儒学をやっていると、なにぶん古い時代のことであるから、色々なことについて「果たしてそれは事実であったか」という問題が出てくる。
例えば、
このようなものは儒学の本質にはあまり関係のないことだが、とかく問題にしたがる人がいる。
以前、私もこれを意識しないではなかった。
そういう人を「牛のけつ」という。
明治の禅僧に
公田連太郎先生はこの人に禅を学ばれた。
公田先生は若いころ、漢学を根本通明先生に、禅を南隠禅師に学ばれた。終生この二人を師と仰ぎ、晩年に至っても先生の書斎には根本先生・南隠禅師の写真が掲げてあったという。
この南隠禅師に面白い話がある。
あるとき、仏教学者が南隠禅師を訪ね、日ごろの研究の成果をしゃべりまくった。
特に、
その学者が言うには、
「私の最新の研究によれば、慧可の断臂の話は嘘です。そういえば、達磨という人だって実在したかどうか甚だ疑わしい。禅というのは本当かどうかわからない物事が多く基礎になっていて、とてもあやふやなものです」
学者は、自分の研究で分かったことをなお喋りまくり、禅がいかにあやふやなものかをまくし立てる。
南隠禅師は「うん、うん」と感心したように聞いている。
次第に南隠禅師はうんざりした表情になってきた。学者も、偉い禅僧の気分を損ねることを恐れ、適当に切り上げて辞去した。
別れ際、南隠禅師は学者に言った。
「あんたは、牛のけつじゃな」
その場では聞き流して去ったが、学者には南隠禅師の言う意味がわからない。
色々調べてみても、「牛のけつ」がなにを意味しているのか皆目分からない。
後日、学者は再び南隠禅師を訪ねた。
「先日、禅師は私に『牛のけつ』と仰いましたが、どのような意味かわかりません。お教えいただけませんか」
「学者は頭が固くていかんな。牛は何と鳴く?」
「モー…ですか」
「そうじゃ。で、けつはお尻じゃな」
「・・・」
「モウのお尻。物知り。わしはあんたを物知りじゃと言ったんじゃ」
南隠禅師は大笑いしたが、学者は「なんだそんなことか、苦労して考えて馬鹿をみた」と、開いた口が塞がらない様子。
南隠禅師は大笑い、学者はあきれた。
これは、含蓄ある良い話と思う。
知識は全く無価値ではないし、面白いところもある。
クイズ番組などが好まれるのも、知識が面白いものだからである。
単に面白いだけで、本質的価値を高めるものではない。
しかし、物を色々知っていると、それを偉いことのように錯覚してしまう。
何も偉くはない、いくら知識があっても、そんなものは牛のけつくらいのもんじゃ、どうでもよいし、ありがたがるなんて馬鹿なことじゃと、南隠禅師は学者の物知りを皮肉ったわけだ。
仏教に対して多くの知識がある。達磨は実在したかどうか、慧可は本当に腕を自ら斬ったかどうか、この是非を論じる豊富な知識がある。
儒学についてもそう。舜は実在したかどうか、孔子が若いころ老子に会ったのは事実かどうか、顔子は何歳で亡くなったか、などをあれこれ論じる知識がある。
所詮はお遊びのようなものだ。退屈まぎれにはいいが、それ以上の価値はない。
達磨が実在したかどうか、慧可が腕を斬ったかどうか、そんなものは禅の本質・本義に関係のないことだ。達磨が実在の人物であれば禅の価値が高まる、架空の人物であれば禅の価値が損なわれる、そんなものではない。
舜も同じである。実在でも架空でもどちらでもよい。孔子が舜を実在の人物として教えられたのだから、それでよい。舜が架空の人物であったところで、孔子の教えが価値を失うものではない。
私は以前、「舜が実在の人物でないとすれば、舜の実在を根拠にした諸々の教えがあやふやになる。だから実在・架空はいっそのこと問題にせぬがよい」と考えていた。
しかし、これはある意味実在・架空を問題にしているのだから、「牛のけつ」的誤りといえる。
実在でも架空でも、どちらでも大して問題にならないのが孔子の教えだろうと、考え方を改めた。
そういうものを論じる知識があるのは良い。しかし、知識には知識以上の価値はない。
本質的価値を左右するものではない。知識を自慢げに披露するなどは滑稽でしかない。
ツイッターなどで、どうでもよいことを大袈裟に語る人をよく見るが、あれは滑稽を通り越して憐れである。
それを南隠禅師は「牛のけつ」と皮肉った。
牛のけつにはなりたくないですね。