日本神話にみる努力の在り方
同じ意味で使われる言葉に対し、こだわりを持つことがある。
どちらを使っても、それを聞く人や読む人の意識に差が出ないような些細な違い。
自分だけがその違いを意識しているのだから、自己満足である。
しかし、そういうこだわりをひそかに持っておくことは、悪いことではないと思う。
積み重ねる/積み上げる
最近、ひとつこだわりが増えた。
「積み重ねる」「積み上げる」の区別である。
私は、学問や努力を継続することを「積み重ねる」という。
このほかの表現を意識したことはなかった。
ツイッターをはじめてから「積み上げる」という表現を知った。
もちろん、「積み上げる」という日本語は知っている。
しかし、私にとって「積み上げる」とは、努力の継続の表現ではなく、単に積み木であるとか、商品の陳列とかのように、物理的に積んでゆくイメージが強かった。
「積み上げる」を意識的に使っていると思われる人を幾人か見た。
「積み重ねる」と「積み上げる」のどちらが多いか、それは分からない。
そもそも「積み重ねる」が私にとって自然であるから、意識することがない。
却って「積み上げる」の表現が目立って見えるのかもしれない。
学問やスポーツなど、努力を継続する場合の表現として、
「積み重ねる」も「積み上げる」もどちらも正しい。
ならば、より良い表現はどちらか。
あるいは、自分によって好みの表現はどちらかと考えた。
色々考えたが、私には「積み重ねる」の方が優れているように思える。
積み上げるとは
「積み上げる」は、「積む+上げる」である。
積むことで高さ上げてゆく。
この表現には「上へ上へ」の雰囲気が感じられる。
「上」は指事文字である。
指事文字とは、象形文字のように形で表すことが難しい物事を表すために作られた文字である。
例えば、概念的な物事は象形文字では表せない。上や下などは概念であって、それそのものに形はない。
そこで、点や線を使って表現するのが指事文字である。
「上」は、手のひらを上に向け、方向を示す点をつけたものである。
この点を「指事点」という。
古く、甲骨文字では「上」をこのように書いた。
「上」の成り立ちから考えても、「積み上げる」には上方向への意識が明確であり、上を目指す意欲が感じられる。
もちろん、努力を継続するのは目的や志があるからであって、高きを求め、上を目指すのは当然のことだ。
積み重ねるとは
しかし、「積み重ねる」のほうが一段優れているように思う。
「積み重ねる」は「積む+重ねる」であり、「重ねる」の向かうところは下である。
「重」が下向きであることは、「重い」で考えるとわかる。
「重い」は、地位や責任などに使われる。
組織で重要な地位にあることを「重臣」や「重職」という。
これは、位の低い者に比べて権力も大きければ責任も重い地位である。
大きな権力を振るうには大きな責任が伴う。
自分の采配によって、多くの人に苦しみを与えるかもしれない。
そうならないためには、君主など上をみて行動するのではなく、下をみて行動しなければならない。
それが、重臣たるものの責任である。
軽々しい行動は慎まなければならない。
重職心得箇条における「重」
佐藤一斎先生も、重職心得箇条の冒頭で以下のように述べている。
重職と申すは、家国の大事を取り計らうべき職にして、この重の字を取り失い、軽々しきは悪しく候。
大事に油断ありては、その職を得ずと申すべく候。
まず挙動言語より厚重にいたし、威厳を養うべし。
重職は君に代わるべき大臣なれば、大臣重うして百事挙るべく、物を鎮定する所ありて、人心をしつむべし。
かくの如くにして重職の名に叶うべし。
重職は、国家の重大なことを考える職である。
「重」の字を失って軽々しくなるのはいけない。
軽々しくなれば、重大な局面で油断ができる。それでは重職は務まらない。
まずは立ち居振る舞い、言葉遣いを重々しくし、威厳を養いなさい。
重職は、君主に代わって政治を仕切る大臣であるから、これが重々しくあってこそ万事うまくいく。人々の心も安らかになる。
これでこそ、重職の名にふさわしい
一斎先生は、「重」の文字を以て、重職は上ではなく下を志向するべきと考えた。
重職心得箇条の中には、「重職には重職の仕事があるのだから、小さな仕事にとらわれるな」といった心得もあるが、これは下を視るなということではなく、下の、それも特定の箇所に見入るなということだ。
重職は、君主に代わって政治を仕切る。
そもそも、君主とは人民を豊かに治める存在であり、下を向かねばならない。
その代理である重職も、やはり下を志向すべきである。
威厳ある振る舞いをするのも、下のものをうまく治めるためであって、やはり下向きである。
このように、「重」には下向きの意味がある。
漢字「重」の成り立ち
また、重という漢字の本来の意味を考えても、やはり下向きである。
重は、「東+土」からなる象形文字である。
東とは、袋を意味したものとされる。
そこに土を加える意味は定かではないが、白川静博士などは土を錘(オモリ)と考え、
袋に穀物などを入れ、その重量を錘で測る意味に解した。
「重」が「おもさ」を意味するようになったゆえんである。
重量とは、物体に対して重力が働くことで生じる力である。
重力とは、地球が物体を地面に引き寄せる力である。
やはり「重」は下向きだ。
修理固成
「積み重ねる」を「下向きに積む」と考えると、よく意味が分からない。
では、下へ圧力をかけ、固めながら積むのはどうか。
単に積み上げるよりも、上へ行くのに多くの時間を要するだろう。
しかし、ひとつひとつ、積むたびに下へ下へと固め成してゆくならば、私はこちらの姿勢のほうが優れていると思う。
目標に向かって進むとき、あるいは志を伸ばす時、先に進むことを急がない。
それよりも着実を重んじる。
これが日本的な努力の在り方であると思う。
古事記に「修理固成」という言葉がある。
「しゅうりこせい」でも良いが、祝詞などでは「しゅりこせい」と約めて読む。
古事記では、伊邪那岐命と伊邪那美命が天津神に命じられて、国土を生み出す「国生み」の事業を行う。
このとき、天津神が命じた言葉が、
「この漂える国を修め理り固め成せ」
である。
当時の世界は全て海水のようなもので、島などがあっても漂っているような、不安定な世界であった。
これは私のイメージであって、他にも色々なイメージがあろう。
ともかく、不安定であやふやなものを修理固成しなさいという命令である。
伊邪那岐命と伊邪那美命は、橋の上から矛を差しおろし、漂っている場所をかき回す。
海水をころころとかき回し、矛を引き上げた。
すると、矛の先から塩がしたたり落ちた。
それが積もり積もって、盤石の島ができた。
塩が島になる様子を、古事記ではこう表現する。
「垂(シタタ)り落つる塩、累(カサ)なり積もりて島と成りき」
日本神話で、神様が国土を生み出すという、キリスト教でいえば天地創造の大事業も、やはり「積み重ねる」であって「積み上げる」ではなかった。
高く高く、上へ上へと目指して積むのではなく、下へ下へと固め成したのである。
「積み上げる」はなんとなく不安定で、先を急ぎすぎる、結論を焦るきらいがある。
それよりも、着実に固め成してゆく「積み重ねる」が優れている。
一層の努力が必要であり、苦労は多いけれども、私にとって理想的である。
ここまでこだわって使い分ける人は少ないだろう。
文章を仕事にしているから、このような小さなことがすごく気になる。
職業病である。
しかし、これも私の壺中の天であるから、私は私のこだわりを尊く思っている。