周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

簡易と安易と覚悟のはなし

ツイッターにつらつらと書いたら長文になった。

一応は書き上げたが、ツイッターで長文は読みづらい。文字数の調整のために、言葉足らずになることも多い。

あらためて、ブログにまとめて記載します。

(一連のツイートは削除しました。リツイート、いいねをいただきありがとうございました)

 

 

1.簡易と安易の違いは

繋辞伝に、こんな言葉がある。

乾は易を以てつかさどり、坤は簡を以て能くす。

易は容易であること、簡は煩雑でないこと。天道はそういうものだという。

 

何でも簡易が良い。簡易と安易を取り違えるところに危険がある。簡易と安易は似て非なる者だ。簡易は天道に適い、極く宜しい。しかし安易は悪い。

 

1-1.安易な学問

例えば論語を読む。

論語は、別に難解なものではない。安易な姿勢でも読むだけはできる。

簡単と言えば簡単だ。安易であるから、真剣でないから簡単に読めるわけだ。

 

1-2.簡易な学問

真剣に読むとなれば、簡単にはいかない。考えるべきことはいくらでもある。どこまでも広がっていく。それを約するには努力がいる。

煩雑になったものを努力で約して簡になる。本つ道に近づいてゆく。

簡は「一」ということだ。老子孔子も「一」を重んじる。一は単純、単純で易しい、簡易は天道、天道は無理がない。

簡易であるから、論語を身に体することもできる。

 

簡単は簡単でも、安易(簡単→簡単)と簡易(複雑→簡単)では大違いだ。

 

1-3.悩みについて

これは色々なことに言える。悩みもそうだろう。

悩みは辛い。できれば悩みは少ない方が良い。しかし「悩まない」ということにも二種類ある。

 

折角の人生、楽しまなければ損だと云うて、目先の安楽を貪る。悩むだけの気力もなければ頭もない。それで悩まない。安易だから悩まない、悩めない。

その逆は、悩むべき場合にどこまでも悩む。苦しいに違いないが、悩んだだけ成長がある。悩みと消化を繰り返すうちに洗練される。己の哲学を持つようになる。壺中の天を得る。簡易を得て、真に悩まない状態へと昇華する。

 

同じ「悩まない」でも、安易だから悩まないのと、簡易だから悩まないのでは大違いだ。

 

2.覚悟について

昨今の所謂自己啓発が悪い理由もここにある。

自己啓発に、覚悟を語るものがあるという。凡そ、「覚悟をもって生きなさい」などと勧めるのだろうが、そのような自己啓発は全く無益である。

覚悟を人に教えることはできない。人から学ぶこともできない。それをやろうというのだから、教える側も学ぶ側も安易だ。役に立つはずがない。

 

2-1.時限り場限り

「覚悟をもって生きる」というと、「覚悟」なるものが「ある」という状態がずっと続くと考えるきらいがあるが、そんなものは嘘だ。

覚悟はもっと瞬間的・流動的なものだ。ある難事に覚悟を以て臨み、為せばそこで一区切りだ。葉隠でいうところの「時限じぎ場限ばぎり」である。

 

当然、覚悟はその時々で変わる。コロコロ変われば信念がないようだが、本当の覚悟はそういうものだろう。

易はそうだ。六十四卦三百八十四爻の変化があり、変転して已まないところに易の尊さがある。

進む方ばかりに固まれば、退くべき場合に進んで死ぬことも出てくる。退く方ばかりに固まれば、何も得ることはできない。

時限り場限りで、覚悟を持って進むこともあれば、覚悟を持って退くこともある。

 

神武天皇御東征の折、兄君・五瀬命が敵の矢に当たり御隠れになった。このとき、皇軍は一時撤退しているが、これは進軍の方角を変えるためであった。

東征というからには、西から東へ進軍している。どこまでも東へ東へ、不退転の覚悟で戦ってきたものを、時と場合に応じて退却も覚悟する。覚悟を持って退くから、それが東から西への転進にもなるし、勝利につながる。

「東征」というひとつ大目標がある中に大小様々の覚悟があり、絶えず変転しているわけだ。人の一生も、国や世界の歴史も、この不連続の連続によって作られるのではないか。

 

