周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

愛について

ツイッターのDMにて、質問を受けた。

問答の流れで、特に「愛」ということを考えた。

これまで、仁についてはしばしば触れてきたが、愛にはあまり触れてこなかった。

これは、愛は仁に内包されるもので、仁がわかれば愛も分かるからである。

しかし、仁と愛を一つとする見方、また儒学における愛の考え方について、疑問を抱く人も多いのではないか。

 

仁や愛という大きなものを知るのに、参考くらいにはなると思うので、DMの内容をそのまま(文章の乱れは整えて)ブログにする。

多少忙しかったこともあり、十分に書けなかった部分もあるため、その点も追記したい。

 

敬天愛人とは何か

今回の問答は、以下のメッセージから始まった。

禅問答のような問いをするのですが…
敬天愛人」という南洲翁の言葉をどう読み取られますか?
儒教に親しんだ方の目から、この四文字はどう見れるのでしょうか?

 

正直、敬天愛人という言葉をあまり深く考えたことがなかった。

「リンゴ」と聞けば赤い果実を思い浮かべるが、リンゴについてあれこれ考えることはない。

同じように、「敬天愛人」と聞けば西郷さんを思い浮かべるくらいで、敬天愛人敬天愛人であると思ってきた。

しかし改めて考えてみると、敬天愛人がより良く分かるようになり、ありがたいことだった。

 

以下のようにお答えした。

 

天を相手にすること

敬天愛人は非常に大きな言葉で、簡単に述べるのは難しいですが、あえて簡単に述べてみます。

儒学では、天道を身に体する、これを最高の状態であるとします。そのような人を聖人といいます。

孔夫子は学問が進むにつれて、人を相手にするところから天を相手にするところへ昇華していきました。

西郷さんも大変苦労した人です。人の世に処すること、人を相手にすることに対し、諦観のようなものがあったと思います。そこで天を相手にすることになるわけですが、そのためにはあくまでも天を敬うことが前提となります。

 

天を敬うとは

天とは天理天道で、人間世界のあらゆる道徳はここに内包されます。その最たるものは仁です。

仁は慈しみです。万物を慈しみ生かそう育もうとする徳を仁と言います。天はもの言わず、しかし四時めぐって万物を生成します。この生成の徳を天道や天理や天徳といい、人においては仁というわけです。

天を敬うとは、この天の徳を敬うことです。天の徳を敬い、人の世を生きるならば、それはおのずと仁になります。

仁は体、愛は用。仁が団扇なら愛は風を起こすこと、仁が筆なら愛は文字を書くこと。天を敬えば仁があり、仁があれば人を慈しみ愛することができるわけです。

 

敬天と愛人はひとつ

敬天愛人というと、「天を敬い、人を愛す(天を敬うことと、人を愛すること)」というように、二つのものとして捉える人も多いですが、私は一つのものと考えます。

天を敬えば人を愛するわけです。天を敬って人を愛さないのであれば、本当は天のことを何もわかっていないし、分からないものを敬える道理もないわけです。

敬天愛人、これは西郷さんの信条・人格を的確に表した四文字であると思います。

西郷さんが聖人であるかどうか、これは私にはわかりませんが、少なくとも聖人の道に志したことは間違いないと思います。だから私は西郷さんが大変好きです。

 

愛とは何か

敬天愛人の問いに続き、愛について問われた。

重ねて問わせてください。
儒学における「愛」とはなんでしょうか。

 

これも大きな質問である。仁についてはよく考えるが、愛についてはあまり考えたことがない。仁を考えることが愛を考えることにもなり、あえて愛を別にして考える必要がないからだ。

しかし、普通の人から見て、「仁」はあまり馴染みがないが、「愛」は馴染みがある。仁を知るよりも、愛を知る方が切実である。愛を知ることで仁がわかるならば、愛を知る益は大きい。

愛についても私なりに考え、以下のようにお答えした。

 

愛と仁の関係

愛は仁の顕れです。仁は性、つまり天から授かった本性、誰もが持っている人としての性質です。仁が顕れたものを愛といいます。

仁は生まれつきのもの、つまり「体」あるいは「理」であるのに対し、愛は「情」です。情というのは、外物の影響を受けて、本性に感じる処があって、心が動いて顕れることを言います。

