周黄矢のブログ

噬嗑録

噬嗑とは噛みて合うなり。東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

富貴・貧賤・君子・小人

富貴や貧賤に直面したとき、どのように処するか。

ここに、君子と小人の違いがある。

今回はそんなお話です。

 

 

君子と小人

論語など、儒学経書を読んでいると「君子」「小人」という言葉がよく出てくる。

 

君子とは

簡単に言えば、君子とは人格者である。

立派な人、徳のある人を意味する。

 

学問のある人を君子と呼ぶこともある。

儒学という学問は、己を修めるところから始まり、やがて天下を治めることを目指すものである。

学問があれば修養もあるべきであって、だから学問のある人を君子とする。

 

為政者など、地位の高い人を君子と表現することもある。

これも、学問ある人と同じようなものだ。

為政者は、国を治め人民を豊かにする責任を負う。

徳がなければできるものではない。

政事に携わる、高い位置にある人には徳があるべきであり、だから地位の高い人を君子と呼ぶ。

実際は、高位高官には悪人もいるため、高位高官の者を君子と表現する例は経書にも少ない。

 

小人とは

小人は、君子とは対照的な存在として用いられる。

人格者ではない人を意味する。

ごく普通の人から悪人まで、広く小人という。

 

ごく普通の人を小人とする場合、それほど悪い意味ではない。

特に学問も修養もないが、それ以上でも以下でもない。

得てして大衆や人民といった人々は、この意味の小人といえる。

小人であるから悪いのではない。それが良いとはいえないが、悪いのでもない。

孔子の生きた時代、学問は貴族のものであったから、大衆は小人であって当然だった。

学問や修養のある君子は、そのような大衆を正しく導き、幸福をもたらすことを使命とした。

 

変に学問がある人物を小人と呼ぶこともある。

小さな学問で満足することを「小人の儒」などともいう。

下手に学ぶと、人間は小賢しくなる。

聖人の道から却って遠ざかる。

学問に志して道から遠ざかり、小人になる。

こういう危険があるから、学問は真剣にやらねばならない。

 

悪人を小人と表現する場合、様々な悪い性質を備えている。

  • 口がうまくて人を惑わせる
  • なんでも曲解して善人をあしざまに言う
  • 親不孝である
  • 残酷で仁義や信義を全く省みない
  • 正義を憎んで不義を好み、不義を正義のように見せかける

など、ざっとこんなものだ。

君子が小人を憎む場合、一般大衆としての小人を憎むのではなく、悪人としての小人を憎む。

なぜならば、悪なる小人は政治を混乱させ、大衆に不幸をもたらすからだ。

 

小人は悪に傾く

良くも悪くもない小人と、悪なる小人とどちらが悪いか。

悪なる小人のほうが悪いのはもちろんだが、それは現時点における評価である。

良くも悪くもない小人は、何かをきっかけに悪に染まる。

言い換えれば、きっかけさえあれば悪に染まる性質を備えている。

 

それを防ぐために、道徳というものがある。

道徳によって善導し、悪から遠ざけることは君子の務めである。

刑罰や法律は、人民を悪へと導く悪い小人を取り締まるためにある。

 

なんら善導することなく、人民を悪から遠ざけることをせず、いざ悪に染まれば法律で取り締まり処分する。

これは、為政者が人民を刑罰に追いやっているようなものだと孔子は仰った。

今の政治にも当てはまることだろう。

 

君子と小人の違い

君子と小人の違いは、徳があるかどうか、といったことになるわけだが、これでは具体性に欠ける。

論語の良いところは、こういった疑問を解いてくれるところにある。

論語の中で、孔子は君子と小人の違いを、分かりやすく教えている。

 

富貴に対する態度

里仁篇の中で、孔子は君子について以下のように仰った。

 

富貴(富や高い地位)は誰でも欲しがるものだ。

しかし君子は、自分が得るべき道理がないのに富貴を手にしたならば、すぐに捨て去ってしまう。

 

 

富貴は誰でも欲しいもの

孔子は、富貴を否定しない。

得られるべくして得た富貴であれば、それを得るのは悪いことではない。

富貴そのものには善も悪もない。

それを手にした人がどうなるか、どう利用するかの問題である。

 

富貴は、誰もが欲しいと思う。孔子もそれを認めている。

儒学は、特に宋学の頃から富貴を否定する色が濃くなった。

伊川先生の教えなどには、特にその雰囲気を感じる。

 

君子になるために富貴を否定する根拠にも、納得できる部分は多くある。

富貴を手にしたとき、心変わりして道を失う人が多いからだ。

どれだけ富を得ても、高い地位についても道を失わないというのは聖人君子の態度であって、並大抵のものではない。

非常に難しいことであり、道を失う恐れが大きいから、富貴を避けるに如くはなし。

この考え方は、もっともなことと思う。

 

富貴そのものに善悪はない

しかし、富貴そのものを完全に否定し去ると、それはそれで正しいとは言い難い。

富貴そのものに善悪はなく、それを対する人の心に善悪があるのだ。

富貴を遠ざければ、富貴に惑わされる機会が減るが、富貴を遠ざけたから君子になれるわけではない。

富貴に惑わされないことが重要であって、これはつまり中庸だ。

お金持ちでも貧乏でも、地位が高くても低くても、それに惑わされない。

君子とはかくあるべきである。

 

 

南隠禅師の言葉

南隠禅師の言葉にも、以下のようなものがある。

 

