昨日、弟と長時間にわたって話し込む中で、筆写についても色々と話し、自分自身、考えるところもあった。
弟には、私がなぜ筆写するかということについて、もう少し詳しく話したかったが、それは避けた。
易などと絡める必要があるが、それを弟に口頭で説明しても、おそらく難しいからである。
そこで、以前書いた文章の整理も含め、今一度、筆写について自分の考えをまとめてみたい。
これを以て、筆写についてさらに述べなくてもいいような、そんな文章を書きたい。
筆写を始めた経緯
私が筆写を始めたのは、高校生の頃である。
勝海舟の例
しかし、オランダ語を学びたいが教材がない。
あるとき、勝は蘭方医がオランダ語の辞書『ヅーフ・ハルマ』を所有していることを知る。
貸してほしいと頼んだが、当時、蘭語辞書は大変貴重なものであったから、容易に貸してもらえない。
やむなく勝は、年10両を支払うことを条件に借り受けた。
勝は非常に貧乏であった。年10両はとても支払えない。
そこで、全文筆写を2度繰り返し、二部の『ヅーフ・ハルマ』を作り、一部を自分用、一部を師に数十両で売り、賃借料に充てた。
ヅーフ・ハルマに収録されているのは約5万語。勝はそれを1年間で二度筆写したのである。
私は勝海舟の伝記の中でこの逸話を知り、学徒はかくあるべしと思った。
福沢諭吉の例
福沢諭吉にも似た話がある。
あるとき福沢は、主人からオランダの築城書を見せてもらった。
当時、オランダ語の原書は珍しい。どうしても読みたくなって、貸してほしいと頼むが主人は許さない。
福沢は一計を案じ、数日借り受ける許しを得た。
これは200ページほどの本であったという。
福沢は、昼夜を徹して筆写し続けた。
2~3日に一度、当番の勤めがある。この時は昼の筆写を休む。
これを繰り返して全て筆写を終え、間違いがないか読み合わせもやり、20~30日くらいで全部写してのけた。
当時『福翁自伝』を読んでこの逸話を知り、やはり感心したことを覚えている。
筆写を始める
当時、私はやたらと本を読んでいた。
一日一冊読むと決め、毎日毎日続けていた。
もちろん、やると決めたらやるという思いでやっていただけで、読み方は実に雑であった。
当時読んだものが、少しでも修養につながったかと考えると甚だ疑わしい。
むしろ、読みまくっていることに変な自信を抱き、却って小賢しくなっていたように思う。
これは乱読の危ないところであると思っている。
冊数ばかりこなして、実際には何も得られていない。
しかし、ともかく読んだという事実があるから、賢くなったように錯覚する。
実際には賢くなっていないのだが、カスのような知識がいくらか身についている。
カスのような知識をいくら集めたところで、そんなものはごみ溜めに過ぎない。
小さなごみ溜めも、大きなごみ溜めも、どちらもごみ溜めに変わりはない。
どちらかといえば、小さなごみ溜めの方がマシだろう。
勉強して小賢しくなるくらいなら、勉強などせぬほうがマシということだ。
しかし、小賢しい奴というのは、ゴミを溜め込むほどに誇る。
馬鹿なことだ。
当時の私はまさにそれであった。
筆写という学習方法があることを知り、自分の乱読を見直す契機になった。
それまで、毎日一冊の読書をこなしたが、はたしてそれでいいのだろうかと考えると、どうもよくない気がした。
特に、ノルマをこなすために、じっくり時間をかけるべき本までサッサと読んでいるのは改めるべきと思った。
読書は続ける、しかし一方で古典など丁寧にやるべきものは筆写しようと考えた。
最初に写したのは、岩波文庫の『大学・中庸』であった。
そもそもの下地がないから、筆写したところで何か得たとは思わなかった。
それでも、丁寧にやったことで記憶にも残った実感がいくらかあり、自分には筆写が合っていると思った。
大学に入ってからは、特に多く筆写した。
何冊くらい写したか覚えていないが、筆写したノートはA5・30ページのものが30冊くらいはあったと思う。
長い時を経て
その後も、折に触れて筆写は続けた。
これは、あまり意味はなかったように思う。
筆写という学習方法自体は非常に丁寧である。
しかし、より大きな方針が乱雑であったのだ。
