周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

性善説に関する追記 / 独学について思うこと

以前、性善説性悪説について書いた。

今回はその追記と、最近考えたことについて。

 

性善説のこと

見方によって性善説にもなるし性悪説にもなるが、しいて言えば孔夫子は性善説であったろうと思う。

そう思う理由について、私なりにひとつのたとえ話をした。

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植物の種には生育発展すべき本性がある。

適切な土地に播種し、水や肥料をやり、気候にも問題がなければ必ず芽が出て実を結ぶ。これが種の持つ本性であって、仁もこれと同じい。

 

易など読み、推して、私なりに考えたことであって、孔子がそのように仰ったわけではない。ただ、孔子はそう仰るであろう、という思いで書いた。

 

益軒先生曰く

今朝、同じ意味の記述を『五常訓』に見つけた。

五常訓は貝原益軒先生の著。先生は江戸時代の儒者であり、私にとっては郷土の先輩でもある。

 

益軒先生は、総論で性善説を丁寧に解説した上で、仁というものを解き明かすにあたり、種の話をしている。

私が先のブログで書いたよりもずっと明快であるので、ここに紹介しておきたい。

桃の実、杏の実を、桃仁杏仁と云ふことも、亦、よく名づけしなり。仁は、人の心の生理なり。桃杏の実、植うれば必生ず。是、其の内に、生理あればなり。もし、生理なくんば、死物なり。うゑても、生ずべからず。桃杏の実、生理内にありて、いまだ発生せずといへど、発生の理を内にふくめり。是を以て、桃仁杏仁と云ふ。仁の内にありて、いまだ発せざるも、亦、かくのごとし。発せずといへども、愛の理は内にふくめり。

 

明道先生曰く

なお、この例えは益軒先生が最初ではない。すでに明道先生が同じように説いている。ゆえに益軒先生云う、

程子曰、心は、たとへば、五穀のたねの如し。たねの生意あるは、仁なり。其のたねをまきて、陽気発して、苗生出づるは、愛の情なりと。苗はじめてきざすは、惻隠の心なり。是の説を以て、仁の理をしるべし。

 

独学について

性善説にしてもそうだが、自分なりに考えて、色々に解し、工夫していくなかで、例えを用いることもある。

しかし、自分では良いと思ったことの多くは解釈が浅かったり、例えが不適切であったりする。

これが独学の弊であるといえば確かにそうだ。

一般的に、生身の人間から指導を受けるのではなく、本などを頼りにあくまでも独力で学ぶことを独学という。私もそのように考えてきた。

しかし最近、私は独学ではないと思うようになった。

 

私の儒学は、生身の人間から指導を受けたものではない。

古の聖賢に学び、あるいは根本先生や公田先生といった大儒に学んできた。

それで独学だ、自分ひとりでやっていると思いこむ。それは寂しいことであるし、小さな学問であろうと思う。

 

孔子を師とする

天の徳、生理、人においては仁といい愛といい惻隠ともいうが、そういったことをよくよく考えていけば、人と我との間はもとより、我と万物との間にも隔てがなくなる。

過去の人と今の我との間にも、何ら隔てがない。孔子の時代から現代まで約2500年、この隔たりは非常に大きいもののように思われるけれども、実のところ大した隔たりではない。

孔子の時代も、現代も、天の生理と人の仁は同じ理であるし、これは何も変わっていない。儒学ではそう考える。

孔子の時代の仁、現代の仁、孔子の仁、我の仁、何も変わるものではない。何千年という時間ごときが、隔てられるものではない。

 

「現代の生きた人を師とすべし。古の聖賢は過去の人であるから師にできない」

こんなおかしな話はない。このように考えるならば、道統上の連なりが失われる。おそらく生身の人間でさえ、本当に師とすることはできないのではないか。

 

過去の人か、現代の人か、生身の人間であるかどうか、これは大した問題ではない。

ここを大きな問題にすると萎縮してしまう。根本的には何も問題ではないのに、この根本を無視するとおかしな考え方になる。甚だしくなると、生身の人間に就かず、書によって学ぶ人間を異端とみなし、謗るようなことにもなる。

学究ということであれば、生身の先生から細かい指導を受ける必要があろう。私はよく知らないけれども、論文の書き方とか、文献の読み方とか、直接指導されなければ分からないことが色々あるらしい。

しかし、本来儒学は道を修めることが目的である。師は生身の人間に限らない。生身の人間を師とせねば独学、これは小さい。

 

陰陽相和すること

もちろん、生身の人間を師とするのが悪いのではない。そういう人がいれば、直接尋ねることもでき、それによって学問が進むこともある。大体、孔門の先輩方は、孔子という生身の人間を師としたのであるから、それが悪いはずがない。

