一陰一陽は易の真髄
一陰一陽之謂道(一陰一陽、これを道と謂う)
と仰った。
私は公田先生の『易経講話』で易を学んだが、公田先生はこの句を大変注目しておられる。易の真髄であるとまで言った。
『易経講話』の構成は、
1.易経の概説
2.序卦伝
3.周易六十四卦
4.繋辞伝
である。全五冊。
先生は、周易六十四卦の解説を四冊目で終えられた。ここまで二千ページを超える。
そして五冊目、ようやく「一陰一陽之謂道」に触れ、
「長い間、易について、お話を続けておるが、それは皆、ただこの一句をお話しておるのだ」
と仰った。
この一句七文字に行きつくまでに、二千ページ余りの解説を費やしたのである。
鬼気迫るものがある。
私は易経講話の全文中、この箇所に最も迫力を感じた。
私が文章を書くとき、基本的に長文を好む。
核心へ向けて色々なことを丁寧に述べ、最後に盛り上がる流れを好む。
商業的な文章を書く場合、これは冗長であるとして好まれない。
しかし、私は公田先生の姿勢に倣うために、指数関数的な盛り上がりのある文章を理想とする。
また、このブログは弟が読むことも前提としているから、結論を急がない。
きちんと下地を作り、核心に近付いていくのを理想とする。
後で詳しく述べるが、これも一陰一陽の応用であると思っている。
陰と陽の関係
話を戻そう。
陽とは積極的な作用、陰とは消極的な作用である。剛と柔、男と女、天と地など、色々な関係に当てられる。
道の本体や作用というものは、全て陰と陽、積極的な力と消極的な力との活動変化である。
一陰一陽とは、陰と陽が一対一の情態である。
もちろん、これは「陰:陽=50:50」という意味ではない。
陰と陽のバランスはその時々で色々に変化するけれども、どちらか一方に完全に偏ることはない。
常に陰と陽があり、この関係によって世界が成り立っている。
そういう意味である。
陰と陽は対立関係にある。
陰と陽が交互に行われることもある。
ただし、対立といっても争うのではなく、「対なる立場にある」の意。
お互いに対極にあり、独立しており、真逆の性質を持っているが、それが争うことなく調和するのが陰陽の関係である。
一陰一陽の視点
このような一陰一陽の視点を持つことで、世の中の見方が随分変わる。
易を学んで多くの影響を受けたが、一陰一陽の視点もそのひとつである。
一陰一陽の視点、これについていくつか考えてみたい。
天地の関係
天は高く地は低い。
逆の立場にあるけれども、どちらか一方では世界は成り立たない。
互いに独立した立場や性質を以て調和し、世界が成り立つ。
男女の関係
男女もそうである。
男は男として、女は女として、それぞれ生物学的に真逆の性質を備えている。
どちらか一方では、人間社会は成り立たない。
互いに独立した立場や性質を以て調和し、人間社会が成り立つ。
男としての性質も、女としての性質も、どちらも尊い。
したがって、男尊女卑は間違っている。
男尊女尊でなければならない。
昨今の男女平等において、これはよくよく考えるべきところである。
男尊女尊で互いに尊び、調和する社会を目指すべきである。
男女平等推進のために、本来の立場や性質を顧みずに平準化を図ると、必ず無理が生じる。
一陰一陽之謂道、これは真理である。
昨今の男女平等は、本来陽であるものを陰に、陰であるものを陽に無理やり変えようとする強引さを感じることもある。
しかし、そんなことは絶対に無理である。
無理に変えようとすると、強引さが必要になる。
陰と陽が争う結果を招く。
一陰一陽之謂道、陰と陽は本来争うべき関係にない。
疲弊するだけの、無益な闘争である。
そのような闘争を真面目に続ける人が一定数いる。
これは現代社会の病である。
一陰一陽の学
学問の姿勢も当てはまる。
学問には、陽なる学問と陰なる学問がある。
陽なる学問とは、積極的姿勢で学問すること。
陰なる学問とは、消極的姿勢で学問すること。
