周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

徳とは何か

儒学では、よく「徳」ということを云う。

徳について、誰でもなんとなくイメージを持っているものだが、改めて「徳とは何か」ということを考えると、いまひとつピンと来ない。

当たり前すぎて、あれこれと考えることがないから、分るようで分からない。

しかし、これをあいまいにするのではなく、はっきりと知っておくことで儒学の物の見方・考え方が一層よくわかる。

 

徳得也

まず、徳は得と通ずる。徳、得也。徳とは得ることである。

もちろん、仁義礼智信といった徳は天からいただいたもので、誰でも本性としてこの徳を持っている。

したがって「得る」というのは、外部から我が身へ徳を持ってくるの意味ではない。自分自身の内にある本性・徳を見つけ掴むこと、修めることを「得る」という。

「仁を得る」というのもこれである。克己復礼で仁を得るというのは、身の欲に克って礼に復り、本性として元々持っているところの仁を再び掴むことをいう。

 

孟子曰く

つまり徳得也の得は、自得の意味である。

自得とは、自ら道を行って心に深く得ること、いわば体得することをいう。

孟子にはこうある。

君子の深く之にいたるに道を以てするは、其の之を自得せんことを欲すればなり。之を自得すれば、則ち之に居ること安し。之に居ること安ければ、則ち之にること深し。之に資ること深ければ、則ち之を左右に取りて其のみなもとに逢ふ。

君子は、道理に深く達するために、正しい順序・方法・工夫に依って努める。それは道を体得したいからである。

道を体得すれば(道を我が心に得て身に体することができれば)、その境地に安住できる。特に努めることなく、無理もなく、道を行うことができる。

道に安住すれば、この道を拠り所(資)としてますます深く入っていき、至極の所を究めてゆける。

道を拠り所として深くなるほどに、現実生活の上にどこまでも活かしてゆける。左のことにも右のことにも活用できる。天道天理、つまり根本の原理原則に逢うて(一致して)ゆける。

 

自得する所が前提である。自得するから、学んだものが現実に活きる。

家族や友人と付き合っていく上でも、仕事の上でも、色々な時代を生きる上でも、無尽蔵の天道天理を右に左に振るって、世のために為すことができる。

学問したけれども、現実生活に何ら活きてこない、活かせないとすれば、それは自得に至らないからである。

 

中庸に曰く

中庸にはこうある。

君子は入るとして自得せざること無し。

君子は、どのような境遇に入っても常に自由自在に道を行う。

 

中庸では、自得を「自由自在」の意味で使っている。

孟子では、「自得=道を体得すること」だが、どちらも同じ意味である。道を体得するから自由自在になるのである。

 

崇徳とは

徳は得なり。徳とは自得すること、道を体得し、深く達し、自由自在に行うことである。

ここで論語易経を併せて考えると一層よくわかる。

 

徳を崇くする法

論語顔淵篇、孔夫子の散歩に付き添っていた樊遅はんちが問うた。

「徳をたかくするにはどうすればよいでしょうか」

孔夫子がお答えになる。

事を先にして得るを後にする、徳を崇うするに非ずや。

まず、自分のやるべきことを第一に務める。このとき、それによってどのような報いがあるか、何を得られるかということは考えない。それは後回しにする。

時には、自分の仕事を懇ろにやって、相応の報いが得られないこともある。しかし、それでも望むところがない。

これが徳を崇くするということである。

 

徳を崇くする、この「崇」は「厚くする」「積む」の意味である。

「崇くする」と「高くする」は違う。「高い」は「低い」に対する言葉である。たった10㎝の高さでも、1㎝に比べると「高い」といえる。「高い」からといって、見上げる程に、仰ぐほどに高いとは限らない。大きいとは限らない。

「崇い」は、段々と積んでいき、厚くなり、高くなる。「段々と」の意味が重要で、徳というものは段々と積んで、次第に高くなるものである。

もちろん、積むといってもジェンガのように不安定な積み方ではない。伊邪那岐命伊邪那美命の国生みのようなものである。漂えるところへ矛を下ろし、描きまわし、引き上げると塩が矛の先から滴り落ちて、積もり重なって大きな島になった。これと同じである。

ただ高さがあるのではない。平面的な広さがあって、高さと深さもあり、重々しいのである。堯舜の徳を、孔夫子は「巍巍乎たり」と表現したが、この「巍巍乎」も崇であろうと思う。

だから崇山(嵩山)といえば、ただ高いだけの山ではない。泰山と並ぶ霊山であり、"崇"拝の対象である。長い歴史の中で多くの人々が拝み、敬われることが積み重なり、厚くなるのを崇拝という。

したがって「崇い」といえば「高い」よりずっと広く、大きく、重い。

 

それほど崇く徳を積むにはどうすればよいか。

孔夫子は、自分の為すべきことを為して、得ることを後にすれば徳は崇くなってゆくと仰る。

学問でも、初めから効果効率を考えて小賢しくやるのではない。学ぶべきことを正しく学び、行うべきことを正しく行って、自得できるかどうかは後の話である。そう考えて日々怠ることなく努め勉める。これによって自得し、自得した所の道に安住し、深め、自由自在に行ってゆく。これで徳が崇くなる。

 

循環で崇くなる

事を先にして得るを後にする、そして徳が崇くなる。これは「事を為す→得る→崇徳」の一方通行ではなく、循環するものであろう。

得るところを思わず、先ず事を為す。これで徳が厚くなる。つまり徳に進むことになる。進歩して自得に近くなる。その進境を以てさらに事を為し、後に得る。一段と徳が進んで厚くなる。この繰り返しで徳が崇くなる。

