周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

孔子の悲哀

論語の章句のうち、大変好きな言葉であるけれども、解釈に疑問が残る言葉がある。

里仁第四の、

 

朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり

 

である。

 

 

一般的な解釈

一般的には、

 

朝方に人としての正しい道を聞くことができたならば、その日の晩に死んでも良い

 

と解釈する。吉田賢抗先生・金谷治先生・諸橋轍次先生の解釈は全てこの解釈である。

 

人生の目的は、道の実践と体得にある。

それさえ成し得たならば、すぐに死んでも良い。

孔子の道を求める烈しさがよくわかり、私はこの言葉が好きであった。

 

私の疑問

同時に、強い疑問も抱いていた。

道を実践し、体得することは重要である。

しかし、それだけで良いのであろうか。

道を体得した後、後進を教育したり、政治に携わって人民の不幸を減らしたりすることが、一層重要なのではないか。

体得しただけで終わって、悔いのないものだろうか。

孔子が、それくらい強い気持ちで道を求めたのは間違いないが、そこで終わって良いなどと本当に思っただろうか。

 

諸橋先生の優れた解釈

この疑問には、諸橋轍次先生の解釈によって、一応の決着をつけていた。

諸橋先生曰く、

 

「この章句はむしろ反対の場合を考えたほうが分かりやすい。

すなわち、たとい百年の長寿を保っても、その人が道を聞かず、道を行わないとすれば、それは酔生夢死の生き甲斐なき生涯にしか過ぎないという教えである」

 

これは良い解釈と思った。

道さえ聞けばすぐに死んでも悔いはない、これだけでは孔子的でないように思う。

しかし、道を聞かずに長生きしても意味はないとするなら、違和感がだいぶ和らぐ。

孔子の道を求める烈しさも一層際立ってくる。

 

悲哀の言葉だ

この解釈に、私は永く落ち着いていた。

しかし、根本通明先生の解釈で、目から鱗が落ちる思いがした。

 

根本先生の解釈

根本先生の解釈は、一般的な解釈とは大きく異なる。

以下のように解釈なされた。

 

これは、孔子の晩年の言葉である。

長い間、道を広めようと努めて、すっかり年を取ってしまった。

それでも、道を行う人を知らない。

もし、朝に道を行う人があるということを聞いたならば、これほど喜ばしいことはない。

その日の夕方に死んでも悔いはない。

自分が生きている間に、道が行われているという話を聞きたいものだ。

 

「道を聞く」ということを、自分が道を体得することではなく、人が道を体得し実践することと解釈した。

この解釈には感動した。なんとも鮮やかである。

 

仁は高尚なものではない

晩年の孔子は、確かにこのような気持ちをお持ちであったろう。

同じく里仁の章句に、

 

わずか一日でも、力を仁に用いるならば、必ず仁をなせる。

私は、仁に力を用いながら、力が足りないという人を見たことがない。

 

という意味の言葉がある。

孔子は、仁は高尚なものではなく、誰でもできるものと考えていた。

仁とは、誰もが天から授けられているものであるから、力さえ用いれば誰でもできると仰った。

つまり、仁を為せないのは、仁に力を用いていないだけなのだ。

 

孔子晩年の悲哀

しかし、道が廃れてしまい、仁を行う人がいない。

仁が行われている、そんな話を聞くことがない。

道を荒廃から救うべく奮闘した孔子は、晩年に至っても道の復興を実感することがなかった。

 

晩年、愛弟子の顔回やご子息の孔鯉を病気で亡くされ、子路も政争に巻き込まれて亡くなった。冉伯牛が亡くなったのも、同じ時期かもしれない。

ご自身の余命も意識されていたことと思う。

 

孔子は、顔回に道を託そうとしていたように思われる。

顔回が亡くなり、孔子は「天は私を亡ぼした」とお嘆きになった。

その翌年に子路が亡くなり、孔子の「天われを亡ぼせり」の気持ちは一層強くなったはずだ。

 

道が滅んでしまうかもしれない。

道が行われることを聞きたい。

それさえ聞けたら、その日に死んでも構わない。

 

朝に道を聞かば・・・の言葉は、孔子の求道心の発露ではない。

私は、深い悲しみの言葉であると思う。

 

根本先生晩年の悲哀

また、根本先生だからこそ、この解釈ができたのだろう。

明治28年、当時御年75歳の根本先生は、帝国大学文科大学(今の東大文学部)の教授に就任した。

このとき、伝説的な訓辞を遺している。

 

「東洋の漢学は、このわしと共に滅ぶ。

汝らはわしの眼の球の黒いうちに十分に謹んで講義を聴いておくがよい」

 

西洋文化が怒涛の如く押し寄せていた当時、漢学は古臭いものとされた。

根本先生は、漢学が滅び、道が行われなくなることを危惧していたのではないか。

漢学が滅びず、道が行われることを望まなかったはずがない。

死の直前まで、道のために尽くされた。

先生が亡くなられたのは、大著『周易象義辯正』を書き終えた五ヶ月後であった。

 

道が行われないことを嘆いた孔子と、同じ気持ちを持っていたのではないか。

教育者として、漢学者として、道が遺ることを聞けば、その日に死んでも構わないと思っていたのではないか。

 

 

 

 

 

これまでの疑問が氷解し、胸がすく思いがした。

しかし、このブログを書いていると、疑問がなくなって空いたスペースに孔子の悲哀が満ちるようで、やりきれない気分になっている。

孔子の悲哀を知った上は、一層励まなければならない。

一層強い気持ちで道を求めなければ、先人に対する不義になる。

 

朝に道を聞かば・・・の言葉は、私にとって「好きな言葉」ではなくなった。

孔子の悲哀が胸に迫るこの言葉を、単に「好きだ」とは思えなくなった。

富貴・貧賤・君子・小人

富貴や貧賤に直面したとき、どのように処するか。

ここに、君子と小人の違いがある。

今回はそんなお話です。

 

 

君子と小人

論語など、儒学経書を読んでいると「君子」「小人」という言葉がよく出てくる。

 

君子とは

簡単に言えば、君子とは人格者である。

立派な人、徳のある人を意味する。

 

学問のある人を君子と呼ぶこともある。

儒学という学問は、己を修めるところから始まり、やがて天下を治めることを目指すものである。

学問があれば修養もあるべきであって、だから学問のある人を君子とする。

 

為政者など、地位の高い人を君子と表現することもある。

これも、学問ある人と同じようなものだ。

為政者は、国を治め人民を豊かにする責任を負う。

徳がなければできるものではない。

政事に携わる、高い位置にある人には徳があるべきであり、だから地位の高い人を君子と呼ぶ。

実際は、高位高官には悪人もいるため、高位高官の者を君子と表現する例は経書にも少ない。

 

小人とは

小人は、君子とは対照的な存在として用いられる。

人格者ではない人を意味する。

ごく普通の人から悪人まで、広く小人という。

 

ごく普通の人を小人とする場合、それほど悪い意味ではない。

特に学問も修養もないが、それ以上でも以下でもない。

得てして大衆や人民といった人々は、この意味の小人といえる。

小人であるから悪いのではない。それが良いとはいえないが、悪いのでもない。

孔子の生きた時代、学問は貴族のものであったから、大衆は小人であって当然だった。

学問や修養のある君子は、そのような大衆を正しく導き、幸福をもたらすことを使命とした。

 

変に学問がある人物を小人と呼ぶこともある。

小さな学問で満足することを「小人の儒」などともいう。

下手に学ぶと、人間は小賢しくなる。

聖人の道から却って遠ざかる。

学問に志して道から遠ざかり、小人になる。

こういう危険があるから、学問は真剣にやらねばならない。

 

悪人を小人と表現する場合、様々な悪い性質を備えている。

  • 口がうまくて人を惑わせる
  • なんでも曲解して善人をあしざまに言う
  • 親不孝である
  • 残酷で仁義や信義を全く省みない
  • 正義を憎んで不義を好み、不義を正義のように見せかける

など、ざっとこんなものだ。

君子が小人を憎む場合、一般大衆としての小人を憎むのではなく、悪人としての小人を憎む。

なぜならば、悪なる小人は政治を混乱させ、大衆に不幸をもたらすからだ。

 

小人は悪に傾く

良くも悪くもない小人と、悪なる小人とどちらが悪いか。

悪なる小人のほうが悪いのはもちろんだが、それは現時点における評価である。

良くも悪くもない小人は、何かをきっかけに悪に染まる。

言い換えれば、きっかけさえあれば悪に染まる性質を備えている。

 

それを防ぐために、道徳というものがある。

道徳によって善導し、悪から遠ざけることは君子の務めである。

刑罰や法律は、人民を悪へと導く悪い小人を取り締まるためにある。

 

なんら善導することなく、人民を悪から遠ざけることをせず、いざ悪に染まれば法律で取り締まり処分する。

これは、為政者が人民を刑罰に追いやっているようなものだと孔子は仰った。

今の政治にも当てはまることだろう。

 

君子と小人の違い

君子と小人の違いは、徳があるかどうか、といったことになるわけだが、これでは具体性に欠ける。

論語の良いところは、こういった疑問を解いてくれるところにある。

論語の中で、孔子は君子と小人の違いを、分かりやすく教えている。

 

富貴に対する態度

里仁篇の中で、孔子は君子について以下のように仰った。

 

富貴(富や高い地位)は誰でも欲しがるものだ。

しかし君子は、自分が得るべき道理がないのに富貴を手にしたならば、すぐに捨て去ってしまう。

 

 

富貴は誰でも欲しいもの

孔子は、富貴を否定しない。

得られるべくして得た富貴であれば、それを得るのは悪いことではない。

富貴そのものには善も悪もない。

それを手にした人がどうなるか、どう利用するかの問題である。

 

富貴は、誰もが欲しいと思う。孔子もそれを認めている。

儒学は、特に宋学の頃から富貴を否定する色が濃くなった。

伊川先生の教えなどには、特にその雰囲気を感じる。

 