このように考えると、いかにも陰なる学問が悪く見えるがそうではない。
初学者は、必ず陰なる学問から入る。
その学問に興味を抱き、一から学んでゆく。
易の序卦伝に曰く、
物生ずれば必ず蒙(モウ)なり。故に之を受くるに蒙(モウ)を以てす。
蒙(モウ)とは蒙(クラ)きなり。物の穉(オサナ)きなり。
(生まれたばかりのもの、始まったばかりのことは、必ず蒙昧無知なものである。だから、物の発生を意味する「屯の卦」の次に「蒙の卦」を置く。蒙とは物事に暗いこと、幼く未熟なことである)
初学者は蒙の段階にある。そして、蒙の次に需を配する。曰く、
物の穉きは養わざる可からざるなり。故に之を受くるに需(ジュ)を以てす。
需とは飲食の道なり。
(未熟なものは養わなければならない。だから、蒙の次に需を置く。
需とは飲食の道であり、身体的・精神的に飲食物を与え、養う道である)
このように考えると、初学者は屯から蒙、蒙から需というところである。
蒙であり、学問上のことはさっぱり分からない。
蒙の認識があって、需を受け入れる、教えを求める。
教えられて初めて先に進むことができる。
つまり、陰なる学問、消極的・受動的な学問をやって当然なのである。
人から教えを受けることもある。
入門書から勉強することもある。
意識的に本を読めば積極的に見えるが、疑問を呈したり、自分なりに発展させる力はないから、結局本に書いてあることをそのまま受け取る。陰である。
ともかく、自分で積極的に考えたり、行動したりするのではなくて、まずは消極的にやって当然なのである。
もし、蒙なる段階で需を否定し、積極的態度を強硬すればどうなるか。
間違いなく失敗する。全くおかしな方向へと進むだろう。
だから孔子は、「思いて学ばざれば則ち殆うし」と仰った。
陰なる学問をせず、消極的態度で素地を作らないまま積極的に行動しても、うまくいかないし間違う危険が大きい。
しかし、陰なる学問だけで満足すれば、それはそれで問題だ。
孔子の仰る「学んで思わざれば則ち罔し」に陥る。
この「罔し」は「蒙し」である。いつまでも蒙の段階から抜け出せない状態である。
それでは、何のために学問するのか分からない。
陽なる学問に進まなければならない。
陰なる学問をやれば、その程度に応じて陽なる学問もできる。
本を読むにも、積極的な態度で読めるだろう。
本の内容を現実の生活で実践することもできるだろう。
それができないならば、まだ陰の学問が足りないのであって、陽の学問を急がずとも良い段階といえる。
自分が積んだ陰に比べて、大きな陽を期待しているのである。
逆に言えば、自分が積んだ陰に応じて、それに見合う陽を為せばよい。
儒学の難しいところは、孔子が陽なる聖人であっただけに、陽なる学問を重んじることである。
実践を伴わない学問に否定的である。
だから、学ぶ者は実践を焦ってしまうのだ。
陰なる段階で陽を求めてしまうから、混乱する。
悪くすると、自分には無理だと投げ出す。
例えば、儒学をやれば親に孝行すること、仁義を守ること、礼義を正すことなどを求められる。
しかし、実践となるとなかなか難しい。
これは、最初から大きな孝行や仁義を考えるからである。
論語の大理想をいきなり求めているのだ。
一陰一陽の理解が足らないからである。
一陰一陽、つまり陰にも陽にも偏らないことが分かれば、実践もできる。
陽なる学問・道の実践も、少しずつやればよいのだ。
それが一陰一陽の学問というものだ。
少しずつやる時、一陰一陽関係においては、多くの陰に少しの陽といった塩梅で、ここで陽を大きくするとうまくいかなくなる。
孔子の思想を理解するうえでも、孔子の道を求めるうえでも、一陰一陽の視点は欠かせないものと、私は思っている。
これが易の尊さである。
公田先生と同じように、私は占いとしての易にはあまり興味を持たない。
易理の応用、実践に興味を持つ。
孔子は易を重んじ、座右の書とせよと仰った。
この言葉を、私は終生守ってゆく。