周黄矢のブログ

噬嗑録

東洋思想を噛み砕き、自身の学問を深めるために記事を書きます。

真面目考

昨日、ツイッターのフォロワーの質問箱で真面目について取り扱うものがあった。

 フォロワーの方は、

 

「真面目とはどのような人でしょうか」

 

という質問に対し、

 

「自分で決めたことをやりきる人だ」

 

と答えておられた。これは良い回答だと思った。

 

「間抜け」という言葉がある。

ボンヤリしている、間が抜けている、締まりがないことだ。

言い換えると不真面目である。

対義語は間に締まりがあること、つまり間締め、真面目である。

 

この「真面目」ということをごく平易に言えば、自分で決めたことを習慣的にやり続ける人をいうのだ。

 

例えば、華厳教の凝念。

鎌倉時代の仏教学者だが、この人は膨大な著作を遺している。

自分で決めた「午前中は著述」という生活習慣を、20代から82歳で死ぬまで、怠ることなくやり続けた。

人生のどこか、例えば今後5年とか10年とかのゴールを決めて、そこまでやりきるのではない。人生の最後までやり切ったことが尊い

この上なく真面目であったといえる。

 

 

孔子も同じだろう。

「死して後已む」で、死ぬまでやり切ったのだ。

孔子が自分で生き方を決めたのはいつだろうか。

五十にして天命を知ったとあるが、ここが出発点ではないだろう。

治国平天下の志は生涯を通じて変わっていない。

やはり孔子も、若いころに決めた生き方を変えず、死ぬまでやり切った人である。

孔子も、真面目であった。

 

 

しかし、孔子や凝念の真面目さはあまりにもレベルが高く、後世の視点から「真面目であった」といえるものだ。

今を生きる自分が「人生を通じてやりきる」と思うのは志であり、理想であり、追い求めるものである。

下手に追求すると、現実が伴わないことになりかねない。

志ばかり高くて実際は不真面目、恥ずかしいことだ。

 

 

大切なのは、今この時間に努め、それを繰り返すことだろう。

その積み重ねが、結果的に「やり切った」「真面目であった」という結果をもたらすのではないか。

 

 

 

論語の難しさのひとつはここにある気がしている。

論語は、孔子のお弟子たちがまとめたものだ。聖人の道を死ぬまで歩み続けた孔子の足跡である。

孔子の生きざまを直に見たお弟子たちは、孔子が歩んだ結果だけを知っているのではない。歩んでいた姿を現実として知っている。

後世の人が論語を読んで感じる孔子の真面目さ、結果としての真面目さとは、随分異なるだろうと思う。

論語を学ぶには、孔子を歴史上の人物、古の聖人としてではなく、生身の人間孔子を知ることを意識するべきと思う。

お弟子たちが人間孔子をテーマに論語を編んだのだから、孔子を神格化するとかなりズレてくるのではないか。

 

 

今の時点では、分からないことが多い。

ただ、孔子の思想や功績よりも、現実的な積み重ねの結果であり、そこに孔子の真面目さを見出すよう意識している。

これにより、少なくとも論語を表面的に解釈して満足する、学んだ気になるといった間違いは避けられると思っている。

論語周辺には、論語のエッセンスをつまんだような本も多い。「ビジネスマンは論語に学べ」といった文句で、そのような本が絶えず売られている。

これは効率を求めすぎるのではないか、孔子の真面目さとは真逆ではないかと、違和感もある。

 

 

孔子という根と幹があり、お弟子や孔子の道につらなる儒者が枝となり、孔子の教えという果実を後世に残した。

私たちは、その果実を食べておいしいおいしいというだけでいいのだろうか。

果実をつけるに至った労苦や真面目さを思うべきではないのか。

 

 

論語と算盤の人気に対し、あまり肯定的な気分になれない理由もここにある。

あれは、渋沢栄一という料理人が、孔子が実らせた果実を調理し、一般大衆の味覚に合うように提供したようなものだ。

それが良い部分もある。しかし、その料理を本質と考えると大きく誤る。

 

何かの記事で読んだが、最近はお米が工場で作られていると思っている子供がいるらしい。

そこに、農家の苦労を思う気持ちや、天地の造化作用につながる要素は全くない。

論語と算盤を読み、これが孔子の道だと思うのは、この類の誤りと言えなくもない。

 

より本質へと意識を向けて学ぶことが大切だろう。

孔子の本質は色々に言い得るだろうし、私も胸を張ってこれだとは言えないが、孔子が真面目であったこと、一貫不惑であったこと、これは孔子の本質の一部分と言い得ると思う。

実際、論語を学べば学ぶほど、孔子の真面目さを思わずにはいられないのだ。

 

 

公田先生は「孔子という人は、何事でも、徹底してやる人だったと思います」と仰った。

人間孔子をこのように見立て、その生き方を模倣するのが孔子論語に学ぶということではないだろうか。

 

 

具体的な実践となると、難しい。

孔子のように真面目に生き抜くことは、凡人にはどうしてもできかねる。

 

しかし、自分には無理だと半ばあきらめてかかるのは志が低いし、学徒として不遜でもある。

不真面目な態度であって、孔子の真面目さとは逆を向いているのだから、いくら学んだところで、結局パフォーマンスで終わるだろう。

 

論語の一部をつまんだ、手軽な本を読んで満足する。

多かれ少なかれ、原書を深く学ぶことを敬遠しているのだ。

不真面目なくせに、真面目なふりをしている。あるいは、自分は真面目だと思い込んでいる。

馬鹿なことだと思う。そんな学問をするくらいなら、遊んでいたほうがマシだ。

 

孔子も、飽食終日、心を用うる所なきは難きかな、と仰った。それよりは、遊んでいたほうがまだマシだと。

これは、食って飲んで寝て、不真面目に生きる姿勢を詰っただけではない。

役に立たない知識を腹いっぱい詰め込んで、表面上の学びだけで満足する不真面目さを責めた言葉だと、私は思っている。

 

 

凡人は、凡人なりに、最大限真面目にやるべきだ。

不格好でも良い。やり方が悪い、非効率だ、無駄な努力だと人から言われても良い。

孔子は、多分褒めてくださる。

 

その意識があれば、人生の全体を通じて、真面目でいられる時間も増えてくると思う。

不真面目から真面目に変わっていくことと思う。

また、そのように意識している限り、これでいいやと満足することがなくなる。

孔子という、この上なく真面目であった人の真面目さを目指しているからだ。

 

孔子のように真面目でありたいと思い、それに近づこうと決め、やりつづける。

結局、死ぬまで至らない。

それでも、その人生が終わる時には、ともかく決めたことをやり切った、真面目であった、孔子の道に連なったと言い得るであろう。