ただし、結局は学ぶ者の姿勢次第であって、師を持ったことで自分で考えなくなる人も少なからずいる。

生身の人間を師としなければ、直接尋ねることもできない。これが却って良いこともある。

 

根本通明先生曰く、

総て学問は、考へて思ふ事が第一である。唯々後世のやうに、講義を一と通り聞いて居るといふやうな訳ではいけない。

孔子を師とする。書を読んで、教えを受ける。そして考える。

考えると、自分なりに分かることがある。実際、考えただけ分かる。考えないよりは確かに分かる。

 

独学の弊

ただし、この「自分なり」は「自ら画る」になりやすい。

特に、「生身の師を持たないから独学している」という意識であれば、往々にして自ら画ることになる。

独学にしては、先生がいないにしては、直接質問できないにしては、まあ良く考えた方だ、というような。

 

10考えるべきところを8でよしとする。自分の中で、8が良き所になる。考え方が足らないのに、そこを良き所とする。

その後、この8を10と見立てて独学する。また8で満足する。これは、最初の10考えるべきところから見れば6.4である。

繰り返すたびに考えが足らなくなってくる。学問を続けるにつれて、学んだことの割には低く小さくなる。空気の抜けたボールのようになる。

学問してきたには違いないし、全く空っぽでもない。そこから大いに考えるなら、躍進することも間違いなかろうと思う。

しかし、なかなかそうならない。自分では十分考えていると思い込んでいるからだ。だから間違った仁義、独善で人を害するところが出てくる。これが独学の弊である。

 

生身の師を持った場合にも、指導が足らないとか、あるいは本人の怠りで考え思うことが足らなければ、同じことになろうと思う。師がいる間はあまり心配ないが、やがて師から離れて独自に学んでいく段になると、同様の弊が出てくる。

 

柔に学び剛に考える

独学と思わず、孔子を師とすることによって、この弊はかなり減らせるように思う。

書で学び、直接質問することもできないが、それだけにどこまでも考えていこうと思う。

 

学ぶ姿勢は柔であり消極的である。剛ではなく積極的ではない。

古の師が書で教えることを、我を立てずに、柔にして、そのままに受け取ってゆく。

そのままに受け取って、考える。考えると疑問が起こる。それを自ら画ることなく、どこまでも剛に積極的に考えていく。

考え、深めていく中で、先儒が一隅を挙げて教えてくれることも多い。

まず柔に消極的に教えを受け、それから剛に積極的に考える姿勢がなければ、先儒の指導にもピンとこない。

 

また、考えて考えて精神凝ってくると、夢で教えてもらうことも出てくる。

孔子はそうであった。しばしば夢で周公に逢った。

これは別に摩訶不思議な話ではない。こういう例はいくらもある。

管子にも「之を想うて得ざれば鬼神之を教える」とあって、考えて已まず、苦労を重ねていると、そのうちに夢で教えてもらうとか、そういうことが出てくる。

 

学問を積み重ねるとき、漠然と広く学ぶは悪い。礼を以て約せよと孔子は仰る。

陰陽でいえば礼は陽の方である。仁・礼は陽、義・智は陰。

したがって、柔に学んで剛に考えるという、この「考える」には「礼を以て約する」も当然含まれる。

考えなければ約するということにはならない。陰に柔に学ぶだけでは、ただ知識が多いだけになってしまう。これは、大変な恥である。

菜根譚に曰く、書を読みて聖賢を見ざれば、鉛槧の傭たり。

経書を読んだはいいが、聖賢の心を知ろうとせずに単なる物知りになる。そんなものは、印刷屋の雇われ人と何も変わらない。

 

天地陰陽相和して万物生成する。学問もそれが肝心である。

剛柔相和するように学び、考え、工夫していくならば、いわゆる独学の弊というものはなくなる。四季のめぐりのように、我が学問も健全にめぐり、発展し、どこまで進んでも常に生気があり瑞々しい。そんな学問ができるに違いない。

 

孔子を師として

ここ数日、色々考えることが多かった。師とか、独学とか、そういったことも色々考えた。根本的なところから推して、自分は独学ではないと思い至った。

長年、独学と思ってやってきたが、いかにも小さかったと思う。

 

私の師は孔子である。

根本先生も公田先生も、益軒先生も、古の聖賢を師とし、その教えを尊び、その書を読み、学問し、人の道を知ることに努め、道を修めた。であれば、これらの先生方も孔子を師と仰いだのであって、私の兄弟子といえる。

 

これは非常に大きな気付きであった。学問に対する姿勢、考え方が明らかに変わった。

今後、色々なことが良い方向へと変わっていくだろう。