思い付きで、良いなと思った本を筆写した。
行き当たりばったりで、何も計画性がなく、色々な思想が入り乱れ、わけがわからない状態だった。
熱心に取り組んだ(つもり)割には、成長を実感できない。
日常生活で何も生きてこない。
親不孝もするし失敗もする。
死にかけたのも、ここにいくらか原因があるように思う。
ごみ溜めを作るような学問は嫌だと思い、乱読を改め筆写をやり、結局ごみを溜め込んだだけだった。
社会人になってからどれくらいだったか、自棄になって学生時代に筆写したノートを全て捨てた。
その後、筆写する機会は減ったが、筆写を廃してしまうことはなかった。
読書に力を入れた時期もある。
まあ紆余曲折あって、結局筆写が良いと思うに至った。
昨年の末から、十年以上にわたってやってきた勉強を全部捨て、またイチからやり直そうと決めた。
やり直して早々に、順序を強く意識するようになった。
これは良かったと思う。これがなければ、また雑になっていただろう。
孝経、小学、大学、論語、孟子・・・といった順序で、しっかり筆写した。
すると、10年以上も乱雑にやってきたのが馬鹿らしくなるほど、自分の中で理解が深まっていく実感があった。
昨年12月から現在までに筆写したのは、
・言志録
・言志後録
・言志晩録
・言志耋録(ここまでは、やはり順序を守っての意識がまだ低かった)
・孝経
・小学
・大学
・論語
・孟子
・中庸
・易経
・近思録
である。
今後、筆写したいものがいくつもあり、四書五経を一通り学び終えるのにあと数年をかけたいと思っている。
高校の時分、乱読から筆写に変え、大学では筆写を一筋にやり、社会人になってからは一度筆写を廃そうと迷ったが、最近、再び筆写に帰った。
今では、筆写とは易理から考えても間違いのない方法だと思っている。
筆写の利点
私が思う筆写の利点は、大きくいってふたつある。
丁寧に学習できる
当初、私が筆写する理由は、単に「丁寧にやりたい」であり、今もそれは重要だと思っている。
筆写する場合、少なくとも筆写する箇所については、全文を丁寧に読まなければならない。
書き写すのだから、一文字でも読み飛ばせない。
速読、斜め読みなどはできず、尺取虫の読書をすることとなる。
孟子は、一字一句に囚われてはならないと教える。
しかし、読み飛ばして良いとか、サラサラ読めとは一言も言っていない。
全て丁寧に読み、重要な箇所とそうでない箇所を自分なりに選択することが大切だと思っている。
全てを丁寧に読むことが前提であるから、この意味において読みながら書き写す、書き写しながら読むというのは優れた方法だと思っている。
気の抜けた学習に陥らない
実際にやってみると分かるが、一字一句、書き損じることなく筆写するのは難しい。
集中力が高まっているときは、書き損じが起こらない。
書き損じが多いほど、集中できていないことが自覚できる。
単に読むだけであれば、集中力に欠けるとき、その自覚がないままだらだらと読み進めてしまうことが多い。
私はそうである。
筆写であれば、だらだらとした学習はできない。
読んだものを正確に書き写すという意識があるからだ。
だらだらと書き写すこともできないではないが、そんなことをすれば書き損じが多くなる。
多く間違えながら、何も改めずにダラダラ書き続ける人はいないだろう。
書き損じが出るたびに「いかんいかん」と気合を入れなおす。
間の締まった、緊張感のある学習ができる。
これも筆写の効用だと思っている。
筆写は元亨利貞
筆写の良いと思うところは色々あるが、常に実感している効用は上の二つである。
時間がかかる、労力がかかるといったデメリットもある。
それに、誰にでもおすすめの学習方法とは思わない。
筆写せずとも、読むことで丁寧に、集中力を保って学習できる人もいるだろう。
そのような人が筆写するのは無駄であろう。
あくまでも、私にとって最も良いと思ってやっているだけだ。
私同様、読むだけでは自信がない人には、筆写をやってみてはどうか、という思いもないではない。
しかし、時間のかかることでもあるし、安易に勧めるべきではないとも思う。