一方通行ではなく、切れ切れでもなく、絶えず循環して徳が崇くなる。孔夫子が仰ったのは、こういう意味かと思う。

 

事を為して、後に得て、徳が厚くなる。ここで終わっては意味がない。この後にまた事を為し、より良い仕事をして、さらに大きく得るものがあり、やればやるほど徳が崇くなってゆくのでなければいけない。

学び行うことの延長として、必ず世の役に立ち、徳が厚くなり、絶えず繰り返し、次第次第に益々世に資するようでありたい。

 

進徳修業

易経にも、こんなことがある。

君子終日乾乾しゅうじつけんけん、夕べに惕若てきじゃくたり。あやうけれども咎无とがなしとは何の謂ひぞや。子曰く、君子は徳に進み業を修む。

乾の卦の九三には、「君子は朝から晩まで怠ることなく勉め、日が暮れても恐れ慎んでいる。だから過失がなく、危うい位置にあっても咎めを受けることがない」とある。これはどんな意味であるか。

孔夫子がお答えになる。

「君子は徳に進んで業を修めるのである」

 

徳に進み、業を修める。

先ず、徳に進むことが前提である。自得へ向かい進歩するように日々勉める。

徳に進んだ上はどうするか。業(仕事)を修める(立派に行い世に資する)のである。

終日乾乾夕惕若で徳に進み、我が為すべき仕事を第一にして、得るを後にして勤め励み、立派な仕事をする。それでこそ、徳が本当に崇くなってゆくのである。

 

徳が崇くなれば仕事はどこまでも大きくなる。易経に「崇徳而広業」とある。

徳と業は互いに応じる。徳が低ければ業も小さい。大きなことを為すには徳を崇めるべきである。

徳を崇めるには、日々努めて徳に進み、事を先にし業を修め、後に得、この循環を絶えず繰り返す。

 

進徳修業、さらに崇徳而広業。このような人は、世の中が乱れたり、周りに悪い人間が増えたり、危ない境遇にあったとしても、咎めを受けることはない。

 

徳に進んだだけで、そこで終わっては意味がない。世が乱れると、賢人君子は山奥に隠れることがあるが、これは隠れたくて隠れているのではない。

君子はいつでも、自得した道を行い、世のために働きたいと思っている。

徳に進んだのに、何も仕事をしない、立派なところがないというのではつまらない。大抵の場合、そういう者は自得していないから、徳に進んでいないから、立派な仕事もできないのである。危ない位置にいれば、容易に咎めを受けるのである。

 

四十で憎まれるようでは終わり

論語はしばしば厳しいことが書いてある。

子曰く、年四十にしてにくまるるは、其れ終らんのみ。

孔夫子が仰るには、四十歳になって人から憎まれるようでは、もう仕方がない。

 

「三十にして立ち、四十にして惑わず」という。

人間は若いころには色々失敗するが、三十になればある程度自得するところがなければならない。自得した所に拠って立ち、安住して動かない。

自得した道に安んじ、それをさらに深めていく。そのうちに四十になれば、人から認められるだけの学問道徳があるべきである。

四十にもなって憎まれるような者は、もう救いようがない。「終わり」である。

 

終日乾乾夕惕若で努力を重ねて、徳に進んで業を修める。徳が備わり仕事も立派にできる。このような人は、年四十にして悪まるるようなこともない。

しかし徳に進むところがなく、業を修めるところもない。ただそれだけであればまだ良いが、悪まれやすい。四十といえば中堅だが、徳がなく仕事も悪い。これでは、どうしても人に悪まれるところが出てくる。

 

徳に進むことでも、業を修めることでも、私には自信がない。立派な仕事はひとつもしていない。徳に進むところが浅いからだ。一層努力しなければいけない。

 

リンカーンの話

ここでいう「悪まれる」とは、単に嫌われるだけではなく、見切りを付けられることである。

リンカーンの話が参考になる。

ある時、リンカーンは友人からある人物の推薦を受けた。年四十を超えた人であった。

リンカーンが採用しなかったので、友人がなぜかと問うた。リンカーンは「顔が悪い」という。

友人は「せっかく好意で推薦したものを、しかもアメリカ合衆国大統領たるものが、人間を顔で評価するとは何事か」と詰問した。

そこでリンカーンは云う。

「人間、四十にもなれば自分の顔に責任を持たねばならない」

 

人間は、学んだこと、やってきたこと、人生において色々に積み重ねてきたことが顔に出る。もっと言えば背中に出る。孟子にも「面にあらわれ、背にあふる」とある。

 

徳に進み、業を修め、徳を崇くし、業を広くしてゆく。そういう努力を重ねて年四十になれば、年四十相応の学問道徳が備わっているべきである。備わっただけのものが顔に表れるべきである。背に盎るようになれば、尚良い。

このことがよく分かっていたから、リンカーンは易々と見切りをつけた。これは面白い話である。

 

まとめ

これまで色々と考えてきたことを、さらに考え、まとめながら書いてみた。乱雑な内容になったが、私の中で「徳」というものが一層明瞭になった。

単に「徳を積みましょう」というのでは、いまいち分からない。

日々学問に勉め、行いに励み、徳に進み、業を修め、徳を崇くなるようでありたい。

「徳を積む」とは、そういうことであろうと思う。