道であって、これは大なる仁である。
孝経にあるが、孔子は「先王の法言にあらざれば
また述而篇にも、「述べて作らず」とある。自分は先王の法言を述べているだけであって、自分で新たな教えを作り出しているのではないと。孝経で仰ることと全く同じい。
仁とは
儒教の徳目には色々あって、普通に言えば五常であり、仁義礼智信がそれにあたる。
しかし、これは教えを立てる上であえて徳目を分けたのであって、結局のところは一つになる。性善説の「性の善なるもの」、つまり儒学でよく言われる「本性」というのがそれである。
人は天から生まれる
本性とは仁である。仁は天の徳である。なぜならば、人は天から生まれるからである。
左伝・成公13年の伝に曰く、
民は天地の中を受けて以て生まる。
人は天地の中正の気を受けて生まれる。現代科学からいえば色々なことが言えるだろうが、少なくとも昔の人はそう考えたのだし、その上に色々な教えがあるのだから、これはこれとしてそのまま捉えて良い。
太極から天地が生まれる
この中正の気とは太極のことである。老子に曰く、
物有りて混成し天地に先立つて生ず。
天地が生じる前、なんだか分からぬ物があって、それが混ざって一つの塊のようになった。塊になったところで、なんだか分からないことには変わりない。名づけようがない。しかしそれでは教えようがないので、仮に道とか太極とか表現した。
そこから天地が生まれる。本来無名であるところから天地が生まれる。それを老子は「無名は天地の始め」といった。
天地から万物が生まれる
天地となれば、もう名がある。天といい地という名前がある。
そして老子は「有名は万物の母」という。有名(名のあるもの・天地)が生まれて、さらにそこから万物が生まれた。人も生まれ、草木禽獣も生まれた。
つまり、太極(中正)から天地が、天地から万物が生まれた。
人は万物の霊
書経に曰く、
惟 れ天地は万物の父母、惟れ人は万物の霊。
天地が万物を生む。天地から生まれた人には霊性がある。万物に優れた霊性がある。知性とか理性とか徳性とか、そういうものを持って生まれる。万物の中でも、とりわけ天の徳を受けて生まれたのが人であると。
善の意味
易経にこうある。
一陰一陽、之を道と謂ふ。之を継ぐ者は善なり。之を成す者は性なり。
一陰一陽の道とは天の道。この世の道理。
天は陽であり地は陰である。つまり太極から天地・陰陽が生まれたわけで、陰もあれば陽もあってこの世は成り立っている。それが道(道理)である。
人は天地から生まれた。この一陰一陽の道理によって生まれたのであり、陰にも陽にも偏っては本当でない。よく善とか不善とかいうが、一陰一陽の道を継ぐ(正しく歩む)ところに、人間われの善があるのである。
善とは一陰一陽の道であり、一陰一陽の道とは天の道である。性でいえば天性。人間も天性を受けている。だから人の性は本と善。孔子は性善・性悪を言わなかったが、こういうところから性善説が正しかろうと思える。
仁とはどんな徳
この天性を、人に備わったものとしてみると「本性」だ。それを仁という。人間においては仁といい、天においては天理とか天徳とかいうのであって、畢竟どちらも同じい。
天は万物を生み育てる。生成化育の働きがある。これが天徳。
人もそれを受けているのだから、天より小規模であるとしても、生成化育の働きがあるべきである。人を助けるとか、教育するとか、色々ある。
小さく言えば思いやりや優しさ。大きく言えば、天下国家をよく治めて、万民を幸福にすること。根本はどちらも仁だが、働きは大小さまざまある。
先王の道は大仁
先王の道は、大きな仁を主とする。書経を貫く精神も、この大きな仁である。
「先王の法言にあらざれば言わず」「述べて作らず」と仰ったのだから、孔子が弟子に教えた仁も、この大きな仁であったはずだ。
これは、小さな仁を軽んじるのではない。それは大きな仁に含まれる。
大きな仁は成すが小さな仁は棄てるということはない。孟子が「一
権道のためには小仁を棄てることもあり得るが、あくまでも権道の話である。権道でなければどうしてもいけない場合に限って、大仁のために敢えて不仁をなすこともある。
好ましくないと知りながら、敢えて進むのである。望んでやるものではないし、小仁を棄てて大仁を取ったなどと、得々とするようなのは権道ではない。良くてせいぜい覇道である。先王の道、つまり王道ではあり得ない。
孔子の志
孔子が教えたのは、先王の道、大なる仁の道である。やはり政治に志があったといえる。
