周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

無窮を考える

今回も、質問への回答。

質問者は、現在近思録を学習中とのことで、以下の質問をいただいた。

近思録を元にした質問ではあるが、これは論語子罕篇に関する問答である。

論語の本文を見ながら考えていきたい。

 

 

伊川先生曰く

質問にあるのは、程伊川先生と門人の問答である。書き下し文と訳は以下の通り。

子、川の上に在りて曰く、逝く者は斯くの如くなるか、と。道の体の此の如くなるを言ふ。這の裏に須らく是れ自づから見得べし。張繹曰く、此れ便ち是れ窮まり無きなりと。先生曰く、固より是れ窮まり無きを道へり。然れども怎生んぞ一箇の無窮、便ち他を道ひ了り得ん。

 

伊川先生が仰る。

孔子が川のほとりで『物事の移ろいは、川のようなものであるな』と仰った。道というものは、川と同じだと仰ったのである。この言葉には、道とはどのようなものであるかが含まれている(この言葉が分かれば、道の本体も自得できるのである)」

弟子の張繹が言った。

「それは、道には窮まりがないということですね」

伊川先生は仰った。

「その通り。道は無窮、ということだ。しかしただ『無窮』と言っただけで、道の本体を全て言い表すことはできない」

 

質問に、「伊川先生は道というものは無窮だけではないと仰りますが…」とある。

「怎生んぞ一箇の無窮、便ち他を道ひ了り得ん」について、「道の本体とは無窮だけではない。ほかにも要素がある。それを知らねば道の本体は分からない」の意味に捉えているものと思う。

 

私は、少し違う見方をしている。伊川先生が弟子に言ったのは

「道の本体は則ち無窮。それはそうだが、ならば無窮とは何であろうか。たしかに道は無窮だが、ここが分からなければ道の本体も分からないぞ」

という意味であると思う。

本文ではこの見方を軸に考えていきたい。

 

論語の本文

この問答は、論語子罕篇の以下の章句を元にしている。

子、川の上に在りて曰く、逝く者は斯くの如くなるか。昼夜を舎てず。

 

孔子が川のほとりで仰った。

「物事の移ろいは、川のようなものであるな。昼も夜も休むことがない」

この章句の解釈では、「逝く者」を「時間とともに過ぎ去ってゆく物事」と捉えることが多い。

川の流れのように、物事は過ぎ去っていく。過ぎたことはどうにもならない。人間の一生はそのように流れていくし、世の中もそのように絶えず移り変わってゆく。

このように解するのが一般的である。

 

伊川先生の解釈

しかし伊川先生は、単に時間とともに過ぎていくことではなく、道の本体と捉えた。

道の本体とはどのようなものであるか。道とはどのようなものであり、どのように歩んでいくべきものであるか。川をみればわかる。

弟子はそれを「無窮」と考えた。伊川先生も「その通り」と仰る。

道とは窮まりのないものである。ならば道を歩むこと、学問道徳の研鑽も無窮である。これで十分というところはない。

一生涯、勉めて已まない。死して後已む。

 

無窮の歩み

無窮の歩みとはどんなものであるか。孔子はどのように歩まれたか。

述而篇にこんな話がある。

葉公が子路孔子の人となりを問うたが、子路は答えられなかった。

それを聞いた孔子が言った。

「学を好み、わからないことがあれば発憤して食べることも忘れてしまう。

学に努めて道理が分かると楽しくなって、どんな憂いも忘れてしまう。

そんな風に毎日を送って、老いたことにも気づかない。

私はただそれだけだと、どうしてお前は言わなかったか」

孔子は、道の無窮なることを知っていた。知っていたから、これで十分ということはなかった。来る日も来る日も学問に励み、老いたことにも気が付かない。一生涯、そうであった。

 

本当に「知った」といえるか

単なる知識としては、「道は無窮である」ということは儒家にとって常識のようなもので、さほど難しくない。

川は昼夜を問わず流れる。流れ続ける。不断の営み、無窮の流れである。道は無窮なのだから、川の流れを以て「道の本体」とみれば、確かにそうである。

このように頭で解することは、そう難しくない。

 

