論語について新たに思うことあり、考えながら書き、書きながら考え、まとめてみたい。
子罕第九に曰く
論語子罕第九にこうある。
達巷党の人曰く、大なる哉孔子。博く学びて名を成す所無しと。子之を聞き、門弟子に謂ひて曰く、吾何をか執らん。御を執らんか、射を執らんか。吾は御を執らん。
ある村の人が言う。
「孔子は本当に偉い人だ。学問が非常に博く、名のつけようがない」
これは「君子は器ならず」ということだ。皿なら皿、茶椀なら茶碗、鍋なら鍋と、器であれば働きによって名をつけるが、孔子にはそれができない。
孔子の学問は博く、徳は崇く、なにか『これ』という名をつけることができない。子路なら勇、曾子なら孝というように名づけようもあるが、孔子にはそれができない。
これだけ大きいと用いる方も難しい。用いる方もよほど大きくなければ、孔子を活かすことは難しい。やはり名のつけようがない。
実際に名を成す所がない。なにか一つの徳なり才能なりで名を成していない。
それを聞いた孔子が弟子に仰る。
「名を成すとしたら、私は何を執ろうか。御かな、射かな。私は御を執ろう」
私的な解釈
この言葉を、一般的には「(士君子の教養である)六芸のうち、どれかひとつで名を成すなら…」と解する。
孔子が弟子に戯れに言ったもの、と解する本もある。
しかし、私はすこし違う見方をしている。
なぜ礼を執らぬ
学問に励み、弟子も抱え、名は広まった(村のある人さえ「偉大だ」と評する)。しかし名を成しているわけではない。
名を成そうと思えば、やれないことはない。孔子は六芸(礼楽射御書数)を修めている。それによって名を成すことはできる。
ここで疑問が生じる。なぜ礼を執らぬかということだ。
六芸の中でも重いのは礼楽だ。孔子の常の主張からすれば「礼を執ろうか、楽を執ろうか」となりそうだが、そうではない。「御か、射か」と仰る。
これを「孔子の謙遜」と解する本もあるが、果たしてそうだろうか。
孔子は、道においては譲らない人ではなかったか。もし六芸のひとつを以てするならば、孔子は「礼」と仰るように思える。
六芸ではなく技を執る
思うに、孔子のいう「執る」は、「執技以事上(技を執りて以て上に事ふ)」ではないか。技術を以て士官するということだ。
その場合、「執る」は六芸の礼楽射御書数ではなく、祝(祈祷)、史(書記)、射(弓射)、御(車御)、医(医術)、卜(卜占)、百工(諸々の工作)である。
六芸の「書」と、技の「史」は異なる。書は文字を知り文章を書くこと。史は人君の言行や国の記録を掌ること。史は専門技術である。
となると、六芸のうち技に含まれるのは射と御のみ。
つまり孔子の仰る「御を執らんか、射を執らんか」は、
「技を執って事えるならば、六芸を修めた吾としては、御か射を執ることになろう」
という意味ではないか。
なぜひとつだけ選ぶか
もう一つ気になるのは、なぜひとつだけ選ぶかということ。せっかく修めたのだ。御でも仕え、射でも仕えたほうが君のお役に立つのではないか。
技を執ると解すれば、ひとつ(御だけ)を選んだ理由もすっきりわかる。
礼記・王制に曰く、
凡そ技を執りて以て上に事ふる者は、事を弐にせず、官を移さず。
技術を以て事えた者は、二つ以上のことをやらない。射なら射、御なら御で、ひとつの技術によって事える。他の官職に移ることもない。
技を執る以上、「射も御も」という仕官はあり得ず、必ず「射か御か」となる。そこで孔子は「御を執らん」と仰った。
なぜ御を選ぶのか
さらに重要なのが、射ではなく御を選んだ理由である。
思うに、これは志の表れではないか。射を執るは孔子の志に合わず、御を執るは孔子の志に合うのである。
射の意義
まず射の意義について。
古の射
昔、射の意義は非常に大きかった。天子が祭礼の補佐を選ぶときは、射によって徳を量った。
天子が大射(弓射の会)を催す。諸侯は自国で射に優れた者を推挙する。
射に優れた君子が一堂に会して競う。君子は争ふ所無し、必ずや射か。その争いは君子なり。
君子の射は礼と楽に適い、的にも多く当たる。そこに徳義を見る。よって祭礼の補佐を拝命する。
補佐を多く出した諸侯は、天子より土地を加増される。そうでない諸侯は土地を削られる。
射て諸侯と為る
ゆえに礼記・射義に曰く、
射者、射為諸侯也(射る者は、射て諸侯と為るなり)
諸侯は嗣ぐなり(王制第五)。畿外の諸侯は土地を賜り、世襲する。土地を保つことは、諸侯としての地位を保つことと同じい。
自国で射儀を振興し、射に優れた者を多く養成し、推挙し、天子の覚えめでたく、土地の加増を受ける。それが諸侯としての地位を保つことにつながる。
「射で諸侯になる」というくらい、射の意義は大きい。
射の廃れ
しかしこれはもう昔の話だ。孔子の時代、大射は廃れている。孔子の説明も「昔、大射を催したときには・・・」と、古いこととして扱っている。
郷射(村落での弓射の会)は残っていた。しかしだいぶ廃れていたようだ。
孔子自身が郷射を主催した話がある。多くの見物人が集まったというが、それはやはり物珍しかったからだろう。
孔子は、見物人に細かく説明している。郷射が廃れていたからこそ、説明しなければわからない。古の射が廃れていくのを見るに忍びず、開催し、人を集め、実演し、説明したのだろう。
