曲礼に曰く、立つに跛(ひ)すること毋れ。
跛は偏ること。立つに跛すること毋れとは、片足に重心を預けて立ったり、(壁に寄りかかるなどして)片足で立つなということ。
立毋跛、これは簡単な教えである。何も難しいことはない。早くから実践してきた。
こういう教えがあるから、儒教は小さなことをあれこれやかましい、窮屈であると思う人も多い。
しかし今日、立毋跛が含む教えが極めて大きいことを悟った。
1.潜在的な関心
ある文章を探して、礼記をパラパラとめくっていたら、立毋跛の三文字が目に入った。
なんとなしに読んでいても、ある文章、ある漢字、ある〇〇が殊更に目立って見えることがある。これは、自分が潜在的に意識していること、潜在的に必要と感じ欲していることが目立って見えるのである。
本屋で背表紙を眺めて、なんとなく惹かれるものがある。そういう本は、中身を見ずに買っても間違いが少ない。今の自分に必要な本は目立って見える。
目立って見えるものがなければ、自分に必要な本が並んでいないか、あるいは普段からの意識が低く、潜在的に欲するだけのものがないか、そのどちらかである。
不思議と目立って見える、惹かれる、そういうものを軽く考えるといけない。大切にして、しっかり注目するのが良い。
2.礼を考える
立毋跛、これは曲礼の最初の方に書かれていることで、私はすでに習慣化しているし、当たり前のことである。長い間注意して見ることがなかった。
しかし目に入った。何か得るものがあろうと思い、じっと考えてみた。
2-1.立毋跛はなぜ悪い
立毋跛、礼記ではこれを非礼として戒める。
なぜ非礼になるかといえば、立ち方が偏っているからだ。偏っている、中正でない、だから悪い。
しかしこれだけでは、跛が非礼であるとしても、なぜ悪いかよく分からない。偏って中正ではない、それがなぜ悪いか。これは簡単に理解できるものではない。
子供に教えるなら、分からせようとするほうが無理であるから、「ともかく非礼だからやるな」でよい。
しかし大人は、分からなければできない人が多い。「非礼だから」だけでは納得できない。窮屈、うるさいと感じる。
2-2.礼は敬なり
そもそも礼とは何か。色々な表現ができるが、普通に考えるなら「礼は敬なり」である。孝経には「礼は敬するのみ」とある。
また曲礼には「夫れ礼は自ら卑しくして人を尊ぶ」とある。
体用の別でいうと、礼は体、敬は用。礼が根本で、その表れとして敬がある。
礼と敬は別々のものではなく、礼があれば敬がある。
礼とは「心に慎みがあること」であり、心に慎みがあれば人を敬することにもなる。
また礼は理なり。理は筋目である。
人の考えることや行うことは色々だが、何事にも良き程度、筋目というものがある。中庸なるところがある。礼があり、理に順うならば、考えることや行うこと、万事正しくなる。
仁義を行うにも、間違いがなくなる。仁とは愛すること。しかし親へと他人を同じように愛するのは仁ではない。墨子の兼愛は不仁である。
礼を以て節するならば、このような不仁を防ぐことができる。
礼があれば節を越えない。
節は節度。何事にもルールがある。これ以上は越えてはならぬという規律がある。それを守ることが節である。
親を10愛し、他人も10愛するならば、他人に対して仁が過ぎる。節を越えている。他人にも色々だが、品に応じて、例えば5愛すべきものは5愛する。
礼を以て節する。品に応じて程よく行う。これで、仁義が却って不仁や不義になることを防げる。
2-3.礼と法の違い
この「防ぐ」ということが重要だ。
礼は防也。礼を以て、理に順い、節するならば過不及なく程よきところを得る。過不及あって間違いが生じるところを、礼を以て防ぐ。
「防ぐ」というと「法」のイメージがある。法による抑止力を思わせる。しかし礼と法は似て非なるものである。
礼は事前に防ぐ。慎んで理に順い、過不及なく、間違いが起こらないように努める。
目に見える間違いが起こらない。目に見えないから、礼の効果は小さく思われるが、実際の益は極く大きい。
間違いを起こさず、徳を損なうことなく、日々善に進んで、粛々と徳を積むことができる。
法は事後に防ぐ。慎みなく、理に順わず、過ぎたる過ちや及ばざる過ちが起きる。既に過ちが起きた後、その罪の程度に応じて罰する。刑罰で戒め、再犯を防ごうとする。
実際に間違いを起こし、刑罰を受けている。目に見えるから、効果も大きいように見える。
しかし、間違いを起こせば徳を損なう。善に進んで徳を積むことが難しくなる。礼に比べると法の益は極く小さい。
2-4.為政篇に曰く
だから孔子も仰る。
之を斉ふるに刑を以てすれば、民免れて恥づることなし。
之を斉ふるに礼を以てすれば、恥づる有りて且つ格る。