2-2.「いざ」とはいつか

また「覚悟が備わっている」というのは、「いざとなったらいつでも覚悟ができる状態」ではない。

「いざとなったら」といえば頼もしく聞こえるが、大抵は安易さの裏返しだ。怠りを勇ましい言葉で飾っているだけで、本当に「いざ」というときに覚悟できるものではない。

「いざとなったら」というが、では「いざ」とはいつか。これは「いざ」か、あれは「いざ」か。なにがどうであれば「いざ」か。今は「いざ」か、覚悟すべきときか。

こんなものは単なる逡巡であって、なんの覚悟にもならない。

今こそ覚悟を決めるべきと思った時には、すでに出遅れている。「いざとなったらいつでも覚悟ができる状態」などというのは妄想だ。

 

いつでも「いざ」なのだ。日々いざいざと、終日乾乾夕惕若で努める。これは簡であり易である。瞬間瞬間が充実している。だから覚悟すべき時には、覚悟するという自覚もなく覚悟ができている。

それを葉隠にはこうある。

毎朝毎夕、改めては死々しにしに、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得。

朝でも夕でも、いつでも努めている。武士道とは死ぬことであれば、いつでも死身になって努めている。それでこそ、武士道が真に自由を得る。如何様にも覚悟できる。造次顛沛に於いても士道を外さない。

簡易でなければ「常住死身に成りて居る」ことはできない。簡易なればこそ、覚悟が備わる。

 

2-3.覚悟は自分でするもの

覚悟は自分でするものであって、人に教えられるものではない。

「覚悟ができるように人から啓発してほしい」という安易な姿勢を去らないうちは、覚悟が備わることはない。

覚悟のある生き方をするにも、簡易でなければならない。安易ではならない。

 

3.葉隠にみる覚悟

葉隠に「武士道と云ふは死ぬ事と見付たり」とある。「二つふたつの場にて、早く死方しぬかたに片付くばかり也。別に仔細なし」と。

これが覚悟である。簡易の最たるものだ。安易からは程遠い。日々武士道精進を重ね、簡易を得たからこの覚悟が備わる。

 

3-1.死方に片付く

ここにある「死方」とは、「死方しぬかた」であって「ほう」ではない。生きるか死ぬかの場合に、死ぬ確率が高い方を選ぶというのではない。

あれかこれか、生きるか死ぬか、どれを選ぶべきか、どちらに利があるか。そういう選択を超越してしまう。賢しらをサッと捨てて死に切ってしまう。覚悟そのものになり切ってしまう。それを「死方しぬかたに片付く」という。

 

3-2.生方に片付くは腰抜け

死方に片付かない者はどうなるか。

サッと死に切ることができない。利害を考えて逡巡する。あれかこれかの迷いが生き続けている。「生方いきるかたに片付く」わけだ。

生方に片付いた者は、利を考えて動く。生きるか死ぬかの場面であれば、誰だって死ぬより生きるほうが好きだ。生きるためには汚い手も使う。

それを孔子は「小人窮すればみだる」といい、常朝は「腰抜け」という。

 

3-3.死方に片付けば恥なし

死方に片付けば動じることはない。

それを孔子は「君子もとより窮す」といい、常朝は「胸すわつて進む也」という。

 

死方に片付き、胸すわつて進むからこそ、死中に活を求めることもできる。

陳蔡間に窮した孔子も、死方に片付いた。胸すわつて正々堂々と窮した。死中に活を得た。

 

死方に片付けば、よしんば死んでも恥ではない。小人・腰抜けとして死ぬわけではないからだ。君子として道を守って死ぬからだ。

サムライでも儒者でも、士であれば恥を嫌う。だから死方に片付くが良い。

この覚悟は、簡易によってのみ可能である。安易では生方に片付く。

 

3-4.根本通明先生曰く

覚悟覚悟とカンタンにいうが、自己啓発でどうこうできるものではないのである。

自己啓発に頼っている時点で、もう生方に片付いている。覚悟を求めて覚悟を失うことになる。ラクをしようとするから、本末転倒になる。

 

根本通明先生は、体でも頭でも心でも、「何でも使へばそれだけ健康になる」と仰る。「楽にして居る者は弱い、難儀した者は丈夫である」と仰る。

これは決して古い考え方ではないだろう。

正しく生きる上でも、学問する上でも、努力を重ねて簡易を得るべきで、安易な姿勢は忌むべきだ。

 

最近、努力や苦労を否定する意見も随分増えた。しかしそんなものは、どう考えても間違っている。

努力はするし苦労してもよいから、私は本当の覚悟が欲しい。