周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

根本通明先生と剣術のはなし

老子、根本先生、剣術、刀剣、森鴎外、島田虎之助。そういうものを思うままに、ごちゃごちゃと話してみたい。

 

 

老子第六十九章のこと

老子は争いを忌む。自分から仕掛けない。

相手から当たってきて、やむを得ず争う。やむを得ず争う中にも、自分からはなるべく仕掛けず、相手の出方によって上手く対処しやっつける。

「行いて行く無し、執るに兵無し」とは、老子第六十九章にある言葉。敵に応じてこちらも進み、兵(武器)を執ることがあるが、どこまでも積極的な気分がない。

 

根本先生曰く

これについて根本先生曰く、

撃剣も此の通りだ。此方から無理に撃てば必ず過つ。敵の動く処を待つて居つて、其敵が動いて出る処へ吾れ知らずに、此方の撃ちが撃ち込んで往く。撃ち込まうといふ気があれば、却つて勝てない。

国家間の戦争でも、個人間の争いも同じというわけ。

 

先生の鍛錬

先生は戊辰戦争の折、大刀引提げ戦場を疾駆、軍功第一等賞を賜った。流石に武の心得があったものと思われる。

武術に関して、先生はこう話す。

年少時代の運動は武術であつた。秋田の明徳館といふ学校では文武共に教へたので、私は剣術・柔術・槍術など随分熱心にやつたもので、人にまけなかつた。

学校のみならず、当時の士族たるものが撃剣を使ふには、朝未明に稽古したものだ。士族は誰も皆左様であつたとはいかぬ。百人中で其通り毎朝稽古をして上手になるものは一人か二人しかゐなかつた。

 

私が知っているのはこれくらいで、具体的にどのような稽古をしたのか、またどれくらいの腕前であったのか、詳しいことは分からない。

しかし、相当な腕前であったことは確からしい。

 

根本先生の刀剣趣味

根本先生は刀剣が大変お好きであった。或る本に、こうある。

(根本先生は)稀代の刀剣好きで、月俸の大半は悉く之に費やすと云ふことだ。それで是迄に集めた刀剣も中々尠くない。暇さへあれば始終之ればかりいぢくつて、自分が写真など撮る時は二本も三本も佩用して写すと云ふ塩梅で、宛然たる古武士である。

 

書生に刀を贈る

しかし、集めた刀剣への執着はさほどでもなかったらしい。別の本に曰く、

根本通明翁、最も古物を愛す。刀剣類を処狭き迄居室に並べ立つ。

書生あり、日清戦役の際従軍せんとし、翁の夥しく刀剣を蓄ふを聞き、馳せて翁を訪ひ、不用の一刀を無心す。

翁、其の書生の熱心に感じ、志津三郎兼氏の名刀一口を与ふ。兼氏の銘刀なるは予て彼も之を聞知せるところ、あまりに銘刀に過ぐるの故を以ていささか躊躇す。

翁、怒気を帯びて曰く、

「銘刀にあらざれば其用を為すべからず、行け!行け!行きて其の斬味を試みよ」

と。

書生倉皇謝辞を述べ、意気昂然として門外に去る。

 

鴎外に刀を贈る

また根本先生は森鴎外と交流があったようで、鴎外が小倉に赴任する際にも刀を贈っている。

 

北九州市文化財を守る会」の会報に、こんな記事がある。

小倉師団に赴任する鴎外森林太郎が東京を発ったのは、明治三十二年六月十六日であった。「小倉日記」にある。

「午後六時新橋を発す。根本通明氏餞するに藤四郎吉光の短刀を以てす」

この日記一巻が、不遇な小倉時代というものを、鴎外自身いかにきびしくとらえていたかが知られるのは、巻頭に凄愴なこの一節があるためである。

私は鴎外のことをよく知らないのだが、ここにある通り鴎外の小倉行きは左遷であったという。それを励ますために、根本先生は刀を贈ったのだろうか。

根本先生の弟子である公田連太郎先生は、失意の白秋を励ましたことで知られる。

根本先生は陽性、公田先生は陰性で大変違う味わいだが、やはり師弟である。

 

根本先生と剣術

森於菟(鴎外の息子)の随筆にも、こんな話がある。

父が小倉に転任した際には先生はわざわざたずねて来て吉光の短刀を餞別に贈られた。先生が庭の桜樹の枝にからまつた蛇を名刀を振つて切つた所を、小さい私が竹垣の隙から覗いた記憶が鮮明である。

 

蛇を斬る

この蛇を斬ったというのが、抜き打ちに切ったのか、それとも普通に切ったのか分からないが、簡単なことではない。

「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という。桜は傷に弱いのでやたらと剪定してはいけない。枝に絡まった蛇を切るには、桜には傷をつけず、蛇の胴だけを切っ先で斬る必要がある。

私は竹しか切ったことがない。竹を斬るのは簡単だ。当たり前に刀を振れば斬れる。

しかし、もし竹に巻き付いている蛇を、竹は斬らずに蛇だけ斬れと言われたら、うまくできるかわからない。難しいのではないかと思う。

胴の太い大蛇をちょっと斬って追っ払うならまだしも、日本の蛇は大抵小さなものばかりで、胴回りは極く細い。森於菟の文章から察するに、一度で、それもサッと斬り捨てたのだろう。

これは、心得がなければできることではない。

 

島田虎之助のこと

このような話をみると、根本先生は相当に武術を練ったのではないかと思う。

それが、冒頭の「撃ち込まうといふ気があれば、却つて勝てない」の言葉になったのではないか。

剣の腕前が上がり、高い境地に達すると、自然とこういう考え方になるようだ。

 

幕末の剣士に、島田虎之助という人がいる。直心影流の人である。勝海舟直心影流の免許皆伝だが、勝は島田虎之助の弟子であった。

島田という人がどれだけ強かったか、また立派であったか、彼の平生の話ぶりからよく分かる。彼常に曰く、

剣術の要処は人を撃つに非ず、一点の勝心もなく、静かなること山の如く、疾きこと電の如く、物と争はず、相手の精神を奪つて我剣上に置けば、敵は自然と畏縮して自由に撃つことが出来るのである。然るに精力を只勝たん、負けまい、などの争闘の間に置いて利不利を念とする様では到底真の術を得ることは出来ないのである。

されば剣道に君子と小人との別がある。希くば世の剣客をして皆孔孟の書を熟読させて、その心理を剣道に寓せしむれば、外に何の教法もあつたものではない。

 

この言葉など、根本先生の仰ることと全く同じだ。老子の教えそのままで、また孔子の教えにも通じるところである。

老子講義を読み、ああ、島田虎之助の言っていたことと同じだ、根本先生の剣術もそうであったかと、感慨深かった。このようなことが言える人にして、剣術が弱いはずがないのだ。

 

思うままに書いたのでまとまりのない文章になったが、根本通明という人のことを、少しでも知ってもらえれば嬉しく思います。