筆写していて、ふと思った。私の書く文字は、一文字一文字ではそれなりに納得できても、一枚書き上げてみると、どうも汚い。
なぜであろうと考えた。すると、漢字と平仮名の書き分けを意識せず、どちらも同じ気分で書いているから悪いのだと気づいた。
漢字と平仮名で陰陽があるではないか。もちろん、こんなのは当たり前のことだが、別に意識したことはなかった。毎日毎日筆写しながら勉強して、その筆写ということに、陰陽の別を何ひとつ見出してこなかったわけだ。
初めて気づいて、色々考えてみた。日本語を書くにあたっては、陰陽を意識すべきではないか。単に日本語を筆記するという意味でも、日本語を以て執筆するという意味でも。
考えたことを整理しつつ、この記事を書いてゆこうと思う。
陰陽とは
儒学において、陰陽は最も根本的な思想である。
天地陰陽相交わって万物を生成する。人間もこれで生まれる。
この時、天が主となり、地が従となる。
天は陽であり、剛強・積極的である。地は陰であり、柔弱・消極的である。
天が造化作用の主となり地に働きかける。地はどこまでも柔弱にして、従に徹して天の作用を受け入れる。これが天地の生理である。
世の中のことは、何においても陰陽の別がある。陽ばかり、あるいは陰ばかりということはない。
人間には男女がある。動物にはオスとメス。
一日は一日でも、陰陽に分けると日中と夜がある。もっと分けると朝・昼・夕・夜。朝昼が陽で夕夜が陰である。
一年は一年でも、そのうちには春夏秋冬の四時がある。春夏は生物が積極的に成長する時期であり、陽にあたる。秋冬は陰。積極性はなく、実を結び、種をつくり、枯れて、翌年の新たな生成に向けて消極作用に徹す。
日本語の筆記
日本語を筆記する場合はどうか。
これは漢字と平仮名に陰陽がある。これを意識して書き分けるべきである。漢字が陽、平仮名が陰である。
文字に陰陽あり
漢字は陽で剛。直線や角が多く、堅い。また積極的である。一文字で様々な意味を持つ。
平仮名は陰で柔。やわらかな曲線を多く用いる。また消極的である。一文字が持つ意味は極く少ない。
日本語を筆記するにあたり、漢字の持つ陽性と、平仮名の持つ陰性をよく考えながら書くことで、よりきれいなものが書けるのではないか。
明道先生の文字
確かにそうであろう。
しかし、さらに色々考えてみると、これは非常に浅い。
私は程明道先生が好きである。
明道先生が文字を書く時、いつも丁寧であった。曰く、
某 字を写す時甚だ敬 む。是れ字の好 きを要むるに非ず。即ち此れ是れ学なればなり。(私が字を書く時、丁寧に書く。これは綺麗な文字を書きたいのではない。文字は丁寧に書く、学問とはそういうものである。)
これを読んで、偉い人だと思った。尊敬の念を抱いた。
明道先生を真似るつもりで丁寧に書いた。文字が随分マシになった。
それが嬉しくて、明道先生が「きれいに書くためではない」と言ったのをすっかり忘れ、丁寧に美しく書くことに気を取られてきた。
それがかえって、「漢字と平仮名のバランスが悪い、これは陰陽に問題がある」という気づきにもなったわけだが、しかしまあ、最初から間違っていたわけだし、気づくのも遅い。
体用の別
体と用の別を意識すると、自身の間違いがよく分かった。
礼を体とすると、その表れ、つまり「用」は敬いである。礼があるから敬うことにもなる。無礼であれば敬いもない。礼があっても敬わなければ意味はない。
礼が体、敬が用。学問に対して礼があるからこそ、一文字を書くにも丁寧(敬)で綺麗に書くことになる。
ただ美しさのために丁寧に書くなら、それは体を無視して用を為そうとするのであって、順番が逆である。儒学では順を重んじる。逆ではいけない。
明道先生は、文字の書き方を通じて、こういうことを教えたのであろう。今、ようやく分かった。
儒学的文章とは
更に推すと、「文を書くこと」においても当然陰陽がある。
漢字平仮名陰陽相交はること