君子になるために富貴を否定する根拠にも、納得できる部分は多くある。

富貴を手にしたとき、心変わりして道を失う人が多いからだ。

どれだけ富を得ても、高い地位についても道を失わないというのは聖人君子の態度であって、並大抵のものではない。

非常に難しいことであり、道を失う恐れが大きいから、富貴を避けるに如くはなし。

この考え方は、もっともなことと思う。

 

富貴そのものに善悪はない

しかし、富貴そのものを完全に否定し去ると、それはそれで正しいとは言い難い。

富貴そのものに善悪はなく、それを対する人の心に善悪があるのだ。

富貴を遠ざければ、富貴に惑わされる機会が減るが、富貴を遠ざけたから君子になれるわけではない。

富貴に惑わされないことが重要であって、これはつまり中庸だ。

お金持ちでも貧乏でも、地位が高くても低くても、それに惑わされない。

君子とはかくあるべきである。

 

 

南隠禅師の言葉

南隠禅師の言葉にも、以下のようなものがある。

 

「お布施の使い残りが五百円あまりあるが、これに少し足せば六百円になるなどと思うから、妙なものじゃのう。世間の人が金を溜めたがるのも、やっぱりこんなものじゃろうのう」

 

南隠禅師も、金銭の多寡を気にすることがあった。

五百円から六百円にしたいと強く思うのではないが、全く無関心でもない。

ただ、六百円に増やすために、手元の五百円を惜しむことはない。齷齪するのでもない。

富貴は誰でも欲しいと思うが、それに惑わされないのが君子である。

南隠禅師は、金銭の多寡を気にする気持ちが起こるのを「妙だ」と思った。ただそれだけであり、捉われてはいない。

金銭に対する南隠禅師の態度は、参考になる。

 

道理に合わねば捨ててしまう

富貴に惑わされなければ、それに固執しなくなる。

富貴を手にしたとき、それをうまく処理できる。

道理に合わないことで富貴を手にすれば、あっけなく捨てるのが君子である。

運よく富貴を手にする人がいる。

これを「運が良かった」と考えて、その富貴に安住するのは小人である。

 

例えば、何かの偶然で高い地位を得たとする。

それに伴い、富も得られるだろう。

しかし、自分がその地位にふさわしいだけの学徳を備えていなければ、その地位にいるのは道理に合わない。

 

道理に合わない地位に留まるのは非道である。

高い地位に就けば、それだけ責任も重い。

人民の生活に大きな影響を与えることも少なくない。

その責任を負い、為すべき仕事をなしてゆくだけの学徳がなければ、その地位にいるべきではない。

その地位をふさわしい人に明け渡すのが道理である。

君子ならば、何の未練もなく退く。それが道理であるからだ。

それをせずに居座るのは、位を盗むことであって、盗賊と変わらない。

 

今の政治家には、どうも盗賊的な人間が多いように思う。

富貴に惑わされ、固執するのが小人である。

日本の政治家は、その好例である。

 

貧賤に対する態度

また、同じ章句で孔子は以下のようにも仰る。

 

貧賤(貧乏や低い地位)は誰でも嫌がるものだ。

しかし、自分が正しいことをしていても貧賤に陥ることがある。

そんなとき、君子はあえて貧賤から抜け出そうとしない。

 

道理に合わぬ貧賤

道理に合わない富貴を簡単に捨てられるのが君子である。

では、貧賤はどうか。

貧賤というものは、道理に合わず身に降りかかることがある。

徳の高い君子であれば、本来は貧賤を得るべきはずがないのだが、現実はそうではない。

君子が不幸に見舞われることもある。

 

  • 孔子も、多くの不幸と困難に見舞われながら、苦難の中で道を説き続けた。
  • 孔子の愛弟子、顔回は貧賤であった。若くして亡くなった。
  • 比干は、暴君・紂王に諫言し、胸を割かれて殺された。
  • 文王も、紂王によって幽閉された。幽閉中、ご長男やお父上は殺されてしまったという。
  • 史記列伝の筆頭、伯夷と叔斉もそうだ。仁義を貫いて餓死した。

 

このように、道理に合わない貧賤や不幸が起こり得る。

 

もちろん、道理を守れば貧賤に陥ることは少ない。

失敗することは少ない。

失敗しても致命傷には至らず、復活のきっかけが得られやすい。

長期的に見れば、道理を守ることで志を得られる。

貧賤に陥り、若くして死んだ顔回も、道理を守ったことで聖人の道に連なった。

現代でも尊敬され、儒者の道しるべとなっている。

顔回の志は2000年後の現代にまで伸び栄えている。

 

貧賤から去るは仁から外れる

君子には、道理に合わない貧賤を憎むところがない。

これも顔回の姿勢である。

顔回は貧しい生活から逃れようとしなかった。それを楽しんでいた。

 

君子が貧賤を去らないのは、諦めから貧賤を受け入れているのではない。

「貧賤を去らない」とは、「仁に留まっている」ということである。

無理に貧賤を去ろうとするのは、仁に留まれないからだ。

貧賤を去るとは、仁から外れることにほかならない。

君子は、仁から外れて名を成そうとは思わない。

 

貧賤を憎み、抜け出すことを考え、仁から外れるのが小人である。

 

 

総括

孔子の仰る通り、誰もが富貴を好み、貧賤を嫌う。

道理に合わぬ富貴を手にしたり、貧賤に見舞われたりすることもある。

そこでどのように振る舞うか、ここに君子と小人の決定的な違いがある。

 

私はまだ、富貴を得たことがない。

今後、道理に合わぬ富貴を得るかもしれない。

その際、君子として振る舞えるようにしっかりと学問していきたい。

 

私は過去に、貧賤を得たことがある。

しかし、道理に合わない貧賤ではなかった。

貧賤を得るべくして得たように思う。

真面目に、自分の道を信じて歩んでいるつもりだったが、独善に過ぎなかった。

道理によって貧賤を得た。

 

ろくに食べられない時期も長かった。

幸い、道から外れることはなかったが、貧賤を楽しんではいなかった。

貧賤を憎み、抜け出したいと思っていた。

抜け出すことを強く願い、数年間にわたり策をめぐらして抜け出した。

 

もし今後、当時のような貧賤に、道理に合わず見舞われたらどうだろうか。

その貧賤を楽しめるだろうかと、たまに考える。

 

 

正直不安だ。

君子ならば、貧賤を楽しめる。

私は、自分自身が君子であるとはとても思えない。

貧賤に見舞われたとき、取り乱すのではないか。

そんな風に思う。

噬嗑録

 

私は毎日、日記をつけている。

日記帳には『噬嗑記』と名付けている。

 

噬嗑ぜいこうとは、易の火雷噬嗑からいぜいこうから採ったものである。

噬は噛むこと。

嗑は合うこと。

噬嗑とは噛んで合うことである。

口の中にあるものを噛み砕き、上の歯と下の歯がかっちり噛み合うことである。

 

口に入れた食物をしっかりと噛み砕き、上歯と下歯を噛み合わせて咀嚼する。

よく噛んだ後、食物を嚥下する。

それが栄養になり、活力になる。

「噬嗑はとおる」とはこのことである。

 

『噬嗑記』と名付けたのも、日記にふさわしいと思ったからだ。

日常の出来事や気づき、感情を記録していく。

毎日を漫然と過ごすのではなく、その日その日のことを噛み砕き、咀嚼し、反省し、修養の糧とする。

まさにこれは噬嗑の徳であると思い、『噬嗑記』と名付けた。

 

 

このブログにも、噬嗑の二文字はぴったりであろう。

ただ、他人の目に触れるものだから、自分用の日記とは異なる。

そこで、『噬嗑記』とせず『噬嗑録』とした。

記も録も「しるす」であり、大意ではあまり差がないが、自分の中での区別である。

 

 

「噬嗑」が、このブログのテーマである。

 

  • 自分が学んだ内容を噛み砕き、咀嚼する。自分なりに整理して理解を深める。
  • 読んだ人が興味を抱けるように、陳腐にならないように、自分の体験を交えたり、様々な例を挙げたりしながら、噛み砕いて書く。

 

といったイメージを抱いている。

とりわけ、自分の学びを深めることを重視したい。

丁寧に学び、自分の学問が大きくなってくると、整理しながら学ぶことの重要性が高まってくる。

 

色々学ぶ中で、あまりよくないものも取り入れているかもしれない。

理解に苦しむが、味わうべきものもあるだろう。

学びの段階では特に関連付けられていないもの同士を、あえて関連付けることで深まることもある。

 

そういったものを、噬嗑の徳でこなしてゆく。

噛み砕く中で、異物と思えば吐き出してしまう。

固いもの、味の悪いもの、しかし滋養溢れるものは念入りに咀嚼する。

別々になっているものをよく噛み合わせ、粉砕して合同する。

これは、学問において欠かせないことである。

 

こんな目的意識を以て、ブログタイトルを『噬嗑録』とした。

暦のはなし

以前、弟に三国志のドラマであるスリーキングダムズを勧めた。
三国志のことをあまり知らないと言っていたので、このドラマなら間違いないだろうと思って勧めたのだ。

案の定ハマり、短期間のうちに一気に観たようだ。

 

ドラマを勧めてみて、感じたことがある。

以前に比べて、会話の幅が確かに広がったように思う。

 


例えば先日、暦について話した。

 

私は最近本をどしどし捨てている。

本をすぐに買ってしまう癖があるが、後になってつまらなかったと思うものも多い。

書店で買えばそのようなミスも少ないが、ネットで買うとミスが増える。

買うべきでない本を買ってしまった場合、そのままにしておくよりも捨てたほうが良いのではないか。

異端を攻めるべく、吟味の上で不要と思えば捨てている。

そんな話をしていると、弟は

 

諸葛孔明みたいに、暦だけ残すんですか」

 

といった。

私は覚えていないのだが、作中、諸葛孔明のセリフに

「私は暦があれば十分です(暦のほかに書物は特に持ちませぬ?)」

というものがあったらしい。

 

なぜ「暦だけ」なのか、製作者の意図は知らない。

しかし、ともかく暦は古において大変重要なものであったから、その辺に関係しているのだろう。

このことは、論語八佾篇の告朔(コクサク)の餼羊(キヨウ)の話からよく分かる。

 

