無違考
孟懿子が問う。
「孝とは何でしょうか」
孔子がお答えになる。
「無違(違ふこと無し)」
この「違うことなし」とは、何に違うことがないというのか。
その帰路、御者の樊遅と孔子の会話。
「孟懿子が私に孝を尋ねた。だから私は『違ふこと無し』と言ったよ」
樊遅が「どういうことです」と聞き返すと、孔子曰く、
生けるには之に事ふるに礼を以てし、死するには之を葬るに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす。
万事、礼を以てせよということだ。
この章句について、ひとつ思うところがあった。
そもそも、なぜ孟懿子が孔子に弟子入りしたかといえば、父(孟僖子)の遺言による。
昭公七年、孟僖子は昭公の供をして楚に行った。この時、孟僖子は礼を知らなかったため、昭公をうまく補佐できなかった。
帰国後、孟僖子はこれを恥じて礼を学んだ。曰く、
礼は人の幹なり、礼無くんば以て立つこと無し。
(礼は人の根本であり、礼がなければ世に立ってゆくことはできない)
昭公二十四年、孟僖子が死ぬ。家臣に対し、「孔子を師として、我が子(孟懿子と南宮敬叔)に礼を学ばせよ」と遺言した。
これにより、孟懿子は孔子に就いたのである。
ならば、孟懿子が孔子に孝を問うたとき、既に孟僖子は亡くなっている。
別の章句で、孔子はこう仰る。
父在せば其の志を観、父没すれば其の行ひを観る。三年、父の道を改むること無きを孝と謂ふべし。
志は心刺しで、心の差し向うこと、心がどこに向かうかということ。父の存命中は、その心の動きをよく察して事える。察することができなければ、直接伺って卒なく事える。
父の死後は(もう志をみることができないから)生前の行いをよく考えて、そこから思いを汲んで、我が行いもそれに違わぬように努める。
父の行いを観るうちに、間違った行いに気づくこともあるだろう。しかし喪中の三年間は、父を偲び行いを思うだけで、早急に改めるようなことはない。
孔子は、これを孝であると仰る。
孟懿子が孔子に孝を問うた時、父である孟僖子は亡くなっているのだから、孟懿子は孟僖子の行いを観ることによって孝をなすべきである。
では、孟僖子の生前の行いとは何かといえば、それは昭公七年にある
孟僖子、礼を相くること能はざるを病へ、乃ち之を講学し、苟も礼を能くする者あれば之に従ふ
(孟僖子は、昭公の礼を補佐できなかったことを気に病んで、礼を習うことを心掛けた。礼を知る人があれば、その人に就いて積極的に学んだ)
である。
つまり「『礼こそ人の根本である』として礼に努めたこと」が孟僖子の行い。その行いに「違ふことなし」、自分も礼を根本とし、学び、万事礼を以てすることこそ、孟懿子の為すべき孝である。
この問答のとき、すでに孟僖子の死後三年を経過していたと思われる。
したがって、父の行いを改めるも可なり。
当時、三桓氏(季孫・孟孫・叔孫)が権力を牛耳り、魯の君主は名ばかりであった。孟孫家の当主として、臣としての君に対する振舞いにおいては非礼であった。
孟孫家を継いだ孟懿子がその非礼を改めることは、父の心に違うものではない。父は礼を重んじたのだから、父の非礼を改めてこそ、真に「違うことなし」といえる。
孟孫氏はどうあるべきか、礼が幹であれば今のままでは悪い、改めるべきである。当主であるあなた(孟懿子)は、今こそよく考えて孝を為せ。
孔子は、この問答を良い機会として、一層礼を学び、万事礼を以てするように諭した。孟懿子が真に孝となれば、三桓氏の一角を改めることができれば、魯国の政治を正すきっかけになるだろう。
そんな意図があったのではないか。
この章句については、これまで色々考えてきたが、今のところ、こんな風に考えている。