以前、DMで質問を受けた。
小人に腹が立つことが多いが、どうすればよいかという質問であった。
私なりに例など用いてお答えしたが、十分ではなかったと思う。
その後も1ヶ月ほど色々考えて、ある程度満足できる結論に至った。
質問と答え
質問
質問の内容を簡単にまとめると、以下の通りである。
小人、私利私欲、自らのことしか頭になく、自己中心的な、且つ攻撃的な人に関して、私は、つまらぬ人やつまらぬことに関わるよりは、その時間を学問に向けたいと思いもあるのですが、相手に仁の欠片もなく、自分のことだけを重要視した人への攻撃的な言動を受けると、生来の短気な性格から相手を打ち負かすまで止まりません。
事後、自らの仁の小ささと度量のなさを自覚し落ち込んでいます。
世の中に、くだらぬ人が多くいると思います。私利私欲で、他人の犠牲を屁とも思わず、自らを肥やすことばかりを中心にする人ばかりの様に感じます。
儒学では、どうすれば良いのでしょうか。
大きな仁で包み込みのが理想なのでしょうが、私の仁が小ささ過ぎて、相手を許せません。
回答
この時は、以下のようにお答えした。
私利私欲ばかり、自らのことしか頭にないから小人なのです。小人とはそういうものです。
そういうものであるから、私は大して気になりません。
小人はおかしなことを言うもので、だから小人なのです。おかしなことを言う、おかしな人間を気にしたところで何にもならないと思います。仰る通り、その時間は学問したほうが良いでしょうね。
私も、おかしなことを言われることがあります。
(ここでは、私自身がほとんど知らぬ人から、支離滅裂な罵りを受けたことを例としてお話しした。その相手が誰であるか、分かる人には分かってしまうため詳細を伏せる。)
「攻撃的な言動で腹が立つ」というのは、例えばこういう発言でしょうか。
このように言われると、多少は気分が悪いものですが、腹を立てることはありませんでした。冷静に考えると、腹を立てる必要はないと分かります。これは、おかしな人間のおかしな発言です。そんなもので、私の価値が上がったり下がったりするものではありません。これがわかれば腹は立ちません。
短気は良くないですね。せっかく学問しても、頭に血が上ると学問が役に立たなくなります。あまり焦る必要はないと思います。学問すれば短気くらいはやがて治るのではないかと、私は思っています。
大きな仁で相手を包み込む、これが最上です。易など読んでも、小人を徹底的に排除するよりも、小人を感化する方がよほど優れていると書いています。
しかし、これができれば聖人に近いでしょう。なかなか難しいことです。私も、小人を仁で包み込むような感覚は持てません。相手の言うことを一旦考えてみて、おかしい、小人であると思えば気にしないだけです。気にしないというのは、道に落ちている石のように見えるということです。よけるか、跨ぐかするだけで、あまり心が動かないだけです。
また、小人と争うことの愚かさも易を読むと分かりますね。小人というのは、攻撃的という悪徳を知りませんから、なにかと攻撃するものなんですね。そういう性質があるから小人です。
それと争ったところで、第二第三の小人が出てきます。一人ずつやっつけるような暇はないでしょう。どこかで大けがをするかもしれません。
だから昔の賢人は、道なき世を逃れるわけです。長沮・桀溺の類です。別に逃れたから偉いというわけではなく、逃れたから咎を受けずに済む、小人と無縁でいられるということです。
殊更に相手を許す必要もないでしょう。しかし許さないから対決するというものでもないと思います。
メッセージの内容から、すぐにカッとなってしまうのだろうと思います。まずは、一旦冷静に考えることが大切かと思います。
学問すれば道理がわかる、道理がわかって冷静に考えることができれば、腹を立てるべきか、その必要がないか、明らかにわかります。
大抵の場合、腹を立てる必要はないと思います。ましてや、徹底的にやっつけるべき問題は、そう頻繁には起こらないはずです。
なぜ気にしないのか
これは私にとって、満足できる回答ではなかった。
私は、君子だから偉いとか、小人だから偉くないとか、そういうことはあまり考えていない。
確かに君子は偉いし、小人は偉くないだろう。論理的にはそうである。しかし感覚的にはそうでない。この考え方が過ぎると、おかしなことになる気がする。
