周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

ブログの更新頻度について

ブログに対する姿勢を改めることにした。
論語を読んでいて、今の書き方は正しくないと思ったのだ。

 

これまで、ともかく書くことが大切と思って、そこそこ良いペースで書いてきた。

しかし、学んださきから書きまくるのは、軽率な気がしている。
深く考えず、咀嚼するのを待たずに書くのだから、重厚な文章にはならないだろう。

 

大いに積み重ねて、そこから小出しにするような書き方をしたい。
厳しく考え、自分で「このことは書いて良い」と思ってから書くようにしたい。

 

そう考えると、あまり書けることがなくなった。
まだ積み重ねが足りないのだろうと思う。

 

 

 

学問の積み重ねは、砂をサラサラこぼして山を作っていくようなものといわれる。
これはある意味で正しく、ある意味で正しくないと思っている。

 

苦労を伴うこと、根気がいること、そういった意味では砂山を作るようなものだ。

最初は目に見えて砂山が大きくなっていく。面白いようにどんどん学問が進む。

砂山がある程度大きくなると、いくら砂をこぼしてもなかなか山が大きくならない。実際には着実に大きくなっているのだが、結果が目に見えない。学問の進んでいることを実感できないから辛い。

学問には、そんなところがある。私は、これを辛いとはあまり思わないけれども。

 

また学問には、ある時、あるきっかけで悟り、飛躍することがある。

必ずしも一定のスピードで、砂山に砂をこぼし続けるようなものではない。

 

禅僧の悟りのようなものだ。

毎日毎日、ただただ坐禅する。進歩が感じられずに辛い。ひたすら砂をこぼして山を作るのと似ている。

しかし、あるとき悟る。

木から葉っぱがハラリと落ちるのを見て悟る。魚が水面を飛び跳ねたのを見て悟る。草を濡らす朝露の玉を見て悟る。

ある時、あるきっかけで悟り、飛躍する。

学問もこれと同じだろうと思っている。

 

この「悟る」ということが、最近徐々に増えてきた。

ごく小さな悟りであって、「気づき」くらいのことかもしれないが、なんでもない所で気づきがあり、長年の疑問が連鎖的に氷解してゆくことも多い。

やはり一種の悟りと思う。

 

今後は、更新の機会がかなり減るだろう。
しかし、ある悟りをきっかけに書けることがどんどん出てくる、不思議なくらい何でも書けるようになる、そんな日がいつか来るだろう。

そうならないと嘘だ。真面目にやっていれば、必ずそうなる。


その日が来るまで、ブログの執筆は週に1回でも月に1回でも、あるいは数ヶ月に1回でも良いから、極くゆっくりやっていきたい。