周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

報われない努力について

以下のような質問を受けた。

努力が報われぬ不幸について、である。

質問を受けてから。随分と日が経ってしまった。

①はすぐにでもお答えできたが、②③に向かい合うのに時間を要したためである。

 

このような話題は、書きたくありません。

私の場合であれば、親や兄弟が凶事に見舞われた場合を想定するのであって、考えていると胸がムカムカして気持ち悪くなってくる。中々、文章を書くどころではない。

したがって②③については、簡単にお話しできる機会を待つとして、とりあえず①だけお答えします。

 

 

 

陳蔡の災難

「一生懸命が報われない、その理不尽について論語にはどのように書いてあるか」

とのことだが、これはツイッターでも何度かお話しした通り、孔子の御一行が陳蔡間に窮した話を見るとよくわかる。

衛霊公第十五に、以下の章句がある。

衛の霊公れいこうじん孔子に問ふ。孔子こたへて曰く、俎豆そとうの事は則ち嘗て之を聞く。軍旅の事は未だ之を学ばざるなり。明日遂にる。

ちんに在り、糧を絶つ。従者病み、能くつ莫し。子路いかまみえて曰く、君子亦た窮すること有るか。子曰く、君子もとより窮す。小人窮すれば斯にみだる。

 

暗君・霊公

孔子が衛におられた。当時、衛の君主は霊公であった。

霊公は暗君であった。衛に来た孔子一行を庇護したが、それは蘧伯玉きょはくぎょく顔讎由がんしゅうゆうといった賢人が孔子と親しかったためと思われる。

孔子の徳を尊んでそうしたのではない。むしろ軽んじるところがあったようだ。それがこの章句によく表れている。

 

霊公が孔子に、陳を問うた。陳とは当時の小国・陳のことではない。古くは陣を陳と書いた。つまり霊公は陣立てのことなど、軍事を孔子に問うたわけである。

霊公は暗君である。無道の君が戦を起こすと、大抵は良い結果にならない。人民が苦労を強いられる。孔子としては「あなたに軍事のことはお話ししたくありません」とお考えになるが、それを直接言うのも憚られる。

元より霊公の方でも、「学問があり礼に詳しい孔子も、さすがに軍事のことは分かるまい、ひとつ聞いてみよう」くらいの考えである。そこで孔子は、

「私は俎豆(祭器、つまり礼のこと)は学んでおりますが、軍事のことはまだ学んでおりませぬ」

とお答えになった。

 

軍事にも通じた孔子

孔子は、軍事のこともよくご存じであった。礼記の礼器篇には、

孔子曰く、我戦へば則ち克つ、其の道を得たればなり。

孔子が仰った。私は戦えば勝つ。正しい道を知っているからである)

とある。

また、孔子家語の相魯第一には、孔子が反乱軍と戦ったときのことが書かれている。詳しくはまたの機会にするが、この時には孔子が采配を取って反乱を鎮圧している。

決して戦を知らないわけではない。しかし、無道の霊公に軍事のことを話したくないと考え、「学んだことがありませぬ」としてやり過ごした。

 

孔子の去就

その翌日、孔子は衛を去った。

礼儀のことは知っているが軍事のことは知りませぬ、ここには孔子が霊公へ礼を勧める意図が含まれている。しかし、霊公にはそれが分らなかった。

用いられない以上、衛に留まることはできない。だからすぐに衛を去った。

孟子は、孔子の進退の鮮やかさを称賛している。孟子では、孔子が斉を去った時のことを以て称賛しているが、衛を去る時のこともまた同じ。

 

陳蔡に窮する

その後、孔子は陳の国へ往かれた。孔子家語には、孔子は楚の昭公に招かれたため、陳を出て楚に向かったとある。その時、陳蔡間で苦難に見舞われた。

この背景は、本によって異なる。

当時、楚と呉が激しく争っており、それに陳・蔡が巻き込まれた。孔子の一行は誤解を受けて呉の軍隊に包囲され、糧道を絶たれたという。

また孔子家語の在厄篇には、陳・蔡両国の大夫たちが、「孔子が楚に任用されたら、楚がますます強くなって我が国は危ない」と考え、孔子たちを包囲したとある。

 

