周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

夷狄の君有るは・・・

 

古注と新注

論語の章句には、解釈によって意味が大きく異なるものがある。

例えば、八佾の篇に、

子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也

という章句がある。

この章句は、「不如」の捉え方によって意味が真逆になる。

専門家の意見も割れている。

 

古注「如かざるなり」

古いほうの解釈では、

 

夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かざるなり

→夷狄に君主があるのは、中国で君主がないのには及ばない

(中国の方が優れている)

 

とする。

「夷狄には、君主があっても上下の別は曖昧で、礼儀がない。

上下の別や礼儀が乱れていた当時の中国でも、やはり礼儀は失われていなかったのだから、君主のある夷狄よりも優れていた」

という考え方である。

 

新注「如くならざるなり」

一方、新しいほうの解釈では、

 

夷狄の君有るは、諸夏の亡きが如くならざるなり

→夷狄といっても君主があるのは、君主があってないような中国のようなものではない

(夷狄の方が優れている)

 

とする。

「夷狄とはいえ、君主がある以上は上下の別があり、礼儀もある。

君主があってないような当時の中国、つまり上下の別が乱れ、礼儀が乱れた中国のほうが劣っている」

という考え方である。

  

新注は、とりわけ孔子が当時の乱れを嘆いた言葉だとする見方が強い。

確かに、八佾篇は礼儀の乱れを嘆く言葉が多い。

八佾の舞を自家の廟で行う季氏を強く非難する章句で始まっている。

  

古い解釈は、根本通明先生の『論語講義』、金谷治先生の『論語

新しい解釈は、諸橋轍次先生の『論語の講義』、吉田賢抗先生の『論語

といったように、意見が分かれている。

 

吉田先生などは、

孔子は諸夏のみを形式的に尊重して、君長の正しくある夷狄を軽視するよというような馬鹿げた偏見の所有者ではない」

と言い切っている。

 

 君臣が有れば礼義もあるか

この章句については、私なりに考えてきたが、現段階では古注の方が優れていると思っている。

 

新注に対して疑問に思うのは、君主があれば上下の別や礼儀があるもの、とする考え方である。

確かに、君臣の別があれば義が生じ礼が生じるのは間違いのないことだ。

易の序卦伝にも、以下のように書かれている。

 

天地有りて、然る後に万物有り。

万物有りて、然る後に男女有り。

男女有りて、然る後に夫婦有り。

夫婦有りて、然る後に父子有り。

父子有りて、然る後に君臣有り。

君臣有りて、然る後に上下有り。

上下有りて、然る後に礼義有り。

 

君臣があれば、当然礼義もあるべきである。

夷狄にも君臣があれば、礼義はあると考えられる。

しかし、本立たざれば道生ぜずで、君臣の関係が根本部分で正しくなければ、礼義が生じることもないのではないか。

 

正しい道に基づいて形成された君臣ならば、当然礼義は生じる。

では、夷狄のように腕力次第で君主が決まるならばどうか。

 

下剋上の常態化に礼義なし

君臣に礼義があれば、腕力次第で君主が決まることはない。

下剋上のようなことが起こっても、必ず嫌悪される。

下剋上が成功しても、その後発展しない。

仮に発展することがあっても、一時的なことで長続きしない。

だから、下剋上が常態化している国家では、君主が目まぐるしく変わる。

目まぐるしく変わる君主に忠節・礼節を尽くす臣下はいない。

みな保身を考える。当然礼義は生まれない。

そもそも、礼義がないからこそ腕力次第で君主が決まる、ともいえる。

 

当時の中国は、上下の別や礼義が乱れていた。

しかし、全く失われてしまったわけではなく、確かに礼義は存在していた。

これは左伝などを読むとよくわかる。

 

礼義を欠く者は、良い結末を迎えない。

これは、君主も臣下も同じである。

臣下に対する礼義を欠く君主は、大抵よい死に方をしない。

君主に対する礼義を欠く臣下も同様である。

 

