周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

勝つと打つとはどちらが先か

昨日、古い映画や音楽に対して「残ったものは凄い」という内容のツイートをした。

一夜明けて、酔いの醒めた頭で改めて考えると、色々思うところがあった。

これについて(と思われる)フォロワーのツイートを読んでも、考えさせられるところがあった。

考えをまとめてみようと、ブログに3時間ほど書きまくった。

 

テーマがややこしいから、話が逸れに逸れて、途中から剣道の話になった。

読み返してみると、「残ったものは良いかどうか」ということに関しては、よく分からなくなった。

しかし剣道のくだりは面白く書けたので、本題は全部削除して、剣道のくだりだけを残した。

 

 

考え方の癖

人それぞれ、物の見方・考え方には癖がある。人生経験、やってきた学問、触れてきた芸術や音楽やその他色々をもとに、癖が形成される。ツイートにも癖が出る。

自覚のあるものもあれば、ないものもある。私の場合、剣道をやっていたことが大きいと思う。

 

剣の達人は、打った、勝ったの勝負について、

「勝ったから打てたのだ、打ったから勝ったのではない」

という。

 

「勝った」は結果、「打つ」は原因。

「勝ったから打てた」といえば、結果が先、原因は後になるから時間的に変だ。

しかし不思議と、これがおかしい話ではないのだ。

 

打つが先か、勝つが先か

「勝ったから打てたのだ、打ったから勝ったのではない」

なぜこういわれるのか。

 

ひとつ、面白い話がある。男谷下総守と島田虎之助の試合である。

 

男谷下総守と島田虎之助

男谷下総守は幕末の人。直心影流の第十三代。とにかく強いが、強いだけでなく至って温厚な人で、それで男谷の剣は君子の剣、ついには「剣聖」と呼ばれたくらいの達人である。

一徳斎山田次朗吉先生の師が榊原鍵吉先生、榊原先生の師匠が男谷下総守だ。

 

島田虎之助は、勝海舟の師匠として有名。男谷門下で榊原先生とは同門。

この人が男谷先生に弟子入りする時の話が面白い。

 

若き日の島田

島田は剣の才に優れ、十代のころにはもう藩内に敵なしだったという。九州で武者修行した後、自分の腕前を試したいと江戸に出て、男谷の門を叩いた。天保9年、20代で身体も心も非常に強い頃である。

この時、男谷先生は40歳。こちらもまだ若い。

しかし男谷先生は小柄であったというし、それに加えて普段は温厚で、人と争わず、弟子と稽古をしてもそう強いようには見えない。

島田は「この人が本当に強いのか」と疑問を抱きつつ、男谷先生に手合わせ(三本勝負)を申し込む。男谷先生は、いつもの調子でゆるゆると相手する。

これに島田は拍子抜け。自由自在に打ち込み(打たされ)最初の一本を取った(取らされた)。二本目、三本目は男谷先生が悠々取る。

男谷先生の剣は老練で、柔の趣があったろう。対する島田は剛剣であったろう。剛を善しとする若き日の島田には、男谷先生の強さがわからない。それに一本目は簡単に取れた。

だから島田は「天下の男谷もこんなものか、噂ほどでもない、老いぼれたか」と思った。

 

井上伝兵衛に完敗

師とするなら、自分より圧倒的に強い人でなければならぬ。もう男谷には用無しと、他の門をめぐるうちに井上伝兵衛の道場にたどり着いた。

井上も直心影流の人で、男谷先生とは同門。直心影流藤川派の三羽烏といえば、男谷精一郎(下総守)・井上伝兵衛・酒井良佑。つまり井上という人は、男谷クラスの強豪と思われる。島田の相手ではない。

しかし井上は男谷先生ほど温厚ではないから、挑んできた島田を徹底的にやっつけた。島田はすっかり参って、弟子入りを申し込む。

すると井上「あなたはもう男谷先生のところへは行きましたか」

島田「行きましたが、あの方はもう老年で、私の師とするには足りません」

井上「それはあなたが弱いからだ。弱い者に男谷先生の真価は分からない。私が口をきいてあげるから、もう一度行きなさい」

 

男谷先生の真価を知る

この人がいうならと、島田は再び男谷先生に手合わせを乞うた。

男谷先生は、事の次第を井上から聞いていたのか。「この若者は天狗になっておるから、少々お灸をすえておやりなさい」というような。

今度は男谷先生も本気で立ち会った。

 

片方は達人、片方はただ強い人。実力差がありすぎる試合。こういうとき、どんな試合になるか。傍目からみたら、本当にコントのような試合運びになるという。

島田と男谷先生が向き合う。しかしもうそれで島田は駄目になってしまった。

男谷先生の眼光に射すくめられて、手も足も出なくなる。精神面で差がありすぎるのだ。

男谷先生が一歩詰める。島田が一歩下がる。

そのうち、島田は羽目板に押し付けられる。動きといえば一歩また一歩とジリジリ下がるだけなのに、島田は汗だくになり、精魂尽き果て、気づけば平伏して降参していたという。

 

これにて目出度く、島田虎之助は男谷下総守の門へ入った。

 