ご自身も政治を志し、大きな業績もあげた。後には教育に力を注いだが、これも間接的に政治を為そうとしたのだろう。弟子を教育し、仁を抱かせ、天下を救うのだ。
となると、聖と狂のいずれであるべきか。
言うまでもなく聖である。
敬して慎む、不苟、それで百務修まり挙がる。政治も良くなる。人々の暮らしも良くなる。これは先王の道・大仁であり、孔子の理想とするところである。
狂はいけない。怠であり苟であり、万事隳れ頽る。狂人が為政者になれば、政治はダメになる。例えばおかしな制度を作る、税をむやみに取る、これまで積み重ねたものがどんどん壊れる。つまり狂が不仁になる。
良い意味での「狂」
以上のように、基本的に「狂」は悪い。儒者が最も忌むべき不仁のもとになる。
しかし、狂を良い意味で用いる場合がある。これはどういうわけだろう。
素質としての狂
孔子の有名な言葉。
子、陳に
在 して曰く、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子狂簡 、斐然 として章を成す、之を裁する所以を知らず。
狂簡とあるが、ここでいう狂は「大きい」ということだ。とりわけ志が大きい。志が大きい者は、小さなことにこだわらない。小事小利のために卑劣なことをしない。
簡は簡略、粗略、粗削りなこと。
斐然は美しい模様のこと。狂簡であり、斐然として章を成す。粗削りだが志が大きい、良い素質を持っている。
この素質がなければ、小事小利に囚われて道を履み外す。とても仁は為せない。
ゆえに徂徠先生曰く、
先王の道は大なり、狂簡にあらずんば負荷すること能はず。
狂簡は仕立ててこそ
もちろん未完成であり、放置したままではいけない。志が大きく粗削りであれば、悪い意味での狂、騒がしい所が目立って、呻吟語にある悪い狂、不仁に陥る恐れがある。
だから孔子は仰る。
「彼らは狂簡で、良いものを持っている。しかし残念ながら、之を裁する所以を知らず」
裁はさばく。裁判とか裁断とかの裁。
衣類など仕立てるには、長い布は短く裁断し、短い布は継ぎ足す。長いものは短く、短いものは長くすることで仕立てる。
孔子の教育もそうである。ともかく大切なのは中(中庸)である。
人は天地の中を受けて生まれる。この中とは太極の極であり、天性であり、聖であり、仁である。
先王の道を履むには中でなければならない。中は偏りのないことで、長くも短くもなく、至極適当であること。人間には色々偏りがあるから、仕立てる必要がある。
つまり孔子の仰るのは、こういう意味だと思う。
故郷の若者は狂簡斐然、その素質は美しい生地のようだ。
しかし如何せん未完成で、裁断することも知らぬ。
そのままでは所謂「帯に短し
襷 に長し」で、どうにもならん。だから帰ろうよ、帰ろうよ、帰ってこの若者たちを仕立てようよ。
狂の良し悪し
「狂」を良い意味で用いる場合、素質を良いとする。
しかし、良いのはあくまでも素質であって、素質を活かせず不仁をなす危うさも秘めている。狂は原動力のようなもので、力強く仁を為す場合もあれば、力強く不仁を為す場合もある。
だから「狂」を良い意味に用いるとしても、100%肯定するものではない。正しい学問教育を俟たなければ、本当に良いとはいえない。
「狂」を悪い意味で用いる場合、これはもう100%悪い。騒がしく、苟で怠で、世を乱す。不仁である。
孔子の仰る狂簡を表面的に捉えて、狂であれば何でも良いと考えるのはとんでもないことだ。
松陰先生の狂
好んで狂を言う人の中に、吉田松陰先生の「諸君狂ひたまへ」を奉じている人をみかける。
松陰先生を尊敬するあまり、この言葉を額面通り捉え、意図を解せず、悪い狂に陥るのである。
維新の志
松陰先生のいう「狂」も、論語にある「狂簡」の「狂」の意味である。「狂いたまえ」は、「志を大きく持ちなさい」ということだ。もっといえば、松門の弟子は皆志が大きかったのだから、「諸君の志を存分に奮いなさい」ということになろう。
幕府を打倒し、疲弊したこの国を一新する。それにより列強の侵略を退け、独立を把持する。当時、列強の植民地になった国は悲惨を極めた。独立を維持し、日本国民の平和を保つことは大なる仁である。先王の道に適う。
先王の道は大なり、狂簡にあらずんば負荷すること能わず。
松陰先生は維新という大きな志を抱く「狂簡の士」であったから、弟子に「諸君狂いたまえ」と指導したのは当然のことと思える。