それをうまく言語化できない。例など用いてなんとかお答えしたが、どうしても小人は卑いものであるから気にしない方がよい、くらいのことしか言えなかった。これは半分本心であり、半分は本心ではない。
色々考えて、整理してみるとわかったことがある。
私の本心としては、「小人は卑いものだから…」より「そもそも気にしない」の方が強いのである。
自分の心を色々探っても、「小人は卑いから…」という意識があまりない。
卑いから気にしないのではなく、気にするほどでないから気にしない。なぜ気にするほどでないかといえば、それも「卑いから」ではない。それ以前に、自分の心に強く働きかけてくるもの、深く斬り込んでくるものがないのである。
「冷静に考えれば腹は立たない」とお答えしたが、正直なところ、あまり冷静に考えることもない。
イラッとすることはもちろんある。しかし腹を立てるというほどでもなく、なんとなく気にならず、考えることにもならず、結果的に無視する。
石ころのように見えるというのも、そういう感覚である。しかし相手は人間であるから、この例えも適切でない。
だとすれば、この回答は色々とおかしい。それが気になって、その後も色々考えていた。
新たな気づき
考えて、新たに気づくことがあった。
元は一ということ
君子と小人、善と悪、陽と陰。どれも相反する関係で、二つがそれぞれ存在しているように見えるが、実のところそうではない。
善があるから悪があり、悪があるから善がある。君子がいるから小人がおり、小人がいるから君子がいる。
どちらも片方だけでは成り立たないし、別々に存在するのでもない。どちらも同時に存在する。二つでひとつである。コインの裏と表のようなもので、裏があれば表があり、表があれば裏がある。表があって裏がないコインは存在しない。
世の中には必ず小人が存在する。これも同じ道理である。
君子がどれだけ頑張っても、小人をゼロにすることは不可能である。君子がいれば、小人もいるのが道理である。
陰があるから陽があり、陽があるから陰がある。
また陰と陽は往来する。元と陰陽は太極から分かれたものであって、本来は一である。
君子も小人も天が生み成した同じ人間であって、元は一である。
君子を志して小人になる理由
孔夫子の学問は、君子を養成するものである。
そもそも人間の性は善であるから、誰でも君子性を持っている。しかし同時に小人性もある。陰陽の理でいえば必ずそうである。
君子性を育て、小人性を抑えるのが君子の学問と言える。
まともに学んだ者は、君子にならなければおかしい。
儒学をやって、小人を激しく悪む。私の個人的な感覚だが、この弊はむちゃくちゃ多い。とても多い、かなり多いといった表現ではぬるい。
小人を甚だしく憎むのは、君子性の顕れに見える。そういう部分も確かにある。しかし、小人性の顕れである方が圧倒的に多いように思う。
君子の学問をやると、君子はどんなものであり、小人がどんなものであるか分かる。
現実生活で小人的な人をみれば、「あれは小人である」と気づくことが出てくる。
学問によって君子性が少しく成長すると、他人の小人性が目に付きやすくなる。
そこで、他人の小人性をひどく悪む。安易に罵ったり、ひどく攻撃したり、反撃されたら徹底的に戦おうとする。
これは君子の振舞いではない。小人の振舞いである。内面の小人性によって、他人の小人性を激しく悪む方へと流れるのである。
心の中の君子性・小人性のうち、君子性はあまり振るわず、小人性を振るうことが多くなると、君子性が衰え、小人性が旺盛になる。
小人には、入り込む性質がある。君主に取り入り、讒言して賢人を遠ざけ、智慧を曇らせ、暗君にしてしまう。
心の中の小人(性)も、油断すると手が付けられなくなる。君子の学問をやって得意になると、その得意に乗じて小人が伸張し、手が付けられなくなる。
儒学をやったにもかかわらず、却って君子から遠ざかってしまう、小人が出来上がってしまう。そういう例が非常に多いのは、こういうわけであろうと思う。
そもそも小人とは
ここまで、小人を甚だしく悪むのは悪い、と話してきた。
この点について、もう少し深く考える必要があるように思う。
小人にも色々で、そもそも小人とはどんなものであるか、何が問題であるかを知らなければ、悪むも悪まないもないのである。
君子の儒と小人の儒
天の生成の徳を思うに、君子も小人も元と一である。どちらも天から生まれたものである。万物を生み、愛し育てる天の徳を思い、人間われの徳もそうあるように努めるならば、小人を激しく悪むのは間違いであるといえる。
