周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

なぜ長生きすべきか

あけましておめでとうございます。

今年も昨年同様、気の向いた時にブログを書きます。

よろしくお願いします。

 

 

さて先日の話。

野見山曉治という画家の展覧会に行った。この人は私と同郷の人で、炭鉱経営者の子であったという。だから初期の作品には炭鉱を描いたものがある。炭鉱夫の苦労をまざまざと描いた絵も観た。

 

私の家系も炭鉱である。父方は会社の方、母方は炭鉱夫の方。母方の祖父は寡黙な人で、炭鉱の辛い話を一度も聞いたことがない。

母の話では、北陸の方から九州へ流れてきたらしい。無学であったが、命を削りながら炭鉱で働き、多くのお金をもらい、若くして家も持った。

祖母はこの祖父と再婚した。私の母は祖母の連れ子であった。つまり私と祖父は血が繋がっていない。

しかし母は、お金で一切苦労したことがなかったという。私も人生の折々に、色々と良くしてもらっている。私はこの祖父から、お金の綺麗な使い方、義理事の作法を学んだ。血統はなくとも、強い道統で結ばれている。

 

炭鉱のおかげで現役の頃はお金をたくさん稼いだ。五十で退職して年金もたくさん。子にも孫にも不自由させなかった。

祖父は炭鉱夫であったことに誇りを抱いているように思う。私も誇らしく思う。

 

私は炭鉱の暗さを知らずにきた。

しかし、炭鉱の辛さはよく聞くところだ。

労働環境は劣悪、肺疾患で寿命は縮む、事故も多い。常に死と隣り合わせで、命を的に黒ダイヤを掘り掘り、大金を稼ぐわけだ。だから炭鉱夫にはやくざな者が多い。

野見山曉治の絵をみると、その辛さ、暗さがにじみ出ている。祖父の苦労を初めて知った。

 

野見山曉治は現在102歳。今も創作を続けている。

展覧会では、新しい作品から古い作品へと逆時系列式に展示していた。なぜそのように並べるのか分からなかった。三周してようやく理解できた絵もある。時系列の方が分かりやすいように思うが、何か意図があるのだろう。

古いものより新しいもののほうが、私は好きであった。時代と共に進化し続けている。現在の作品には圧倒的なインパクトがあった。この人の思想・思考の変遷がありありと見てとれた。

 

絵を見て思うのは、野見山曉治という人は口下手・不器用で、人との付き合いに始終苦労してきたのではないか。

自白という絵には、そういうものを感じた。

そもそも自白とは、明らかな事実があるが周囲は知らない、それを告白するのである。

なぜその事実を周囲が知らないのか。恥ずかしさや罪の意識、他人への遠慮など、何か負の要素があって、周囲に知られないようにしていることが多い。

 

その事実を自分はよく知っている。言いたいこともはっきりしている。

内面には清いものがあるから、告白したいと考える。全部隠して、人を騙して何とも思わないなら、そもそも自白を考えない。

しかし周囲にはもやもやとしてものが渦巻いていて、うまく言えない。言っても理解されないかもしれない、黙っておこうか。

自白を迷う内に、本とあった黒いものが膨らんでゆく。嘘が嘘を、憶測が憶測を呼ぶようなことも出てくる。強いうねりを見せ、更に多くを巻き込み、複雑になってゆく。なおのこと自白できなくなる。

やがて、清かった内側にモヤが入り込んでくる。内なる善性がむしばまれていく。それに恐怖する。

 

『自白』は、そういう苦悩を描いたものではないか。

絵のことはよく分からない。鑑賞眼が優れているのでもない。しかしこの絵だけは、積極的に解釈できた。

 

野見山曉治の『自白』が何年に描かれたものか、よく見ていない。

しかし割と最初の方に展示されていたから、後期の作品であることは間違いない。

長生きして、色々な経験をし、考えたからこの絵ができたのだ。

長生きは尊いものだと思った。

 

中川一政が、著書の中で富岡鐵齋のことをこんなふうに書いている。

 

六十七十の作にもよいものがあるが、鐵齋芸術はやはり晩年に及んで立派である。八十三歳の時に嗣子を失い、それから仕事が上昇して行ったというのも日本人ばなれしている。

晩年になって本当に鐵齋は画家というものを超越した。

 

鐵齋の画には初期のものからして何か戦ったようなタッチが見える。鐵崖時代の平凡な南画風のものにも見える。

いいかえれば、まだ説明が本能を縛っているのである。

晩年になって、私もこの年になって思うようにかける、画家は老年にならなければ描けるものではないと言い、眼が衰えて、この頃は手探りでも描けると言ったということだ。

 

本当の形というものはそういうものだ。肉眼でみる形は形ではない。肉眼で描いていた初期の画から、肉眼で描いたり心眼で描いたりした中期の画から、その形はますますはっきりしてくる。

その形を追って行けば鐵齋の画は出来るようになったのである。思うように描けるというのは、外界の邪魔がなくなって心の眼が研き出されたのである。

鐵齋にくらべれば大抵の画家の仕事は若く見える。

鐵齋の長寿があって自分達は、この(鐵齋芸術の)世界を目のあたりにしたのである。

 

