周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

礼とはなにか

礼について質問を受けた。

質問は以下の通り。


質問者は「礼=作法・法律」と解釈している。これも間違いではないが、この見方に偏るならば現代的な解釈であって、礼の本質がわからなくなる。

本人が仰る通り、極く初学者向けにお話しする必要があるように思う。

できるだけ難しい話は避け、なるべく簡単に、丁寧にお話ししてみたい。

根本的な部分はくどいくらいにお話しすることになるかと思う。

 

 

そもそも礼とは

まず、もっとも基本的な部分をお話ししたい。

礼とはなにか。極く簡単にいうと、「人が人として為すべき行い」である。

 

現代では礼儀作法、マナーのように考える。

作法やマナーも確かに礼である。しかし、これは飽くまでも人の為すべき行い、それも極く小さなものが外部に表れたものにすぎない。

礼とは本来、もっと内面的・精神的なものであり、大きなものである。

この精神的で大きな礼を、儒学では大変に重くみる。

 

質問者は、礼=法律のイメージを抱いている。

法律は礼であるかどうか。

法律は、法で人を律する。人が不正に陥らないように律する。為すべきことを正しく為せるように律する。為すべきことを為すのが礼であり、それを促すのが法律であるとすれば、法律も礼の一部といえる。

書経などを読むと、そのように書いてある。

 

ただし、これはかなり原初的な考え方であって、論語になると法律と礼は別物になっている。事前・事後で区別する。

法律は事後的である。悪事をなしたものをどうするか、例えば初犯であれば軽い罰を与えて改心を促し、再び同じ罪を犯さないように導く。正しい道に復るようにする。これが法律である。

 

礼は「人が為すべき行い」である。礼を正しく履むならば、人として正しく振舞うことができる。罰せられるような間違いも出てこない。つまり礼とは、人の悪事をあらかじめ防ぐものであり、事前的なものである。

 

礼の形は大小色々

儒学では、礼を非常に重んじる。人が人として為すべきことを為すが礼、ならば重んじるのは当然である。

礼を重んじる国は必ず栄える。国中の人々が、自分が為すべきことを正しく為すのだから、国が良く治まって栄える。

 

とはいえ、単に「為すべきことを為す」では、具体的になにをどうするかがわからない。

これは大きな礼であって、礼にも大小色々ある。

礼儀三百威儀三千というが、小さな礼もたくさんある。身分に応じた服装。祭祀における作法。靴のそろえ方。目上の人の部屋に入ろうとしたら靴が複数ある、来客中らしい、さてどうする。

守るべきことや心得が細々とある。細かいほど礼は小さくなる。

あまりに小さくなると、形式に流れる。「礼=礼儀作法、マナー、法律」といったイメージにもなる。

 

しかし礼は「為すべきことを為す」が根本である。「人が人として為すべき行い」を根本として、対象や目的によって形を変える。

色々な制度があるが、これも結局は礼の一形態である。国家において君主はどうあるべきか、臣下はどうあるべきか、臣下は臣下でも職分に応じてどうあるべきか、どう務めるべきか。これを定める制度がある。

極く小さなところでは、大夫が参朝するにはこの服を着なさいとか、君臣集まって食事をするには、席順はどうであるとか、だれそれは御膳がいくつであるとか、そういった細かな制度がある。

これも礼である。

君主の礼とは「君が君として為すべき行い」であり、臣下の礼とは「臣が臣として為すべき行い」である。

 

論語顔淵篇で、景公が孔子に政事の要道を問うた。

孔子が答えて仰るには、

「君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり」

これは、其々が其々の為すべき行いを為すことであり、礼を重んじることに他ならない。

 

日常のマナーも同じである。

ごはんを食べるときの作法が礼記に色々と載っている。現代でも、やかましいマナーが色々あるという。

これも、人が人として為すべき行い、礼が基本である。人に招かれて食事するには、客である我が為すべき行いを考え、非礼にならぬようにこうせよ、ああせよといったマナーが出てくるのである。

 

礼に立ち返るとは

孔子の仰る克己復礼、これは「我が身(己)を慎んで欲に克ち、礼に復る」ということである。

我が身の欲に溺れると、我が人として為すべき行いもできなくなる。礼に悖る。

我が身の欲に克って、我が人として為すべき行いができるようになる。礼に復る。

 