七日食わず

ともかく、孔子御一行が陳蔡間で困窮したことは間違いない。

これは一行にとって大変な禍であった。論語には、単に「陳に在り、糧を絶つ」としか書かれていない。しかし、孔子家語在厄篇や説苑雑言篇には「絶糧七日」、荘子天運篇にも「七日不火食」で、七日食を絶たれたとある。

従者は病んで立ち上がれぬほど。とにかく大変な苦労であった。

 

子路の慍り

この時、子路が慍って孔子に問うた。

慍、これは怒とは違う。怒は、腹を立てている様子を広くいう。しかし慍は、憤りに耐えかねて怒るのである。

子路孔子を慕う気持ちが人一倍強く、孔子のためなら死んでも良いと思う人であった。

孔子の仰ることは絶対である。大抵の苦労は苦労と思わずに耐えた。

しかし、今回ばかりはおかしい。正しい道を求めている我々の一生懸命がなぜ報われぬのか。なぜこんな苦労をしなければならないのか。

徳があれば、周囲もその徳に感じる。徳は孤ならず。それに、孔子が説く「道徳」とは天の徳である。天道天理、天の徳を重んじていれば、利しからざるはなし。先生はいつもそう仰る。

しかし今回ばかりは、先生の仰ることは間違いではないか。

 

その思いに耐えかねて、

「君子亦た窮すること有るか」

と詰め寄った。

君子がここまで窮することはありますまい。しかし我々は実際に窮している。もはや死が近づいている。これはどういったわけでございますか。

 

荘子を読むと、このとき孔子は静かに琴を弾いていたという。

それに子路が慍った。先生が礼楽を重んじるのは知っていますが、琴を弾いている場合ですか。先生が琴を弾いている間にも、命の危ない者もおりまする。

 

子路を諭す

慍る子路を諭して、孔子は仰る。

「子曰く、君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫る。」

君子とは窮するものだ。君子だからこそ窮するのだ。

お前の云う通り、君子は大道(天道天理)に則って生きる。それが何より大事であって、そのためには命も捨てて顧みない、それが君子である。

大道に則って、それを断じて枉げない。窮することがあれば、堂々と窮するのが君子である。

禍を逃れるために大道を枉げることがない。大道を枉げ、権謀術数を以て難を逃れるのは小人のやることである。小人は困窮すれば濫れる。君子は違う。君子だからこそ窮するのである。

 

仁者・智者も窮する

孔子家語には、子路を諭す言葉が詳しく載っている。以下、意訳。

お前は、仁者や智者は必ず人に信用され、窮することもないと思っているらしいが、そうではない。仁者が必ず信用されるなら、なぜ伯夷と叔斉は餓死したのだ。智者が必ず信用されるなら、なぜ比干は胸を割かれたのだ。

正しい道を歩んだからといって、いつもうまくいくものではない。人の幸不幸は時世によって左右されるからだ。

君子が学問を積み、道徳を磨き、よく考えて世に処したとしても、時世によっては報われないことがある。そんな人は古来いくらもいた。どうして私たちだけが困窮しないといえよう。

蘭という花は、森の奥深くで花を咲かせ、香気を放っている。蘭は、人に知られないからといって、香気を漂わせないことはない。君子も同じである。一生懸命が報われるかどうかに関係なく、学問し、道徳し、困窮しても節を曲げない。

そして仰る。

「之を為す者は人なり。生死は命なり。」

(幸不幸に関係なく)学問道徳に努めるのは人間である。しかし、その人間の生死は天命である(報われるかどうかは問題ではないのだ)

私はこの言葉が好きである。

 

子貢を叱る

孔子家語には、これに続いて子貢との問答も載っている。

孔子子路を諭した後、子貢を呼んだ。子貢も不満を抱き、孔子にこう言った。

先生の道は大きすぎるのです。だから一般の人々には受け入れられないのです。先生、もう少し低い所に合わせてはいかがですか。

それを叱って、孔子は仰った。

腕の良い農夫は、作物をうまく植え付けることができる。しかし、必ず豊作になるわけではない(作物の実りは天候や色々なことに左右される)