鐵齋は扇を売物にしたことはないだろう。誰か使いに来たり、物を貰った時の挨拶として与えたものが大体であろう。

鐵齋の扇面は挨拶である。気楽に楽しく描いている。しかし、その底にあるものが、長い間の修養というものである。

 

学問はどうであろう。

全く一緒ではないが、重なる部分も多いように思う。

まず、長生きして倦まず弛まず学ぶことで、学徳は確実に練れてくる。

学徳を以て世の中を少しでも良くしていく、これが儒学の建て前である。

長寿し、どこまでも学徳を練っていく。そして長生きしただけ世のためになる。そういう学問をするならば儒学の理想に適う。

 

画家と儒者の相違点は、道統の連続性にある。

中川一政は言う。

 

鐵齋は長寿の画家であるが、日本におけるめずらしい長距離選手の画家であり、若し短距離選手で終わったなら本来の面目を生かしきれなかったろう。

画家というものは他人の業跡の上に自分の仕事を築いていくというものではない。

はじめからはじめなくてはならない。

楠正成の願ったように七度生きたとしても、その度にはじめからやり出さなければならない。

鐵齋の長寿は常の人の二倍三倍の時間をもつ、誠にまれな画業を生んだ。

 

画家はいつでも一からはじめ、自分の世界を築き上げていく。

儒者は違う。出発地点に孔夫子がおられる。目標地点にも孔夫子がおられる。その道程にいつでもおられる。孔夫子が昔に示した道がすなわち儒者の道である。

「述べて作らず、信じて古を好む」で、この道を信じて歩むだけである。ことさらに自分の教えを立てるのではない。

もちろん、より良い解釈をするという意味では、独自のものがあるべきだろう。その時代に合わせて、分かりやすい例え話もあるだろうし、応用の在り方も異なるべきだろう。

それでも、孔夫子をはじめとする先賢の上に自分の学問・仕事がある。

 

このように、儒者の道統は連続している。途切れることがない。独自の道を生み出すならば、道統の連続を断ち切ることになる。

論語を読んだ、君子の学問をやった、しかしなぜか小人になってしまった。この場合、道統を受け継ぐことができないわけだから、道統の上に居続けることはできない。

当然、受け継いでいないものを伝えることもできない。人に教えることもできない。この人が独自に立てた小人の道を伝えることはできても、孔夫子の道統を伝えることはできない。

 

独学の危険もここにある。

独学ゆえに好き勝手に学び、独自の解釈が過ぎると、道統を受け継ぐことはできなくなる。道統から外れることになる。自分でそれに気づかず、我が道を正統のもののように伝えてしまうのだから恐ろしい。

良い師に就けば、道統から外れそうな時に師が引き戻してくれる。これが貴い。良い師に就いても、好き勝手するならば道統から外れる。

また、悪い師に就けば同じこと。道統から外れた者の教えであれば、いかに正しく受け継いだところで、それは孔夫子の道統の上にはないのである。入門の時点で道統から外れることが半ば確定するのだから、これは独学より悪い。

師に就くから良いのではない。良い師に就いて、柔順に学ぶから良いのである。

独学が悪いのではない。独学して、好き勝手に学ぶから悪いのである。

 

独学でも、どこまでも慎んで学ぶならば孔夫子の道統に連なることができるだろう。現世に師を持たぬ私としては、戦戦兢兢として深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如く学び続けるほかない。

 

 

道統の上にある儒者にとって、長寿は画家ほど重要ではなくなる。

例えば死に直面した場合。道に殉じて短命に終わるか、道を枉げて長寿を全うするか。

儒者は短命を選ぶ。道統の上で死ぬことができれば、たとえ現世で生きた時間は短くとも、その後も続く道統の上にとこしえに生き続けるからだ。

道を枉げれば道統を外れる。たとえ現世で長く生きたところで、その人のいのちはそこまでで、道統の上に生き続けることはない。

 

孔夫子は何千年も、何万年も生きているのである。楠正成の「七生報国」もそうであろうと私は思う。

楠正成の七生報国も、捉え方によっては「生まれたらまたはじめから」である。人間として死んで、また人間として生まれ変わったとすれば、優れた武将になるための学問や武芸を一から練り直さなければならない。

 

しかし七生報国は、そのような意味ではない。

正成は、いにしえからとこしえに連続する道統の上にいる。

正成が道統を受け継ぎ道統の上に死んだから、やはり正行も第二の正成として道統を受け継ぎ道統の上で死んだ。その後も多くの正成が、七度どころでない、何度も何度も生まれて報国を志しているのだ。

『桜井の決別』は、そういう歌である。

 

 

儒学では、「できるだけ長生きせよ。しかし死ぬべき時には死ね」と教える。長生きするのは道の為である。短命に終わるのも道の為である。

「道統の上にある君子われ」はどう生きるか。これが重い。

 

とはいえ、本当に「死ぬべき時」は極く少ない。

基本的には、富岡鐵齋やマチスや野見山曉治が長生きして良い作品を残し続けたように、できるだけ長生きして学徳を磨き、よい仕事をすべきと思う。

道統の上に生き死に、やがて生きもせず死にもしないところへ行きたいと思う。

 

 

野見山曉治の画を観て、色々なことを考えた。

画は良いものです。これからはもっと積極的に、美術館に足を運びたいと思います。