君子仁人の射ではない
孔子の時代、射の意義が完全に失われたわけではない。しかし春秋だ、戦乱の時代だ。礼儀・儀式としての側面よりも、戦闘技術としての側面がはるかに重視されたに違いない。
だから孔子は「射は皮を主とせず、古の道なり」と仰る。これは古の射を教える言葉でもあり、また古の射が廃れたことへの嘆きでもあろう。
「射の趣旨は的に中てることではなく、礼儀作法にある・・・しかしもう昔のことだ」
そんな時代に射を以て事えることは何を意味するか。
専一ということでは、孔子ほどの人はなかなかいない。乗田のときは乗田として、大司寇のときは大司寇として、その場その場で実績を残すのが孔子だ。
事を弐にせず、官を移さず、射を以て一途に事えたなら、ここでもやはり名を成しただろう。
戦乱の時代に射で名を成す場合、この「射」は戦闘技術としての射である。
養由基の射がそうかもしれない。楚の武将で弓の名人、「百発百中」とはこの人のことをいう。百歩離れたところから柳の葉を射て、百発百中であったと。
養由基自身が射をどう考えたかはともかく、その射が「皮を主」として用いられたことは間違いない。もちろん戦場でも活躍した。一矢で複数人を射殺したというから、正確さはもとより余程の剛弓である。
戦の技術だから悪いというのではない。それも射の役割だ。単なる技術に堕するのが悪い。
また春秋に義戦なし、当時は戦といえば道ならぬ戦ばかりで、そんな戦に用いる技術であればなお悪いということだ。
少なくとも君子仁人の射ではない。不義であれば一不辜をも殺さぬ。君子・仁者とはそういうものだ。
戦を慎む
衛の霊公や孔圉から戦について問われ、孔子は「知りません」と答えた。
戦について無知なのではない。これは孔子の慎みである。子の慎む所は、斎・戦・疾。
国の大事は祀と戎とに在り。戦は国家の一大事である。だから慎むべきなのに、霊公は興味本位で問い、孔圉は私闘について相談した。これは慎むどころか、戦いを好むものである。
司馬法に曰く、戦いを好めば必ず亡ぶ。戦いを好む者の問いに答え、助長するのは不仁である。だから孔子は「知らぬ」と仰る。
礼儀のことは知っていますが、戦のことは知りません。
仁の方面ならいくらでもお答えしますが、不仁の方面なら言うことはありません。
孔圉の問いをかわした孔子は、取る物も取り敢えず衛を立ち去った。
それくらい、孔子は戦を慎む人である。ましてや義戦なしの春秋時代、不義の戦のための射だ。孔子がそれを執ることはないはずだ。射を以て事えるのは、孔子の志ではないはずだ。
「射を執らんか、御を執らんか」の二択なら、どうしたって御が残る。
御の意義
ただし「吾は御を執らん」と仰ったのは、必ずしも消去法ではなかろうと思う。
教育者としての志の表れではないか。
御するとは
曲礼に、年を問われたときの礼を教えてある。曰く、
大夫の子を問へば、長ずれば能く御すと曰ひ、幼なれば未だ御すること能はずと曰ふ。
子の年齢を問われたときの大夫の作法。子がすでに大きい場合は「能く御す」、幼ければ「未だ御する能わず」と答える。
ここの「御」は六芸における車御の術ではなく、家事を見ることだという。家事は、一家の中だけのこと。家事を御するは子弟の務めである。
家事が治まるのは、大切なことである。左伝襄公二十七年、楚の子木が晋の趙武に尋ねる。
「あなたの国の士会という人は、どんな人物ですか」
趙武が答える。
「夫子の家事治まり、晋国に言ふに情を隠すことなく(以下略)」
士会という大人物を説明する際、一番に家事が治まっていることを挙げる。もちろんこれは、士会の家の子弟が能く御したことを意味する。
車馬を御すれば家事も御す
単に体が大きくなり、年をくっただけでは家事を見ることはできない。心身の成長に合わせて学問し、健全な発達の結果として御することもできるようになる。
学問を始めるのは十歳。やがて十五歳になると六芸に入り、まず射と御を学ぶ。
学問し、御も習い、やがて能く御する(車馬を御する技術が身についている)ほどになれば、家事を見ることもできる。子弟の務めを立派に果たせる。
大夫のいうのは「うちの子はもう大きいですよ、立派に育って、家事も車馬も能く御します」ということではないか。
御で導く
技の中でも御を執り、上に事えて名を成せば、やがて子弟に御を教えることになる。
当時の戦は車を用いたから、御にも戦闘技術としての側面がある。御の達人が戦で活躍する話も少なくない。
しかし、射ほど直接的ではない。不仁の技にはなりにくい。
幼から長へと成長する過渡期、子弟に教育を施し、「未だ御すること能わざる者」から「能く御する者」へと導き、有為な若者を育てる。ならば活かす方、仁の方だから孔子の志にも合う。
まとめ
まとめると、私はこの章句を以下のように考える。
達巷党の人が言うのを聞いて、孔子が弟子に仰る。
「もし名を成すとしたら、何を執ろうか。
技に祝・史・射・御・医・卜・百工とある。六芸を修めた私には射と御がある。それで名を成せるだろう。
さて、御にしようか、射にしようか。
射はやめておこう。今の射のことは知らない。古の射なら良く知っているがね。
だから御を執ろう。御を通して若者を教えるというなら、やってみてもよい」