刑法で正そうとすれば、人民に恥がなくなる。法の抜け道を探して刑罰を免れようとしたり、悪いことをして捕まっても「まあ棒叩き何回で大丈夫」などと考えたりする。罪を犯すことそのものに対し、何ら恥じることがなくなる。
いくら法を整えても、却って犯罪が増えたり、悪質になったりする。老子の言葉にも「法令益々明らかにして盗賊多し」とある。
礼を以て正すならば、人民は罪を犯すことそのものを恥じるようになる。
2-5.日常の心掛け
礼を重んじる。心に慎みがあり、理に順い、邪を防ぐ。
しかし、ただ頭で「慎しもう」「理に順うべし」「邪を防ぐべし」と言っても何にもならない。
常日頃から心掛けて慎むことが大切で、だから礼儀三百威儀三千というような細かな教えを守って、慎みを習慣化するのである。
まず教えるのが飲食の礼。礼の始めは飲食にありとする。曲礼には飲食の礼が細かく書かれている。飲食のほかにも、立ち方、座り方、その他色々な日常の行動を通して礼を学ぶ。小さな礼を積み重ね、我が身に体し、常に慎むところに至る。
2-6.君子は独りを慎む
常に慎むとはどういうことか。
礼記の少儀に曰く、
虚を執れども盈を執るが如く、虚に入れども人あるが如くす。
空っぽの器を持っても、いっぱいに入っているように慎んでに扱う。
人のいない部屋に入っても、人がいるように慎んで振舞う。
大学にも「君子は独りを慎む」とある。常に慎む、いつでも慎む、独りでも慎む。
常に慎みを失わないとは、こういうことをいう。
2-7.立毋跛が含むもの
最近、マナー講座のようなものが流行っているという。それも悪いとは言わないが、マナーのためにマナーを身につけるのは、儒学の礼とは違う。儒学の礼は、そんなつまらないものではない。
常に心に慎みがあり、いつでも過不及なく中庸で、邪を防ぎ、克己復礼で仁を得る。儒学の礼ではこれを目指す。立毋跛、正しく立つのも道のためである。
立毋跛は単に「正しい立ち方」を教えるものではない。この三文字で「礼の宇宙」とでもいうような、非常に大きいものを含んでいる。表面的に見ると、小さく、うるさく、窮屈な教えと感じるが、なかなかどうしてそんなものではない。
立毋跛に限らず、礼に関する一つ一つの教えが、全て大きな礼を含んでいる。
3.肩こりを考える
前置きが長くなった。ここからが本題。
立毋跛について改めて色々考えて、上記のようなこともつらつらと思い、やはり立毋跛は悪い、心の偏りも悪いが、身体の偏りも同じく悪い…
そんな風に考えていくと、普段、筆写する時の姿勢に思い至った。
3-1.肩こりの原因
長い間、右肩の痛みに悩まされてきた。常時痛むのではないから「肩こり」といえるかどうかわからないが、筆写すると痛む。
筆写自体、負担の大きい方法であるから、それを続ける以上は仕方のないこととして受け入れてきた。
私は、人からも姿勢が良いと言われる。立つにも座るにもシャンとする。しかし筆写の時に限っては長年の習慣で右に大きく傾く。
なぜこんな姿勢になったかといえば、筆写する時に眼鏡を外したことによる。
私は極度の近眼で、眼鏡をはずすと10㎝くらいの距離でないと文字が読めない。
だから眼鏡をはずして勉強した。眼鏡をはずすと、目の前の文字のほか、周りのものは何も見えなくなる。何も見えないから、集中力を保ちやすい。
周りが見えると、例えばスマホが光れば気づく。誰か連絡してきた。気づかなければそれまでだが、気づいて無視するのは不義に思えて性に合わない。そこでスマホを手に取る。必要であれば連絡を返して、ついでに他も確認する。
これで集中力が切れるわけだが、眼鏡をはずしておけば、そんなことはない。
筆写するとき、本は体の正面、ノートは右手。
本を読むときは、机にうつぶせるような恰好で顔を近づけて読む。
書く時は、身体を大きく右に傾け、ノートに顔を近づけて書く。
そんなことを続けていたら、眼鏡をかけて勉強するときにも同じような姿勢になった。数時間もやると肩がひどく痛んで、集中力を欠くのが悩みになった。
3-2.陰陽理而後和
肩こりの原因は明らかだが、今更矯正したところで治るものか。そう思って悪い姿勢で続けてきた。
しかし立毋跛、立つときに偏ると悪い。座るときに偏るのも悪い。ものを書くにも偏るは悪い。
姿勢を改めることで肩こりも治るのではないか。
礼があれば、万事正しくして治まる。儒学ではそう教える。その通りであれば肩こりも治らねばおかしい。
周茂叔、これは明道先生のそのまた先生であるが、この先生曰く、
陰陽理而後和(陰陽は理ありて後に和らぐ)
陰陽の二気に理があれば(陰も陽も過不及なく、理に順って正しく流行するならば)、結果として和らぐ。
「和」は和順で、程よくなること。天地のめぐりで言えば、陰陽に理あり、流行正しく、四季が間違いなく春夏秋冬でめぐるというようなもの。
