周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

異端を攻めよ

先日、弟とお茶会をしていて、ひとつ気付いたことがある。

私は古い学問や伝統・文化が好きで、保守的な人間であると思っていた。

しかし、意外にそうではない一面があることを認識した。

 

 

求めるは同じ味か、違う味か

 

まず、飲み物。

弟はネスカフェのアイスコーヒーと、水を用意していた。

私はほうじ茶、紅茶、トマトジュースである。

紅茶は、名前も覚えていないが、トロピカルな雰囲気のものを買った。

好きで買ったのではない。飲んだことがなかったし、レモンティーやアップルティーというのではなく、新鮮に思って買ったのだ。

 

 

食べ物。

弟はナッツを食べていたと思う。

私は、パンやおにぎり、お菓子、それに色々な味のアイスクリームを食べた。

 

問題はアイスクリームである。

クーリッシュのカルピス味を食べ、続いて爽のレモンスカッシュ味を食べていると、

「変わった味ばっかり食べますね」

と弟が言った。私は全くそんなつもりはなかった。

 

「そうかね?」

「俺は大体同じ味ばっかりですよ」

「何味?」

「バニラです」

「食に保守的なのかね」

「そうかもしれません」

 

保守的でないとすれば、私は進歩的なのか。

そうとは思えない。

意識的に新しい味を求めているつもりはない。

しかし、無意識的に新しい味を求めているならば、それは意識的に求めるより強く求めているようにも思える。

 

「どうせ値段は一緒やし、新しい味を食べたほうが面白くない?」

「兄貴は好奇心が強いんでしょう」

 

確かに、そうなのかもしれない。

同じ味を繰り返し食べ続けるのは苦にならないが、その必要がなければ味を変える。

 

おにぎりはどうか。

お菓子はどうか。

お酒はどうか。

色々検討したが、食に関しては私は保守的ではなさそうだ。

おにぎりやお菓子も、新しいものや食べたことのないものを見れば買いたくなる。

お酒もそうだ。缶チューハイ発泡酒なども、色々試す。

 

強く意識してそうしているのではない。

だから、自分にこのような傾向があることを初めて実感した。

 

この時は、なつかしい駄菓子の話、子どもの頃の貧乏話、方言の話などをしただけであった。

しかし、これについて色々考えてみると、儒学的にひとつの気づきがあった。

 

広く学ぶことの是非

 

思えば、学問においても、私にはそんなところがあったかもしれない。

かつてひどい乱読に陥った時、私は何でも手をつけた。

広く知っていることが偉いと思っていたから、特定のジャンルにこだわらず、あらゆるジャンルを読み漁った。

 

広く学ぶことは、一般には知的好奇心が旺盛などと言われるし、良いことのように思われる。

しかし、私はこの考え方に疑問である。

 

 

 

広く学ぶことを推奨する意見には、以下のようなものが多い。

 

 

「なんにせよ、多くを知っているのは良いことだ。

知っていることが多ければ、世界が広がる。そうでなければ世界が狭い。

これは、自分の道を決めるうえでも重要だ。

 

知っている範囲が狭ければ、狭い中から自分の道を決めなければならない。

自分を活かせる最適な道がどこにあるか分からない中で、少ない選択肢から選ぶのは良くない。

知っている範囲が広ければ、選択肢が多い分だけ良い道を選びやすい。

自分の道が確立しないうちは、広く学ぶのが良い」

 

 

果たして、これは本当だろうか。

選択肢が多ければ迷いも多い。

多才な人でなければ、自分の力を発揮できる道は限られている。

“最適な道”を選ぶならば、正解は一つだけだ。

 

選択肢が少なければ、そもそも選択肢の中に正解の道がない可能性も高い。

選択肢が多ければ、ハズレを選ぶ確率が高まる。

どちらが良いとは、一概に言えない気がする。

 

私自身は、選択肢が少ないほうが幸せではないかと思う。

選択肢の多少にかかわらず、最適な道を選ぶことは難しい。

しかし、道を誤った時が問題だ。

 

選択肢の少ない中で道を誤った時、後悔は少ない。

極端な話、家業を継ぐ場合などは選択肢はたった一つであるから、「あの時、別の仕事を選んでいれば」という後悔は起こりにくい。

選択肢が多い中で道を誤れば、後悔は多い。

「別の道を選んでいれば」と思い、再び多くの選択肢から選んで転職して、うまくいくだろうか。

難しいように思う。

 

本当に自分に合った道を見つけることは、とても難しい。

それができず、不満や迷いの中で働き、生きている人がほとんどだろう。

失敗するのが普通といって良いくらいだ。

私は、今の仕事に満足しているが、最適かといわれると正直よくわからない。

 

置かれている環境の中で、

望むかどうかに関わらず就いた仕事をこなしていく中で、

良い生き方を心がけ、真面目にやっていくだけではないかと思う。

 

異端の害

 

私は、広く学び、選択肢を広げることが重要とは思わない。

広く学ぶにしても、順序というものがある。

ひとつ目をしっかり学び、二つ目をしっかり学び、三つ目をしっかり学び・・・やがて広く道に達するならば、それは素晴らしいことだろう。

これを理想とするのも、良いことだと思う。

 

しかし、現実的なことを考えると、なかなか難しい。

一つのことをどの程度まで深めるかにもよるが、人生を通じても、凡人はそれほど広く学べないのではないか。

そこで広く学ぼうとすると、おかしなことになる。

 