しかし、単に頭で解しただけでは、無窮なる道の本体を真に知ったとは言えない。孔子が老いも忘れて無窮に勉めたのは、道が無窮であることを本当に知っていたからである。

無窮に勉めて、初めて無窮なる道の本体を知ったといえる。ただ頭で解し、口で「道は無窮なり」というだけならば、初学者と何も変わらない。

四六時中、どこを切り取っても道に違わない。それで初めて道を得た(知った)と言える。ただ頭で解し、口で道徳を語るだけならば、初学者と大して変わらない。

伊川先生が仰るのは、そういうことであろうと思う。

 

順序を考える

もう少し具体的に考えてみる。

孔子が川を眺めておられた。川は昼夜を問わず流れ続ける。無窮なる働きである。

これを無窮の道と捉える。君子の歩む道、君子の学問は無窮であると考える。

 

質問者の云う通り、ここには「物事の順序」という観念も当然含まれる。

水は低きに流れる。川の流れは一定である。逆流すること無く、A地点からB地点へ、C地点へと順々に流れる。

川が順序正しく流れるように、道にも順序というものがある。学問にも順序がある。

 

順と逆

道に順と逆とあり。道徳に沿って間違いのないことを順という。道徳に反するのが逆である。

天の道に柔順であり、地の道に柔順であり、人の道に柔順であること、これを順という。特に易で「順」という文字を用いる場合、常にそうである。

つまり、「天道天理に則って正しいこと」が順である。「天道天理に違わぬ順序で」ということも含まれる。

 

天道天理といえば甚だ大きいので、少し小さくして人間の世界に当てはめる。すると、例えば「親には孝、君には忠」といったことが順の最たるものである。臣下が君主を弑し、子が親を殺す、これは逆の最たるものである。

道に順序があるように、学問にも順序がある。

(道と学問と分けて考えるのは本来良くない。どちらも同じである。分かりやすいように、あえて分けて述べているけれども、それは本当でない。)

 

順序を守らぬは怠り

学問するにあたって、正しい順序を踏まなければどうなるか。

学問が成就しない。なぜならば、順序が正しくない学問というのは、往々にして怠りに発するからだ。

 

例えば儒学において、学ぶ順序は諸説あるけれども、「孝経→大学→論語孟子→中庸→五経」が一般的な順序である。孝経の後に小学や近思録をやり、それから四書に進むのも良いとされる。

この他の書は、順序を守って一通り学んだうえで読む。

 

しかし、経営に活かせる知識が欲しい、煩わしい道徳は現代には合わないし、まあひとつ『中国古典名言集』でも読んでみよう。こんな人がよくいる。

これは明らかに怠りである。順序を守ることを敬遠し、楽して実を取ることばかり考えている。

こんなやり方では、何にもならない。根本的に姿勢が間違っているのだから、どうもならん。


私の実感から言っても、たしかにこう思う。順序を守らず、興味の向くままに論語を読んだり老子を読んだり仏典を読んだり西洋哲学を読んだり、ちょっと見ると随分勉強家らしく見えるけれども、ひとつも進歩していない。

一年前に儒学について質問を受けた。なにか、論語をほとんど読んだことがない人のような質問であった。

一年後、別の質問を受けた。それも、論語を知らぬ人の質問のように思えた。

その間、論語は読んでいるにもかかわらず、何も進歩がない。そういう人が確かにいる。


順序を守って学ぶということは、まことに重要である。しかし、実際に順序正しく学び、理解を深めた実感のある者でなければ、順序の重要性を解さない。いつまでも支離滅裂な学び方を続け、いつまでも進歩がない。


順序を守らねば徳を損なう

だだ自分一個において進歩がない。それならば宜しい。しかし大抵の場合、順序を考えず学ぶ者は不善に陥り徳を損なう。

蛇行する川があるとする。曲がりくねりつつ、順々に、流れるべきように流れるのが道理である。

その順序を嫌って、手っ取り早く先へいこうとすればどうなるか。蛇行を無視して直進するほかない。堤防を破壊し、溢れかえって進むほかない。

無窮に流れ、周囲を潤し、万物を育むのが川の徳であるのに、周囲を害して徳を損なう。

 