古においては、天子が諸侯に対し、翌年の一年分の暦を前年中に授けた。

暦を賜った諸侯は、それを廟に保管する。

年が改まった1月1日、廟で告朔の祭りを行う。

 

朔とは朔日。月の第一日のこと。

告は告げる。

つまり告朔の祭りとは、朔日に告げる祭りである。

何を告げるかといえば、

 

・本日が朔日であること

・その一ヶ月間になすべきこと

 

である。このとき、生きた羊を一頭供える。

この生きた羊が餼羊である。

告朔の祭りを終えると、次は君公に暦を告げる。

 

この祭りは、古代の政事に欠かせないものであった。

君公に暦を告げることで、例えば農作業として何日に何をする、何日に何の工事をするといったことが決まる。

一年間にわたって、滞りなく政事が回っていくためにも、暦は非常に重要だったのである。

 

当時の魯国では、君公が告朔の祭りに消極的だった。

形だけはやるから、餼羊も供える。

しかし、君公が暦を無視する。

告朔の祭りは全く形骸化していた。

毎月朔日に餼羊を一頭供えると、一年間で十二頭の餼羊がいる。

形骸化した祭りに、このような出費は無駄ではないか。

そう考えた子貢は、孔子に「こんなことはやめてしまいましょう」と言った。

 

孔子は子貢の提案を退けた。

形骸化した祭りでも、形だけでも残すべきだ。

形だけでも残っていれば、いずれ心掛けの良い君公が出た時、告朔の祭りが復活するだろう。

暦によって政事が行われ、人々の生活に役立つだろう。

だから餼羊を排してはならない。

お前は羊の無駄を惜しむが、私は礼が失われるほうが惜しい。

孔子はそう仰った。

 

 

スリーキングダムズの作中で、諸葛孔明が暦に言及した意図は分からない。

しかし、ともかく暦は大切なものであった。

暦があるから告朔の祭りがあり、それによって政事が回ってゆく。

当時、祭りと政事は切り離せないものであった。

易経にも、祭りに関する言葉が非常に多い。

 

政を「まつりごと」というのも、「祭り」からきている。

古代においては祭り≒政事であったのだ。

現代の政治でも「政教分離」という言葉がある。

政事と宗教を分ける考え方である。

戦前まで、日本は祭政一致を理念としていた。

おかしな宗教が政治に関与しない(実際のところはさておき)点では政教分離は良いが、本来は祭政一致であるべきと私は思っている。

 

 

スリーキングダムズが入口となって、こんな話もできるようになった。

官渡の戦いのところで、袁紹天地人の神様を祭って戦勝祈願するシーンがあっただろう・・・」

といった話もできる。

 

以前なら、このような話題はあまり深く話さなかった。

手軽なもの、三国志ならば漫画やドラマを入口にするのは、結構良いことだと思った。

弟のように、そのような入口がなければ、敬遠してしまう人もいるのだ。

そこで満足しても、何も知らないよりは良いだろう。

そこから深めていけば、なお良いだろう。

異端を攻めよ

先日、弟とお茶会をしていて、ひとつ気付いたことがある。

私は古い学問や伝統・文化が好きで、保守的な人間であると思っていた。

しかし、意外にそうではない一面があることを認識した。

 

 

求めるは同じ味か、違う味か

 

まず、飲み物。

弟はネスカフェのアイスコーヒーと、水を用意していた。

私はほうじ茶、紅茶、トマトジュースである。

紅茶は、名前も覚えていないが、トロピカルな雰囲気のものを買った。

好きで買ったのではない。飲んだことがなかったし、レモンティーやアップルティーというのではなく、新鮮に思って買ったのだ。

 

 

食べ物。

弟はナッツを食べていたと思う。

私は、パンやおにぎり、お菓子、それに色々な味のアイスクリームを食べた。

 

問題はアイスクリームである。

クーリッシュのカルピス味を食べ、続いて爽のレモンスカッシュ味を食べていると、

「変わった味ばっかり食べますね」

と弟が言った。私は全くそんなつもりはなかった。

 

「そうかね?」

「俺は大体同じ味ばっかりですよ」

「何味?」

「バニラです」

「食に保守的なのかね」

「そうかもしれません」

 

保守的でないとすれば、私は進歩的なのか。

そうとは思えない。

意識的に新しい味を求めているつもりはない。

しかし、無意識的に新しい味を求めているならば、それは意識的に求めるより強く求めているようにも思える。

 

「どうせ値段は一緒やし、新しい味を食べたほうが面白くない?」

「兄貴は好奇心が強いんでしょう」

 

確かに、そうなのかもしれない。

同じ味を繰り返し食べ続けるのは苦にならないが、その必要がなければ味を変える。

 

おにぎりはどうか。

お菓子はどうか。

お酒はどうか。

色々検討したが、食に関しては私は保守的ではなさそうだ。

おにぎりやお菓子も、新しいものや食べたことのないものを見れば買いたくなる。

お酒もそうだ。缶チューハイ発泡酒なども、色々試す。

 

強く意識してそうしているのではない。

だから、自分にこのような傾向があることを初めて実感した。

 

この時は、なつかしい駄菓子の話、子どもの頃の貧乏話、方言の話などをしただけであった。

しかし、これについて色々考えてみると、儒学的にひとつの気づきがあった。

 

広く学ぶことの是非

 

思えば、学問においても、私にはそんなところがあったかもしれない。

かつてひどい乱読に陥った時、私は何でも手をつけた。

広く知っていることが偉いと思っていたから、特定のジャンルにこだわらず、あらゆるジャンルを読み漁った。

 

広く学ぶことは、一般には知的好奇心が旺盛などと言われるし、良いことのように思われる。

しかし、私はこの考え方に疑問である。

 

 

 

広く学ぶことを推奨する意見には、以下のようなものが多い。

 

 

「なんにせよ、多くを知っているのは良いことだ。

知っていることが多ければ、世界が広がる。そうでなければ世界が狭い。

これは、自分の道を決めるうえでも重要だ。

 

知っている範囲が狭ければ、狭い中から自分の道を決めなければならない。

自分を活かせる最適な道がどこにあるか分からない中で、少ない選択肢から選ぶのは良くない。

知っている範囲が広ければ、選択肢が多い分だけ良い道を選びやすい。

自分の道が確立しないうちは、広く学ぶのが良い」

 

 

果たして、これは本当だろうか。

選択肢が多ければ迷いも多い。

多才な人でなければ、自分の力を発揮できる道は限られている。

“最適な道”を選ぶならば、正解は一つだけだ。

 

選択肢が少なければ、そもそも選択肢の中に正解の道がない可能性も高い。

選択肢が多ければ、ハズレを選ぶ確率が高まる。

どちらが良いとは、一概に言えない気がする。

 

私自身は、選択肢が少ないほうが幸せではないかと思う。

選択肢の多少にかかわらず、最適な道を選ぶことは難しい。

しかし、道を誤った時が問題だ。

 

選択肢の少ない中で道を誤った時、後悔は少ない。

極端な話、家業を継ぐ場合などは選択肢はたった一つであるから、「あの時、別の仕事を選んでいれば」という後悔は起こりにくい。

選択肢が多い中で道を誤れば、後悔は多い。

「別の道を選んでいれば」と思い、再び多くの選択肢から選んで転職して、うまくいくだろうか。

難しいように思う。

 

本当に自分に合った道を見つけることは、とても難しい。

それができず、不満や迷いの中で働き、生きている人がほとんどだろう。

失敗するのが普通といって良いくらいだ。

私は、今の仕事に満足しているが、最適かといわれると正直よくわからない。

 

置かれている環境の中で、

望むかどうかに関わらず就いた仕事をこなしていく中で、

良い生き方を心がけ、真面目にやっていくだけではないかと思う。

 

異端の害

 

私は、広く学び、選択肢を広げることが重要とは思わない。

広く学ぶにしても、順序というものがある。

ひとつ目をしっかり学び、二つ目をしっかり学び、三つ目をしっかり学び・・・やがて広く道に達するならば、それは素晴らしいことだろう。

これを理想とするのも、良いことだと思う。

 

しかし、現実的なことを考えると、なかなか難しい。

一つのことをどの程度まで深めるかにもよるが、人生を通じても、凡人はそれほど広く学べないのではないか。

そこで広く学ぼうとすると、おかしなことになる。

 

孔子曰く

孔子は、「異端を攻(オサ)むるは、斯れ害あるのみ」と仰った。

一般的には、異端とは「本筋から外れた学問」と解釈する。

いわゆる曲学阿世(キョクガクアセイ)がこれにあたる。

曲学阿世とは、世の中に迎合し、本来の学説や道理を捻じ曲げることだ。

本筋から外れると、曲学阿世に陥る。それは誤りであるという戒めである。

 

根本先生曰く

根本通明先生の解釈は、より徹底している。曰く、

 

「今日学んで居る処を何処までもやらずに、其の他のことを雑へてやつては、今日学ぶ事が十分にいかぬ。

学問ならば学問を充分修めて、其の他に種々の芸能までも修めて行かうとすれば、専らにする学問の妨げが出て邪魔になる。

異端といふは、今日専ら修めて居る他が皆異端である。

異端は悪いと云ふではない、吾と異る所が皆異端である」

 

つまり、自分が今日現在学んでいるもの以外は全て異端である。

本筋といえる学問でも、今日学んで居ないものは異端である。

今日、学んで居るもののほかにも良いものがあるだろうが、今は邪魔になるからひとまず避けなさいと教える。

曲学阿世はもちろんだが、孔孟を学びながら老荘を学ぶ、老荘を学びながら仏教を学ぶ、仏教を学びながらキリスト教を学ぶといったことは全て異端を攻めることと考える。

もちろん、ひとつひとつ丁寧に学び、深めた後は、孔孟も老荘も、仏教もキリスト教も、それらにまたがって学びを深めて良いと思う。

その段階では、これらは全て今日学ぶところであり、もはや異端ではないからだ。

 

新解釈「異端を攻(セ)めよ」

根本先生はこの箇所について、後に改めておられる。

先生は、病床にて修正をなされた。原文を

 