切に嘱す
松陰先生の遺書である『留魂録』に、こうある。
一敗すなはち挫折する、あに勇士のことならんや。切に
嘱 す、切に嘱す。
一度の敗北で挫折するようなことでは、どうして勇士といえようか。切に頼むぞ、切に頼むぞ。
松陰先生が刑死したことは、例え一敗とはいえ松門にとって大なる敗北であったろう。しかし狂を抱く松陰先生にとって、維新という大きな志の前では死すら小事、生き延びることは小利であったろう。
「諸君狂いたまえ」と「切に嘱す」は、どちらも同じ気持ちから発せられた言葉だと、私は思う。
諸君狂いたまえ、そして私の志を引き継いでくれ、切に嘱す。
重い重い言葉
松陰先生の言葉は、切実で、深刻で、どうもに重くて重くて、私はこの言葉を口にしたくないのである。
このような言葉は、国家の非常事態に身命を賭して働く者、志士仁人にして初めて言える言葉である。今の時代に、ましてや普通に生活している者に言えることではない。
「『狂いたまえ』と松陰先生が言ったから」と、この言葉を撫で回して、我も狂たらんとするのは如何なものか。あまりにも軽いのではないか。
少なくとも松陰先生のいう狂からは程遠いだろう。狂は狂でも、良い意味での狂からは遠く、悪い意味での狂に近い。
安易で、短絡的で、それこそ狂の悪い部分が出ているではないか。こんな騒がしい考え方では、苟や怠になるほかないではないか。
我は狂なりと胸を張れるようなことではないだろう。
桂小五郎のこと
狂は良いか悪いか。どちらとも言い難い。見方によって変わってくる。
儒学ではしばしばこういうことがある。たとえば「愚」は普通悪いが、
しつこいようだが、狂には良い側面もある。志が大きく小事小利に囚われない。狂でなければ先王の大道を歩むには心もとない。
だからといって100%肯定すべきものではない。あくまでも素質である。学問で仕立てなければ害をなす。不仁になる。
この間違いを犯さぬためには、狂だ狂だと騒がずに慎むことだ。慎んだからといって、狂たる素質がなくなるわけでも、志が低くなるわけでもない。
呂新吾先生は「静」ということを重んじる。これは「
桂小五郎は練兵館に入門して、わずか1年で免許皆伝を得て塾頭になった。剣においては天才といってよい。この人の剣は一言でいって「静謐」で、対する者は圧倒された。近藤勇も、桂小五郎には手も足も出なかったという。
桂小五郎は松門ではないが松陰先生の弟子である。「諸君狂いたまえ」「切に嘱す」と言われた一人であり、実際狂であったに違いない。しかし、悪い意味での狂った様子はなく、どこまでも静であった。
維新の動乱期にあれだけの働きをして、幾度となく危険な目に遭って、一度も剣を抜かなかった。一人も斬らなかった。
(一人斬ったという話もあるにはあるが、又聞きの記録であるし、よしんば事実であっても、やはり大したものである)
狂でありながら慎みがあり、静であるというのは、桂小五郎のような人をいうのかなと、漠然と思う。
慎みがあれば、殊更に狂を言わない。騒がない。それで百務修まり挙がる。ついには志を遂げる。維新を成す。大仁を成す。
まとめ
孔子の教えには無理がない。弟子の性質に応じて無理なく教える。無理強いしない。松陰先生もそうであったはずだ。
そもそも狂は素質である以上、狂でない者に「狂になれ」といったところで、狂いようのない者も多かろう。
「狂え」といってどうにかなるなら、何も孔子は郷党に帰ることはなかったはずだ。陳でもどこでも、その土地の人を教育すれば良かったはずだ。
松門の弟子は皆、師と志を同じくしていた。元より狂簡の士であった。つまり松陰先生の「諸君狂いたまえ」は、「狂簡たる諸君、私に続け」ということであって、狂簡でない者に「そんなことでは仕方がないから狂え」と無理強いするものではないだろう。
孔子は奇抜なことを教えない。革命を肯定することもない。権道を教えない。素質としての狂を好ましいとするが、それ以上に仕立てることを重んじる。
孔子でも松陰先生でも、教育する側が狂を肯定するなら良い。狂簡たる性質を持っている弟子に対して、仕立てることを前提として肯定するのは良い。
しかし論語を読み留魂録を読み、学ぶ側が殊更に狂を肯定し奉じるのは危うい。そもそも狂簡たる性質を持たない人のほうが多かろう。
狂のある者は狂のある者なりに、狂のない者も狂のない者なりに、慎みて怠ることなく学問すればよいのだ。
狂だ狂だというのは騒がしくって、どうも私は嫌である。