周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

仲弓の「南面の才」を作る三要素

孔門四科十哲の一人に、仲弓ちゅうきゅうという人物がいる。

姓はぜん、名はよう、字は仲弓。

論語の第六篇、雍也ようやの雍とは冉雍仲弓を指す。

 

孔子は仲弓を、一国を治めるに足ると評した。

これは、仲弓が不佞ふねいであり、けいに居り、かんを行ったことによる。

 

 

不佞の人

仲弓は孔門の中、徳行において顔回に並ぶとされた人物である。

孔子が仲弓を褒めた章句は色々あるが、その筆頭が「不佞」である。

 

佞とは

不佞とはねいならぬこと。

佞とは口がうまく、人を喜ばせる才能があること。

いわゆる太鼓持ちである。

 

当時、佞とは必ずしも悪いこととされていなかった。

口がうまければ、出世の役に立つことも多い。

時には、上司をうまく諫めることもできるかもしれない。

 

しかし、そのような利点はあるものの、仁を害する所が大きいとして、孔子は大変に佞を嫌われた。

 

佞は不仁の種

佞は、口先で人を害することがある。

例えば、上司に取り入る場合の佞。

上司から「財政が厳しいがどうしたらよいか」と言われたとき、佞人ならば

「税金をこんな風にとればよろしいでしょう」

「この費用は人民にこんな風に課しましょう」

などと提案する。

上司がその案を取り入れ、佞人の評価は高まる。

しかし人民には害がある。人民に恨まれる。

人民を治める立場にありながら人民に恨まれるのは、不仁であるからだ。

佞は不仁の種である。

だから孔子は佞を大変に嫌った。

 

ひどい場合、佞人は口先で他人を焚きつける、あおる。

要らぬことまで余計に言って争いのきっかけを作る。

古来、佞弁ねいべんが乱のきっかけをなした例は多い。

 

 

不佞の仲弓

佞弁の逆は訥弁とつべんである。

仲弓は訥弁であった。

 

篤実で、腹の底から仁徳がある。

また、訥弁である。口数が非常に少ない。

ただし、仲弓の口数が少ないのは、おとなしいこととは違う。

佞を嫌うために、ぶっきらぼうな印象の人であったらしい。

 

佞人を好む人からすれば、これが面白くない。

才気に溢れ、徳があり、佞を嫌うぶっきらぼうな仲弓が近くにいれば、徳の薄い人は参ってしまうだろう。

自分の不徳を責められているような気分にもなる。

仲弓の存在そのものが疎ましくなってくる。

 

そこで、喜ばせることをひとつくらい言えば「可愛い奴」で済むが、それがない。

中には、小憎らしい奴と思う人も出てくる。

 

不佞で結構

仲弓をそんなふうに思う小人が、あるとき孔子に言った。公冶長篇の章句である。

 

「冉雍には仁がありますが、佞がないのが玉に瑕ですね。あれに少しでも口のうまいところがあったら、言うことなしですが」

 

それを聞いて孔子曰く、

 

「それは間違っている。佞など用いるべきものではない。

大体、佞などというものは、良い説を叩くためとか、良い政策に反対するためとか、悪い策を用いるためとか、ろくなことに用いられない。これが人民に害をなし、憎まれるもととなる。

仲弓が仁であるかどうかは知らないが、不佞であるのは仲弓の良いところである」

 

雍や南面せしむべし

孔子は、人を評価する際に「仁」の評価を容易に許さなかった。

仲弓についても、「其の仁を知らず(仲弓が仁であるかどうかは知らぬ)」と言い、「仁なり」の評価を許していない。

 

しかし、不佞であれば民を害することが少なく、不仁から遠ざかる。

治める側に立つこともできる。

雍也第六の冒頭の章句で、孔子は仲弓を以下のように評した。

 

雍や南面なんめんせしむべし。

 

南面とは、人を治める位を意味する。

昔、一国の君主となった者は、政事を行う際に北に背を向け、南を向いて臣下と向き合う。

これを天子南面てんしなんめん臣下北面しんかほくめんという。

南面するのは天子に限らず、一国を治める君主もそうである。

孔子は、仲弓は人を治める才能があると評された。

 

敬に居て簡を行う才

孔子が仲弓に対して南面すべしと評したのは、仲弓の徳と不佞だけが理由ではない。

仲弓は、人の上に立つ者として、また仁政を為すために欠かせない徳を備えていた。

すなわち、

 

けいに居りてかんを行う

 

という徳である。

敬とは

敬とは慎みの心であり、徳を修めるには不可欠なものとされる。

敬があり、慎んで学問と道の実践に励み、徳を磨いてゆくことができる。

自分に厳しく、何事も軽々しくせずにやるのが敬である。

簡とは

簡は、簡素簡略の簡で、敬の逆である。

物事にこだわらないことで、これもひとつに徳である。

簡であればこそ、世評にこだわらず、人に流されず道を守ることができる。

こだわりのなさが簡である。

 

仁政とは敬に居て簡を行うこと

仲弓は、敬に居て簡を行う徳を備えていた。

これは、人の上に立つにおいて、第一等の人物といえる。

 

自分自身は敬に居る。

自分に厳しく、軽はずみをせず、真剣に政事に取り組む。

そのような人の下で働くから、役人たちにも緊張感がある。

不正がはびこらず、クリーンな政治ができる。

不正のために人民が苦しむことも少ない。

 

 

人民に対するには簡でやる。

あまりこだわらず、柔軟にやってゆく。

人民の中には、無学なものもいる。善人も悪人もいる。貧乏人も富裕者もいる。それぞれ置かれている立場が異なる。

だから、こだわり過ぎることなく穏やかにやる。

 