異端を攻(セ)めよ、斯れ害なるのみ

 

と読み、

 

「異端を攻むるは、なお敵を攻むるがごとくせよ。

これを攻落して正に帰せしめよ。

異端は有害無益なり」

 

としている。

 

当初の解釈では、異端は「今日学んで居るもの以外」であり、着実に、丁寧に学ぶことを教えられた。「異端が悪いのではない」とも仰った。

後日の訂正では、異端を強く責めている。

この異端とは、本筋以外の学問である。

しかし、一般的な「本筋以外を避けよ」とする消極的姿勢ではなく、「本筋以外は攻めよ」の積極的姿勢であり、趣きはかなり異なる。

今日学んでいるかどうかに関わらず、異端は異端であって害であるから攻撃せよ、訂正せよとしている。

 

これは、必ずしも他人や社会の曲学阿世を攻撃せよという意味ではないと思う。

「本筋以外に囚われるな」の解釈を敷衍し、

 

「本筋以外に囚われるな。

色々な学問・学説・誘惑があるだろうが、本筋から外れ、道理に反する教えには敵愾心を燃やしなさい。

正しい学問、正しくない学問を厳しく峻別し、己の学を正しく保ちなさい」

 

と仰ったのではないかと、私は考えている。

 

心中の賊を鏖殺せよ

一般的な解釈に比べて、根本先生の「異端を攻めよ」の解釈が優れていると私は思う。

学問とは、自分の徳を磨くものである。

修養にあたって、時には自己の悪い部分を攻撃的な姿勢で矯正する必要がある。

 

王陽明も「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」と仰った。

「山の中に潜む山賊をやっつけるのは簡単だが、心の中に潜む悪癖や私欲などを捨て去るのは難しい」という意味だ。

 

これに関して、山田方谷先生の漢詩にもこんなものがある。

 

賊據心中勢未衰

天君有令殺無遺

満胸迸出鮮々血

正是一場鏖戦時

 

賊 心中によつて 勢未だ衰へず

天君 令あり殺して遺すなからし

満胸迸出す 鮮々血

正に是れ一場鏖戦(オウセン)の時

 

(賊が心の中に巣くって、盛んな勢いである。

天は私に、この賊を一掃せよと命じられた。

胸から鮮血がほとばしる。

今こそ心中の賊を皆殺しにする時だ)

 

方谷先生は、あるときひどく喀血して倒れた。

このとき、王陽明の「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」を思い出し、この漢詩を作った。

自分の心に巣くう賊の勢いが強く、胸がひどく傷つけられて大量に喀血した。もうのんびりしてはいられない。これぞ天機である。心中の賊を攻めよ。

 

根本先生が「異端を攻(オサ)むるは・・・」から、「異端を攻(セ)めよ」に改めたのは、「異端というものは、鏖戦の勢いで攻めなければ異端の害に侵される。異端を攻めよ」ということだったのではないか。

 

 

 

私は学徒であるから、「異端を攻(オサ)めず」の姿勢がもちろん重要だ。

しかし、それ以上に「異端を攻(セ)めよ」の姿勢を持ちたいと思う。

 

かつて、異端を攻める姿勢がなく、乱読に陥って大失敗したのだ。

私は元来、そういう傾向があるのだろう。

食べ物を選ぶ際、新しいもの、珍しいものを好んで選ぶことに、何の問題意識もなかった。

しかし、あまり馬鹿にできないのかもしれない。

食べ物の選び方が、学問上の姿勢にも表れるのではないか。

本来、私の性格は弟の性格に比べて、異端に手を出しやすい傾向があるのではないか。

先日のお茶会を通して、そんな風に思った。

 

失敗を通して、乱読をやめ、無秩序な学びを排した。

遠回りしながら、異端を攻め、道を大幅に修正できた。

これは幸いであったけれども、性格性向を本質的に改めるのは難しい。

どこかで、異端に無防備になることがあるかもしれない。

そうならないよう、慎みて怠ることなく、学問に取り組みたい。

元亨利貞で学問す

昨日、弟と長時間にわたって話し込む中で、筆写についても色々と話し、自分自身、考えるところもあった。

弟には、私がなぜ筆写するかということについて、もう少し詳しく話したかったが、それは避けた。

易などと絡める必要があるが、それを弟に口頭で説明しても、おそらく難しいからである。

 

そこで、以前書いた文章の整理も含め、今一度、筆写について自分の考えをまとめてみたい。

これを以て、筆写についてさらに述べなくてもいいような、そんな文章を書きたい。

 

 

筆写を始めた経緯

 

私が筆写を始めたのは、高校生の頃である。

最初は、勝海舟福沢諭吉の模倣であった。

 

勝海舟の例

勝海舟は20代の頃、蘭学に志した。

しかし、オランダ語を学びたいが教材がない。

あるとき、勝は蘭方医オランダ語の辞書『ヅーフ・ハルマ』を所有していることを知る。

貸してほしいと頼んだが、当時、蘭語辞書は大変貴重なものであったから、容易に貸してもらえない。

やむなく勝は、年10両を支払うことを条件に借り受けた。

勝は非常に貧乏であった。年10両はとても支払えない。

そこで、全文筆写を2度繰り返し、二部の『ヅーフ・ハルマ』を作り、一部を自分用、一部を師に数十両で売り、賃借料に充てた。

ヅーフ・ハルマに収録されているのは約5万語。勝はそれを1年間で二度筆写したのである。

私は勝海舟の伝記の中でこの逸話を知り、学徒はかくあるべしと思った。

 

福沢諭吉の例

福沢諭吉にも似た話がある。

あるとき福沢は、主人からオランダの築城書を見せてもらった。

当時、オランダ語の原書は珍しい。どうしても読みたくなって、貸してほしいと頼むが主人は許さない。

福沢は一計を案じ、数日借り受ける許しを得た。

これは200ページほどの本であったという。

福沢は、昼夜を徹して筆写し続けた。

2~3日に一度、当番の勤めがある。この時は昼の筆写を休む。

これを繰り返して全て筆写を終え、間違いがないか読み合わせもやり、20~30日くらいで全部写してのけた。

当時『福翁自伝』を読んでこの逸話を知り、やはり感心したことを覚えている。

 

筆写を始める

当時、私はやたらと本を読んでいた。

一日一冊読むと決め、毎日毎日続けていた。

もちろん、やると決めたらやるという思いでやっていただけで、読み方は実に雑であった。

当時読んだものが、少しでも修養につながったかと考えると甚だ疑わしい。

むしろ、読みまくっていることに変な自信を抱き、却って小賢しくなっていたように思う。

 

これは乱読の危ないところであると思っている。

冊数ばかりこなして、実際には何も得られていない。

しかし、ともかく読んだという事実があるから、賢くなったように錯覚する。

実際には賢くなっていないのだが、カスのような知識がいくらか身についている。

カスのような知識をいくら集めたところで、そんなものはごみ溜めに過ぎない。

小さなごみ溜めも、大きなごみ溜めも、どちらもごみ溜めに変わりはない。

どちらかといえば、小さなごみ溜めの方がマシだろう。

勉強して小賢しくなるくらいなら、勉強などせぬほうがマシということだ。

しかし、小賢しい奴というのは、ゴミを溜め込むほどに誇る。

馬鹿なことだ。

当時の私はまさにそれであった。

 

筆写という学習方法があることを知り、自分の乱読を見直す契機になった。

それまで、毎日一冊の読書をこなしたが、はたしてそれでいいのだろうかと考えると、どうもよくない気がした。

特に、ノルマをこなすために、じっくり時間をかけるべき本までサッサと読んでいるのは改めるべきと思った。

読書は続ける、しかし一方で古典など丁寧にやるべきものは筆写しようと考えた。

 

最初に写したのは、岩波文庫の『大学・中庸』であった。

そもそもの下地がないから、筆写したところで何か得たとは思わなかった。

それでも、丁寧にやったことで記憶にも残った実感がいくらかあり、自分には筆写が合っていると思った。

 

大学に入ってからは、特に多く筆写した。

何冊くらい写したか覚えていないが、筆写したノートはA5・30ページのものが30冊くらいはあったと思う。

 

長い時を経て

その後も、折に触れて筆写は続けた。

これは、あまり意味はなかったように思う。

筆写という学習方法自体は非常に丁寧である。

しかし、より大きな方針が乱雑であったのだ。

思い付きで、良いなと思った本を筆写した。

行き当たりばったりで、何も計画性がなく、色々な思想が入り乱れ、わけがわからない状態だった。

 

熱心に取り組んだ(つもり)割には、成長を実感できない。

日常生活で何も生きてこない。

親不孝もするし失敗もする。

死にかけたのも、ここにいくらか原因があるように思う。

ごみ溜めを作るような学問は嫌だと思い、乱読を改め筆写をやり、結局ごみを溜め込んだだけだった。

社会人になってからどれくらいだったか、自棄になって学生時代に筆写したノートを全て捨てた。

 

その後、筆写する機会は減ったが、筆写を廃してしまうことはなかった。

読書に力を入れた時期もある。

まあ紆余曲折あって、結局筆写が良いと思うに至った。

昨年の末から、十年以上にわたってやってきた勉強を全部捨て、またイチからやり直そうと決めた。

 

 

やり直して早々に、順序を強く意識するようになった。

これは良かったと思う。これがなければ、また雑になっていただろう。

 

孝経、小学、大学、論語孟子・・・といった順序で、しっかり筆写した。

すると、10年以上も乱雑にやってきたのが馬鹿らしくなるほど、自分の中で理解が深まっていく実感があった。

昨年12月から現在までに筆写したのは、

 

・言志録

・言志後録

・言志晩録

・言志耋録(ここまでは、やはり順序を守っての意識がまだ低かった)

・孝経

・小学

・大学

論語

孟子

・中庸

易経

・近思録

 

である。

今後、筆写したいものがいくつもあり、四書五経を一通り学び終えるのにあと数年をかけたいと思っている。

 