ただし小人にも、小型の小人と、大型の小人がいる。
君子が小人を悪むというのは、大きな小人性を持つ者が暴走し、社会に害をなすことを悪むのである。
そんな大型の小人は少ない。ほとんどは、あまり害のない小型の小人である。
小人も天の生んだものであれば、本来善性を持っている。小型の小人は特にそうである。
小人というだけで甚だしく憎むことは、人の善性を全く無視する考え方である。
こういう考え方に陥るのを、小人の儒とか腐儒とかいう。君子の儒ではない。孔夫子が教えたのは、そういうことではない。
孔夫子が悪んだ小人
経書に出てくる小人には、「身分が低い人」または「徳がない人」の意味がある。
小型の小人を悪まず
当時、庶人をはじめとする身分の低い人は学問ができなかった。学問とは徳を磨くものであるから、学問ができなければ徳を身につけることも難しい。
「身分が低く学問できない=道徳がない=小人」といえる。この場合、大抵は小型の小人である。
孔夫子は、この小人を責めない。むしろ憐れむ方であった。
あるとき、こう仰った。
「自分が政治をするなら、まず人々を富ませよう。生活が豊かであれば、齷齪はたらく必要もない。そしたら、学問をさせよう」
当時の人々は貧しく、生きるために必死に働く必要があり、学問など迚もできなかった。道徳のあろうはずがない。それは仕方のないことで、責めるべきことではないし、ましてや悪むべきことではない。
大型の小人を悪む
孔夫子が悪んだのは、それなりの地位におり、学問道徳があるべきはずであるのに、徳がない小人である。これは、一国に害をなす大型の小人である。
そんな者が権力を握れば必ず悪政を布く。人々は苦しみ、学問もできず、徳を身につけることもない。小型の小人は被害者であって、この意味でも責めるべきでない。
孔夫子が悪んだのは、この大型の小人である。
孔夫子は大司寇になってすぐ、少正卯を「小人の姦雄」として誅殺した。少正卯には五つの悪徳があった。
・心が悪意に満ちており、
・偏った行いに固執し、
・嘘を雄弁に語り、
・他人の悪事ばかり記憶し、
・悪事をなしても立派な事のようにみせる
これらはどれも、ひとつひとつが社会に大きな害をなす。このうち一つがあるだけでも殺すべきである。
少正卯は超大型の小人といえる。
現代の小人も同じ
質問者もそうだが、「小人の振舞いには腹が立つ」と思うようなのは、ほとんど小型の小人であろう。
身分制度というものが無くなり、だれでも勉強できる立場にある。しかし、義務教育で教えられる勉強は、君子の学問ではない。徳を磨くためのものではない。学問が手段に成り下がり、却って徳を損なうことも多い。
人々は豊かになった。少なくとも、普通に生きていて餓死するようなことはなくなった。殊に日本には、働けない人も生活が保護される制度がある。
豊かであることは良いことである。しかし豊か過ぎる場合、その豊かさを各人がどう生かすかが問題になってくる。
最低限の生活をするに、さほど苦労を強いられることはなく、その気になれば学問ができる。良い本も容易く手に入る。
しかし学問以外に、その気になればできること、その気になりやすいことが多すぎる。有り余る豊かさが多くの娯楽を生み出した。真面目に生きるより、不真面目に生きたが良いと思わせるような、良くない情報も溢れかえっている。
これでは、小型の小人が増えるのも仕方のないことである。
小型の小人は、おかしな理屈で罵ったり、自己中心的に振舞ったり、他人を簡単に攻撃したりする。しかし、大抵は些細な事であって取るに足らない。
孔子の時代も、今の時代も、小型の小人は大きな害悪にはならない。大勢集まって大きな害をなすことはあっても、個人対個人の関係で大きな害をなすことはあまりない。
心を動かし、腹を立てるようなことではない。
君子のこころ
本物の君子は、小人に対してどのように振舞うか。
経書から読み取れることは多いが、もう少し具体的なイメージが欲しいところ。
潜在意識で考え続けていたのであろう、今日、本を読んでいたら面白い話を見つけた。
それが今回の記事を書くにあたり、大いにヒントになったのである。
南隠老師の話
南隠老師は、公田連太郎先生の師である。公田先生は根本先生の塾で漢学を学び、一方で南隠老師のもとへ参禅した。
南隠老師が亡くなった後、周囲に請われて公田先生が編纂したのが『南隠老師追憶』である。南隠老師の人柄を知れる、良い本である。
その中に、こんな逸話がある。