学問道徳を修めた君子であれば、道を人に示すことが出来るだろう。しかし、それが必ず世の中に受け入れられるとは限らない。

ましてやお前はまだ道を十分に修めてもいないのに、社会に受け入れられたいと考え、水準を下げようなどと言っている。

子貢よ、お前の志は小さい。

 

子路と子貢の違い

子貢への言葉は、子路への言葉より厳しい。

子貢も、孔子を慕う気持ちは強い。しかし、子路と子貢の決定的な違いは、思いの純粋さにあるのではないか。

子路は道を枉げようとしたのではない。道を篤く信じているからこそ、困窮することがただただ悲しく、憤りに耐えられなかった。

一方、子貢は、少々道を枉げてはどうかと孔子に進言した。それを孔子は「お前の志は小さい」と叱った。

 

子路への励まし

孔子は、道を信ずる心が篤い子路を憐れんだのであろう。

子路は、孔子の教える道こそ正しい、間違いのない道であると篤く信じている。信じているが困窮した。篤く信じるからこそ、それが悔しい。剛毅な子路には猶更悔しい。

孔子はそんな子路を憐み、励ましたものと私は思う。

「私もお前も道を篤く信じている。だから窮しているのだ。それでよい、私たちは何も間違っていないのだよ」

 

報われないことは問題でない

ここまでの内容から、「一生懸命が報われないこと」について、孔子がどのようにお考えであったか、凡そ分かったと思います。

報われるか報われないかは問題ではないのです。「報われること」を重く考えると、相対的に「報われないこと」がおかしい、という話になってしまい、子貢のように、理想を少し低くしては…ということにもなりかねない。

それでは志が低い。報われないこともあって当然、報われるからやる、報われないからやらないというものではないのです。

 

己れ能無きを患ふ

これは何も、陳蔡に困窮したような、大変な場合に限ってそうなのではない。いつだってそうなのです。

論語憲問篇にこうある。

子曰く、人の己れを知らざるを患へず、己れ能無きを患ふ。

(人が自分を知ってくれないと患えるのではいけない。それよりも、自分に知られるだけの学問や道徳や才能がないことを患えよ)

 

なぜ舜は偉いか

また、孟子は舜を讃えてどう仰ったか。尽心章句に、このようなことが書いてある。

舜がまだ堯に見いだされないころ、山の中にいて木や石の間に暮らし、鹿や猪を友にした。とても優れた人とは思われなかった。

しかし舜が人と違ったのは、大変に善を好んだことである。善言を聞き、善行を見れば、自分もそうあろうと努めた。その情熱は、誰にも止めることが出来なかった。

堯に見いだされる前、舜は田を耕したり、木を伐ったり、何でもない仕事をしていた。

しかし、善を好む気持ちは誰よりも篤かった。何でもない仕事をして、それが認められようと、認められまいと真面目に務めた。

一生懸命にやって苦労することがあっても、報われようと、報われまいと、善を求める気持ちは全く変わらなかった。道を枉げることはなかった。


その後、堯に見出された政治を執るようになると、鯀・共工驩兜三苗をはじめとする悪人たちを朝廷から追い出すなど、快刀乱麻を断つ働きを見せ、世をよく治めた。

卑しかった頃の舜が、卑しいからといって善をなさない、そんな人間であったなら、地位を得てからもこのようなは働きはできなかっただろう。

地位が高くとも低くとも、一生懸命が認められようと認められまいと、一貫不惑で努めたところに舜の偉さがある。

孟子は、舜をそのように讃えた。

 

まとめ

一生懸命にやっても報われないことのほうが多いでしょう。また、報われるとしても、長い道のりになるでしょう。

明治天皇の御製にも、


思ふことつらぬかむ世をまつほどの

月日はながきものにぞありける


とあります。

簡単に報われるなら、それは大したことを成したのではありません。それでも摯々として努めて已まない。死して後、ようやく已む。

 

論語にはこのように教えてあります。

また今回の記事でもわかると思いますが、論語と合わせて、孔子家語も読むことをおすすめします。