高校の時分、乱読から筆写に変え、大学では筆写を一筋にやり、社会人になってからは一度筆写を廃そうと迷ったが、最近、再び筆写に帰った。

今では、筆写とは易理から考えても間違いのない方法だと思っている。

 

 

筆写の利点

 

私が思う筆写の利点は、大きくいってふたつある。

 

丁寧に学習できる

当初、私が筆写する理由は、単に「丁寧にやりたい」であり、今もそれは重要だと思っている。

筆写する場合、少なくとも筆写する箇所については、全文を丁寧に読まなければならない。

書き写すのだから、一文字でも読み飛ばせない。

速読、斜め読みなどはできず、尺取虫の読書をすることとなる。

 

孟子は、一字一句に囚われてはならないと教える。

しかし、読み飛ばして良いとか、サラサラ読めとは一言も言っていない。

全て丁寧に読み、重要な箇所とそうでない箇所を自分なりに選択することが大切だと思っている。

全てを丁寧に読むことが前提であるから、この意味において読みながら書き写す、書き写しながら読むというのは優れた方法だと思っている。

 

気の抜けた学習に陥らない

実際にやってみると分かるが、一字一句、書き損じることなく筆写するのは難しい。

集中力が高まっているときは、書き損じが起こらない。

書き損じが多いほど、集中できていないことが自覚できる。

 

単に読むだけであれば、集中力に欠けるとき、その自覚がないままだらだらと読み進めてしまうことが多い。

私はそうである。

筆写であれば、だらだらとした学習はできない。

読んだものを正確に書き写すという意識があるからだ。

だらだらと書き写すこともできないではないが、そんなことをすれば書き損じが多くなる。

多く間違えながら、何も改めずにダラダラ書き続ける人はいないだろう。

書き損じが出るたびに「いかんいかん」と気合を入れなおす。

間の締まった、緊張感のある学習ができる。

 

これも筆写の効用だと思っている。

 

 

筆写は元亨利貞

 

筆写の良いと思うところは色々あるが、常に実感している効用は上の二つである。

 

時間がかかる、労力がかかるといったデメリットもある。

それに、誰にでもおすすめの学習方法とは思わない。

筆写せずとも、読むことで丁寧に、集中力を保って学習できる人もいるだろう。

そのような人が筆写するのは無駄であろう。

あくまでも、私にとって最も良いと思ってやっているだけだ。

 

私同様、読むだけでは自信がない人には、筆写をやってみてはどうか、という思いもないではない。

しかし、時間のかかることでもあるし、安易に勧めるべきではないとも思う。

以前、質問箱をやっていたころ、筆写について色々聞かれることがあったから、興味がある人は多いのかもしれないが。

 

 

筆写するにせよ、読書するにせよ、丁寧にやることは大切だ。

 

心を用いず、だらだらやるなら、遊んでいたほうがマシだ。

そんな人は、無理して勉強せずとも良いだろう。

 

丁寧に学ぶことは、易学的に考えても重要であると思っている。

易を学んでから、そのように考えるようになった。

 

筆写を始めたきっかけを思い返してもそうだし、今ではなおさらそうだが、私は学問において「元亨利貞」ということを大切にしている。

元亨利貞とは、物事の正しい順序である。


元は始まり、

亨は伸びてゆくところ、

利は伸びたものが引き締まってゆくところ、

貞はしっかりと引き締まったところ。
貞に至って、また元に戻り、元亨利貞を繰り返す。

 

元亨利貞は春夏秋冬にも通じる。
春に草木が芽を出し、

夏に盛んに伸びてゆき、

秋になると徒長せず引き締まって実をつけ、

冬になると実が落ちて種となり、葉が落ちて肥料となり、翌年の春へと引き継がれる。

 

経書から学ぶことに当てはまると、

元は読み始めるところ、

亨は読み進めてゆくところ、

利は読んだものの理解を深めてゆくところ、

貞は自分なりに理解が達するところ。
この元亨利貞を引き継いで次の書物へ進み、また元で始まり、亨、利、貞と繰り返してゆく。

 


世の中のことは、何でも正しい順序というものがある。

それを守って進んでゆくことを「順調」という。
正しい順序を踏まず、一足飛びにやるならば、健全に発達できず、変態に至る。

変態を繰り返せば、必ずおかしな方向へ進んでいき、目的とは大違いのところへ行きつく。
もしくは、ずいぶん進んだところでおかしいと気づき、しかし出発地点に戻る元気もなく、中途で挫折する。

 

 

春夏秋冬の流れが絶対であるように、元亨利貞の順序は絶対である。

元亨利貞は道理である。

元亨利貞の順序を守って取り組むことが、丁寧とか真面目とか、そういうことになると思っている。

 

細かく言えば、色々な順序があるだろう。
それぞれの力量や能力、性質に応じて、元亨利貞の各段階でどのように勉強すべきか、といった細かいところが変わってくる。

それでも、例えば元亨だけで満足して利貞を怠るならば、次なる元亨利貞につながるはずはなく、変態に至る。

これは間違いのないことだ。

 

私の場合、元亨利貞で正しくやるためには、読むだけではなく書く必要があると、自分で分かっている。
読むだけでは元亨、うまくいっても元亨利で終わるだろう。貞に至らない。

それでは意味がない。
だから、書き写す。

 

読むだけに比べると、筆写には時間も労力もかかる。

読むだけの人から見れば、大変に効率が悪い。

しかし、私自身はそれでよいと思っている。

時間と労力はかかるが、それは問題でない。

そもそも、一生かけるに値する学問をやっているのだ。

1週間で通読できるものを、1ヶ月かけて筆写したからといって、何も問題はない。

 

私は、筆写によってこそ丁寧に、集中して学べるのだ。

筆写は、私が貞に至る可能性が最も高い方法であり、順調に進んでいくことができる唯一の方法なのだ。

筆写することを嫌い、読むだけで済ませようと考えて元亨や元亨利で満足するならば、そのほうが大問題である。

結局のところ、私にとって筆写が最も良い方法である。

 

 

もっとも、何をどこまで筆写するか、これは後になってみないと分からない。

筆写を通して四書五経の理解をある程度深めた後は、そこから派生する古典は筆写せずとも元亨利貞でスムーズに学べるのかもしれない。

経書を十分に学べば、その後はあえて筆写する必要はないのかも。

老荘を学ぶ段になって再び筆写、禅を深めるにまた筆写というように、老荘なら老荘、禅なら禅における元にあたって筆写に取り組み、亨、利、貞と進むにつれて筆写が減ってくる。

そのような流れも十分にあり得る。

 

 

弟には、「元亨利貞」ということを話さなかった。

この機会に知っておくと良い。

元亨利貞はあらゆることにあてはまる。

一日の仕事の段取りは元亨利貞であるべきだ。

顧客に営業をかけるでも、その中で元亨利貞があるはずだ。

そういうことを、日常の中で少し考えてみると、なにか気づくこともあるだろう。

 

日本神話にみる努力の在り方

同じ意味で使われる言葉に対し、こだわりを持つことがある。

どちらを使っても、それを聞く人や読む人の意識に差が出ないような些細な違い。

自分だけがその違いを意識しているのだから、自己満足である。

しかし、そういうこだわりをひそかに持っておくことは、悪いことではないと思う。

 

 

積み重ねる/積み上げる

 

最近、ひとつこだわりが増えた。

「積み重ねる」「積み上げる」の区別である。

 

私は、学問や努力を継続することを「積み重ねる」という。

このほかの表現を意識したことはなかった。

 

ツイッターをはじめてから「積み上げる」という表現を知った。

もちろん、「積み上げる」という日本語は知っている。

しかし、私にとって「積み上げる」とは、努力の継続の表現ではなく、単に積み木であるとか、商品の陳列とかのように、物理的に積んでゆくイメージが強かった。

 

「積み上げる」を意識的に使っていると思われる人を幾人か見た。

「積み重ねる」と「積み上げる」のどちらが多いか、それは分からない。

そもそも「積み重ねる」が私にとって自然であるから、意識することがない。

却って「積み上げる」の表現が目立って見えるのかもしれない。

 

 

 

学問やスポーツなど、努力を継続する場合の表現として、

「積み重ねる」も「積み上げる」もどちらも正しい。

 

ならば、より良い表現はどちらか。

あるいは、自分によって好みの表現はどちらかと考えた。

色々考えたが、私には「積み重ねる」の方が優れているように思える。

 

積み上げるとは

 

「積み上げる」は、「積む+上げる」である。

積むことで高さ上げてゆく。

この表現には「上へ上へ」の雰囲気が感じられる。

 

「上」は指事文字である。

指事文字とは、象形文字のように形で表すことが難しい物事を表すために作られた文字である。

例えば、概念的な物事は象形文字では表せない。上や下などは概念であって、それそのものに形はない。

そこで、点や線を使って表現するのが指事文字である。

 

「上」は、手のひらを上に向け、方向を示す点をつけたものである。

この点を「指事点」という。

古く、甲骨文字では「上」をこのように書いた。

 

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「上」の成り立ちから考えても、「積み上げる」には上方向への意識が明確であり、上を目指す意欲が感じられる。

もちろん、努力を継続するのは目的や志があるからであって、高きを求め、上を目指すのは当然のことだ。

 

積み重ねるとは

 

しかし、「積み重ねる」のほうが一段優れているように思う。

「積み重ねる」は「積む+重ねる」であり、「重ねる」の向かうところは下である。

 

「重」が下向きであることは、「重い」で考えるとわかる。

「重い」は、地位や責任などに使われる。

組織で重要な地位にあることを「重臣」や「重職」という。

これは、位の低い者に比べて権力も大きければ責任も重い地位である。

大きな権力を振るうには大きな責任が伴う。

自分の采配によって、多くの人に苦しみを与えるかもしれない。

そうならないためには、君主など上をみて行動するのではなく、下をみて行動しなければならない。

それが、重臣たるものの責任である。

軽々しい行動は慎まなければならない。

 

重職心得箇条における「重」

 

佐藤一斎先生も、重職心得箇条の冒頭で以下のように述べている。

 