先ほどのメッセージで「愛は用」といいましたが、用とは働きです。仁という性があって、愛という心の動き・働きが起こるわけです。

 

愛は仁に含まれるものです。本来、仁と愛を分けて考える必要はなく、分けられるものではありません。

しかし性は目に見えません。仁は誰もが持っている本性といいますが、目に見えるものではない。心が動いて外に顕れるから、愛は目に見えます。愛が目に見えるから、誰もが仁を持っていることが分かります。誰もが仁を持っていること、いわゆる性善説の裏付けとして、あえて愛という概念を設けたわけです。

 

儒学の愛は大きい

普通、愛といえば、男女間の愛情のイメージが強いです。しかし、儒学における愛はもっと大きいものです。愛は仁の顕れで、仁は天の徳だからです。

天は万物を慈しみ育みます。天徳(人においては仁)を体とすれば、ここから発する愛の用は「万物の生成」にほかなりません。

天を敬い、天道天理に則することを目指すならば、畢竟、他を慈しみ、育むことは全て愛といえます。天が万物を愛するように、我も万物を愛するのが聖人です。

天地は万物の父母、万物は天地の子。万物には人間もあれば鳥・獣・虫・魚・草木色々あります。

天の愛は万物の生成、人間我もそれに則して万物の生々を以て愛とする。これが儒学の愛です。

 

色々な愛の形

生かし育むのは全て愛です。

人間においては親が子を養う、子が親を養う、君が臣に俸禄を与える、臣が君によく事える、これらは全て愛です。困窮している人に恵むのも愛です。在野の人を引き上げて才能を発揮させる(生かす・活かす)のも愛です。

人間世界にとどまらず、鳥獣虫魚草木を育むのも愛です。

 

聖人の愛の大なること

だから昔の聖王は、年老いて身よりのない者や、夫を失った女性や、親を失った孤児を憐れみ愛し、よく養ったわけです。仁の徳を以て治め、誰もが困窮しない世を目指し、万民をよく養うことを以て理想としました。

人を生かすことを大切にし、人を殺すことを憎んだから、禹王は治水工事に励み、地理を整え、人々が安楽になるよう骨を折ったわけです。

また、そういう世の中は鳥獣虫魚草木も言祝ぐ。そういう仁愛の世であれば、生き物がむやみに殺されることはなく、野山も良く手入れされ、万物みな喜ぶ。

 

儒学が目指すもの

つまり儒学が目指す世は、愛に満ちた世であるといえます。光があれば必ず影があり、現実はこのようにうまく行かないことも多いでしょうが、それを理想として已まないのが儒者です。

愛は仁の顕れ、仁は天の徳、儒学の理想と天は切っても切れない関係ですから、何を考えるにも天という存在を軸に据えます。

天を本とすれば、愛はどちらかというと末の方ですから、小さなものに思われますが、実のところ、このように非常に大きいものです。

 

追記

このメッセージを送った後で気づいたが、これだけでは誤解が生じる恐れがある。

孔夫子の説く仁愛ではなく、墨子の説く兼愛に陥る恐れがある。

 

兼愛は僻事

墨子の説く兼愛とは、全ての対象を一様に愛することをいう。儒学の愛は兼愛ではない。兼愛は道理に背くと考える。

貝原益軒先生曰く、

墨子と云ひし人、仁をまなびそこなひて、天下の人を一やうに兼愛する道を立てたり。是、ひがことなり。

ひがことは僻事、道理に合わないこと。墨子は仁を学び損ねたのであると仰った。

 

ここまでにも書いた通り、仁は天の徳であり、愛は仁の顕れであり、天が万物を愛するように我も万物を愛するべきである。天に事えるとは、そういうことである。

しかし、万物を愛するといっても、全て等しく愛するのではない。

そもそも天も、万物を一様に愛しているのではない。

 

差別も無差別もない

もちろん、天には差別がない。これを愛して育んで、あれは愛さず殺そう、といったケチな料簡はない。

しかし、「差別しない」という料簡もない。だから、天の徳、愛というものの顕れ方も一様ではない。

万物は絶妙なバランスで成り立っている。これが天の生成の徳であり愛である。差別することなく、差別しないこともなく、このバランスが成り立つ。

人間は人間、鳥は鳥、魚は魚、虫は虫、草木は草木で、差別もなく無差別もなく、全く公に中にして、愛するべきように愛するのが天の生成の徳である。

 