もちろん、川には意思がない。ただ道理があるばかりだ。蛇行を嫌って堤防をぶち壊すことはない。意思を以て周囲を害することはない。

川が溢れる場合、それはそれで、その時における「順」なのであって、無窮なる流れの一コマである。

人間の立場で見れば害が大きいけれども、例えば川の中に地上の栄養が流れ込むとか、川底の土が攪拌されるとか、大自然にとっては徳になるところもある。

 

しかし人間には意思がある。蛇行を嫌って堤防をぶち壊し、誰も得をしない。そんなことが、実際にある。

自ら学ばず、判断せず、経営コンサルタントなる者に任せ、経営効率を重視し、順序を無視し、何人も死んでしまうような大事故を起こす。こういうことが実際に起こる。

 

だから、君子は順序を守り、怠らず、無窮に勉めるのだ。そうでなければ、自分の徳を損ない、人を害することにもなる。

めちゃめちゃな学問をして、おかしな活動に取り組み、周囲に害を与える。そういう人がいる。物事の順序、道理を弁えないからそうなるのだ。

人を害するような学問が、正しいわけがない。正しくないものは必ず滅びる。無窮ではありえない。

 

道の本体とは

さて、伊川先生の仰る「道の本体」とはいかなるものであるか。私なりに色々考えてきたことをまとめてみたい。

 

君子終日乾乾、夕惕若

川の流れは順である。君子の学問にも順序ある。

一歩一歩着実に、段々と先へ、怠らずに進んでいくことが順である。

 

単に順序を守るだけならば、そう難しくない。ただ守ればよい。

しかし、順序を守るだけではいけない。無窮であるには、順序を守り、なおかつ怠らない。二つを兼ねる必要がある。

 

易の乾の卦に、「君子終日乾乾、夕惕若」とある。これで無窮がよく分かる。

君子は一日中怠ることなく勉める。日中大いに働き、学び励む。

日が暮れても、それで終わりということはない。曾子の三省のごとく、夕は夕で恐れ慎み、日中の取り組みに欠けるところはなかったか、道に外れることはなかったかと反省する。

昼も夜も勉めてやまない。君子はそうあるべきだ。川の流れのように、君子の歩みは窮まることがない。

 

だから、子路が政事の要諦を問うた時、孔子は「これに先んじこれに労せよ。倦むことなかれ」と教えた。

率先して力を労し、心を労し、民のために勉めよ。ただそればかりである。その一念でどこまでも勉めよ。君子の歩みに窮まり無し。倦み怠ることのないようにせよ。

 

孔子は、「怠る」ということが大変お嫌いであった。

宰我の昼寝を責めたことからも良く分かる。

孔門において、怠ることは常に戒められた。怠らず、窮まりなく勉めることが重んじられた。

 

怠りの弊

怠れば道に外れる。順序を守らず怠る場合はわかりやすいが、順序を守って怠る場合、弊害が一層甚だしいように思う。

 

順序を守っているだけに、本人は正しく勉めているという思い込みがある。

怠りながらではあるけれども、順序は守っている。気の向いた時にはやっているから、少なくともやった分だけ仁に近づくだろう。そういうことを10年も20年も続ければ、なかなか長く無窮に勉めているのであって、まあ悪くはなかろう。

しかし、怠りの弊はそんな甘いものではない。

 

決められた順序であっても、気が向いたらやる、向かねばやらないというやり方は、順序を守っているが怠っている。怠りながら10年も20年もダラダラやったところで何にもならない。

流れが切れ切れになっている。それでは、川の流れとはいえない。進歩もない。

 

進歩はないが、本人としては10年も20年もやったという自負がある。実際、知識だけは無駄に多かったりする。

私は論語読みの論語知らずです、私はまだまだ未熟です、そんなことを言って謙遜ぶって得意になっている。

無窮ということをはき違えるから、そういうことになる。

他の分野の人から、「儒者のいう『論語読みの論語知らず』はどうも臭い」などといわれることになる。

確かに臭いに違いない。腐臭がするだろう。腐儒であれば腐臭がする。

 