重職と申すは、家国の大事を取り計らうべき職にして、この重の字を取り失い、軽々しきは悪しく候。

大事に油断ありては、その職を得ずと申すべく候。

まず挙動言語より厚重にいたし、威厳を養うべし。

重職は君に代わるべき大臣なれば、大臣重うして百事挙るべく、物を鎮定する所ありて、人心をしつむべし。

かくの如くにして重職の名に叶うべし。

 

重職は、国家の重大なことを考える職である。

「重」の字を失って軽々しくなるのはいけない。

軽々しくなれば、重大な局面で油断ができる。それでは重職は務まらない。

まずは立ち居振る舞い、言葉遣いを重々しくし、威厳を養いなさい。

重職は、君主に代わって政治を仕切る大臣であるから、これが重々しくあってこそ万事うまくいく。人々の心も安らかになる。

これでこそ、重職の名にふさわしい

 

一斎先生は、「重」の文字を以て、重職は上ではなく下を志向するべきと考えた。

重職心得箇条の中には、「重職には重職の仕事があるのだから、小さな仕事にとらわれるな」といった心得もあるが、これは下を視るなということではなく、下の、それも特定の箇所に見入るなということだ。

重職は、君主に代わって政治を仕切る。

そもそも、君主とは人民を豊かに治める存在であり、下を向かねばならない。

その代理である重職も、やはり下を志向すべきである。

威厳ある振る舞いをするのも、下のものをうまく治めるためであって、やはり下向きである。

このように、「重」には下向きの意味がある。

 

漢字「重」の成り立ち

 

また、重という漢字の本来の意味を考えても、やはり下向きである。

重は、「東+土」からなる象形文字である。

東とは、袋を意味したものとされる。

そこに土を加える意味は定かではないが、白川静博士などは土を錘(オモリ)と考え、

袋に穀物などを入れ、その重量を錘で測る意味に解した。

「重」が「おもさ」を意味するようになったゆえんである。

 

重量とは、物体に対して重力が働くことで生じる力である。

重力とは、地球が物体を地面に引き寄せる力である。

やはり「重」は下向きだ。

 

修理固成

 

「積み重ねる」を「下向きに積む」と考えると、よく意味が分からない。

では、下へ圧力をかけ、固めながら積むのはどうか。

単に積み上げるよりも、上へ行くのに多くの時間を要するだろう。

しかし、ひとつひとつ、積むたびに下へ下へと固め成してゆくならば、私はこちらの姿勢のほうが優れていると思う。

 

目標に向かって進むとき、あるいは志を伸ばす時、先に進むことを急がない。

それよりも着実を重んじる。

これが日本的な努力の在り方であると思う。

 

古事記に「修理固成」という言葉がある。

「しゅうりこせい」でも良いが、祝詞などでは「しゅりこせい」と約めて読む。

古事記では、伊邪那岐命伊邪那美命天津神に命じられて、国土を生み出す「国生み」の事業を行う。

このとき、天津神が命じた言葉が、

「この漂える国を修め理り固め成せ」

である。

 

当時の世界は全て海水のようなもので、島などがあっても漂っているような、不安定な世界であった。

これは私のイメージであって、他にも色々なイメージがあろう。

ともかく、不安定であやふやなものを修理固成しなさいという命令である。

 

伊邪那岐命伊邪那美命は、橋の上から矛を差しおろし、漂っている場所をかき回す。

海水をころころとかき回し、矛を引き上げた。

すると、矛の先から塩がしたたり落ちた。

それが積もり積もって、盤石の島ができた。

塩が島になる様子を、古事記ではこう表現する。

 

「垂(シタタ)り落つる塩、累(カサ)なり積もりて島と成りき」

 

 

日本神話で、神様が国土を生み出すという、キリスト教でいえば天地創造の大事業も、やはり「積み重ねる」であって「積み上げる」ではなかった。

高く高く、上へ上へと目指して積むのではなく、下へ下へと固め成したのである。

 

「積み上げる」はなんとなく不安定で、先を急ぎすぎる、結論を焦るきらいがある。

それよりも、着実に固め成してゆく「積み重ねる」が優れている。

一層の努力が必要であり、苦労は多いけれども、私にとって理想的である。

 

 

ここまでこだわって使い分ける人は少ないだろう。

文章を仕事にしているから、このような小さなことがすごく気になる。

職業病である。

しかし、これも私の壺中の天であるから、私は私のこだわりを尊く思っている。

一陰一陽の応用

 

一陰一陽は易の真髄

易経の繋辞伝で、孔子は、

一陰一陽之謂道(一陰一陽、これを道と謂う)

と仰った。

私は公田先生の『易経講話』で易を学んだが、公田先生はこの句を大変注目しておられる。易の真髄であるとまで言った。

易経講話』の構成は、

 

1.易経の概説

2.序卦伝

3.周易六十四卦

4.繋辞伝

 

である。全五冊。

 

先生は、周易六十四卦の解説を四冊目で終えられた。ここまで二千ページを超える。

そして五冊目、ようやく「一陰一陽之謂道」に触れ、

「長い間、易について、お話を続けておるが、それは皆、ただこの一句をお話しておるのだ」

と仰った。

 

この一句七文字に行きつくまでに、二千ページ余りの解説を費やしたのである。

鬼気迫るものがある。

私は易経講話の全文中、この箇所に最も迫力を感じた。

 

私が文章を書くとき、基本的に長文を好む。

核心へ向けて色々なことを丁寧に述べ、最後に盛り上がる流れを好む。

商業的な文章を書く場合、これは冗長であるとして好まれない。

しかし、私は公田先生の姿勢に倣うために、指数関数的な盛り上がりのある文章を理想とする。

また、このブログは弟が読むことも前提としているから、結論を急がない。

きちんと下地を作り、核心に近付いていくのを理想とする。

後で詳しく述べるが、これも一陰一陽の応用であると思っている。

 

 

陰と陽の関係

話を戻そう。

陽とは積極的な作用、陰とは消極的な作用である。剛と柔、男と女、天と地など、色々な関係に当てられる。

道の本体や作用というものは、全て陰と陽、積極的な力と消極的な力との活動変化である。

一陰一陽とは、陰と陽が一対一の情態である。

もちろん、これは「陰:陽=50:50」という意味ではない。

陰と陽のバランスはその時々で色々に変化するけれども、どちらか一方に完全に偏ることはない。

常に陰と陽があり、この関係によって世界が成り立っている。

そういう意味である。

 

陰と陽は対立関係にある。

陰と陽が交互に行われることもある。

ただし、対立といっても争うのではなく、「対なる立場にある」の意。

お互いに対極にあり、独立しており、真逆の性質を持っているが、それが争うことなく調和するのが陰陽の関係である。

 

 

一陰一陽の視点

このような一陰一陽の視点を持つことで、世の中の見方が随分変わる。

易を学んで多くの影響を受けたが、一陰一陽の視点もそのひとつである。

一陰一陽の視点、これについていくつか考えてみたい。

 

天地の関係

天は高く地は低い。

逆の立場にあるけれども、どちらか一方では世界は成り立たない。

互いに独立した立場や性質を以て調和し、世界が成り立つ。

 

男女の関係

男女もそうである。

男は男として、女は女として、それぞれ生物学的に真逆の性質を備えている。

どちらか一方では、人間社会は成り立たない。

互いに独立した立場や性質を以て調和し、人間社会が成り立つ。

 

男としての性質も、女としての性質も、どちらも尊い

したがって、男尊女卑は間違っている。

男尊女尊でなければならない。

 

昨今の男女平等において、これはよくよく考えるべきところである。

男尊女尊で互いに尊び、調和する社会を目指すべきである。

男女平等推進のために、本来の立場や性質を顧みずに平準化を図ると、必ず無理が生じる。

一陰一陽之謂道、これは真理である。

昨今の男女平等は、本来陽であるものを陰に、陰であるものを陽に無理やり変えようとする強引さを感じることもある。

 

しかし、そんなことは絶対に無理である。

無理に変えようとすると、強引さが必要になる。

陰と陽が争う結果を招く。

一陰一陽之謂道、陰と陽は本来争うべき関係にない。

疲弊するだけの、無益な闘争である。

そのような闘争を真面目に続ける人が一定数いる。

これは現代社会の病である。

 

一陰一陽の学

学問の姿勢も当てはまる。

学問には、陽なる学問と陰なる学問がある。

陽なる学問とは、積極的姿勢で学問すること。

陰なる学問とは、消極的姿勢で学問すること。

 

このように考えると、いかにも陰なる学問が悪く見えるがそうではない。

初学者は、必ず陰なる学問から入る。

その学問に興味を抱き、一から学んでゆく。

易の序卦伝に曰く、

 

物生ずれば必ず蒙(モウ)なり。故に之を受くるに蒙(モウ)を以てす。

蒙(モウ)とは蒙(クラ)きなり。物の穉(オサナ)きなり。

(生まれたばかりのもの、始まったばかりのことは、必ず蒙昧無知なものである。だから、物の発生を意味する「屯の卦」の次に「蒙の卦」を置く。蒙とは物事に暗いこと、幼く未熟なことである)

 

初学者は蒙の段階にある。そして、蒙の次に需を配する。曰く、

 

物の穉きは養わざる可からざるなり。故に之を受くるに需(ジュ)を以てす。

需とは飲食の道なり。

(未熟なものは養わなければならない。だから、蒙の次に需を置く。

需とは飲食の道であり、身体的・精神的に飲食物を与え、養う道である)

 

このように考えると、初学者は屯から蒙、蒙から需というところである。

蒙であり、学問上のことはさっぱり分からない。

蒙の認識があって、需を受け入れる、教えを求める。

教えられて初めて先に進むことができる。

 

つまり、陰なる学問、消極的・受動的な学問をやって当然なのである。

人から教えを受けることもある。

入門書から勉強することもある。

意識的に本を読めば積極的に見えるが、疑問を呈したり、自分なりに発展させる力はないから、結局本に書いてあることをそのまま受け取る。陰である。

 

