先日、叔父が亡くなった。70歳であった。
叔父はタバコが好きであった。
最後に会った時はチェリーを吸っていた。
結構、強いやつを長い間吸い続けてきたのだ。
それが原因だろう、肺がんで亡くなった。
肺がんが発覚したとき、すでにステージ4であったという。
入院後、わずか2週間で亡くなった。
元々レスキュー隊員であり、体は頑健であった。
引退後も登山と絵を趣味にしていたのに、脆いものだと思う。
現在、祖母も入院している。
昨年、脳梗塞で倒れて入院し、一時危うかったが奇跡的に持ち直した。
それから1年半、入院を続けている。
厳しい闘病生活ではなく、穏やかな入院生活を送っている。
祖母はもうすぐ100歳だ。
年齢的なこともあるし、私もある程度覚悟はできている。
しかし叔父さんのことは、全く意外であった。
どうも体が悪いらしい、入院したらしい、その後すぐに死んでしまった。
覚悟を決める暇もなかった。
人生とは分からないものだと、つくづく思う。
私も過去に何回か死にそうになった。今生きているのが不思議なくらいだ。
祖母も、100歳近くで大病し、寝たきりになったとはいえ生きているのが不思議に思える。
頑健そうな叔父には死の影など全くなかったが、死んでしまった。これも不思議だ。
これまでも、人間には寿命があって、死ぬときには死ぬし、そのときまでは生き続けると思ってきた。
叔父の死により、この思いが深まった。
死ぬときがくれば死ぬのだ。
自分の死ぬタイミングが分かるとしたら知りたい?知りたくない?
この問いに対し、知りたくないと答える人は多いだろう。
毎日毎日、時々刻々、死が迫ってくる恐怖に耐えられないからだ。
私も、強いて知りたいとは思わない。
しかし、知りたくないとも思わない。
どっちでもよいと思う。
必ず死はやってくるのだ。早いか遅いかの違いだ。
明日死ぬかもしれない。100歳まで生きるかもしれない。
もし明日死ぬと分かったらどうするか。
おそらく私は、いつもと変わらない一日を送ると思う。
親や兄弟に会いたい気もするが、会ったところで明日には死ぬ。
ならば、これまでやり続けてきたことを、また一日積み重ねて堂々と明日死にたい。
曾子が仰った「死して後已む」とは、そういうことではないのか。
死ぬ日が分からない、あるいは分かった、それで態度が変わるのは孔子の道ではないと私は思う。
死ぬ日が分からない、あるいは分かった、そんなことはどうでもよいのであって、死の直前まで励み続けるのが孔子の道だ。
賊に殺された子路も、死の直前まで礼を守ったではないか。
人間、いつ死ぬか分からない。
死ぬときには死ぬ。それまでは死なない。
死ぬまでに何を為すか、これは確かに重要だ。
しかしそれ以上に、何を為せずとも、死ぬまで道を奉じること、道に殉じることが重要だ。
その覚悟と実践があればこそ、何事かを為し得るのではないだろうか。
今の私にそれができているか。
孔子の仰った「死して後已む」、また倭姫命が日本武尊に仰った「慎みてな怠りそ」の言葉を胸に、これまで自分なりにやってきたつもりであった。
しかし、身内の死によって色々考えてみると、全く以て不徹底であったと思う。
そのことに後悔はないが、なんとなく、苦々しく寂しい気持ちにはなっている。