礼とは、為すべき行いを履むことであり、外部に表れるものではあるが、本当は内面的なものだ。自分の中に在る。制度や礼儀作法、マナーなど、外部的な趣も多分にあるけれども、結局のところ「各々よろしきように履み行え」ということであるし、礼を履むのは自分である。

私欲に溺れて礼に悖るのも自分である。一旦は私欲に溺れたとしても、私欲に克って礼に復るのも自分である。

 

失った礼に再び戻る、だからここでは「復」の字である。

復習、一度学習したことに戻ってまた習う。

復礼、元々我が身にあった礼に立ち戻って礼に適う。

 

仁は天の徳である。天に在っては「元気」などといい、人に在っては「仁」という。同じものだが、そう呼び分ける。

仁は誰でも持っているが、私欲に溺れると曇ってしまう。我が身の欲に克てば、我が心の本性が発達し、旺盛になり、仁の徳が現れてくる。

このように考えると、礼に立ち戻ること、それで仁を得ることが分かる。

 

礼は人を尊ぶ(加筆・修正)

曲礼に曰く、夫れ礼は自ら卑しくして人を尊ぶ。

 

この「卑しい」とは、「欲が深い」「下品」「みすぼらしい」といったことではない。

古い本では、単に高い・低いの意味で用いる。低いことを卑しいという。「卑(ヒク)い」とも読む。

 

身を低くする、これはへりくだること、謙遜のことである。曲礼によれば、まず謙遜することを教える。

我が身を低くする。我が身を相手より低くすれば、相対的に人の方が高くなり、自然と尊ぶことになる。「自ら卑く」と「人を尊ぶ」は切れ切れの働きではなく、自然な流れである。

ただし、自分の価値を下げよう下げようとするのは卑下であって、謙遜ではない。

道の無窮を思い、勉めて已まない心を持ち、どこまでも足りないと思う。自分にどれだけ学問道徳があっても、大なる功があっても、自分では十分と思わない。底から足りないと思っている。ゆえにどこまでも小さくなれる。

 

そもそも「謙遜」とは何か。これを考えると一層よくわかる。

謙は普通「へりくだる」だが、「小さい」が本義である。謙はもともと兼と書いた。兼は「合わせる(かねる)」。小さいから足りない、ゆえに合わせる。小さいが本義である。
その後、兼から嗛になった。嗛は「口に含む」の意味だが、本義は「小さい」。小さいから口に含むことができる。

その後ようやく嗛から謙。謙も本義は「小さい」。自分に大なる才能・学問・功績があっても、大きくならずに小さく慎んでいる。そこから「へりくだる」の意味も出てくる。

謙を単に「へりくだる」で考えると、卑下に陥りやすい。そこで、兼の本義(小さい)で考えると、謙遜の本質が良く分かる。

特に謙は「言+兼」、ここが面白い。
言は言う。それを兼、小さくする。言葉を大きくしない、いわゆるビッグマウスではない。自分の学問や功績を誇らない。声を大にして主張したり、他人を凌いだりすることがない。主張するにも、ごく控えめに、穏やかにする。

詩経の大雅に「皇矣」という詩がある。曰く、

予懐明徳。不大声以色。(予明徳を懐ふ。声と色とを大にせず。)

明徳を備えた人は、その人自身が徳のあることを主張せずとも、周りの方で自然と分かる。その人が大きな声で呼びかけたり、顔色を正して臨んだりせずとも、周りの方で自ずと分かって敬服する。

兼は、(小さいものを)兼ね合わせる。言を小さく、自分を小さくして、他者の力と兼ね合わせるのである。大きな声で他人を圧倒して従わせるのではなく、「私は足りないところも多いから」という態度で小さく慎んでいる。周りの方でも、その人がまことに謙遜であること、誠のあることを知って、自然と調和してゆく。

これが本当の謙遜であり、曲礼の「自らを卑くし」とはこういうことである。

 

まず謙遜、謙遜すれば自然と人を尊ぶことになる。

我が礼を以て人を尊ぶ、こういえば一対一の小さな礼に思えるが、そんな小さなものではない。

自らを卑くし、小さくなることで、一層大きな働きを求めるのである。謙なる忠臣は小さく慎み、地位の低いところの賢人にへりくだって教えを請い、協力を求める。身分を問わず、兼ね合わせて奉公する。

これが大いなる働きにつながる。どんな人物も一人で大事業を成すことはできない。多くの力を兼ね合わせてこそ、大きなことが成る。

一人で奮闘するよりも、ずっと大きな働きになる。

自らを卑くして人を尊ぶ。この礼が「挙国一致」をもたらす。真に礼を知る忠臣を得た国は幸いである。

 

