周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

骨を折ること

「骨を折る」という言葉がある。苦労を厭わないことである。

骨折り損のくたびれ儲けなどという言葉もあるから、骨を折るといえば嫌なことのように思われる。

私は、骨を折るという言葉がなんとなく好きであった。

最近、晋の文公重耳のことを調べていて思う所もあったので、記事にする。

 

「骨を折る」ということ

公田先生の先生は根本通明先生と渡辺南隠老師であった。

南隠老師の言行録に、こんなものがある。

坐禅すると好い気持でたまらぬ」と言ひし人に、「好い気持ばかりではならぬ、少し骨を折らねばいかぬ。私は何も隠して居るのではないが、骨を折つてくれなければ、どうもならぬ」と仰つた。

骨を折るとは苦労を厭わないことである。骨を折れということは、進んで苦労せよということである。

坐禅は非常に苦しいものだという。私は少しかじった程度なので、この苦しさの正体を知らない。

しかし苦しいに違いない。山岡鉄舟先生は剣・禅・書に通じた人であるが、鉄舟先生さえ禅は大変苦しいものだと仰る。

 

鉄門の荒稽古

鉄舟先生の高弟に、香川善治郎という人がいる。この人は鉄門(鉄舟門下)一流の荒稽古に挑んだ、知る人ぞ知る剣士である。

この荒稽古を「立ち切り」という。

 

十人の高弟が挑戦者一人をぐるりと取り囲み、まずAが猛烈に打ち掛かる。Aが疲れるとBと入れ替わって挑戦者を攻め立てる。Bの次はC、Cの次はD…これを一日二百回、七日連続で千四百回こなす。

挑戦者に休憩は許されない。昼食も面をつけたまま、匙で粥をすする。この時も座ってはならない。

 

これは明治初期の話で、当時の剣道は現代のそれよりはるかに激しい。腕を絡ませて組み合うこともあれば、足をかけて倒してもよい。倒れた敵を突いてもよい。脛を打ってもよい。

 

幕末の剣豪に、仏生寺弥助というのがいる。練兵館の人である。桁違いに強かったという。

この人は上段前蹴りをよく使ったらしい。「蹴るぞ」と宣言してから蹴るが、誰も避けられない。蹴られた者は皆な昏倒したという。

幕末~明治初期の剣道が非常に激しかったことが、これでもわかる。

 

立ち切りの様子

香川が立ち切りを請願すると、鉄舟先生は許した。

初日、香川は午前六時から午後五時半頃までひたすら戦い、二百回を終えた。

 

二日目の昼頃、早くも香川は疲労を感じた。昼ごはんが喉を通らず、生卵を三つ飲んだ。

日没後、何とか二百回を終えた。

 

三日目、すでに香川はボロボロであった。身体を引きずり道場へ行き、同じように戦う。取り囲む十人は至って元気で、香川を攻め立てる。

昼、水ものどを通らなかった。その後、続きが始まったが、香川は相手の攻撃を防ぐので精一杯になった。曰く、

「目は暗み幾んど人事忘然とせり。所謂死は斯所なるかと思はれたり」

訳も分からず立ち切りが続き、ふと気づくと、相手は普段から仲の悪い道場生であった。相手が面白がって叩いてくるので、香川はもうこれで死んでよい、死ぬ前に一撃食らわせようと、大上段に振り上げた。

そこで鉄舟先生が急に大声で「よし止めよ」と制止した。まだ午後五時前であった。もう死んでも良いと思っていた香川は続行を願うが、先生は許さなかった。それ以上続ければ本当に死んでしまう、ギリギリのところであった。

 

四日目、香川は立ち切りのため家を出た。雨が降っていた。手が上がらず傘もさせない。毛布をかぶって行った。

道場には鉄舟先生ひとりであった。

香川の覚書。

先生曰く、「ドウダドウダ」と。余は痛身に堪へざるも、平然と色にも出さず、「ヤリマスヤリマス」と答へたり。然る処先生曰く、「もうやめやめ」と。

ここが香川の限界と見定め、止めさせたのであった。

 

禅の苦しさ

人の死ぬような猛烈な稽古を課す鉄舟先生が、禅は苦しいと仰る。

香川が剣の道に悩んでいたころ、先生のように自分も禅をやればどうかと考えた。

鉄舟先生に相談すると、笑うだけで何も答えない。後日、私も禅の修行がしたいと強いてお願いした。すると鉄舟先生曰く、

禅道の修行は刺撃の業を稽古する様なる物にあらず、苦学も亦甚だし、到底得べからず、止むべし。

(禅の修行は、剣術をやるようなものではない。苦労この上ないものだ。到底やれるものではないから止めておけ)

