周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

論語の建て前

先日、以下の質問に対して、①だけお答えして②③は後日、とした。

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この質問は、ロシアのウクライナ侵攻を受けたものであったという。

あまり触れたくない内容ではあるけれども、再度考えてみたところ、やはりお答えすべきであったと思う。

特に、「暴力には暴力で」という考え方は危うい気がします。

 

論語の建て前

まず前提として、孔子は過激なことを語らなかった。ご自分が語ったことによって、人が道を誤ることを恐れた。

 

孔子の慎み

孔子家語の観思第八に、こんな話がある。

子貢が尋ねた。
「死者にも知覚があるでしょうか」
孔子は、
「もし私が『死者にも知覚がある』といえば、孝心の深い人は悲しみのあまり健康を損なうだろうし、葬儀を立派にしすぎて生活が破綻する恐れがある。
かといって、『死者には知覚がない』といえば、孝心の薄い人は親の死体を埋葬しなくなるだろう。
子貢よ、そんなことは知らなくてよい。いずれ死ねば分かることだ」
と仰った。

孔子が教えを立てるにあたり、聞く者に与える影響をよく考え、慎んだことがよく分かる。

 

怪力乱神を語らず

論語で言えば、述而第七。

子、怪・力・乱・神を語らず。

孔子は、奇怪なこと、力(特に暴力)のこと、人倫の乱れ、鬼神のことを語らなかった。

 

怪を語らず

科学が発達していない古い時代、奇怪なことがよく語られた。古い本を見ると、そういうことがよくある。左伝にも色々載っている。しかし孔子はそれを語らない。

 

力を語らず

次に力。怪を語らないのだから、怪力も語らない。旧約聖書のサムソンのような人間のことをお話しにならない。

暴力についても語らない。暴力は暴力を以て制する、といったことを肯定しない。

 

乱を語らず

乱も語らない。乱とは人倫の乱れである。臣が君を弑すること、子が父を殺すこと、そういうことが乱である。

もちろん、後述の通り儒学では「権道」という考え方もある。常なる道を以て如何ともしがたい場合には、常ならぬ道を以て処する必要がある。それは孔子もご存じである。

しかし、孔子の教えは常道を教えるものであって、権道を教えるものではない。

だから孔子は、孟子のように「無道な君は討つべし」といった過激なことを仰らない。革命思想を肯定しない。

これは孔子孟子の極めて大きな違いである。論語だけではなく、他の書に出てくる言葉を見ても、孔子は革命を善しとするようなことは一度も仰っていない。

色々な事情があるにせよ、乱は乱である。臣が君を討つことは、順と逆で言えばやはり逆である。そのようなことは教えない。

 

神を語らず

そして神、鬼神のこと。

古い時代の人々は、現代からすると考えられないほど、信仰心が篤かった。孔子が語ろうと語るまいと、人々は鬼神に惑った。神の祟りがどうであるとか、この神を祭れば福を得るとかである。

孔子が鬼神を語れば、その惑いが一層深まる恐れがある。

だから孔子は「鬼神は敬して遠ざける」「鬼に非ずして祭るは諂いなり」などと仰る。鬼神とどう向き合うかを語らない。むしろ遠ざけよと仰る。

 

戦について

同じく述而篇に曰く、

子が慎む所は、斎・戦・疾。

孔子は三つのことを慎んだ。斎戒、戦争、疾病である。

 

斎を慎む

斎とは斎戒。心の邪を払うこと。

分かりやすいのが物忌みである。神道では潔斎などという。いまでも、心掛けの良い神主は大きなお祭りに当たって、酒・煙草を断つ人がいる。四つ足(牛や豚など、四本足で歩く動物の肉)を食べない人もいる。

あるいは禊。冷水で身を清める。

 

もっとも、斎戒とは心の邪を払うことであり、内面的なものである。内面的な慎みが外部に表れた場合に物忌みや禊になるのである。

孔子も斎戒を重んじた。このことは、郷党第十を読むと一層よくわかる。

 

疾を慎む

順序が前後するが、疾も慎んだ。これは病気のことである。身を健やかに保つ、これも孔子の心掛けであった。

 

孔子の教えを読むと、時に「死」ということがある。しかし、死と向き合うことを述べたのではない。

あくまでも人間世界を中心に、現実的な教えを立てる。人間を尊重し、道を立てる。これが孔子の建て前であり、尊いところである。

 

天地人を三才とするのも、同じわけである。

天と地は極めて大きい。それに比べると人間は非常に小さい。しかし天地人といい、三才として並べる。

人間は小さい存在であるけれども、人間という立場において、天地の徳を我が徳として、自らを重んじ、他を重んじ、現実の人間の世に向かい合ってゆく。

天があり、地があり、世界が成り立っている。人間の世界もこれに含まれる。その世界でどう生きるかを聖人は教える。現実の、人間の世界を中心として教えを立ててある。儒学以外では、人間を極めて小さく、無力なものとして、天地を中心に教えを立てることもあるけれども、儒学はそうでない。あくまでも人間があり、下には地、上には天、の三才で成り立っている。

 

また、元をたどれば人間はもちろん、万物全てに天と同じ徳がある。無極から太極、天地、万物と分かれており、元は一と考える。

こう見る場合、人間にも天の徳と同じ高大なる徳がある。人間は小さいようだが、徳においては天地と比しても引けをとらない。天地人三才と捉えて差し支えない。

 