簡のために、「人民に甘すぎます」「もっと税金を取りましょう」など、下の者から責められることもあるかもしれない。

しかし、簡でこだわらない。

苛政かせいに陥らず、人民の苦しみが減る。

 

為政者が敬に居て簡を行うならば、仁政になるのだ。

仲弓にはこの徳があった。

だから孔子は「南面せしむべし」と仰った。

 

敬に居て簡を行うのほか、

  • 敬に居て敬を行う
  • 簡に居て簡を行う
  • 簡に居て敬を行う

の組み合わせが考えられる。これらは全て悪政につながる。

 

敬に居て敬を行う

為政者が敬に居る。これは善い。

不正が起こらず良い政治が期待できる。

 

しかし、人民に対して敬を行うはよくない。

これは、自分自身に求める厳しさや重々しさを、一般の人民に求めることであるからだ。

徳あり志ある人物ならば、自分に厳しく敬に居ることもできる。

しかし、一般の人民には難しい。

四六時中、敬に居て緩みなく生きることを求めたところで、無理な話だ。

できないことを求めるのは過酷であり、惨酷である。

 

つまり、敬に居て敬を行うは苛政につながる。

 

簡に居て簡を行う

簡に居て簡を行うは、敬に居て敬を行うより悪い。仲弓の言葉では、これを「大簡たいかん」という。

敬に居て敬を行う場合、ともかく厳しいが上も下もゆるみがないだけに、軍事国家スパルタのような趣になる。政治が破綻するものではない。

 

しかし、簡に居て簡を行う場合、政治は破綻する。

上の者が簡である。締まりがなく、政治がまともに行われない。

下の者にも簡であるから、厳しく取り締まることはない。そもそも、上が機能していないから取り締まることができない。

上も下も不真面目で、上では不正が横行し、下でも騙し合いが日常茶飯事である。

災害が起こったり、他国に攻められたり、ふとしたきっかけでたちまち乱れて崩壊してしまう。

 

簡に居て敬を行う

最悪なのが簡に居て敬を行うものである。

上の者は簡で締まりがない。不真面目である。不正も横行している。

それでいて、下の者には敬を求める。真面目に働け、悪事はやるなと求める。

 

上の者が簡であるために、下の者が苦しめられる。

上の者の安楽のために、下の者が虐げられる。

 

これではもはや暴政である。下の者は納得しない。

災害の発生や他国の侵攻を待つまでもなく、内乱が起きて崩壊するだろう。

 

一身の修養を考える

以前、これらの章句を読んだときには大して感銘を受けなかった。

 

佞が良くないのは分かり切っていることだ。

敬に居り簡を行うことも、理解に苦しむようなことではない。

政治に興味はないし、あまり自分には関係ないことと思ったのかもしれない。

 

しかし色々考えると、不佞である、敬に居る、簡を行うというのは、政治に限らず人生一般に広く当てはまることだ。

ツイッターを始めたことで、これに気づかされたように思う。

 

ツイッターには佞人が非常に多い。

もちろん、ツイッターに限らず社会全体にいえることかもしれない。

しかし、ツイッターはネットの世界であるから、発言のハードルが低い。慎みを持ちにくい。佞弁も自由自在である。

 

ある有名人が不祥事を起こしたとする。

すると、ツイッターでは大きな話題になる。

退屈していた子供がおもちゃを見つけたように活発になる。

暇なのだなと思う。

 

人によっては、その有名人の情報を洗い、過去の発言などをほじくり回し、

「この人は今回こんな失言をしたが、昔もこんなことを言っていた」

などと騒ぐ。

とにかく言ったもの勝ちだから、曲解も多いだろう。

 

これは余計なことであって、佞弁である。

なぜ余計なことをいうのか。

他人の歓心を得たいからである。

あるいは、ストレスのはけ口にしたいからである。

理由は色々あるが、結局は私事である。

 

私のために余計なことを言う佞人がツイッターにはいくらでもいる。

そんな空間に身を置けば、自分も影響を受ける可能性がある。

不佞を貫く気持ちがなければ、佞人に同調し、面白がり、軽薄なことをやる恐れがある。

ツイッターを始めてから、私は「佞」ということをよく考えるようになった。

これは、ツイッターをやって良かったことのひとつである。

 

自分自身に不佞を厳しく求めるならば、それは敬に居るといえる。

敬に居らなければ、佞に陥る恐れがある。

佞に陥るのは、自分自身に不佞を求めていないからであり、簡に居るためである。

簡に居る人ばかりの空間であるから、ツイッターをやる以上、敬に居ることを強く意識しなければならない。

 

ただ、簡を行うことも大切にしたい。

自分は敬に居る、だからといって人にも敬を行うならば、これは道ではない。

自分は不佞に陥るまい、敬に居るべしと頑張る。

私は、簡に居り佞をなす人を嫌だと思うし、ツイッターを辞めようと思ったことも多々ある。

最近では、敬に居るは自分だけで良い、人には簡であるべしと考えるようになった。

 

人はどうでもよい。

簡に居り敬を行い、佞を為す人をあえて痛罵するようなことは避けたい。

 

仲弓の徳を深く考えていくうちに、生き方が少し柔らかくなったと思える。

昔同様、佞弁たくましい人が嫌いだけれども、それはそれ、と思う余裕が少しできた。

不佞、居敬、行簡、これはどれも困難なことであるが、ぜひ求めていかなければならないことと思う。

 

難しいことを簡単に書いてあるから、論語は油断がならない。