その後、香川が何度も何度も頼んだため、先生のほうが根負けして禅の修行を許されたという。

香川に対し、立ち切り稽古は許しても坐禅は許さないというのだから、大変苦しいものに違いない。

 

昔の人は骨を折った

南隠老師が「骨を折らねばどうもならん」、苦労に苦労を重ねられるものでなければ禅はやれぬと仰ったのは、同じことであろうと思う。

スポーツとしての剣道は、汗をかいて気分爽快、好い気持でたまらぬということもあるだろう。

しかし立ち切り稽古のようなことになると、とても好い気持などと言っていられない。嫌でも骨を折ることになる。

鉄門の荒稽古は、骨を折るということを教えるものだったのだろう。

 

なぜ「骨を折らねばどうもならん」か

南隠老師は、骨を折らねばどうもならんと仰る。鉄門の稽古も、それを踏まえたものである。

では、骨を折らずに修行すればどうなるか。骨を折ったらどうなるのか。

 

剣法の極意とは

もう少し、鉄門の話。

香川が鉄舟先生に、剣術を極めたいが五里霧中であると悩みを打ち明けた。

鉄舟先生は、剣術の極意について語って聞かせた。もっとも、極意というものは言葉にできるものでなく、いわば不立文字であって、教えようとして教えられるものではない。

先生なりに教えた言葉はこうである。

剣法の極意たるや易き事は極く易し、難き事は亦甚だ難し。然れども怠らずに勉強をなせば、分明の時到来すべし。勉めよ勉めよ

(剣の極意は、簡単と云えば簡単であるし、難しいと云えば難しい。しかし怠ることなく修行すれば、いつかきっとわかる時がくる。頑張れ)

 

郭偃曰く

同じような言葉が『国語』にある。晋語の四、晋の文公が即位後に郭偃に問うたくだり。

 

郭偃は卜偃とも呼ばれる人で、占いの名人であり、文公の師のような立場であったらしい。

即位後も、文公と郭偃の関係は変わらなかったと思われる。文公が問うた。

始め吾れ国を以て易しと為せり。今や難し。

(君主になるまでは、国を治めることなど簡単だろうと思ってきた。しかし、今では難しいと思っている)

郭偃が答えて云う。

君以て易しと為さば、其の難きや将に至らんとす。君以て難しと為さば、其の易きや将に至らんとす。

(君が簡単であると思えば、難しくなるものです。難しいと思えば、簡単になるものです)

 

教えるところは同じ

鉄舟先生は、「簡単と云えば簡単、難しいと云えば難しい」と仰る。

郭偃は、「簡単と思えば難しい、難しいと思えば簡単」と云う。

違う教えのように思われるが、骨を折るということで考えるならば、結局同じことである。

 

鉄舟先生は、先生自身が既に至った境地から「お前もこうなれるから頑張れ」と励ましたもので、骨を折った結果の方から教えたものである。

剣に禅に書に、生涯骨を折って道を極めた先生からすれば、「言葉で教えられるようなものではないが、まあ簡単なものだ。しかしそうなるまでが極く難しい」ということで、だから「骨を折れ」と励ました。

 

郭偃は、骨を折ることそのものを云う言葉である。

簡単と思えば難しい。なあに簡単と思って取り組むと、必死になって骨を折らない。朝飯前に片付くと思っても、本来難しいことであればそうはいかない。そこで「いやこれは随分難しい」となる。

難しいと思えば簡単。これは難しいぞと思って取り組むと、必死に、油断せず、どこまでも骨を折る。すると本来難しいことでも、いつしか簡単に感じられるようになる。

 

易経であれば、天地否の九五でいうところの、

其れ亡びなん、其れ亡びなん、苞桑に繋がる。

ということである。

難しい時代に徳の有る王が何とか回天を図る。その結果、悪循環をいくらか止めることができた。そこで安心せず、「(油断すれば)亡びるかもしれない、亡びるかもしれない」と自ら省み戒める。

苞桑は、群がり生える桑。桑が群がって一株になれば容易に抜けることはない。それに繋げば安全といえるかもしれない。しかしそれでも「亡びなん亡びなん」で慎むのである。

「簡単だ、もう安心だ」と考えず、「困難である、油断がならぬ」と思って取り組む。そうすると良い流れになってくる。

郭偃のいう「難しと為さば、其の易きや将に至らんとす」とは、こういうわけである。

 

何事も、極めるためには骨を折ることが大切であって、骨を折れば難しいことも簡単になる。極意でさえ、簡単と云えば簡単になる。

鉄舟先生と郭偃の言葉は、どちらも同じである。

 