道は無窮であるから、10年でも20年でも100年でも勉める。どこまでも怠らずに勉める。毎日毎日、一歩一歩、怠ることなく勉めてこそ、川の流れに一致する。

川は流れる。先へ先へ流れてゆく。流れた分だけ先へ進まなければおかしい。流れたのに先に進まないということはありえない。

君子の学問はそうである。1年やったら1年やっただけ、10年やれば10年やっただけの進歩があるべきだ。無窮に勉めるならば、進歩もまた無窮である。

 

真面目と不真面目

人間の心には仁もあれば不仁もある。不仁を抑え、仁を発するように努力するのが君子の歩みであるはず。

基本的に不仁であるところへ、学問して仁を心掛ける。これは誰しも同じで、悪いことではない。

しかし、ここに怠りがあると悪い。

 

やったりやらなかったりする。これは切れ切れであり、その時その時で窮まりがあって無窮とはいえない。

君子終日乾乾、夕惕若。たった一日でみても、昼は勉めて夕は休むならば無窮とはいわれない。思いつきでたまに勉めるならば、なおさら無窮とはいえない。

それはただの不真面目である。

 

真面目は「間締め」であり、不真面目は「間抜け(不間締め)」である。

気が向いた時に仁に勉める、それ以外は不仁。これを仁と不仁との連続性で見ると、不真面目・間抜けの学問はこんな具合になる。

不仁・不仁不仁不仁不仁不仁不仁

 

怠ることなく勉めて、不仁を減らしていくべきである。しかし、無窮を曲解し、切れ切れの姿勢で臨むならば、なかなかそうもいかない。

怠りなく真面目に勉めてこそ、

仁・・・・・・・・・・

となる。どこまでも連続している。無窮に仁である。こうなるために、怠ることなく真面目に勉めて窮まり無い。それが君子の歩みであり学問である。

 

道は無窮

無窮に勉めるうちに、やがて「心の欲するところに縦って矩を踰えず」となる。

川の流れは無窮である。しかし、川は無窮に流れようと思って勉めているのではない。勉めずして無窮である。

孔子七十歳の境地もこれである。聖人の徳は天の徳と同じい。

聖人の道の本体は無窮であるとは、こういうわけである。

 

まとめ

伊川先生は、この問答で「では道の本体とは、無窮とはなにか」ということを仰っていないけれども、私はこんな風に考えている。

 

このように考えると、道を歩むということは大変なことであり、誰にでもできることではなくなる。

これではほとんどの人が脱落するではないか。そんな風にも思える。

之に語つて惰らざる者は、其れ回なるか。

優れた人物が多かった孔門においても、孔子が語るのを聞いて、怠らずに勉めたのは顔回くらいのものであった。

 

しかし孔子は、誰にでもできるように教えを立てられた。ほとんどの人が脱落するようなことは教えない。

各々の分に応じて、精一杯に勉めることが重要なのである。正しく学問し、道を知り、我が為すべきことを思い、自ら画ることなく、怠ることなく、窮まることなく勉めなさい。

そういうことであろうと私は思う。

 

真面目な姿勢で怠らずに生きてゆく。

人間だから、怠ることも、不真面目になることもあるだろう。しかし孔子の教えを奉じる者として、それではいけない、安逸をむさぼってはいけないという意識が常にある。

時に苦しみ、泣きながらでも、孔子に似たい、真面目でありたい、怠惰は嫌であると思って一生を貫く。これは君子の歩みといえる。

 

無窮とはどういうことか、大体こういうことである、自分なりにそう思うところがあるとないとでは大違いだ。道に対する考え方が大きくなるし、日々の勉めも必ず良くなる。

「道とは無窮」と言いながら、無窮がなにか今一つ分からない、自分なりに思うところがない、これではいけない。

伊川先生はそう仰ったのではないか。

 

 

ここでお答えしたことは私自身で考えたことであって、伊川先生の考えとズレているかもしれない。

しかし、このズレは左右に大きくズレるものではなく、主に上下のズレであると思う。ズレがあるならば、私の方が浅いというズレでありましょう。

多少の参考にはなると思います。