周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

孔子の悲哀

論語の章句のうち、大変好きな言葉であるけれども、解釈に疑問が残る言葉がある。

里仁第四の、

 

朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり

 

である。

 

 

一般的な解釈

一般的には、

 

朝方に人としての正しい道を聞くことができたならば、その日の晩に死んでも良い

 

と解釈する。吉田賢抗先生・金谷治先生・諸橋轍次先生の解釈は全てこの解釈である。

 

人生の目的は、道の実践と体得にある。

それさえ成し得たならば、すぐに死んでも良い。

孔子の道を求める烈しさがよくわかり、私はこの言葉が好きであった。

 

私の疑問

同時に、強い疑問も抱いていた。

道を実践し、体得することは重要である。

しかし、それだけで良いのであろうか。

道を体得した後、後進を教育したり、政治に携わって人民の不幸を減らしたりすることが、一層重要なのではないか。

体得しただけで終わって、悔いのないものだろうか。

孔子が、それくらい強い気持ちで道を求めたのは間違いないが、そこで終わって良いなどと本当に思っただろうか。

 

諸橋先生の優れた解釈

この疑問には、諸橋轍次先生の解釈によって、一応の決着をつけていた。

諸橋先生曰く、

 

「この章句はむしろ反対の場合を考えたほうが分かりやすい。

すなわち、たとい百年の長寿を保っても、その人が道を聞かず、道を行わないとすれば、それは酔生夢死の生き甲斐なき生涯にしか過ぎないという教えである」

 

これは良い解釈と思った。

道さえ聞けばすぐに死んでも悔いはない、これだけでは孔子的でないように思う。

しかし、道を聞かずに長生きしても意味はないとするなら、違和感がだいぶ和らぐ。

孔子の道を求める烈しさも一層際立ってくる。

 

悲哀の言葉だ

この解釈に、私は永く落ち着いていた。

しかし、根本通明先生の解釈で、目から鱗が落ちる思いがした。

 

根本先生の解釈

根本先生の解釈は、一般的な解釈とは大きく異なる。

以下のように解釈なされた。

 

これは、孔子の晩年の言葉である。

長い間、道を広めようと努めて、すっかり年を取ってしまった。

それでも、道を行う人を知らない。

もし、朝に道を行う人があるということを聞いたならば、これほど喜ばしいことはない。

その日の夕方に死んでも悔いはない。

自分が生きている間に、道が行われているという話を聞きたいものだ。

 

「道を聞く」ということを、自分が道を体得することではなく、人が道を体得し実践することと解釈した。

この解釈には感動した。なんとも鮮やかである。

 

仁は高尚なものではない

晩年の孔子は、確かにこのような気持ちをお持ちであったろう。

同じく里仁の章句に、

 

わずか一日でも、力を仁に用いるならば、必ず仁をなせる。

私は、仁に力を用いながら、力が足りないという人を見たことがない。

 

という意味の言葉がある。

孔子は、仁は高尚なものではなく、誰でもできるものと考えていた。

仁とは、誰もが天から授けられているものであるから、力さえ用いれば誰でもできると仰った。

つまり、仁を為せないのは、仁に力を用いていないだけなのだ。

 

孔子晩年の悲哀

しかし、道が廃れてしまい、仁を行う人がいない。

仁が行われている、そんな話を聞くことがない。

道を荒廃から救うべく奮闘した孔子は、晩年に至っても道の復興を実感することがなかった。

 

晩年、愛弟子の顔回やご子息の孔鯉を病気で亡くされ、子路も政争に巻き込まれて亡くなった。冉伯牛が亡くなったのも、同じ時期かもしれない。

ご自身の余命も意識されていたことと思う。

 

孔子は、顔回に道を託そうとしていたように思われる。

顔回が亡くなり、孔子は「天は私を亡ぼした」とお嘆きになった。

その翌年に子路が亡くなり、孔子の「天われを亡ぼせり」の気持ちは一層強くなったはずだ。

 

道が滅んでしまうかもしれない。

道が行われることを聞きたい。

それさえ聞けたら、その日に死んでも構わない。

 

朝に道を聞かば・・・の言葉は、孔子の求道心の発露ではない。

私は、深い悲しみの言葉であると思う。

 

根本先生晩年の悲哀

また、根本先生だからこそ、この解釈ができたのだろう。

明治28年、当時御年75歳の根本先生は、帝国大学文科大学(今の東大文学部)の教授に就任した。

このとき、伝説的な訓辞を遺している。

 

「東洋の漢学は、このわしと共に滅ぶ。

汝らはわしの眼の球の黒いうちに十分に謹んで講義を聴いておくがよい」

 

西洋文化が怒涛の如く押し寄せていた当時、漢学は古臭いものとされた。

根本先生は、漢学が滅び、道が行われなくなることを危惧していたのではないか。

漢学が滅びず、道が行われることを望まなかったはずがない。

死の直前まで、道のために尽くされた。

先生が亡くなられたのは、大著『周易象義辯正』を書き終えた五ヶ月後であった。

 

道が行われないことを嘆いた孔子と、同じ気持ちを持っていたのではないか。

教育者として、漢学者として、道が遺ることを聞けば、その日に死んでも構わないと思っていたのではないか。

 

 

 

 

 

これまでの疑問が氷解し、胸がすく思いがした。

しかし、このブログを書いていると、疑問がなくなって空いたスペースに孔子の悲哀が満ちるようで、やりきれない気分になっている。

孔子の悲哀を知った上は、一層励まなければならない。

一層強い気持ちで道を求めなければ、先人に対する不義になる。

 

朝に道を聞かば・・・の言葉は、私にとって「好きな言葉」ではなくなった。

孔子の悲哀が胸に迫るこの言葉を、単に「好きだ」とは思えなくなった。