周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

国家の盛衰と政事に関する覚書

論語について気付いたことの覚書。

 

 

富まさん、教えん

論語憲問篇。孔子が衛に行き、冉有がお供をした。衛に入り、孔子が仰る。

孔子「衛は人が多いな」
冉有「人が増えた上には、何を加えましょうか」
孔子「豊かにしよう」
冉有「ではその後は?」
孔子「人々を教育しよう」

 

先王の道

これは孔子独自の説ではない。孔子は「述べて作らず、信じて古を好む」で、先王の道を重んじ、独自の説を立てることをしなかった。

 

礼記にこうある。

曠土無く、游民無く、食節あり、事時あり、民咸其の居に安んじて、事を楽しみ功に勧み、君を尊び上に親しみ、然る後に学を興す。

土地の性質(気候や地勢、産物など)を慮って町を作り政策を実施すれば、土地を無駄なく活用できる。

荒地がなく、みな働くことができて遊び呆ける者はおらず、食料も自然と調整されて、労役の時期が外れることもない。人々は安心して暮らし、仕事を楽しみ成果もあがり、君臣上下の信も固くなる。

そこで初めて教育を盛んにする。

 

この文章は王制篇にある。王制とは王者の政治制度。

土地の性質にふさわしいだけの人が居り(少なければ増やし)、豊かにし、教育する。これが先王の道である。

 

伍子胥の嘆き

人を増やし、富を増し、教育する。儒学ではこの流れを基本とする。

 

呉王夫差は越を滅亡寸前まで追い込み、止めを刺さなかった。伍子胥嘆いて曰く、

「越が今後十年で民を増やし、豊かにし、その後の十年で民を教育するならば、二十年後には越が呉を滅ぼし、呉は沼になるであろう」

伍子胥の嘆きは哀公元年。この言葉の通り、同二十二年に越が呉を滅ぼした。

 

貧にして怨む無きは難し

人を増やせば、富を増すべきである。富の総量が変わらなければ、人が増えた分だけ貧しくなる。子路篇にこうある。

子曰く、貧にして怨む無きは難し。

貧困は人々に怨みを植え付ける。政治に不信感を抱くようになる。
人が増え、貧にして怨めば国家は立ち行かない。教育どころではない。

人を増やし、富まし、貧窮のため教育を受けられない者をなくす。これこそ、王者の仁義の政事である。

 

 

食・兵・信

顔淵篇の問答。

子貢「政治に欠かせないものは何でしょうか」
孔子「食・兵・信である」
子貢「やむを得ずどれか一つを去るとしたら、どれにしましょう」
孔子「兵を去るべきだ」
子貢「やむを得ず、食と信のどちらかを去るとしたら?」
孔子「食を去るべきだ。信がなければ国は立ち行かぬ」

 

憲問篇・子路篇の章句と照らし合わせると、疑問が出てくる。

国が貧しいから、兵や食を去らなければならない。貧にして怨む無きは難し。

兵や食を去れば、同時に信も失うのではないか。ならば食と信では、信を去るべきではないか。

ここが混乱しやすいところである。

 

三章句の解釈は

思うに、孔子冉有に語ったのは、国が栄えてゆく場合に採るべき流れである。子貢に語ったのは、国が衰えていく場合に採るべき流れである

人が増え、豊かにし、教育も施した。国は栄え、食も兵も信も充足した。
しかし満つれば欠けるが道理である。豊かさが油断・驕慢を生み、徐々に衰運が高まり、食・兵・信の維持が困難になる。
その場合、一に兵を、二に食を去る。

 

季氏篇にこうある。

蓋し均しければ貧しきこと無く、和すれば寡なきこと無く、安んずれば傾くこと無し。

公平であれば貧しいということはない。

食を去り、然して残った富・食が偏ることなく、上も下も等しく貧しくなる。それならば「和」である。皆が同じ調子で、貧しいには貧しいが「自分だけが貧しい(寡ない)」という不公平感は生まれない。不和に陥ることはない。

和すれば安し。なぜ安いかといえば、上下の間にまだ信が保たれているからだ。信は希望だ。信があれば、貧しい中にも希望を見出せる。信が復興の芽になる。心が安ければ国家が傾くことはない。

 

つまり孔子が仰るのは、兵や食を去っても信だけは失うな、信を最後の砦とせよということではないか。

 

 

三つの章句をこう紐づけてみたが、どうでしょうか。