周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

論語と孟子の関係について

ツイッター論語に関する質問を募集したところ、さっそく以下の質問が寄せられた。

 

伊藤仁斎先生の論語古義では、

孟子七篇の書物は論語の註釈である。だから孟子の意味が分かって初めて論語の意義を明らかに出来る。」

とあります。

この仁斎先生の意見に対してのお考えをお聞かせください。

論語古義は未読であるので、この部分(訳)だけを読んで思うところを率直に述べてみる。

 

仁斎先生の意見はその通りと思う。

しかし、考え方の向きによって、解釈を大きく誤りそうな感じもする。

訳が不親切ではないかと思う。

 

孟子の意味が分かって初めて論語の意義を明らかに出来る」の解釈には、

  1. 孟子が分かれば論語も分かる
  2. 孟子さえ分からないようでは論語も分からない

の二通り考えられる。

1は誤り、2は正しい。仁斎先生は2の意味で仰ったものと思う。

この訳では、1にも捉えることができるから危ない、と感じる。

 

1は、どうかすると「孟子が分かれば、論語も(必然的に)分かる」という考え方にもなりそうだが、それは間違だ。

当然ながら、孟子を読んでいない人には孟子がわからない。

しかし孟子を読み、理解していることが論語理解の絶対条件であるとすれば、孔子のお弟子は誰一人論語の意義を知らなかったことになる。そんなおかしな話はない。

 

確かに、「孟子論語の註釈」といえる。

孟軻という偉い人が、混乱する世の中に合わせて論語の剛なる面に重きを置いて詳しく説いた。それが孟子である。

しかし、孟子の方が論語より大きいといえるのは文字数だけだ。実際には論語の方がずっと大きい。

 

易で言えば、太極が両儀(陰陽)に分かれ、次に四象、それから八卦、さらに六十四卦と分かれていくようなものだ。

何事においても、詳しく説くためには1を2、2を5、5を10で丁寧に、あれこれと例など挙げながら解説せざるを得ない。

太極から陰陽、陰が老子、陽が論語とすれば、孟子荀子四象八卦に位置するだろう。

論語は根本に近く、孟子は根本から遠い。孟子は義において論語よりずっと小さい。

 

分かりやすい違いを一つ挙げると、論語には革命を是とする言葉が皆無だが、孟子にはそれがある。

これは孔子孟子の極めて大きな違いである。論語だけではなく、他の書に出てくる言葉を見ても、孔子は革命を善しとするようなことは一度も仰っていない。

革命は権道であり、儒者の常道・理想から大きく外れる。

革命が必要なほど世の中が混乱していること、革命に伴いさらに多くの混乱が生まれること。

そんなものは理想ではない。そうならないように為政者に徳を求める。文王のような聖徳ある君を最上とする。

それができれば革命は起こり得ない。孔子は革命を是としない。

こんなところにも、論語が本、孟子が末の違いが明確に表れている。

 

 

論語孟子よりずっと大きいのだ。

だから、「2.孟子さえ分からないようでは論語も分からない」といえる。

孟子が註釈、論語が本文、註釈が分からねば本文も分からない、仁斎先生の例えは分かりやすい。

しかし、これは小さい方から見た見方である。考え方を逆にして、大きい方から見た方が分かりやすいと思う。

本文が分かれば註釈も分かる。論語が分かれば孟子も分かる。

もちろん、註釈によって本文がもっとよく分かる。孟子によって論語がもっとよくわかる。孟子さえ分からぬようでは論語が分かる道理がない。

 

論語天照大御神なら、孟子須佐之男命だ。論語から見て、孟子はしばしば剛に過ぎる。

それが孟子尊いところでもあるが、須佐之男命は剛に過ぎて高天原から追放された。剛に過ぎれば道を失う。


直接の師弟関係にあったとすれば、孔子はおそらく孟子を「お前は中庸を失っている」とたしなめることもあろう。

孟子を読んで、それだけで論語を理解したと思い込むと、却って孔子の教えから外れるのではないか。

 

仁斎先生の言葉は、考え方の向きで正しくもなるし誤りにもなるので、注意深く見るべきと思う。