「お布施の使い残りが五百円あまりあるが、これに少し足せば六百円になるなどと思うから、妙なものじゃのう。世間の人が金を溜めたがるのも、やっぱりこんなものじゃろうのう」

 

南隠禅師も、金銭の多寡を気にすることがあった。

五百円から六百円にしたいと強く思うのではないが、全く無関心でもない。

ただ、六百円に増やすために、手元の五百円を惜しむことはない。齷齪するのでもない。

富貴は誰でも欲しいと思うが、それに惑わされないのが君子である。

南隠禅師は、金銭の多寡を気にする気持ちが起こるのを「妙だ」と思った。ただそれだけであり、捉われてはいない。

金銭に対する南隠禅師の態度は、参考になる。

 

道理に合わねば捨ててしまう

富貴に惑わされなければ、それに固執しなくなる。

富貴を手にしたとき、それをうまく処理できる。

道理に合わないことで富貴を手にすれば、あっけなく捨てるのが君子である。

運よく富貴を手にする人がいる。

これを「運が良かった」と考えて、その富貴に安住するのは小人である。

 

例えば、何かの偶然で高い地位を得たとする。

それに伴い、富も得られるだろう。

しかし、自分がその地位にふさわしいだけの学徳を備えていなければ、その地位にいるのは道理に合わない。

 

道理に合わない地位に留まるのは非道である。

高い地位に就けば、それだけ責任も重い。

人民の生活に大きな影響を与えることも少なくない。

その責任を負い、為すべき仕事をなしてゆくだけの学徳がなければ、その地位にいるべきではない。

その地位をふさわしい人に明け渡すのが道理である。

君子ならば、何の未練もなく退く。それが道理であるからだ。

それをせずに居座るのは、位を盗むことであって、盗賊と変わらない。

 

今の政治家には、どうも盗賊的な人間が多いように思う。

富貴に惑わされ、固執するのが小人である。

日本の政治家は、その好例である。

 

貧賤に対する態度

また、同じ章句で孔子は以下のようにも仰る。

 

貧賤(貧乏や低い地位)は誰でも嫌がるものだ。

しかし、自分が正しいことをしていても貧賤に陥ることがある。

そんなとき、君子はあえて貧賤から抜け出そうとしない。

 

道理に合わぬ貧賤

道理に合わない富貴を簡単に捨てられるのが君子である。

では、貧賤はどうか。

貧賤というものは、道理に合わず身に降りかかることがある。

徳の高い君子であれば、本来は貧賤を得るべきはずがないのだが、現実はそうではない。

君子が不幸に見舞われることもある。

 

  • 孔子も、多くの不幸と困難に見舞われながら、苦難の中で道を説き続けた。
  • 孔子の愛弟子、顔回は貧賤であった。若くして亡くなった。
  • 比干は、暴君・紂王に諫言し、胸を割かれて殺された。
  • 文王も、紂王によって幽閉された。幽閉中、ご長男やお父上は殺されてしまったという。
  • 史記列伝の筆頭、伯夷と叔斉もそうだ。仁義を貫いて餓死した。

 

このように、道理に合わない貧賤や不幸が起こり得る。

 

もちろん、道理を守れば貧賤に陥ることは少ない。

失敗することは少ない。

失敗しても致命傷には至らず、復活のきっかけが得られやすい。

長期的に見れば、道理を守ることで志を得られる。

貧賤に陥り、若くして死んだ顔回も、道理を守ったことで聖人の道に連なった。

現代でも尊敬され、儒者の道しるべとなっている。

顔回の志は2000年後の現代にまで伸び栄えている。

 

貧賤から去るは仁から外れる

君子には、道理に合わない貧賤を憎むところがない。

これも顔回の姿勢である。

顔回は貧しい生活から逃れようとしなかった。それを楽しんでいた。

 

君子が貧賤を去らないのは、諦めから貧賤を受け入れているのではない。

「貧賤を去らない」とは、「仁に留まっている」ということである。

無理に貧賤を去ろうとするのは、仁に留まれないからだ。

貧賤を去るとは、仁から外れることにほかならない。

君子は、仁から外れて名を成そうとは思わない。

 

貧賤を憎み、抜け出すことを考え、仁から外れるのが小人である。

 

 

総括

孔子の仰る通り、誰もが富貴を好み、貧賤を嫌う。

道理に合わぬ富貴を手にしたり、貧賤に見舞われたりすることもある。

そこでどのように振る舞うか、ここに君子と小人の決定的な違いがある。

 

私はまだ、富貴を得たことがない。

今後、道理に合わぬ富貴を得るかもしれない。

その際、君子として振る舞えるようにしっかりと学問していきたい。

 

私は過去に、貧賤を得たことがある。

しかし、道理に合わない貧賤ではなかった。

貧賤を得るべくして得たように思う。

真面目に、自分の道を信じて歩んでいるつもりだったが、独善に過ぎなかった。

道理によって貧賤を得た。

 

ろくに食べられない時期も長かった。

幸い、道から外れることはなかったが、貧賤を楽しんではいなかった。

貧賤を憎み、抜け出したいと思っていた。

抜け出すことを強く願い、数年間にわたり策をめぐらして抜け出した。

 

もし今後、当時のような貧賤に、道理に合わず見舞われたらどうだろうか。

その貧賤を楽しめるだろうかと、たまに考える。

 

 

正直不安だ。

君子ならば、貧賤を楽しめる。

私は、自分自身が君子であるとはとても思えない。

貧賤に見舞われたとき、取り乱すのではないか。

そんな風に思う。