孔子曰く

孔子は、「異端を攻(オサ)むるは、斯れ害あるのみ」と仰った。

一般的には、異端とは「本筋から外れた学問」と解釈する。

いわゆる曲学阿世(キョクガクアセイ)がこれにあたる。

曲学阿世とは、世の中に迎合し、本来の学説や道理を捻じ曲げることだ。

本筋から外れると、曲学阿世に陥る。それは誤りであるという戒めである。

 

根本先生曰く

根本通明先生の解釈は、より徹底している。曰く、

 

「今日学んで居る処を何処までもやらずに、其の他のことを雑へてやつては、今日学ぶ事が十分にいかぬ。

学問ならば学問を充分修めて、其の他に種々の芸能までも修めて行かうとすれば、専らにする学問の妨げが出て邪魔になる。

異端といふは、今日専ら修めて居る他が皆異端である。

異端は悪いと云ふではない、吾と異る所が皆異端である」

 

つまり、自分が今日現在学んでいるもの以外は全て異端である。

本筋といえる学問でも、今日学んで居ないものは異端である。

今日、学んで居るもののほかにも良いものがあるだろうが、今は邪魔になるからひとまず避けなさいと教える。

曲学阿世はもちろんだが、孔孟を学びながら老荘を学ぶ、老荘を学びながら仏教を学ぶ、仏教を学びながらキリスト教を学ぶといったことは全て異端を攻めることと考える。

もちろん、ひとつひとつ丁寧に学び、深めた後は、孔孟も老荘も、仏教もキリスト教も、それらにまたがって学びを深めて良いと思う。

その段階では、これらは全て今日学ぶところであり、もはや異端ではないからだ。

 

新解釈「異端を攻(セ)めよ」

根本先生はこの箇所について、後に改めておられる。

先生は、病床にて修正をなされた。原文を

 

異端を攻(セ)めよ、斯れ害なるのみ

 

と読み、

 

「異端を攻むるは、なお敵を攻むるがごとくせよ。

これを攻落して正に帰せしめよ。

異端は有害無益なり」

 

としている。

 

当初の解釈では、異端は「今日学んで居るもの以外」であり、着実に、丁寧に学ぶことを教えられた。「異端が悪いのではない」とも仰った。

後日の訂正では、異端を強く責めている。

この異端とは、本筋以外の学問である。

しかし、一般的な「本筋以外を避けよ」とする消極的姿勢ではなく、「本筋以外は攻めよ」の積極的姿勢であり、趣きはかなり異なる。

今日学んでいるかどうかに関わらず、異端は異端であって害であるから攻撃せよ、訂正せよとしている。

 

これは、必ずしも他人や社会の曲学阿世を攻撃せよという意味ではないと思う。

「本筋以外に囚われるな」の解釈を敷衍し、

 

「本筋以外に囚われるな。

色々な学問・学説・誘惑があるだろうが、本筋から外れ、道理に反する教えには敵愾心を燃やしなさい。

正しい学問、正しくない学問を厳しく峻別し、己の学を正しく保ちなさい」

 

と仰ったのではないかと、私は考えている。

 

心中の賊を鏖殺せよ

一般的な解釈に比べて、根本先生の「異端を攻めよ」の解釈が優れていると私は思う。

学問とは、自分の徳を磨くものである。

修養にあたって、時には自己の悪い部分を攻撃的な姿勢で矯正する必要がある。

 

王陽明も「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」と仰った。

「山の中に潜む山賊をやっつけるのは簡単だが、心の中に潜む悪癖や私欲などを捨て去るのは難しい」という意味だ。

 

これに関して、山田方谷先生の漢詩にもこんなものがある。

 

賊據心中勢未衰

天君有令殺無遺

満胸迸出鮮々血

正是一場鏖戦時

 

賊 心中によつて 勢未だ衰へず

天君 令あり殺して遺すなからし

満胸迸出す 鮮々血

正に是れ一場鏖戦(オウセン)の時

 

(賊が心の中に巣くって、盛んな勢いである。

天は私に、この賊を一掃せよと命じられた。

胸から鮮血がほとばしる。

今こそ心中の賊を皆殺しにする時だ)

 

方谷先生は、あるときひどく喀血して倒れた。

このとき、王陽明の「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」を思い出し、この漢詩を作った。

自分の心に巣くう賊の勢いが強く、胸がひどく傷つけられて大量に喀血した。もうのんびりしてはいられない。これぞ天機である。心中の賊を攻めよ。

 

根本先生が「異端を攻(オサ)むるは・・・」から、「異端を攻(セ)めよ」に改めたのは、「異端というものは、鏖戦の勢いで攻めなければ異端の害に侵される。異端を攻めよ」ということだったのではないか。

 

 

 

私は学徒であるから、「異端を攻(オサ)めず」の姿勢がもちろん重要だ。

しかし、それ以上に「異端を攻(セ)めよ」の姿勢を持ちたいと思う。

 

かつて、異端を攻める姿勢がなく、乱読に陥って大失敗したのだ。

私は元来、そういう傾向があるのだろう。

食べ物を選ぶ際、新しいもの、珍しいものを好んで選ぶことに、何の問題意識もなかった。

しかし、あまり馬鹿にできないのかもしれない。

食べ物の選び方が、学問上の姿勢にも表れるのではないか。

本来、私の性格は弟の性格に比べて、異端に手を出しやすい傾向があるのではないか。

先日のお茶会を通して、そんな風に思った。

 

失敗を通して、乱読をやめ、無秩序な学びを排した。

遠回りしながら、異端を攻め、道を大幅に修正できた。

これは幸いであったけれども、性格性向を本質的に改めるのは難しい。

どこかで、異端に無防備になることがあるかもしれない。

そうならないよう、慎みて怠ることなく、学問に取り組みたい。