ともかく、自分で積極的に考えたり、行動したりするのではなくて、まずは消極的にやって当然なのである。

もし、蒙なる段階で需を否定し、積極的態度を強硬すればどうなるか。

間違いなく失敗する。全くおかしな方向へと進むだろう。

だから孔子は、「思いて学ばざれば則ち殆うし」と仰った。

陰なる学問をせず、消極的態度で素地を作らないまま積極的に行動しても、うまくいかないし間違う危険が大きい。

 

しかし、陰なる学問だけで満足すれば、それはそれで問題だ。

孔子の仰る「学んで思わざれば則ち罔し」に陥る。

この「罔し」は「蒙し」である。いつまでも蒙の段階から抜け出せない状態である。

それでは、何のために学問するのか分からない。

陽なる学問に進まなければならない。

陰なる学問をやれば、その程度に応じて陽なる学問もできる。

本を読むにも、積極的な態度で読めるだろう。

本の内容を現実の生活で実践することもできるだろう。

それができないならば、まだ陰の学問が足りないのであって、陽の学問を急がずとも良い段階といえる。

自分が積んだ陰に比べて、大きな陽を期待しているのである。

逆に言えば、自分が積んだ陰に応じて、それに見合う陽を為せばよい。

 

儒学の難しいところは、孔子が陽なる聖人であっただけに、陽なる学問を重んじることである。

実践を伴わない学問に否定的である。

だから、学ぶ者は実践を焦ってしまうのだ。

陰なる段階で陽を求めてしまうから、混乱する。

悪くすると、自分には無理だと投げ出す。

 

例えば、儒学をやれば親に孝行すること、仁義を守ること、礼義を正すことなどを求められる。

しかし、実践となるとなかなか難しい。

これは、最初から大きな孝行や仁義を考えるからである。

論語の大理想をいきなり求めているのだ。

一陰一陽の理解が足らないからである。

一陰一陽、つまり陰にも陽にも偏らないことが分かれば、実践もできる。

 

陽なる学問・道の実践も、少しずつやればよいのだ。

それが一陰一陽の学問というものだ。

少しずつやる時、一陰一陽関係においては、多くの陰に少しの陽といった塩梅で、ここで陽を大きくするとうまくいかなくなる。

 

孔子の思想を理解するうえでも、孔子の道を求めるうえでも、一陰一陽の視点は欠かせないものと、私は思っている。

これが易の尊さである。

公田先生と同じように、私は占いとしての易にはあまり興味を持たない。

易理の応用、実践に興味を持つ。

 

孔子は易を重んじ、座右の書とせよと仰った。

この言葉を、私は終生守ってゆく。

 

 

夷狄の君有るは・・・

 

古注と新注

論語の章句には、解釈によって意味が大きく異なるものがある。

例えば、八佾の篇に、

子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也

という章句がある。

この章句は、「不如」の捉え方によって意味が真逆になる。

専門家の意見も割れている。

 

古注「如かざるなり」

古いほうの解釈では、

 

夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かざるなり

→夷狄に君主があるのは、中国で君主がないのには及ばない

(中国の方が優れている)

 

とする。

「夷狄には、君主があっても上下の別は曖昧で、礼儀がない。

上下の別や礼儀が乱れていた当時の中国でも、やはり礼儀は失われていなかったのだから、君主のある夷狄よりも優れていた」

という考え方である。

 

新注「如くならざるなり」

一方、新しいほうの解釈では、

 

夷狄の君有るは、諸夏の亡きが如くならざるなり

→夷狄といっても君主があるのは、君主があってないような中国のようなものではない

(夷狄の方が優れている)

 

とする。

「夷狄とはいえ、君主がある以上は上下の別があり、礼儀もある。

君主があってないような当時の中国、つまり上下の別が乱れ、礼儀が乱れた中国のほうが劣っている」

という考え方である。

  

新注は、とりわけ孔子が当時の乱れを嘆いた言葉だとする見方が強い。

確かに、八佾篇は礼儀の乱れを嘆く言葉が多い。

八佾の舞を自家の廟で行う季氏を強く非難する章句で始まっている。

  

古い解釈は、根本通明先生の『論語講義』、金谷治先生の『論語

新しい解釈は、諸橋轍次先生の『論語の講義』、吉田賢抗先生の『論語

といったように、意見が分かれている。

 

吉田先生などは、

孔子は諸夏のみを形式的に尊重して、君長の正しくある夷狄を軽視するよというような馬鹿げた偏見の所有者ではない」

と言い切っている。

 

 君臣が有れば礼義もあるか

この章句については、私なりに考えてきたが、現段階では古注の方が優れていると思っている。

 

新注に対して疑問に思うのは、君主があれば上下の別や礼儀があるもの、とする考え方である。

確かに、君臣の別があれば義が生じ礼が生じるのは間違いのないことだ。

易の序卦伝にも、以下のように書かれている。

 

天地有りて、然る後に万物有り。

万物有りて、然る後に男女有り。

男女有りて、然る後に夫婦有り。

夫婦有りて、然る後に父子有り。

父子有りて、然る後に君臣有り。

君臣有りて、然る後に上下有り。

上下有りて、然る後に礼義有り。

 

君臣があれば、当然礼義もあるべきである。

夷狄にも君臣があれば、礼義はあると考えられる。

しかし、本立たざれば道生ぜずで、君臣の関係が根本部分で正しくなければ、礼義が生じることもないのではないか。

 

正しい道に基づいて形成された君臣ならば、当然礼義は生じる。

では、夷狄のように腕力次第で君主が決まるならばどうか。

 

下剋上の常態化に礼義なし

君臣に礼義があれば、腕力次第で君主が決まることはない。

下剋上のようなことが起こっても、必ず嫌悪される。

下剋上が成功しても、その後発展しない。

仮に発展することがあっても、一時的なことで長続きしない。

だから、下剋上が常態化している国家では、君主が目まぐるしく変わる。

目まぐるしく変わる君主に忠節・礼節を尽くす臣下はいない。

みな保身を考える。当然礼義は生まれない。

そもそも、礼義がないからこそ腕力次第で君主が決まる、ともいえる。

 

当時の中国は、上下の別や礼義が乱れていた。

しかし、全く失われてしまったわけではなく、確かに礼義は存在していた。

これは左伝などを読むとよくわかる。

 

礼義を欠く者は、良い結末を迎えない。

これは、君主も臣下も同じである。

臣下に対する礼義を欠く君主は、大抵よい死に方をしない。

君主に対する礼義を欠く臣下も同様である。

 

なぜ良い結末を迎えることができないか。

臣下の方で考えると分かりやすい。

礼義に反する臣下は、周囲の圧力によって潰される。

礼義があった当時、礼義を欠く者は信用されなかったし、支持されなかった。

臣下が反旗を翻し、下剋上で君主の座に就くとどうなるか。

大抵、諸国から攻め立てられ、早晩君主の座から引きずり降ろされる。

やはり、君臣の礼義は守られるべきもの、それに背くものは責めるべし、とする通念があったのだ。

 

太子申生の例

他にも良い例がある。

例えば、謀反の疑いをかけられ、自害する臣下がいる。

跡目争いに巻き込まれた、晋の太子申生などがそうだ。

罠にはめられ、謀反の疑いをかけられた申生は、部下から他国に逃げるよう進言された。

しかし申生は、逃げずに自害する。

父である献公に謀反の疑いを掛けられて、無実の罪を晴らすことなく他国に逃げた場合、申生は子としても臣下としても不義をはたらくことになる。

そのような人間が他国を頼って逃げても、誰も受け入れてくれない。

それで、申生は自害したのである。

 

陽虎の例

また、孔子と同時代を生きた魯の陽虎も好例である。

陽虎は季氏に仕えたが、謀反を起こして実権を握った。

その後、内乱に敗れて出奔し、斉、宋、晋などを転々としたらしい。

君臣の礼義に背いた陽虎を受け入れる国がなかったからだ。

最終的に、陽虎は趙鞅に召し抱えられて晋に落ち着く。

このとき、趙鞅は全家臣から猛反発にあっている。

礼義を乱すものを召し抱えると、後々禍になりかねない。

それでも趙鞅は陽虎を召し抱えた。

さしもの陽虎も、これには感激したらしい。

礼義を失い、誰も受け入れてくれなかったのに、趙鞅だけは受け入れてくれたのだ。

以降、陽虎は趙鞅のために奮闘したとされる。

主人趙鞅に対し、君臣の礼義を守り抜いたのである。

 

 

 孔子の志から考える

当時の人間模様を見ていると、いかに乱れたとはいえ、礼義が根強く残っていたことが分かる。

礼義のなさゆえに下剋上が常態化し、腕力次第でのし上がれる夷狄とは、根本的に違うところがあった。

 

孔子は、礼楽の復興を目指した。

礼楽が全く失われ、礼義のない夷狄にも劣ると考えたならば、孔子の志は閉ざされてしまう。

いかに乱れても、まだ礼義は確かに残っている。

孔子は、ここに希望を見出したのではないか。

このように考えると、私には古注が正しいように思える。

 

孔子の嘆きから考える

しかし、論語には孔子が嘆く言葉も多い。

孔子の嘆きに軸を置く場合、新注も正しいと思えてくる。

公冶長篇に、

「今の中国は乱れていて、道が行われない。

いかだに乗って海外にでも行こうか」

との嘆きがある。

孔子は、夷狄にもいくらかの礼義を認めていたのではないか。

あるいは、これまで礼義のなかった夷狄で礼義の道を新たに作る方が、既に礼義が否定され廃れた中国よりも望みがあると思ったのではないか。

いかだに乗り、礼義のない夷狄に往く。

夷狄にも君主はいるし、君臣の礼義が芽生える素地はあるだろう。

一旦醸成された礼義が全く失われてしまった中国よりも、あるいは夷狄で道を作っていくほうが望みがあるかもしれない。

そんな風に考えたのではないか。

このように考えると、「夷狄>中国」と解する新注も間違いとは思われない。

 

 

 

 総括

古注、新注、どちらも取るべきところがある。

孔子のお気持ちを拝するに、古注の方が優れているように思われるが、新注のようなお嘆きも当然あっただろう。

どちらも間違いではない、どこに軸を置くかの問題ではないか。

礼楽復興の志を軸にみる場合、古注が正しく思える。

礼楽退廃の嘆きを軸にみる場合、新注が正しく思える。

 