人間として礼を正す。心に慎みがあって、乱れることなく、理を得て和順。これで人の道が天の道に適う。人として為すべき行いを、四時のめぐるように間違いなく行うことができる。
立毋跛。偏ることなく正しく立つ。陰陽理而後和。
筆写するにも、偏ることなく正しい姿勢で取り組んで、陰陽理而後和。
偏ったおかしな姿勢は礼ではない。理に中らない。陰陽理に中らねば和することもない。陰陽二気正しくめぐることなく、学ぶ上で色々な不都合が出てくる。
その小さな表れとして、肩が痛くなる。姿勢が悪いから、非礼で理に中らぬから、陰陽二気正しくめぐらず、不和が生じて痛みも出てくる。他にも自覚していないだけで、別のところで悪いことが起こっているだろう。姿勢が悪いと内臓を悪くするという。
東洋医学では、気のめぐりというものを非常に重く見る。気のめぐりが悪いと疲れや痛みや病が出てくる。姿勢が悪く、陰陽二気の流行正しからざれば、肩や腰や首に痛みが出るのが道理である。
根本通明先生も、陰陽をよく考えて生活するなら、健康を損なうことはないと仰った。そして実際、晩年まで視力は衰えず、足腰もしっかりと、健康そのものであった。
3-3.正しい姿勢とは
ゆえに、姿勢を正すことで肩の痛みもなくなるに違いないと、そう考えた。
ものを書く時の正しい姿勢とはどんなものか。
調べてみると、トンボの公式サイトが分かりやすかった。
小学生のころ、こんなことを学校で教わった気がする。
しかし強制ではないし、文字が書ければ何でもいいだろうと思って、別に意識したことはなかった。
過ちは改めるべし。姿勢が悪ければ正すべし。これに沿って、真面目に改めた。
長年の習慣で、油断すると体が傾く。それを防ぐために、手を置く場所、座った時にヘソが来る位置、椅子の高さなどなど、机に修正液で印をつけたり、下敷きをセロテープで固定したり、色々工夫をした。
2時間ほど微調整を続け、ひとつの形を作った。
3-4.肩は痛まず集中力増す
実際に筆写してみると、慣れない姿勢でやるから疲れる。
しかしこれは身体的な疲れではなく、精神的な疲れである。しばらく書くうちに慣れた。
5時間ほど筆写を続けたが、肩がいつものように痛くならず、これには驚いた。
集中力も格段に増した。
もともと集中力はある方だが、肩が痛くなるとそれを発揮できない。痛みに気を取られるし、立ち上がってストレッチすることも増える。そのたびに中断するのだから、集中の続くはずがない。
しかし姿勢を正して5時間、これが一度もなかった。本来の集中力を保って、大いに学ぶことが出来た。
陰陽二気正しく流行して和順行はる。これで集中力が続くのは当然のことだ。
陰と陽が和すると、争いが起こらず、歪みが生じることなく、うまくめぐる。
君子と小人が和すると、天下はうまく治まる。小人を儘くやっつけるようなのは、却って乱れのもとである。
一人の人間においても、陰陽が正しく流れて和するなら、何事もうまくいく。
心がぴちぴちとして隙が無い。為すべきことを正しく為せる。我が為すべき学問を、長い時間でも集中力を損なうことなく、しっかりやれる。
陰陽和せざれば、心は脆く、容易に隙が生じる。休みたい、怠けたい、肩が痛いからちょっと休憩。そういう気分が入り込んで集中力を損なう。
陰陽理而後和、姿勢が正しければ、肩も痛くならないし集中もできるのが道理だ。
5.肩こって学問進む
五常としての礼は大きい。立ち方や座り方などの日常の礼は小さい。しかし、どちらも礼の話である。
礼を大きく捉えると、それを実践するのは難しいし、礼の功を実感することも難しい。
しかし小さな礼を大切にして、日常で色々工夫してみると、礼の功を様々な形で実感できる。肩が良くなることも、そのひとつである。
一見つまらないことだが、そこに陰陽の理が確かにあり、我が身をもって体験できるのだから、その益はまことに大きい。陰陽という、なんだかよく分からない空気のようなものが、我が身で分かるのである。
儒教の理想は高尚なだけに、日常のつまらないことをなんとなく軽視しがちだ。それでは慎みがない。礼もない。
礼あって理に中れば万事調うが、礼なくして理に中らざれば万事乱れる。当然、肩も痛くなるし、勉強にも不都合が出るというわけ。
なんでもないようなことが、実は極めて大切。東洋の学問にはそれが多い。
白露の己が姿をそのままに紅葉に置けば紅の玉
一休さんの歌である。一滴の水に「空」を見るような学問をしたい。
学んで考えるのが学問だ。学んで、考えて、それで耳目聡明。物事を正しく見ることができ、正しく聞くことができ、正しく捉えることができる。そうなるために、学ぶのはあくまでも前提にすぎない。考えることのほうが一層重要だ。
今日、肩こりに陰陽を見ることができた。
考えるとはどういうことか、どれだけ重いか。少しだけわかった。