平山行蔵先生の剣

島田と男谷先生だけでなはい。こういう話はよくある。

例えば、江戸後期の剣術家に平山行蔵という人がいる。男谷先生より40歳くらい先輩だから、そう昔の人ではない。

男谷先生の弟子のそのまた弟子、山田次朗吉先生は平山先生を敬慕した。だから山田先生の話には、平山先生を語るものが多い。

 

その話をみると、平山先生の試合の様子がやはりそうなのだ。

或る人が平山先生に試合を申し込む。平山先生はそれを受けるが、男谷先生と同じ試合運びになる。

相手を気合で圧迫して、一歩一歩と進むうちに相手は道場の隅に押し込まれる。絶体絶命になる。

島田の場合、ここで降参したわけだ。これが島田の偉い所だ。大抵の剣士は、ここまでやられても絶望的な力の差を覚らず、最後の力を振り絞って打ってかかるという。

しかし、もう勝負はついているのだ。万が一の僥倖を恃んで打ち込んで、勝てるはずがない。いわゆるラッキーパンチのようなことは起こりえない。

平山先生の方でも、もう勝負あったと思っている。だから相手が撃ち込んできたところで、気合を緩め、にこにこしながら道場の中央に戻っていく。相手にゆとりを与えて、「もう一度やりたければどうぞ」と。

 

実力差がありすぎるから、相手はなぜこんなことになったか分からない。平山先生が強いのか強くないのか分からない。不思議でしょうがないから、もう一度挑む。次こそは気を確かに、こちらもただでは退かぬと。

もちろん、そんな心掛けで実力差が埋まるわけもない。何度でも同じ試合運びになる。周りで見ている人も、なにがどうなっているのかさっぱりわからん。

 

しかし、山田先生ぐらいになるとこの凄さがわかる。曰く、

剣道もここまでくると誠に達人である。

相手を打ったから勝ったのではない。勝ったから打てたのである。

相手をどのように打って勝つか、負けるか。剣道といえば、そういう肉体の勝負だけにみえるが、その前に精神の勝負があるのだ。

程度の低い者がやれば、肉体の勝負になるだろう。しかし、程度の高い者がやると、精神の勝負になる。

高い者と低い者がやれば、高い者が低い者を精神で圧倒する。

 

達人同士の試合

では高い者同士がやったらどうか。やはり精神の勝負になる。精神のより優れたものが勝ち、精神が拮抗すれば勝敗はつかない。

良い例が二つある。

 

榊原鍵吉と高橋泥舟の試合

まず、榊原先生と高橋泥舟

幕末、槍といえば山岡静山だ。静山の槍は、もうそれはそれは凄まじかったという。達人になるまでには苦行に苦行を重ねた人で、人格も極めて立派であったが、若くで亡くなった。

静山の死後、その人格にほれ込んでいた小野鉄太郎は、家格の低い山岡家の婿養子になった。後の山岡鉄舟である。

 

静山の弟の高橋泥舟もまた槍の名人。この泥舟と榊原先生が、将軍家茂の望みで試合することになった。

達人同士の試合は精神の勝負である。となると、道場で向かい合って「はじめ」で始まるのではない。試合が決まった時点でもう始まっている。

 

試合の数日前、榊原先生と泥舟が顔を合わせる。榊原先生が揺さぶりをかける。

「高橋さん、今度の相手はこの鍵吉だからね、ご用心なさいよ」

泥舟は馬鹿にされたと思いつつも「承知した」

 

試合の前日も、

「高橋さん、明日の相手はこの鍵吉だからね、しっかりなさいよ」

「承知した」

泥舟の怒りは募る。

 

そして試合当日。

泥舟が槍を構える。榊原先生は剣を大上段に振りかぶって、真正面に向き合う。胸と胴はがら空きだ。これは、剣と槍の勝負ではあり得ない構えだ。普通、槍先をよけるように、身体を斜めにする。

泥舟は幕府槍術師範。それを相手に、真正面に向き合って胸と胴を晒し、どこでも突いてこいというのだ。泥舟からしたら、こんな侮辱はない。もはや抑えられず、怒りに任せて突きかかった。

逆上した時点で、もう泥舟の負けは決まったようなもの。達人の試合は精神の勝負だから。

榊原先生は槍先を左右に払い、泥舟の面を打って勝負あった。

 

普通ならば決して負けない相手でも、心が乱れると負けを取ることがある。病気で負けたり、不安ごとがあって負けたり。

怒りに我を忘れる泥舟に対し、榊原先生は精神を保った。精神の勝負に勝ったから、槍先を払って面を打てたのである。

泥舟の槍を払いのけて、面を打ったから勝ったのではない。

 

榊原鍵吉と山岡鉄舟の試合

次に榊原先生と山岡鉄舟先生の試合。

泥舟との試合は公式だが、この試合は非公式で、日本剣道史にも書かれていない。

しかし榊原先生から山田先生へ、山田先生から弟子へ語られ、その他複数の目撃談もあるから、まあ立ち会ったのは確かだろう。

ある目撃談は米沢の儒者・伊佐早謙さんが語ったもの。聞き手は加藤寛治(山田次朗吉先生門下)。

伊佐早さんが中村敬宇の家で塾生をしているときに、鉄舟先生の家に遣いをした。そこで、鉄舟先生と榊原先生の試合を見たという。

話はこうである。

 

