周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

日々どれくらい勉強すべきか

質問をいただいた。

質問箱に書ける文字数は2500文字が最大らしい。

超過してしまったので、ブログでお答えします。

質問の内容は以下の通り。

 

例えばきっかけをつかむために、まずは5分や10分から始めるというなら、大いに結構だと思います。いきなり何時間もやるのは難しいでしょうが、続けるうちに1日1時間でも2時間でもできるようになります。

あるいは、時間があれば5分でも10分でもやる、というのも良いでしょう。実際の学習量は、5~10分よりずっと多くなるはずです。

これらの場合、積極的な姿勢で5分10分を学ぶのですから、大変良いと思います。

 

しかし、同じ5分10分でも、消極的な姿勢を以てするならば悪いと思います。文字通り毎日5分だけ、10分だけというやり方であれば、あまり意味があるとは思えません。

質問の文章から考えると、おそらく5分10分だけでどれくらい勉強になるか、の意味かと思う。

 

あくまで私のやり方ですが、私は筆写しますから多くの時間をかけます。先ほど、中庸を筆写しながら時間を計ってみましたが、1時間で原文を約200文字筆写できただけです。

孝経と四書は全部で約5万5000文字ですから、毎日10分では1650日かかります。もちろん、初学の段階では読むことにも時間を要するため、倍くらいかかるかもしれません。

 

孝経・四書は別々の5冊ではなく、ひとつのものとして学ぶべきです。理想は孝経と四書五経でひとつになることです。

孔子も、学問においては広く学ぶだけではなく約するのが良いと仰いました。約するとは集約すること。集約しなければ実践は困難です。集約するというからには、それぞれの経書を関連づけて、長く細く伸びたものにまとまりをつける必要があります。

一度通読するのに1650日もかけていては、それぞれの内容がのびのびになってしまいます。長く細くなるだけではなく、おそらく切れ切れになるでしょうから、約することができなくなります。

 

論語にもある通り、学問では「敏」ということが重要です。敏はやるべきことをすみやかにやること、学ぶべきことを速やかに、敏速に学んで行くこと。

1日10分と限って1650日もかけるなら、大いに不敏です。それを1日1時間で275日、2時間なら138日、3時間なら92日というように、できるだけ敏を心掛けてやっていくことが大切です。ただし雑に学んでは意味がありませんから、丁寧にやる中で精一杯、敏に勉めることです。

極く個人的な感覚で言えば、理想は3~4ヶ月、年に3度もやればかなりまとまった理解が得られます。1日10分ではどうにもなりませんが、1日2時間くらい継続すれば、あなたの云う「それなりの効果」も得られます。最低でも1日1時間くらいはやりたいところです。

 

もちろん、筆写は私がやっているだけで、人それぞれやり方があります。読むだけでもいいと思います。読むことに徹するならば、1日5分10分でも、1年もあれば通読できるでしょう。

しかし敏か不敏かで言えば、やはり不敏です。

最近よく思うのは、結局のところ「どれだけ熱心に勉めたか」という単純なことが、かなり重要だということです。

1日10分を10年やれば3万6500分の勉強ですが、1日1時間やれば約1.6年で同じだけ勉強できます。1日1時間やれば1.6年でできることを、1日10分で10年もかけているのでは、やはり不敏です。

前者は不敏にして約ならず、後者は敏にして約。その間の人生経験を考慮しても、1日1時間やるほうがはるかに良い結果が得られると思います。

 

 たとえ1日10分でも、10年もやれば立派だという人もいるでしょう。たしかに10年は長い。長いだけに悪い。

それだけの長い間、1日10分に限る不敏に気づいていない。それで何を学んだといえるのか。こういうのをダラダラとか、不精とかいうのであって、ひとつも立派なことはない。

 

孔子も以下のように仰る。

三年学んで穀に至らざるは、得易からざるなり。

ここの「穀」を「禄」、つまり就職して俸禄をいただくことと解する本が多いが、古注では「穀、善也」である。

三年学問して、善なるところに至らない。そういう人は、なかなか道を得るのが容易でない。

三年やって善に至らない、その理由は学問に対する姿勢が不真面目で、誠でないからだ。不誠実にやっておきながら敏ということはない、必ず不敏である。

ダラダラやれば、何年やったころで何もならん。三年間もダラダラやるような人間は、そもそも学問というものに向いていない。故に道を得るのが容易でない。

これは「学問するものは聡明であるべし」という意味ではない。

人によって頭の良さやセンスには差がある。学問する上で、頭の良さやセンスが全く不要ということはあり得ない。

しかし聡明すぎて道を得られない人は多い。逆に、愚鈍で道を得る人もまた多い。利口や馬鹿に学問は難しい。

 

1日5分10分やって何かを得ようとする。これは大抵、利口な者の考え方である。器用にこなす才があるものだから、効率などを考えながら小賢しくやる。

しかしこれが悪い。小賢しい人間であれば、三年学んで善に至らず、得易からざるなり。

三年もやって何にもならない。志の立て方や心の持ち方を最初に誤ったからだ。それを三年後に気づけば救いもあるが、多くは三年たって気付かない。三年やった自分は道を得たと勘違いする。これではとても利口とは言えない。

 