なぜ良い結末を迎えることができないか。

臣下の方で考えると分かりやすい。

礼義に反する臣下は、周囲の圧力によって潰される。

礼義があった当時、礼義を欠く者は信用されなかったし、支持されなかった。

臣下が反旗を翻し、下剋上で君主の座に就くとどうなるか。

大抵、諸国から攻め立てられ、早晩君主の座から引きずり降ろされる。

やはり、君臣の礼義は守られるべきもの、それに背くものは責めるべし、とする通念があったのだ。

 

太子申生の例

他にも良い例がある。

例えば、謀反の疑いをかけられ、自害する臣下がいる。

跡目争いに巻き込まれた、晋の太子申生などがそうだ。

罠にはめられ、謀反の疑いをかけられた申生は、部下から他国に逃げるよう進言された。

しかし申生は、逃げずに自害する。

父である献公に謀反の疑いを掛けられて、無実の罪を晴らすことなく他国に逃げた場合、申生は子としても臣下としても不義をはたらくことになる。

そのような人間が他国を頼って逃げても、誰も受け入れてくれない。

それで、申生は自害したのである。

 

陽虎の例

また、孔子と同時代を生きた魯の陽虎も好例である。

陽虎は季氏に仕えたが、謀反を起こして実権を握った。

その後、内乱に敗れて出奔し、斉、宋、晋などを転々としたらしい。

君臣の礼義に背いた陽虎を受け入れる国がなかったからだ。

最終的に、陽虎は趙鞅に召し抱えられて晋に落ち着く。

このとき、趙鞅は全家臣から猛反発にあっている。

礼義を乱すものを召し抱えると、後々禍になりかねない。

それでも趙鞅は陽虎を召し抱えた。

さしもの陽虎も、これには感激したらしい。

礼義を失い、誰も受け入れてくれなかったのに、趙鞅だけは受け入れてくれたのだ。

以降、陽虎は趙鞅のために奮闘したとされる。

主人趙鞅に対し、君臣の礼義を守り抜いたのである。

 

 

 孔子の志から考える

当時の人間模様を見ていると、いかに乱れたとはいえ、礼義が根強く残っていたことが分かる。

礼義のなさゆえに下剋上が常態化し、腕力次第でのし上がれる夷狄とは、根本的に違うところがあった。

 

孔子は、礼楽の復興を目指した。

礼楽が全く失われ、礼義のない夷狄にも劣ると考えたならば、孔子の志は閉ざされてしまう。

いかに乱れても、まだ礼義は確かに残っている。

孔子は、ここに希望を見出したのではないか。

このように考えると、私には古注が正しいように思える。

 

孔子の嘆きから考える

しかし、論語には孔子が嘆く言葉も多い。

孔子の嘆きに軸を置く場合、新注も正しいと思えてくる。

公冶長篇に、

「今の中国は乱れていて、道が行われない。

いかだに乗って海外にでも行こうか」

との嘆きがある。

孔子は、夷狄にもいくらかの礼義を認めていたのではないか。

あるいは、これまで礼義のなかった夷狄で礼義の道を新たに作る方が、既に礼義が否定され廃れた中国よりも望みがあると思ったのではないか。

いかだに乗り、礼義のない夷狄に往く。

夷狄にも君主はいるし、君臣の礼義が芽生える素地はあるだろう。

一旦醸成された礼義が全く失われてしまった中国よりも、あるいは夷狄で道を作っていくほうが望みがあるかもしれない。

そんな風に考えたのではないか。

このように考えると、「夷狄>中国」と解する新注も間違いとは思われない。

 

 

 

 総括

古注、新注、どちらも取るべきところがある。

孔子のお気持ちを拝するに、古注の方が優れているように思われるが、新注のようなお嘆きも当然あっただろう。

どちらも間違いではない、どこに軸を置くかの問題ではないか。

礼楽復興の志を軸にみる場合、古注が正しく思える。

礼楽退廃の嘆きを軸にみる場合、新注が正しく思える。

 

今はそんな風に考えている。