以前、質問箱をやっていたころ、筆写について色々聞かれることがあったから、興味がある人は多いのかもしれないが。
筆写するにせよ、読書するにせよ、丁寧にやることは大切だ。
心を用いず、だらだらやるなら、遊んでいたほうがマシだ。
そんな人は、無理して勉強せずとも良いだろう。
丁寧に学ぶことは、易学的に考えても重要であると思っている。
易を学んでから、そのように考えるようになった。
筆写を始めたきっかけを思い返してもそうだし、今ではなおさらそうだが、私は学問において「元亨利貞」ということを大切にしている。
元亨利貞とは、物事の正しい順序である。
元は始まり、
亨は伸びてゆくところ、
利は伸びたものが引き締まってゆくところ、
貞はしっかりと引き締まったところ。
貞に至って、また元に戻り、元亨利貞を繰り返す。
元亨利貞は春夏秋冬にも通じる。
春に草木が芽を出し、
夏に盛んに伸びてゆき、
秋になると徒長せず引き締まって実をつけ、
冬になると実が落ちて種となり、葉が落ちて肥料となり、翌年の春へと引き継がれる。
経書から学ぶことに当てはまると、
元は読み始めるところ、
亨は読み進めてゆくところ、
利は読んだものの理解を深めてゆくところ、
貞は自分なりに理解が達するところ。
この元亨利貞を引き継いで次の書物へ進み、また元で始まり、亨、利、貞と繰り返してゆく。
世の中のことは、何でも正しい順序というものがある。
それを守って進んでゆくことを「順調」という。
正しい順序を踏まず、一足飛びにやるならば、健全に発達できず、変態に至る。
変態を繰り返せば、必ずおかしな方向へ進んでいき、目的とは大違いのところへ行きつく。
もしくは、ずいぶん進んだところでおかしいと気づき、しかし出発地点に戻る元気もなく、中途で挫折する。
春夏秋冬の流れが絶対であるように、元亨利貞の順序は絶対である。
元亨利貞は道理である。
元亨利貞の順序を守って取り組むことが、丁寧とか真面目とか、そういうことになると思っている。
細かく言えば、色々な順序があるだろう。
それぞれの力量や能力、性質に応じて、元亨利貞の各段階でどのように勉強すべきか、といった細かいところが変わってくる。
それでも、例えば元亨だけで満足して利貞を怠るならば、次なる元亨利貞につながるはずはなく、変態に至る。
これは間違いのないことだ。
私の場合、元亨利貞で正しくやるためには、読むだけではなく書く必要があると、自分で分かっている。
読むだけでは元亨、うまくいっても元亨利で終わるだろう。貞に至らない。
それでは意味がない。
だから、書き写す。
読むだけに比べると、筆写には時間も労力もかかる。
読むだけの人から見れば、大変に効率が悪い。
しかし、私自身はそれでよいと思っている。
時間と労力はかかるが、それは問題でない。
そもそも、一生かけるに値する学問をやっているのだ。
1週間で通読できるものを、1ヶ月かけて筆写したからといって、何も問題はない。
私は、筆写によってこそ丁寧に、集中して学べるのだ。
筆写は、私が貞に至る可能性が最も高い方法であり、順調に進んでいくことができる唯一の方法なのだ。
筆写することを嫌い、読むだけで済ませようと考えて元亨や元亨利で満足するならば、そのほうが大問題である。
結局のところ、私にとって筆写が最も良い方法である。
もっとも、何をどこまで筆写するか、これは後になってみないと分からない。
筆写を通して四書五経の理解をある程度深めた後は、そこから派生する古典は筆写せずとも元亨利貞でスムーズに学べるのかもしれない。
経書を十分に学べば、その後はあえて筆写する必要はないのかも。
老荘を学ぶ段になって再び筆写、禅を深めるにまた筆写というように、老荘なら老荘、禅なら禅における元にあたって筆写に取り組み、亨、利、貞と進むにつれて筆写が減ってくる。
そのような流れも十分にあり得る。
弟には、「元亨利貞」ということを話さなかった。
この機会に知っておくと良い。
元亨利貞はあらゆることにあてはまる。
一日の仕事の段取りは元亨利貞であるべきだ。
顧客に営業をかけるでも、その中で元亨利貞があるはずだ。
そういうことを、日常の中で少し考えてみると、なにか気づくこともあるだろう。