漢字と平仮名の陰陽で言っても、漢字だけ、陽ばかりでは文は書けない。平仮名だけ、陰ばかりでもいけない。
漢字だけ、あるいは平仮名だけでも、文が全く成立しないわけではない。しかし読み難い。文としてふさわしくない。
「文章」というが、文も章も「あや(彩)」を意味する漢字である。アヤがなければ文章としてふさわしくない。
このアヤは、仁義礼智でいえば礼であり、仁を彩るものである。陽であり主である漢字を、陰であり従である平仮名をもって彩る。これで礼が備わる。
漢字が主、そこへ平仮名が従となり、送り仮名をつけ、あるいはテニヲハで文と文をつなぎ、漢字でも書けるところをあえて平仮名にする。
天地陰陽相交わって万物を生成する。一文という小さな単位でも、漢字平仮名陰陽相交わると良いものになる。
そのような文を連ねて、ひとまとまりの文章になる。
この理を推して、文と文の、段落と段落の、章と章の関係。そういったところでも陰陽をよく考えて、ひとつの記事なり本なりを書いてゆく。
文章の仁と不仁
天地の生理、これを人間においては仁という。仁は生成の徳である。
文章にも仁と不仁とがある。
Aについて文章で説明する。読んだ人が、それまで未知であったAを知る。読者の中にAという知識を生ずる。これは生み成す働きであり仁である。
もちろん、文章によって伝える情報にも色々ある。
人を貶したり、嘘を書くならば、その文章は読者に不快感や誤解を与える。マイナス方向のものを読者の中に生ずるのであって、これは不仁な文章といえる。
理想は文質彬彬
人は須らく仁なるべし。人が書く文章も仁であるべきだ。
しかし人においても、文章においても、ただ仁があるばかりでは不十分で、それを彩る礼が欠かせない。
理想は
文は陰。彩り、飾り、外面的なもの。質は陽。内面的なもの。
陰陽の関係は常に陽が主、陰が従である。内面の質が充実している、誠がある。それが外見にも相応に現れる。両者のバランスが良く、中庸を得ていることを文質彬彬という。
質ばかりで文がなければ野卑になる。考え方が正しく、内面的に良いからといって、ぶっきらぼうな態度であれば人から誤解を受ける。これは宜しくない。
逆に、文ばかりで質がないのは巧言令色の類である。こちらは一層悪い。
文章を書くことも同じであろう。
正しいことを書こう、真実を書こう。これは質において良い。
だからといって、質ばかりではいけない。世の中には、内容はともかく、とても読んでいられないような文章がある。テーマや情報、思想など、中身・質がよくてもこれではいけない。
人に読まれない、あるいは読まれても理解されない文章であれば、それは生理に乏しい、仁に乏しい文章であるといえる。
丁寧に説明すること、修辞をよく用いること。こういったことは、文において良い。
しかし文ばかりで中身がなければ、それはそれで生理に乏しく仁に欠ける。中身・質が悪く、人に害をなす文章であれば却って不仁となる。
「バランスが良い=5:5」ではない
陰陽の塩梅を考えながら文章を書くこと、それで初めて文質彬彬になり、本当に良いものが書ける。
この「塩梅を考える」ということが重要である。塩梅の良いこと、中庸であること、バランスが良いということ、これは5:5を言うのではない。
中は「真ん中」、10㎝の長さであれば5㎝のところを真ん中という。だから中庸ということについても、あくまでも5:5の真ん中を中庸と考える人がいるが、それは誤り。
中庸は5:5の意味ではない。陰陽相和するということは、10あるうちの陰が5、陽が5をいうのではない。その時々において変わる。陰が9、陽が1、それでバランスがよければ、そこが中庸である。
左に10gの重りが10個、右に100gの重りが1個。これで天秤が吊り合う。
ならばこれはどうか。
「左には10個ある、右の方が9個少ないじゃないか。これは平等でないから右に4.5個やれ。それで左5.5個、右も5.5個。これで吊り合いが取れたであろう。」