内部の礼も外部の礼も同じこと(加筆・修正)

礼は本来我が身の内にあり、立ち戻ったり離れたりするものである。極く内面的なものである。それがなぜ人を尊ぶことになるか。

質問者はここに悩んでいたが、もう分かったのではないだろうか。

 

内面的な礼は外部に出てくる。礼とは、人が人として為すべき行いである。為す・行うというからには、外部に表れている。外部に表れるからには、必ず対象がある。礼が人やその他に向かう。

 

礼の始めに自らを卑くする。これは内面的な礼である。しかし、結果的には人を尊ぶことになる。

謙遜し、人を尊ぶ気持ちがあれば、色々なところでそれが言葉や行いに表れる。小さな作法やマナーにもなる。

自らを卑くし、地位の低い賢人に下って教えを受け、あるいは協力を得て、高い地位の大臣や君主に奉公していく。その誠に感じ、やがて挙国一致の状態が生まれてくる。

内面的な礼(謙遜)が外部に表れ(人を尊ぶこと)、どんどん大きくなっていく(挙国一致)。

我が身の内にある礼も、外に表れる礼も一貫している。ただし、内が主、外が従であることは言うまでもない。

 

礼が国家に与える影響(加筆・修正)

質問の②についても、ここまでの内容から察せられると思う。

荀子は「礼がなければ国が正しさを失う」という。これはなぜか。

 

礼がなければ国が正しさを失う理由

礼とは、人が人として為すべき行いである。礼がなければ、人が人として為すべきことを為さなくなり、勤労や順法といったこともデタラメになる。

詩経など読むと良く分かるが、特に男女の礼が乱れると国は必ずおかしくなる。左伝だけでも多くの例がある。男女の礼の乱れは、為政者が淫乱に耽ることに始まる。

礼がなければ国が正しさを失う。これは当然のことといえる。

 

礼があれば国は正しさを得る

逆に、礼があればどうか。これは、国が正しくなる。

一個人の道徳でみると、克己復礼で仁を得る。

国家規模でも同じで、克己復礼で仁政に近づく。為政者が克己復礼で仁を得るのだから、当然仁政が実現してゆく。真に礼を知る忠臣によって挙国一致となれば、為政者も人民も挙って礼に勉める。これで国が正しくならないはずがない。

だから孔子は、為政者から政事に就いて問われた時、礼の重要性を強調する。

 

孟子の言も同じ

質問者は、孟子を読んで「仁がなければ国が正しさを失う」と思った。

これはどうか。

 

過去の質問でお答えした通り、礼は仁の発露である。

shu-koushi.hatenadiary.com

不仁であるから非礼が出てくる。非礼が出てくるなら、それは不仁だからである。

仁がなければ礼もない。礼がなければ国が正しさを失う。

故に、「仁がなければ国が正しさを失う」も「礼がなければ国が正しさを失う」も、どちらも正しい。

 

「天徳」で捉える

仁と礼は別々のものではなく、一体のものとして考えるのがよい。

色々な徳があるが、どれも密接な関係にある。人間の都合で色々な徳に分けているだけで、本来は一つの徳である。これが切れ切れになると混乱する。仁と礼を別々に考えると、わからなくなってしまう。

仁、礼、義、孝、忠、智、色々な徳があるが、これらは結局のところ基は一つである。

物を育むところでいえば仁、育んだものを大きくするところでいえば礼、大きくなったものを整えるところでいえば義、整えたものを固めるところでいえば智。

この四徳は、結局のところ「天徳」であり、天徳の表れ方に応じて仁とか礼とか呼び分けたに過ぎない。

もう少しかみ砕けば、天徳は天地の生成の徳。易では「天地之心」などとも表現する。どれも元は同じ。

ゆえに「義がなければ国が正しさを失う」も正しい。「孝がなければ」でも「忠がなければ」でも正しい。

 

まとめ

①の質問は、それなりに平易にお話しできたと思う。

しかし②となると、国という大きなものが絡んでくるだけに、話も大きくなってしまう。うまくお答えできたかどうか、わからない。

言葉を尽くしてわかるものだろうか、却って遠ざかるのではないか。そんな気もします。

 

なるだけ自得することを目指して励みましょう。

この文章が、いくらかでも助けになればよいと思います。