道場の周囲には鉄舟先生の弟子が大勢並んで、試合の始まるのを待っている。

やがて鉄舟先生・榊原先生が道具をつけて出てくる。鉄舟先生は太く短い竹刀、榊原先生は常寸(三尺八寸)の竹刀。

互いに一礼し、榊原先生は真っ直ぐ振りかぶる普通の上段、鉄舟先生は斜めに振りかぶる上段。

距離は三間。互いに気合をかけ、呼吸をはかる。

弟子たちは手に汗握り、見守っている。道場内はただ静寂。両先生のふうふういう呼吸だけが聞こえる。

動きはなにもないが、荘厳でものすごい光景であったと。

そのまま十分、十五分とたち、両先生は汗だくになり体からは湯気が立ち上る。足元には汗が流れて溜まる。

 

伊佐早さんの回想。

「かれこれ四十分も経ったかと思うころ、どちらから下がったかわからなかったが、お互いに礼をして竹刀を収めて、静かに別れられ試合は終わった」

 

 

弟子たちは、いつ勝負がつくかと見守っていたのに、どちらが勝ったか負けたか分からない。

加藤寛治の本にはこうある。

山岡先生と言ひ榊原先生と言ひ、如何に知己の間柄でも、試合の上にては決して遠慮をする様な方ではない。勝ちなら勝ち、負けなら負けと腕が違へば明瞭に「けり」をつける方である。

ところが双方互ひに寸分の隙がないので打ち込むことができず、遂に四五十分の長時間を立つたまま、気合を込めて居られたので、もうこうなると、どちらから止め様と心で知らせたか、恐らく同時に之で打ち切らうと、無言の内に話が出来て互に礼をし、引き退かれた事と思ふ。

この話をみても、結局精神の勝負だということがよくわかる。

 

勝負がつかぬから、お互いに打てなかったのだ。

打たなかったから、勝負がつかなかったのではない。

 

後の島田

再び島田虎之助。

元々才能もあれば努力もする人だ。男谷先生に門下生となった島田が、一流から超一流になるまでに、そう時間はかからなかった。

天保9年入門、天保14年まで研鑽した後、3年間の奥羽武者修行。島田に匹敵する剣士は一人か二人、天下無敵、そういわれるまでになった。

そして浅草に道場を開き、勝海舟も入門。島田はいつも、弟子にこんなふうに語ったという。

剣術の要処は人を撃つに非ず、一点の勝心もなく、静かなること山の如く、疾きこと電の如く、物と争はず、相手の精神を奪つて我剣上に置けば、敵は自然と畏縮して自由に撃つことが出来るのである。然るに精力を只勝たん、負けまい、などの争闘の間に置いて利不利を念とする様では到底真の術を得ることは出来ないのである。

されば剣道に君子と小人との別がある。希くば世の剣客をして皆孔孟の書を熟読させて、その心理を剣道に寓せしむれば、外に何の教法もあつたものではない。

これも、言わんとするのは

「打つから勝つのではない。勝つから打てるのだ」

ということだ。

 

学問も同じ

剣道にはこういう話が多く、非常に勉強になる。

 

勝ったから打てたのだ、打ったから勝ったのではない。

剣によってどれだけ自分を磨くか。男谷先生の座右の銘は「克己」であった。克己を重ね、精神と技(とりわけ精神)を磨くことで勝つ。こうなると、己が人を打つかどうかは問題にならない。打っても勝つし、打たぬでも勝つ。

 

学問も同じだ。

克己復礼で仁になる。学問して仁を得る。これを徹底することだ。それができれば、己と人の関係で間違うこともない。上手く立ち回ろうとか、策をめぐらすとか、こんな言説を残そうとかは全く問題ではなくなる。

どう振舞っても間違いない。ああしても、こうしても、どうしても全部道に適う。孔子七十歳の境地「心の欲する所に従って矩を踰えず」とは、そういうことだろう。

 

孔子は、学問でこの境地に達したのである。

論語その他の書物によって、孔子の様々な言行が伝わっている。剣道でいえば、それらの言行が「打つ」にあたる。そこから「孔子の教えはこうだ」ということもできるが、より根本的なところを考えるべきではないか。

 

学問を修め、道に達したからこそ(勝ったからこそ)、それらの言行があった(打てた)のだ。言行自体は、孔子孔子たるゆえんではない。

様々な言行は、孔子の学問の表層に過ぎない。そのひとつひとつに捉われると、孔子を見失うことになりはしないか。

孔子をして徳を為さしめたもの、所謂「先王の道」というものを軸として、孔子に学ぶべきではないか。

 

儒学を始めて、今年で三年になる。おそらく、四年目で四書五経の筆写が終了する。

しかし、その後もしばらく四書五経を中心に学び、他にはなるべく手を出さずにいこうと思う。

「勝つから打てる」いうところを目指して、根本を固めたいと思う。