そもそも「1日〇分だけ」のように制限を設けるやり方は、儒学的におかしいでしょう。

曾子の三省も、1日に3回反省すると解することがあるが、これは日に3回ではない。3つの事柄について、日に何度でも反省する。しきりに反省する。


程明道先生と弟子の問答。

弟子が「私は曾子に倣って、1日3回反省しています」と言ったのに対し、明道先生は「他の時間は何をしている?」と仰った。

これはつまり、

「お前は表面(的な数字)にこだわっている。絶えず心を働かせて、反省すべき時にはいつでも、何度でも反省するのが正しい」

と指摘したわけです。


これと同じで「1日〇〇だけ」というやり方は基本的に間違いです。この意味においては、1日1時間でも2時間でも、10時間やっても、それ“だけ”と考えるなら間違いです。

君子終日乾乾夕惕若、日中勉めて已まず、日が暮れてからも慎んで怠らないのが君子の修養というものです。

もちろん、これは顔回のような人であって初めて徹底できることで、我々にはなかなか難しい。しかし、これを理想として力の限り勉めるべきで、初めから「5分だけ」「10分だけ」「〇分だけ(ならやる)」というなら間違っています。

 

 

徐々に敏を心掛けるのでなく、あくまでも1日5分や10分に限定して効果をあげたいと思っているならば、乱暴な言い方ですが、いっそのことやらない方が良い。

人によっては、あるいは学ぶ対象によっては、「1日5分でも10分でもやらないよりはマシ」と考える向きもありますが、これは儒学では通用しないと思っています。

1日5分10分で、何年間もダラダラやったところで「約」ということにはならず、切れ切れの知識と、ただ長くやった満足感だけ残ってしまうと厄介です。そうなると、半端な知識と、そこからくる間違った仁義で、却って人を傷つけるようなことになりかねません。

下手な正義感というのは厄介なもので、本人は正義だと信じているだけに、間違った方向へ徹底することもあり、周りを害します。そんなことになるくらいなら、いっそのことやらない方がマシです。

 

もし、あなたの云う「効果」が、「効率」の意味を含むのであれば、なおさらやめた方がよい。

5分10分でも十分な効果を得たい、そのために効率の良い方法はないか。そう考えると、どうしても安易な超訳の類に頼ることになるでしょうし、土台姿勢が間違っているのだからロクなことにはなりません。

一生涯、孜々として勉めるべき学問を、短時間で効率よく学ぼうとするなど、そもそもの姿勢からして間違いです。そのような精神性でやれば効果など期待できませんし、弊害の方が大きい。

何事にも正しい順序や姿勢があるのに、効果や効率を求めてそれを無視するなら、まともな発達はあり得ない。変なふうに発達する。何年もやって変態が出来上がる。儒学は正しい人間を作るための学問なのに、これではどうしようもない。

しかし後戻りは難しい。本人には変態の自覚がなく、どうかすると賢人くらいに思っているからだ。これは非常に怖いことです。

 

 

もっと根本的なことを言えば、効果があればやる、効果がなければやらない、そのように損得を考えてやるものではない。

それが学ぶべきことであるから学ぶ。良い人間になりたい、孔子に強く憧れているから、孔子に似たいと思っているから学ぶ。それで学ばないなら嘘だ。学んだことは、至らないながらも、なんとか実践してゆく。

正しい順序で、正しく勉めて、結果的に自分の心も正しくなった、効果が確かにあった。これがまともであって、最初から効果を問題にするようではおかしなことになる。

学ぶほどに良い人間になる。経書には確かにこの効果があるが、学んだ人間が皆聖人賢人になるとは限らない。この効果を得たいと思って学んだものの、変態で終わる人も少なからずいるでしょう。

また、時勢や命というものがある。学問して身を修め、延いては治国平天下ということを目指すのが儒学ですが、それを目指して努力を重ねて、却って迫害されることもある。効果が顕れないことはよくある。

孔門には、ここに苦しんだ人も多かったでしょう。しかし学ぶことを止めなかった。もちろん効果が顕れるに越したことはないが、効果は問題にならなかった。効果のために道を枉げようとした子貢を、孔子は「志が低い」と叱った。

正しいことだから学んだ。時に困窮し、迷うこともあったけれども、先生が正しいと仰るから苦労してもその道で良かった、その道が良かった。

孔子の弟子はそう考えて学問しました。儒学はそういう純粋な心でやるものです。

 

 

孝経をやり、四書をやり五経をやるのも、効果や効率を求めているのではなく、本当に徹底して学ぶべき重要な経典だからです。色々な本がある中で、効果や効率はどうでも、儒学ならばそれを学ぶのが正しいからそうするのです。それが結果的に効果的で効率も良いというだけです。

私が筆写するのも、私が思う謙虚で丁寧なやり方であり、私にとっての正しい学び方であるからです。効果・効率を求めたものではない。

筆写が効果的・効率的だと確信したのはここ1年くらいのことで、高校生の頃から15年以上、ただ丁寧にやりたくてやってきた。それ以前は非効率だと思うことのほうがずっと多かったけれども、それならそれで非効率を徹底するつもりでやってきました。

 

1時間や2時間は習慣的にやりたいところ。そんな風にもお答えしましたが、根本的なところをもっと考えてみてください。

謙虚な気持ちで、丁寧に、熱心に、敏に学ぶことです。根本通明先生は「やるべきことはすぐにやる、一分でもあればやる。時間がないなどといってやらないのは不敏である」と仰る。姿勢さえ正しければ、1日5分10分だけということにはなりません。何分、何時間と限りをつける必要もないでしょう。

あなたは「それなりの効果」を期待しているが、精一杯やれば「それなり」どころではない。道は無窮であって、それなりで終われるところなどありません。

 

この道理さえわかれば何も心配いりません。大いにやりましょう。私もやります。