今はそんな風に考えている。

腹中の書 壺中の天

ツイッターをやって良かったこと、良くなかったこと、どちらかといえば良くなかったことが多いように思う。

それだけに、良かったと思えることを大切にしたい。

 

 

勉強熱心を笑う風

学生のツイートには考えさせられる。

自分の学生時代を思い返すこともある。

あの時、自分はああであった、こうであった、あそこで誤った、などなど。

卒業してから随分経つ。

過去の過ちを思い返しても、取り返しはつかないし益もない。

 

中には、思想を深める上で参考になることもある。

教育者でもあるまいし、教育問題を云々するのではない。

私は時事を論ずるのがあまり得意ではないし、好きでもない。

しかし、学問と密接な関係にある学生の態度、考え方、学生間の雰囲気などを知り、経書を考え、深める材料になっている。

  

最近目を引いたのは、学生間における雰囲気について。

真面目に勉強する学生が、あまりよく思われないとか。

真面目だと笑われ、侮られるという。

 

私の学生時代

それぞれ校風のようなものがあるのだろうし、学校によって違いもあるだろう。

私が見たツイートが、標準ではないかもしれない。

しかし、私が学生の頃から、何かに熱心な者を「意識高い系」などと揶揄する風は確かにあった。

 

勉強熱心を笑う者なし

私の周囲に限っては、全くそんなことはなかった。

熱心に勉強したが、私を笑う者は独りもいなかった。

周りが皆勉強に熱心だったからではない。

友人に勉強熱心な者はいなかった。

 

私は高校時代ほとんど勉強をしなかった。本ばかり読んでいた。

センター試験も受けなかった。

それで入学できたのだから、レベルは当然低い。

有り体にいえば、Fランというやつである。

 

勉強に無関心な者が集まるFラン大学は、勉強熱心を笑う雰囲気が強いイメージがあるかもしれない。

しかし、そんなことはない。 

事実、勉強熱心な者を馬鹿にする雰囲気は全くなかった。

思えば、友人に恵まれたのかもしれない。

 

私も、たまには遊んだ。しかし大抵は断った。

それでも、飲み会をするとか、旅行にいくとか、そういった時はよく声をかけてもらったことを思い出す。

彼らとは、今でも付き合いがある。

 

私と弟が出会ったのも大学である。

弟はあまり勉強しない人間だが、勉強熱心な私を慕ったために、兄弟づきあいが始まった。

今では、血のつながった兄も、血のつながっていない弟も、等しく「兄弟に友」の思いを抱いている。

弟に勉強熱心を侮る気持ちがあれば、こうはならなかっただろう。

 

常識ある友人たち

私が特別に人間関係が達者なわけではない。

どちらかというと不器用だし、人間関係での失敗も多いほうだ。

そう考えると、周りの人間に恵まれていたと思わざるを得ない。

 

私も含め、学力は皆低かったが、友人たちは人間的に立派であったように思える。

学力は低いが、学力では測れないところが立派であった。

勉強するのは良いことである。学生は勉強すべきである。勉強するものは正しいのであって、笑うべきではない。

このような常識をわきまえていた。

  

努力するものを馬鹿にしない、これは当然のことであるが、他人を認めているのだから一種の徳である。

孔子も、人を知らざることは患いであると仰った。

人を知らない、これは人の善行を知らない、努力を知らない、志を知らない、気持ちを理解しない、色々な意味を含む。

人の努力をあざ笑うことも、人を知らざるところから出てくる。

勉強に励む学生を笑うこと、努力する人を軽んずること、あるいはそのような社会一般の傾向や雰囲気というのは、患うべきものである。

 

 

人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う

人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う。

これは論語の中、私が奉じている章句のひとつである。

 

ここまで、人を笑う愚かしさを軸に話してきたが、結局、そういった小人はいつの時代にも必ずいる。

それよりも、人から笑われたときにどうするか、人が自分を理解してくれないときにどう考えるかが、より重要である。

 

浩然の気を持つべし

熱心に勉強すれば、他人から笑われることもあるだろう。

しかし、人の己を知らざるを患えず、黙々とやるべし。

そのうち、徳は孤ならず、朋友遠方から来るで、好学の益友にも恵まれるだろう。

それを思えば、小人物の嘲りなど取るに足らぬ。

 

そもそも、自分の学問が人に知られない、笑われるといって気を揉む、それでは志が低すぎるのではないか。

学問が小さいのではないか。

人に知られたいという思いは、私欲にすぎないからだ。

人が知ってくれないという思いは、自分本位の不満にすぎないからだ。

そのような小さな欲と不満は捨て去り、千万人と雖も我往かん、孟子の「浩然の気」でひたすらに歩むだけではないかと、私は思う。

 

徳孤ならず

我が歩みには浩然の気・大勇を持ち、人の己を知らざるも意に介せず、むしろ人を知らざるを患う。

あの人の学問は正しい、あの人の人間は正しいなど、正しいものを正しいと認めるのは智である。

正しいものと誤れるもの、善と悪、それを見極めてこそ大道を歩むことができる。

人を知らざるを患え、正しい人を認め、善い人間と付き合う。

これも、益友に恵まれるゆえんである。

 

 

 腹中有書 壺中有天

理想をいえば、勉強熱心な学生、努力する人が笑われない雰囲気になることが望ましいが、それは難しいだろう。

小人はいつでもいるものだし、むしろ今後、増えていくと思う。

一生懸命に努力する人、地道にやっている人、道理を重んじる人、そういった人にとっては生きづらい世の中になっていくのではないか。

  

だからこそ、腹中有書、壺中有天の境地を目指していくべきだろう。

 

腹中有書

腹中有書、腹の中に書物がある。

現実の役に立たない、カスのような知識を腹に詰め込んでいるのではない。

本物の哲学を腹に収める。

儒学でいえば四書五経を腹に収める。

仁義礼智信五常を腹に据えている。

 

 壺中有天

壺中有天、これは漢書の故事による。

費長房という人が、あるとき不思議なものを見た。

露天商の老人が、店じまいを終えると自分も壺の中に消えてしまったのだ。

翌日、費長房は老人に尋ねた。

「あなたは仙人でしょう」

そして、自分も壺の中に連れて行ってほしいと懇願した。

老人が壺の中に連れていくと、そこは豪華絢爛な世界であった。

費長房は歓待を受け、また現実世界に帰ったという。

 

傍から見れば、なんでもない露天商の老人である。

壺も、いたって普通の壺である。

しかし、そこには意外な世界が広がっている。

壺中有天とは、このことである。

どんな境遇にあっても、人からどう思われようとも、自分の内面世界はどうにでも作り得るのである。

壺中の天をどのように作り上げるか。

これによって、人間の風格が決まってくる。

 

曾晳の壺中天

曾子の御父上、曾晳の志など、壺中有天の好例である。

孔子から志を問われた曾晳は、以下のように答えられた。

 

「春の終わり、春服に着替え、

青年や少年を連れて辺りを散策し、

温泉につかり、高台でひと涼みして、

歌でも歌いながら帰ってくる。

私はこんなことがしたいです。」

 

孔子はこれをほめて「私も曾晳の仲間に入りたい」と仰った。

孔子がほめたのは、 曾晳が壺中の天を作り、楽しむ境地にあったからではないか。

費長房が老人に「壺の中に連れてってくれ」と頼んだように、孔子は「曾晳の壺中に私も入れてくれ」の気持ちで褒めたのではないか。

論語には書かれていないが、私はそのように解釈している。

 

親との隔絶もあるが

東洋思想を学ぶことは、古臭いイメージがある。

しかし、その古く冷たい思想を温め、親しみ、壺中の天を作っていく。

周囲には、その意味や価値が分からないかもしれない。

おそらく、多くの人は理解しない。

親や兄弟でさえ、理解してくれないかもしれない。

親だからこそ、ということも多かろう。

親は、ご飯のタネになるような勉強をしてほしいと思う。

思想的なことは、どちらかといえば敬遠する。

 

それでいいのだ。

人の理解を求めるのではない。

自分の世界を作ることが目的である。

ただ、親の気持ちは理解したい。

親の己を知らざるを患えず、親を知らざるを患う、ということだ。

 

味のある学問

自分”だけ”の世界を作ると思えば、多くの人から理解されないのは、却って味なことである。

分かる人には分かる、分かる人にしか分からない、これは味なことである。

分かる人は、少し話せば分かってくれる。

分からない人は、言葉を尽くしても分かってもらえない。

分からない人にいくら語っても、無味乾燥であり、虚しさだけが残る。

それよりも、分かる人には分かる、何よりそれを作り上げた自分自身がよく知っている、そんな壺中の天を私は作りたい。

 

ここを目指して学問するならば、小人の嘲りなどどうでもよくなる。

小人何をかいわんや。我、腹中に書あり、壺中の天あり。

こういったわけである。

 

「老」ということ

思えば学生の頃、今ほど明確ではないが、私にもこの気分はあったように思う。

周りの人たちがどう思っていたか。恵まれていたとは思うが、私が気にしなかったことも大きかったのかもしれない。

いや、やはり周りの友人はよい男ばかりであったろう。

当時の私は、理想ばかり大きく、腹中に書なく、壺中の天なしであったのだから。

 

 

それでも、当時からこういった考え方を持っていたことは無益ではなかったし、私の中で地下水的に流れ続け、今に至ったものと思う。

今後も、一生涯にわたって影響し続けるに違いない。

東洋思想の味わい深さは、こういうところにある。

いわゆる「老」である。

老練とか、老酒の老である。

 

刺激の強い思想ではない。

学んだからといって、自分自身をガラリと変えるような即効性はない。

しかし、なんともいえぬ味わいがある。

いつの間にか酔っぱらっている、じわじわと効いてくる、そんな感じがある。

 

こういうものの味わいを知っていると、強みになる。

世の中が乱れている。

コロナ、オリンピックを通して、それが露になっている。

そんな時でも、腹中有書、壺中有天、自分の道を失わない。

これは大変な強みである。

 

今後も、この境地を深めていきたいと思う。