周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

仁と礼楽

仁と礼の関係について質問を受けた。

今回は、八佾はちいつ篇の章句を取り上げる。

 

八佾第三より

今回取り上げるのは、八佾篇の以下の章句である。

子曰く、人にして不仁ならば礼を如何いかんせん。人にして不仁ならば楽を如何せん。

 

論語の読み方

論語を読む場合、孔子がどのような場面で教えを垂れているかを考えることが大切と思う。

ある章句を考えるとき、それを単体で考えるだけではごく表面的な見方しかできない。曲解に陥る危険もあるだろう。

論語の一部分だけを摘まんだ要約本がまずいのはそのためである。

この章句の仁・礼・楽を考える際にも、少なくとも八佾篇全体、延いては論語全体、可能であれば他の経書とも絡めて考えるべきと思う。

八佾篇は礼楽に関する教えを中心に作られている。

八佾篇の他の章句と絡めるだけでも、この章句の見え方が変わってくる。

 

一般的な解釈

一般的に、この章句は以下のように解する。

仁の心がなければ、形式的な礼楽があっても無意味である。

なぜ仁がなければ礼楽が無意味になるのか。

 

礼というと、礼儀作法のような形式ばかりをイメージしがちだが、本来この形式は仁が外部に現れたものである。

礼記にはこうある。

礼節は仁のぼうなり、歌楽は仁の和なり。

(礼節は仁の美徳を身体で表現するものであり、歌楽は仁によって物事が調和することを音で表現するものである)

礼も楽も仁から生まれるものなのだ。

仁がなければ礼楽は生まれない。目の前で繰り広げられるのは“礼楽らしきもの”に過ぎず、ごまかしである。

 

仁と礼楽の関係

しかし、この解釈では物足りない。

八佾篇の他の章句はもちろん、論語全体、他の経書などを併せて考えると、仁と礼楽の関係が一層よくわかる。

「人にして不仁ならば礼楽を如何せん」と仰った孔子の心が少しわかる気もする。

そのように解したい。

 

季孫と八佾の舞

当時の魯国を考えてみよう。

当時の魯国は、三桓氏、とりわけ季孫きそん氏が権力を握っており、魯公は有名無実であった。

季孫は、臣であり下である立場を以て、君であり上である魯公を侵していた。

礼楽においてもそうで、季孫家の廟では八佾はちいつの舞をやった。

八佾の舞は天子の舞楽である。季孫は魯国の臣であり、天子からみて陪臣ばいしんの立場にある。陪臣とは家臣の家臣。季孫は、天子の家臣である魯公の家臣であるから陪臣である。

陪臣が天子の楽を用いるなど、下が上を侵すこと甚だしい。

八佾篇の冒頭で、孔子もひどく怒っている。

 

下にして上を侵すは不仁

学而篇で、有子ゆうしが「孝弟なるものは其れ仁の本たるか」と言っている。

親に事えることや年長者に事えることを仁の本とする。孝がなければ仁もない、不孝即不仁である。

孝経を読むとよくわかるが、忠と孝には同じ重さがあり、「親への孝をそのまま君への忠にすべし」と教える。忠と孝は通じる。したがって不孝が不仁ならば不忠も不仁である。

また、孔子は「吾道は忠恕のみ」と喝破したくらいである。忠と仁は等しい。不忠は不仁である。

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季孫氏は陪臣の立場で天子の舞を用いた。これは、下が上を侵すことであり、不忠であり、不仁である。

 

「如何せん」

子孫が先祖を祭るのも仁である。祭事には礼楽が欠かせない。これも仁が本となるのだから、子孫が先祖を祭るに不仁であってはならない。

不仁では祭礼は成り立たない。不仁であれば礼楽を如何せん、ということになる。

 

季孫は、自分の先祖を盛大に祭ろうと思って八佾の舞をやったわけだ。

しかし、不忠不仁なのだから、季孫の祭礼は全く「如何せん」、無意味である。むしろ盛大であればあるほど不仁の程度は大きくなり、礼から遠ざかる。

 

この言葉は、一国を牛耳っている者がこの体たらくではどうもならんと、孔子が季孫を憎んだ言葉であると私は思う。

「仁がなくて形式だけなら無意味だ」と解するだけでは味がない。

 

私の解釈

八佾篇のこの章句を、私は以下のように解する。

子曰く、人にして不仁ならば礼を如何せん。人にして不仁ならば楽を如何せん。

 

先生が仰った。

礼楽は仁から生まれてくるものだ。仁の表現であり、仁を飾るものである。

不仁であれば、本当の礼楽が生まれることもない。目の前に礼楽らしきものがあったとしても、それは形式だけでごまかしものである。

 

季孫の祭りを見てみよ。

陪臣の立場でありながら、天子の礼楽を用いている。

八佾の舞は最も盛大で立派なものだ。

しかし季孫のごとく、人にして不仁ならば礼楽を如何せん、どれほど立派な礼楽も無用である。

 

質問への回答

この章句に関して、以下の質問を受けた。

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論語古義はまだ読んでいない。

仁斎先生の「人として不仁であるのは、徳の根本がないから」という言葉についても、その周辺の思想が分からないので何とも言えない。

この言葉だけをみると、「徳の根本(仁)がない=不仁」ということになり、仰る意図がよくわからない。

ここはよく分からないのでそのままにしておく。

 

質問は、「仁から義、礼、智への広がり方が分からない」というものである。

義から礼、礼から智の広がりが分からないというが、この質問から考えるに、質問者は「仁⇒義⇒礼⇒智」の流れを考えている。

しかしこれが誤りで、正しくは「仁⇒礼⇒義⇒智」である。

 

まず、仁から礼である。仁から礼への広がりは、ここまで解説した通りである。仁の発露として礼がある。

そして礼から義、義から智が正しい流れである。

 

これは、易を読むとよくわかる。

易経に、「乾、元亨利貞げんこうりてい」という言葉がある。

元亨利貞とは変化のサイクルである。

 

元で物事が始まり、

亨で始まった物事が伸びて往き、

利で伸びたところを引き締め、

貞で引き締めたところを固く守る。

 

四時に充てると、元が春、亨が夏、利が秋、貞が冬、春夏秋冬に当てはめることができる。

春、雪の下から草花が顔を出し、芽吹き、地上に生気が満ちて往く。始まりであり元である。

夏、気温が高くなり、春に始まった生命が躍動を見せ、盛んに伸びて往く。亨。

秋、盛んに伸びてきた生命が成熟段階に入り、実りを迎える。伸び放題に伸び続けるのではなくよろしきところで結実する。

冬、成熟した実が枯れ、地上に落ち、固い種が残る。貞。

 

これを道徳にも当てはめることができる。元が仁、亨が礼、利が義、貞が智である。

仁は徳の根本だ。聖王は仁の徳を以て民を養い育てる。そこに文化なども芽吹いてくる。春であり元にあたる。

礼は、礼義三百威儀三千などと言われる通り、仁から生まれて様々に広がり、仁を装飾する。夏であり亨。

しかし、礼が過度になると却って礼を失う。必要以上の礼は避けねばならない。適度、適切に、よろしきように整える。これが義。義とは「よろしきなり」。利も「よろし」である。

最後に智で仕上げる。智は是非善悪を正しく判断する徳である。仁で始まり、礼で発展し、義で整えたものを、智によってより正しく導き、堅固に守ってゆく。これが貞である。

 

一般に、この四徳は「仁義礼智」と覚えるが、流れは「仁礼義智」である。

四徳のつながり、流れは元亨利貞に基づくもので、明快だ。このように考えると、こじつけと感じることもないと思う。