或る画学生が相見して、
「私共は人から冷遇せられることがありますと、誠にいやな気持が致しますが、どうしたら宜う御座いませうか」
と尋ねた。すると老師は、唐詩選の五言古詩一篇を書いて、之に与へられ、
「こんな気持になれば、どんなことがあつても気にかかる事はない」
と仰った。
南隠老師のもとへは、学生もよく来たらしい。公田先生が初めて訪ねたのも、おそらく21歳のころである。
南隠老師が学生に与えた五言古詩は、韋応物の『幽居』という詩である。
韋応物『幽居』
韋応物は若いころ遊侠を好み、放埓な日々を送った。
後、悔悟して学問に励み、政治の世界に入った。
一時病を得て辞職、寺に寓居したこともあったという。
そして晩年、禅理を悟った。
『幽居』には、確かに禅の趣がある。南隠老師が好んだのも、なんとなくわかる。
貴賤雖異等 出門皆有営
獨無外物牽 遂此幽居情
微雨夜来過 不知春草生
青山忽已曙 鳥雀繞舎鳴
時與道人偶 或随樵者行
自當安蹇劣 誰謂薄世榮
大意は以下の通り。
人には身分の違いがあるが、門を出れば身分の高い者も低い者も、それぞれ営みがあって齷齪と働いている。
私は独り、外の物(名誉や地位やお金)に心惹かれることなく、世を避けて静かに暮らす楽しみを味わっている。
昨日の夜、少し雨が降った。春の草が萌え出るころであるなあと思いながらまどろんでいると、
青山はいつの間にか明けてきて、スズメたちが我が家の周りで鳴きだした。
私の生活といえば、ある時は道人と連れ立ったり、ある時は樵の後をついて歩いたり。
私は才能が乏しく世渡りが下手だが(だからこそ)、この生活に満足すべきであろう。
世の栄誉を殊更に遠ざけて、君子然としているわけではない。
身分の違いに限らず、君子でも小人でも、それぞれの人生をそれぞれの思うように歩いている。
孔夫子に学んだ者は、外物に心惹かれることを恥じる。それが過ぎると、小人を甚だしく悪むことも出てくる。
だから、安居できる自分の世界が欲しい。静かな、楽しい世界を持ちたい。
その世界があれば、世間が騒がしくても、周りの小人がどうであっても、気にすることはない。
少し雨が降った、草が喜んでいるかな。夜が明けてきた、スズメが鳴いている。身の回りの喧騒といえば、そんな程度である。
自分が君子であるとか、小人であるとか、偉いとか、偉くないとか、特に考えない。
自分を君子であると思えば、なんとなく偉いような気になって、人を簡単に小人とみなしたり、軽蔑したり、攻撃したりすることになる。
そんなことは特に考えず、学問のある人でも、そうでない人でも、何の隔てもなく付き合える。
そういう世界を築くことができれば、満足してよい。
世の栄誉を殊更に遠ざけるのは、潔癖に過ぎる。小人を甚だしく悪むのも、過ぎたることである。満足できる内面世界がないから、外に対して過敏になるのだ。それで君子然とするのは、小人の儒である。
孔夫子は「小人の儒にならず君子の儒となれ」と仰る。
この詩の教えるところは、必ずしも君子の道とは一致しない。色々なことが云える。
儒学の建て前では、ひとりだけ安居して満足するのではなく、世の役に立つことを重んじる。ひとりだけで満足しているのは、大して偉いことではない。
しかし、自分ひとりが安居できる世界さえ持たずに、何事かを為せるものでもない。
真の君子が世とどう向き合うか、小人とどう向き合うか。私自身が君子ではないから、ハッキリとしたことはわからない。
しかし『幽居』のような詩を読むと、その雰囲気が少しく分かり、大変ありがたく思っている。
まとめ
誰の心にも、君子性と小人性がある。
君子性を伸ばせば小人は気にならなくなる。
本当の君子は、自分が君子であることも忘れて、自分のことを能く勉める。思う通りに振舞って、君子然とせず、むしろ至って謙遜するのが君子である。
小人に腹を立てることもない。気にすることもない。
油断することなく君子終日乾乾夕惕若で努め、小人性の蔓延るのを抑え、君子性を伸ばすことが大切である。
孔夫子が慎みを重んじたのも、小人性に警戒したのであろう。小人性は、知らぬ間にじわじわと広がっていく。知らぬ間に君子性を殺してゆく。油断は禁物である。艱貞に利である。
以前にも、別の人から「短気を直したいがどうすればよいか」という質問を受けたことがある。類似の質問がしばしばある。
これは、まだまだ考える余地がある問題と思う。しかし、自分の中である程度まとまった結論が得られたので、今回記事にまとめた。