文公の骨折り

相手が文公であったから、郭偃もこのように言ったのではないか。

文公は骨を折った人である。晋の公子であったが、讒言に遭って国を追われ、十九年間も天下を流浪した。

 

今でも、旅は人間を作るという。しかし私はこれに甚だ疑問である。

旅で人格を練った人は古来多いが、旅をした者が皆な人格者になるわけではない。

 

現代の旅行は、楽しくてやるものだ。骨折りは極く少ない。色々な文化に触れ、人と交流し、見聞を広めることはできる。しかし、楽しい旅行を繰り返して、それで人間が出来上がるかといえば、そんなことはないだろう。

昔、旅は苦難に満ちたものであった。旅は人間を作るというのも、旅で骨を折るからだ。

公田先生の本に、こうある。

大昔の旅行は、苦しいことがむやみに多く、楽しむべきことはほとんどないのであり、したがって人々はなるべくは自分の住居に留まっていることを心がけ、なるべくは旅行したくないのである。

しかし自分の住居に安んじて止まっておることができず、遁れることのできない色々な事情に迫られて、やむを得ずして他国に旅行するのである。

昔の旅行は辛苦艱難であったのである。天子にしても、諸侯にしても、国の内が乱れ、都の内が乱れなどして、その国、その都の内に留まっておることができず、やむを得ず都を去り、国を去って、他の地に旅行するのである。

昔は交通の便も悪い。どこにでも商店や休憩所や食事処があるわけではない。

夜盗に襲われることもある。旅の途中で戦争に巻き込まれ、孔夫子のように飢え苦しむこともある。

 

文公は運命に任せ、十九年間も旅を続けた。もちろん、狄の国や斉に落ち着いた期間も長かったが、狄を出たのは命を狙われたからであるし、斉にたどり着くまでに多くの国で冷遇され、嘲笑され、苦難の旅を続けて辛酸をなめ尽くした。

亡命の途中、晋に帰る機会が幾度かあったが、まだ時期ではないとして骨を折り続けた。

 

骨折りを嫌った夷吾

文公の弟・夷吾(恵公)も亡命したが、この人は小才子であったらしい。幼いころから頭が良く、将来を嘱望された人である。

頭が良いと、要領が良くなる。これは良い面もあるのだろうが、骨折りを嫌うようになりやすい。夷吾もそうであった。

 

文公とほぼ同時期に亡命しているが、亡命先は梁であった。

梁は秦と晋のほぼ中間に位置している。また梁は秦に従属している。秦と同盟関係にある晋としては、夷吾を殺すために梁を攻めることはできない。近くて安全な国を亡命先に選んだわけだ。

その後、夷吾は秦の後援を受け、晋国内の混乱に乗じて君主となった。左伝では亡命したのが僖公六年、即位が僖公九年とあるから、亡命は約三年間であった。

このとき夷吾は、領土の割譲を条件に秦の後援を受けた。なるべく骨を折りたくない、国の一部を差し出しても良いから亡命を終わらせたい。これが夷吾の一貫した態度である。

 

骨を折ると折らざると

同じ亡命でも、文公と夷吾ではこうも違う。文公は大いに骨を折ったが、夷吾は骨折りを嫌い抜いた。

 

夷吾は即位して君主になったが、良いことは何一つやっていない。

自分に逆らう者を殺し、兄が帰ってこないようにあの手この手で苦しめ、外交でも裏切りを繰り返し、戦争には大敗し、挙句の果てには子供を人質に取られて晋は秦に隷属する形となった。在位十四年で死んだ。

 

夷吾が、好き勝手やっていた間も文公は旅を続けた。

公子時代に苦労を重ねた文公は、骨を折ることを知っていた。だから郭偃は、即位後の文公に対して、

「あなたがこれまで為さったように、骨を折れば国を治めることは難しくありません」

と教えたのではないか。

私にはそんな気がする。

 

骨を折らねば仁もなし

論語を読むと、孔夫子は色々良いことを言っておられる。ただし、大そう難しいことを、平気な顔で仰る。そう思うことが多い。

孔夫子は、誰でも仁者になれると仰る。確かにそうである。そうであるが、これは誰でもラクして仁者になれるということではない。誰でも骨を折れば仁者になれるということである。

 

仁というものは、簡単と云えば簡単であり、難しいと云えば難しい。

仁を得るということは、簡単と思えば難しく、難しいと思えば簡単である。

骨折りを嫌う者は仁を得ることはできず、大いに骨を折る者は仁を得る。

孔門に学んでいながら、骨折りを惜しむようなことでは、学んだ甲斐がない。

 

剣でも禅でも、旅でも、学問道徳でも、骨を折らなければ何にもならない。

骨を折って学問したいと思う。