天の愛にも親疎の別

ただし、天が「愛するべきように愛する」というところには、やはり親疎の別がある。

これも、天が「あいつは近い、こいつは遠い」と判断しているのではない。

天には理というものがあって、それに沿うものは自ずから近く(親)、篤く愛される。

天理に反するものは自ずから遠く(疎)、愛を受けることが薄くなる。

 

例えば、天の徳によって植物が育つ。植物がよく育つには、条件というものがある。天理に沿えば条件を満たしてよく育ち、反すれば条件を満たさず十分に育たない。

人間が畑に種をまくと作物が育つ。天の生成の徳・愛を受けて作物が実り、それを食べて人間が生きる。

これは、作物と人間の在り方が天に近かったから、天は愛するべくして愛したのである。

人間が、天のめぐり・天の理を考え、日当たりや土壌や気候を考えたから、作物は天の愛を大いに受け、大いに実ったのだ。人間は天の愛を受けるべくして受けたといえる。

 

天理に近づくものは、天の愛を多く享受できる。親疎でいえば親の方をより多く愛される。

天理から遠ざかるならば、天の愛は薄くなる。親疎でいえば疎の方はあまり愛されない。

 

人間の愛にも親疎の別

天の徳を我が徳として、天が万物を愛するように我も万物を愛するならば、その愛に親疎の別があってしかるべきである。

近いものをよりよく愛し、遠いものへの愛情は薄くする。遠いものに対し酷薄なのではない。近くのものを篤く愛した結果として、遠くのものへの愛情が相対的に薄くなるのである。

 

人間の五倫は父子・君臣・夫婦・兄弟・朋友。世の中の人の交わりは全て五倫に収まる。

「全く無関係の他人」というものはない。万物は天地の子であり、「我」と「遠くの誰か」の間には、天の徳を受けて生まれた子としてのつながりがあるからだ。

 

しかしこの五倫を等しく愛するのは僻事であり、親疎の別を考えるべきである。

親疎の別に応じて愛の顕れ方に差が生じる。近くのものを篤く愛するなら、遠くのものへの愛が相対的に薄くなるとはいえ、多くの愛を向けることができる。遠いからと言って苦しめたり、憐れまなかったりすることはない。

 

孝で天下が治まる理由

最も近い存在は親である。天は近いものほどよく愛する、我も親を篤く愛する、これが自然の道であり、孝である。

 

孝経に、

親を愛する者は敢えて人を憎まず、親を敬する者は敢えて人を侮らず

とある。親を篤く愛するならば、遠くの人への愛情も相応に篤く、憎んだり侮ったりすることはない。

孝の徳で天下が治まるというのは、決して机上の空論ではないのである。

 

聖人君子は万物を愛する

また、「万物を生み成す天」を親、「天によって生み成された我」を子として考えた場合、人間われが天に仕え奉るということは、子が親に孝行することと同じい。

「父在せば其の志を観る」で、子が親に孝行するには親の心の動きを知り、積極的に尽くすことが肝要である。

人間われが天に孝行するのも同じで、天の道、天の徳を知り、天の好むところと好まざるところを考え、天の愛というものを考え、天意(天理)を汲んで仕えることが肝要である。

とすると、我も必ず万物を愛することになる。万物は天が愛して生み成したものであり、天の愛をそこに見る。天が愛するものを我も愛する。我も万物を愛する。

故に君子は動植物を愛する。親疎の別を考え、近きを特に篤く愛し、遠くもやはり愛し、動物や植物もまた愛する。

 

聖人の愛とは

親疎の別を考えるから、このように広く、大きく愛することができる。

儒学が理想とするのは、人間の社会がうまく治まっているのはもちろん、万物みな慶んでいる世の中である。

 

儒学の愛は、このようなものである。愛は非常に大きく限りがないが、一様に愛するものではなく、親疎の別がある。親疎の別があり、遍く愛が行き渡るのが聖人の徳であり愛である。