これでは、吊り合いを失って右に大きく傾く。こんなバカな話はない。しかし、世の中にはこんなことが随分ある。バランスバランスと言いながら、アンバランスになっていることが随分ある。
SDGsにも、そういうところがある。「誰一人取り残さない社会を」などといえば聞こえは良いが、根本的な違いを無視して、何でもかんでも一緒にしようとする。
東洋と西洋の違い、男と女の違い、大人と子供の違い、他にも色々だが、この間にはどうしても埋めようのないギャップがある。それは埋まらなくて良い、無理に埋めると却っておかしくなる。
埋めるべきものを埋めるのは良い。大いに賛成である。しかしSDGsには、「重量」ではなく「重りの個数」で考えるような傾向が随分あるように思う。
これは大変危険な事である。本当の平等とか公平とか、「バランスがよい」とかいうのは、そんなものではない。そんな見方・考え方で、良い社会になるものではない。極くバランスの悪い、へんてこな社会ができるだけである。
質あって文あり
文質彬彬も同じこと。質があって文もある。これは文と質が同じだけあるのではなく、質に応じて文が備わり、調和がとれていることをいう。
時には、質が多く文が少なく、それで結構なる場合もあるであろう。外面の修飾に欠けても、内面の誠が充実しておればそれでよい。そんな場合も確かにある。
侘び寂びなどは、その最たるものといえる。
易経・
孚 あり、乃ち禴 を用ゐるに利し。
禴は、周の頃の夏のお祭り。よく、お祭りでは肉を奉げるが禴祭では肉を用いない。夏は暑く、肉が腐敗しやすいからである。主に野菜を供える。
今も昔も、肉はごちそうである。野菜はどちらかというと貧しい方。肉を以て祀るべきだが、それをせずに野菜だけで質素に祀る。
形ばかり、文飾ばかりでやるならば、供えた肉が悪くなっても構わない。生贄となる動物を普段からよく養い、お金をかけて肉をふんだんに用意し、盛大に祀る。文に偏り質に乏しいと、このように外ばかり盛んになる。
しかし祭りは内面の誠を尽くすものである。そもそも、神を喜ばせるためにお供えをするのだから、腐りやすいものを夏に供えるのは誠がない。だから肉は避ける。それで外面が乏しくなっても、誠があるからよい。
そういう孚があって、初めて禴祭を用いてよい、斎行してよい。萃の六二にこう書いてある。
時と場合によって、文と質の塩梅は変わるのである。
禴祭は夏である、ゆえに肉は用いない。内に誠があるから、禴祭ではおのずとお供えが質素になる。外が乏しくなる。それで文質彬彬といえる。
盛大に祀るべき時期であれば、当然そうする。誠があるからお供えものが少なくて良い、とはならない。そういう場合には、誠を以て盛大に祀る。
まず質があって、ゆえに自ら文もある。これが文質彬彬である。「仁があって礼がある」ということと同じい。
文章を書くにしても、文質彬彬であるためには、質あって文ありの順序を弁えるべきだろう。
内の充実が肝要である。正しいことを書く。よいものを書く。内に誠があるから禴を用いるに利し、時と場合によって文が乏しくなるべき場合にも、文質彬彬たるところを失わぬ。
考えが足らない
筆写するにも、体を忘れて用に捉われた。一年間もそれで良しとしてきた。
易も一生懸命やってきたつもりだが、実際の役には立たなかった。本業である文章に活かすことを考えてこなかった。
考えが足らず、漫然と、特に意識せずに書いたのでは、文質彬彬たる文章など書けるはずがない。少しも近づかない。
儒学は実践を重んじる。それには、よく学び、考えることが前提である。いくら学んでも、考えが足らなければ、正しく実践できない。
「実践すべし」ということだけでも、色々考えるべきことがある。「考える」という姿勢が、どうも甘いように思う。
気付いた以上は、改めていきたい。文質彬彬たる文章というものを、もっと考えて工夫していきたい。