孔子の教えは宗教ではない。私などは孔子への絶対的な信頼があり、信仰に近いものがあり、宗教的な趣があることも自覚している。しかし、一般にいう宗教とは明らかに異なる。

現実と人間を尊重して教えを立てる。天国や極楽を行くためにはどうするか、そういう考え方は、聖人の教えではとらない。

仁義のために命を懸けることもあるが、それはやむを得ない場合に限ってそうなのであって、基本となる考え方ではない。

なるべく健康に長生きをして、分相応に、現実の人世に貢献していこうとするのが聖人の、孔子の建て前である。

 

戦を慎む

そして戦。孔子は、戦争についても非常に慎重であった。これは、力や乱を語らなかったことからも良く分かる。

 

司馬法にもある通り、儒学では仁義に基づく戦を肯定する。司馬法に曰く、

戦を以て戦を止むれば、戦ふと雖も可なり。

例えば暴虐なる君主が無道の戦を起こした。土地を広げたい、富を得たい、そんな私利私欲から戦を起こした。

このような無道な戦は人民を苦しめる。不仁であり不義である。そのような暴虐を止めるためであれば、戦ってよい。

 

権道を考える

同時に、司馬法は重要なる教えを立てている。こうも書いてある。

権は戦より出づ。中人より出でず。

 

権道とは

戦はあくまでも権道である。戦をすれば人が死ぬ。仁は生々の徳、育む方の徳であって、殺す方は不仁である。戦は本来道に反する。

しかし、非常の場合にはそれが却って道に適う場合がある。それを権道という。

権は戦より出づ。権とは権変であり、臨機応変であって、あくまでも一時の用に過ぎない。戦を起こす場合、権が前提でなければならない。

これが大変難しい。少し間違うと道を大きく外れ、一層大きな不仁を犯すことになる。

 

孔子と権道

論語憲問篇で、孔子は魯公に斉を討つよう進言している。

これは逆臣・陳成子が斉の簡公を弑したためである。そのような大逆を見過ごしてはいけない。斉は魯の隣国である。道を正すために、即刻討つべきであると進言した。

魯公はこの言を容れなかったが、孔子の建て前が見てとれる。

あくまでも、道を正すために戦を起こすのであって、私利私欲や暴力によって起こすのではない。これも権道である。

孔子は戦を憎んだに違いない。しかし、権道による戦を認めていた。

 

権道に拠らねば無道

戦争は、ほとんどの場合に利権が絡んでいるように思われる。これは、大義を隠れ蓑にして戦を起こしているのである。断じて権道ではない。

もちろん、戦を起こす人の中には、大義を重んじ、真の意味で権道を為そうとする人もいるだろうが、大体はそうでない。

十字軍がそうである。聖地奪還という目的があったわけだが、純粋な宗教的理想を以て起った人より、利を求める人の方がずっと多かった。だから、カトリック諸国の連合がうまくいかず、200年もかけて何度も戦って、結局に失敗に終わった。

三国志における反董卓連合も大体同じい。

現代における戦争も、大抵は権道とはいえぬものばかりであろう。

権道によらない戦、これを無道の戦という。

 

中人の権道は誤る

学問道徳に努め、常道を修めた聖人賢人であって、初めて権道を用いることができる。

常道を修めていない普通の人、中人が権道を用いることはできない。中人が下手に権道を用いると必ず誤る。

 

孔子の慎みを思う

孔子の教えは、中人を導くものである。論語もそうである。

権道を教えない。権道も時には必要であることを否定するのではないが、常道を一層重んじる。

だから、論語には戦の方法はもちろん、身内が害せられた場合の報復などについても一切書かれていない。

それは権道であって、中人の考えることではない。中人にそのようなことを教えると、道を誤るもとになる。

礼記では復讐についても教えているが、やはり常なる教えとは言えない。

 

「大切な人が凶事に見舞われた場合の処し方」は、論語には書かれていない。

「目には目を、歯には歯を、暴力には暴力で返す」という考え方も、孔子はとらない。暴力的であり、過激であり、慎むべきところであろうと思う。

 

また、それを論語から得ようとする必要も、あまりないように思う。

権道・非日常を考えるよりも、それ以前の常道・日常を重んじるのが儒学の建て前であり、論語が教えるところである。それが行き渡れば権道を用いる必要もなくなるのが道理である。

易など読んでも、権道の必要性を説きつつも、その必要がないように常を慎む姿勢で一貫している。

 

まとめ

私自身は、常道を修めたとは思わないので、権道に手を出せば失敗すると思っている。だから、強い興味を抱いているけれども、今はまだ兵書を読むことも避けています。

そんな私が、「身内が害せられたらこうすべきです」などと、権道を語るべきではないとも思います。

 

したがって、今回の質問に対して具体的に「こうすべき」といったことはお答えできません。

強いて言えば、「そもそもこの質問にあるような姿勢で論語に対するべきではない」と考えます。

孔子が慎んで教えを立てられたことを思い、論語を読む我々としても、権道は遠ざけて常道に邁進するのが良いのではないでしょうか。

論語を修めて常道に通じたならば、権道もおのずとわかってくるのではないかと思います。